間者と思しき者たちを屠り、隊内は外から見たら平和に見えた。日々勤めで京都市中を見廻り不逞の浪士は見境なく切り捨てる殺害集団であることに変りはないが、少なくとも内部での流血沙汰は皆無と言っていい。
 そろそろ秋に向かう季節なので薄物一枚では肌寒いが、紫苑は全く気にせずにいつもの着流しのままで赤くはためく隊旗を見上げる。あの日染まった赤と同じ色をしているこの旗は眩しい。この赤が誠の侍の赤ならば、紫苑の手は何色か。


「紫苑、こんなところで何をしてるんだ?」

「別に、暇だから隊旗見てただけ。何?」


 視線を赤から逸らして声の方に流すと、珍しく普段着の勇が立っている。腰には簡素に刀を佩き、どこかに出かける気なのか小奇麗に髭と月代を剃っていた。彼は辺りをきょろきょろと見回ししきりに何かを気にしている。普段出かけるにしても新撰組局長であることを意識した衣装を選んでいるのに珍しいと首を傾げてつられて辺りを見回すがいつも庭で騒いでいる総司たちすらいなかった。人っ子一人とはこういう事を言うのかとさっきからここにいたはずの紫苑が納得する。


「ちょっと付き合わんか?」

「私?」

「総司がいないんだ。たまには兄妹水入らずで、な」


 一体何が「な」なのか分からないが別に用事もないので了承し、もとより刀は佩いていたのでそのままどこに行くか知らないが外に行くんだろうと門を出ようとするが、その前に勇に止められた。


「待った紫苑。刀は置いていくか俺に預けてくれ。それから着物もちゃんとしたものを……」

「は?意味わかんない。だからやだ」


 今までそれこそ長い間同じ屋根の下兄妹として生活した中で紫苑が女物の着物に意味もなく袖を通したことはないことを分かっている筈なのにしどろもどろの勇に簡単にいらっとして紫苑ははっきりと拒絶してスタスタと歩き出した。勇もこうなることが分かっていたのかそれ以上何も言わず、その背中を追いかける。


「相変わらずの頑固者め。こっちに来ても変らんか」

「変わってたまるかよ」


 歩きながら紫苑が笑って歩調を少し緩めた。勇が追いつくのを待ったいたつもりはないがすぐに追いつかれ、並んで歩く。
 しばし無言で歩いていたが、五条まで出たときに勇が何かを言おうと口を開いた。けれど言葉を選びかねたのか言いづらかったのか何も言わずに口を噤む。何度も繰り返されるので初めは待っていた紫苑だがいい加減に堪忍袋の緒が切れる。ただでさえ短いのだから簡単に切れた。


「何だよさっきから」

「いや、あのな……お前、甘いもの好きじゃなかったよな?」

「好きじゃないね。だから肴以外に甘味とかも食べないね」


 ここまできてピンと来た。甘い物好きの勇はよく総司を連れて甘味を食べに行くらしい。自分でやれどこが美味しいだのここが美味しいだのを聞いてきて子供を出汁に使うところが小ずるいというか、甘味好きというか。だからと言って甘味があまり得意ではない紫苑は食べに行こうと思わないし、買ってきてくれたら食べるくらいしか興味がない。なのに出汁にされたのか。どうせ“女”という理由で。


「別に総司がいなかったから女のお前をと思ったわけじゃないぞ!?」

「…………」

「話もあったんだ、本当に!」


 思ったとおりの思考がおめでたいんだか単純なんだか、どっちにしろ大将だと思うとすこし嫌になってしまうが勇があまりにも必死に言うものだから許してあげたくなる。最近隊内でも粛清が相次ぎ片時も気が抜けなかったが、ここ数日はやっと気を抜けるようになったのだ。局長が気を抜けるだけ態が安定したということだ。
 だったら歳三はどうだろう。気が抜けるようになったのだろうか。それともたった一人で気を張り続けているのだろう。有象無象を纏め上げるのだから彼が気を抜いたら一気に離散しそうだが、けれど歳三ばかりが気をすり減らすのも納得はできない話だ。


「妻から文が来た」

「それとこれと何が関係あるのさ」

「お義父さんの容態が思わしくないらしい」


 その言葉は覚悟していても心臓を締め付けた。無意識にぴたりと足を止めてしまい、数瞬後に気づいて重い足を持ち上げるけれど感覚は全くなかった。前から父の容態が思わしくないとは聞いていたが、母から来る文には大丈夫だと書いてあったし、たまに父の直筆の文も添えられているので大したことがないのだろうと思っていた。けれど勇の妻は正直に伝えたらしい。跡継ぎだからと言う理由もあるだろう。娘が知らない事実を息子は知っているのがひどく歯がゆい。


「俺は行く訳には行かないがお前くらいは……行ってこい」

「……考えとく」


 紫苑は物心つく前から試衛館の娘として義父に育てられた。幼い頃は実の親子だと疑わなかったほどだ。その父がいなくなることを考えたら薄ら寒くて思わず空を見上げても太陽はさんさんと降り注いでいた。


「あー、紫苑はん!」

「……え?」

「分かりまへん?千代雪どす」


 前からやって来た女性二人組は小走りでこちらに駆けてきた。普段舞妓の白塗りでしか会わない彼女にいくら馴染みと言っても紫苑はすぐに気づくことができずにじっと彼女を凝視する。すると千代雪は少し恥ずかしそうに頬を染めて名乗った。頭の中の人物と目の前の女性を比較して、紫苑は共通点を見つける。はにかんだ笑顔がそっくりだ。


「千代雪。化粧してない方が可愛い」

「おおきに。姉さん、こちらが新撰組のお方どすえ」

「新撰組の橘紫苑で、こっちが局長の近藤勇」

「うちのお姉さんの深雪太夫どす」


 千代雪の隣にいた美人は優雅に「深雪どす」と頭を下げた。千代雪は囲で太夫とは二階級も差があるが随分親しそうだ。女郎の姉妹は普通ここまで仲が良くないが、これも千代雪の性格故なのだろう。彼女は全てを和ませる力を持っている、だから紫苑も惹かれたのだから。


「うちらここのお汁粉食べに来たんどすけど、紫苑はんたちはどないしはったんどす?」

「私たちも。よかったら一緒に行く?」

「ほんまどすか?わー嬉しい。おおきに、ご一緒させてもらいやす。姉さん、ええどすやろ?」


 無邪気に笑う千代雪は当たり前のように紫苑の腕に絡みついてくる。強請るような彼女の言い方に深雪も苦笑に似た笑みを浮かべてはいるが許容している。紫苑はちらりと横の勇を見て目を眇めた。完全に深雪に見惚れている。千代雪を取られる心配がないのはありがたいが、こんな腑抜けた顔では帰り道に言い聞かせないと歳三に怒られる。
 四人で集まって店に入って、お汁粉を注文したが、紫苑は甘い匂いにやられそうだったので羊羹で勘弁してもらった。けれど有名らしいので一口食べてみたくなった。


「千代雪はいつも紫苑はんのこと嬉しそうにお話しますんえ」

「そりゃありがたい。千代雪、一口頂戴?」

「うちのでええんどしたら、はい」


 器用に一口にもちを切って餡を絡め差し出してくれたそれを目を細めて口を開き受け入れ、紫苑は僅かに微笑んだ。確かに美味しい。甘いと思っていたがさっぱりとした甘さで塩が良く効いていた。深雪の隣では勇が無言で汁粉を啜っていてたまに視線を向けてくるが紫苑は完全に無視した。どうせ会話を振ってくれとかいうんだろうが、奥手には手を差し伸べた所で無理だ。それに紫苑は戦塵の谷に落す派だ。


「ほんま、紫苑はん素敵な方やね。うちがお相手したいくらいや」

「あかん!いくら姉さんかて紫苑はんはうちのや」

「あらあら」

「んー、愛されてるわ」

「うちな、新撰組の方々好きやけど、紫苑はんの方が好きなんどす」


 そう言って千代雪は紫苑の手をぎゅっと握った。いつもにこにこしている雰囲気とがらっと変わって歳相応に真剣な、娘の目をしている。急に変わった空気に紫苑が眉根を寄せるが、千代雪はそのまま続けた。


「うちの両親は攘夷志士に殺されたんどす。せやからうちは花街に落ちた、仇討ちや」

「……千代雪」


 深雪はもう何度もその話を聞いているのだろう、切なげな声で彼女を呼んだ。
 また、仇討ちだ。両親を殺されたという間者を最近殺したばかりなのに、両親を殺されたという舞妓に命を託されるとは思っても見なかった。彼女の境遇を楠と重ねてみることは決してできないし、それどころか正反対ですらある彼女に対し、紫苑は強く手を握り返すことしかできなかった。










 甘味屋を出て勇と別れ、紫苑は千代雪と別の店で呑んだ。実際呑んだのは紫苑だけで千代雪は酌をしていただけだが、ぽつりぽつりと事情を語ってくれた。それを聞いても紫苑には肯定することも否定することもできずただ、揺らいだ。それほどの思いをしている人間がいるのに、自分は何をしているのだろう。ただそれだけに揺らいだ。


「紫苑」


 いつものように縁側でぼんやりと空を見ていると、後ろから声をかけられてふわりと羽織を掛けられた。既にそれに温もりがあるのは使っていたものをかけられたからだろう。こんなところでもこの男はひどく優しい。それが余計に揺らがせることには気づかないふりをする。
 隣に腰を下ろすと思った歳三はしかし紫苑の数歩後ろで柱に寄りかかってそれ以上近づいてこなかった。更に広くなった距離なのに淋しさを感じない。ただ漠然と寒かった。それは温もりがないからか、ただの季節のせいなのか。


「先生の話は聞いた。……帰れ」

「帰らない。それ以上言ったら殺す」

「帰ってやれ。先生だってお前に逢いたがっているはずだ」


 僅かに匂ってきた知らない煙草の匂いだけれど紫苑はそのから動かなかった。歳三も変わっているのかもしれない。けれど紫苑は変わらない。変われない。そこが正しい居場所だと主張するように頑なにその場所に居続ける。本当はもう動かなければならないことを知っているのにいつまでたっても言い訳して先延ばしにして、本当は覚悟なんてないかもしれない。


「帰ってくるなとは言わん。ただ最期に会うくらいしてやれ」

「……うん」

「それから、野口が死んだ」

「は?何、あいつまだ生きてたの」

「正しくは殺せなかった、だ」


 芹沢派の最後の一人であり隊内での不穏分子の生き残り。姿を見ないからもう死んだと思っていた。少なくとも間者狩りをした後からは姿を見ていなかった。思わず振り返って歳三を見たけれど、彼は紫苑ではなくその先に植わっているシオンの花をひどく優しい顔で見つめていた。


「職務怠慢の咎で切腹させた。お前が近藤さんと甘味を食いに行っている間にだ」

「それで総司がいなかったわけか」

「まあな。静かでよかっただろう」

「おかげで汁粉食いに行かされたけどね」


 けれど悪いことばかりじゃないと紫苑は無理矢理微笑を浮かべた。
 その裏で背筋を冷やしている。 歳三は新撰組のために要らないものと必要なものを明確に分けて、そして要らなくなったものは容赦なく斬り捨てる。野口はいらなくなった上で適当な理由をつけて正当に処分された。すべて歳三が仕組んだことだ。もしいつか歳三にとって要らなくなったら同じように処分されてしまうのだろうか。躊躇いもなく一刀の下に、何の感情もなく。
 千代雪のように強い決意も持たず揺らぐ自分には似合いの最期かもしれない。いっそ、要らないと捨てられる前に命を差し出してしまおうか。要らなくなる前に死ねればきっと、辛くはない。


「紫苑、何考えてやがる」

「別に」

「くだらねぇこと考えんじゃねぇ」

「なに、お見通しって?生憎考えてないよ」


 誤魔化しに肩を竦めて見せたけれど、本当は怖ろしかった。全てを悟られればこの揺らいだ気持ちすらもばれてしまいそうで彼の視線から逃げ出したくなる。けれど逃げたら本当にばれてしまいそうで、幻滅されたくはなくてそれだけのためにその場に留まる。


「俺は、お前がいるだけでいい」


 心臓を打ち抜くような一言が耳元に落ちてくる。羽織の上からまたふわりと感じる体温は少し暑いし首に回された腕は動きを制限する。ぐっと抱きしめられるけれど、その腕を振り払うことはできなかった。

 今だけじゃない約束が欲しいなんて、口が裂けても言えやしない。





−続−

千代雪かわいい。