母から文が来た。こちらに来てから初めての文は、父の容態が思わしくないことが書かれていた。つい先日まではまだ起き上がることができていたようだが、ここ数日はそれすらもままならずいつ危篤と呼ばれてもおかしくない状態らしい。それでも本当は行く気はなかったのに、今紫苑は江戸に向かって馬を走らせていた。
 京から江戸に向かって馬を約半月ほど走らせると家に着く。まだ肌寒い時期に屯所を出たというのに、江戸に着く頃には馬上でも寒く感じるようになった。けれど余計な衣服を持ってきていないので羽織るものもなく多少耐えて小石川に帰った。


「紫苑!」

「……雪?」


 道場に隣接された家にとりあえず帰ってみると、玄関のところに雪がいた。義姉でも母でもなく、友人がいた。とても不思議な気がして思わず首を傾げる。もう半年以上会っていないとは思えないほど彼女は変わっていない。その変化のなさがとても安心した。


「おかえりなさい」

「……なんでここにいんの」

「井上さんからね、お手紙貰ったの」


 にこにこ笑って腕を取られ、家の中に促される。腕に回された手はとても暖かく冷え切った体に心地よかった。
 先に源三郎が飛脚で手紙を出したらしい。家の者に出すわけではなく雪に出したのは何か意図があったのか分からないが、たぶん病気で大変な人たちに心配などを掛けたくなかったのだろう。だから、江戸での親しい友達に手紙を出しておいた。正直雪には会う気がなかった紫苑にしてみたら、有難迷惑に他ならないが会ってみたらそれはそれで嬉しい。


「でも紫苑が早く来てくれてよかった」

「……父さんは?」

「こっち……」


 にこにこしていた彼女の表情が、一瞬にして暗くなった。雪も紫苑の父に可愛がってもらったので辛いのだろう。相当良くないのかと初めに覚悟を決めて、紫苑は荷物を馬から下ろすと玄関先に置いて草履を脱いで家に上がった。玄関横の部屋をちらりと見ると、赤ン坊が二人寝ている。一人は先頃生まれたという雪の子供だろう。


「あぁ、あれ?うちの子とツネさんの子。可愛いでしょ」

「……遠くから見てる分にはね」


 いつの間に大きくなったのか、一人は予想通り雪の子でもう一人が勇の子だった。三年ほど前に妻に貰い、その子は一年半ほど前に生まれた。いつの間にか大きくなったものだ。けれど紫苑にはその光景が直視できない。きっと自分には歳三の子を生むことはできないし、子供に幸せな未来を用意してやる事も出来ない。歳三がそれを望まないということもあるが、それ以上に今、このままでは滅びの道を歩むだろう。直感が、時勢がそう語りかけると教えてくれる。


「うちの子は男の子なの。大きくなったら試衛館に入門させるのよ」

「それまでに家が潰れてたりして」

「もーぅ!紫苑、そんなこと言わないでよ」

「悪ぃ悪ぃ」


 膨れた雪に軽く笑いながら紫苑はその部屋から視線を逸らして、父の隠居部屋である部屋の前まで足を進めた。そこで一度立ち止まり、深呼吸を一つする。雪が後ろから不安そうな視線を投げてくるが、紫苑は崩れないだろう。そのくらいでは揺らがない。幼い頃から人はいつか死ぬのだと聞かされていたのだから、今更打ちのめされない。


「……紫苑です」


 思いがけず引きつる喉で名を名乗り、襖に手を掛ける。手が震えているのが分かるがそれをぐっと握りこんで無理矢理止めた。
 襖を開けて視線を回せば、狭い部屋に布団が敷いてある。その周りにある二つの人影、一つは母で一つは義姉だ。二人の視線がこちらを向くけれど、床に伏している父は目を閉じて身じろぎ一つしなかった。


「紫苑!」

「ただいま」


 一番に声を上げたのは、顔色の悪い義母だった。紫苑の姿を下から上まで眺め、変っていないことに目を瞠る。いつもなら着物の着方などについて文句の一つでも言うのに、今日は義父のことがあるからか目を僅かに熱くさせて立ち上がり紫苑の肩を両の手で掴んだ。


「あぁ、お帰り紫苑。あなた、紫苑が帰ってきましたよ」

「ただいまお茶をお持ちします……」

「あ、別に……」

「お茶淹れてきましたよー?」


 紫苑が立ち竦んでいる間に茶を淹れに行ったのは雪だ。ツネはさっきまでぼんやりと布団の傍に座っていた。婚姻を結んだ時から思っていたが、気が利かない女だ。紫苑に言えたことじゃないので口に出しはしないが、どうしてこんな女を娶ったのか不思議でならない。一度、結婚したての頃源三郎に食事もいまいちだと漏らした所しこたま怒られたのでそれ以来何も言う気にならないが、結婚するなら雪がいい。


「ありがと、でもいいや」

「そう、だよね。準備はできてるから落ち着いたら呼んで、私は子供たち見てるから」

「ごめんな。助かる」


 僅かに笑ったつもりでいたが、雪の瞳に映る顔は上手く笑えていなかった。
 雪が下がってしまってから、紫苑はのろのろと布団に寄った。父の枕元に腰を下ろすと母が気を使ったのかツネに部屋を出るように言った。ここまでも気を使わない女だとは思わず少しげんなりする。彼女が出て母が襖を閉めてから、紫苑は一度深く呼吸をしてから目を硬く閉じたままの父に小さく声をかけてみた。震えるな、声。


「父さん……」

「昨晩、急に悪くなってね……。帰ってきてくれてよかった」

「本当は、帰ってくる気なんてなかったんだけどね」


 帰ってきて父の顔を見たら揺らいでしまうと思った。だから帰ってくる気はなかった。けれど父がいなくなると思ったらそれ以上に恐怖が生まれた。ずっと紫苑の支えになっていた父の言葉が向こうになってしまうような虚無感と寒気は消えなかった。
 声をかけても父は目を覚ます気配なんてない。そっと布団の中に手を入れてしわがれた手を掴むと温度がないように冷たかった。昔は温かかった手が、今は死んだように冷たいなんて信じられない。信じたくもない。


「生きて生きて、それから死ね……」

「紫苑?」

「父さんが昔言ってた。死に逃げるなんて弱虫がすることだって」


 紫苑の魂は父に植えつけられた。生きることも死ぬことも、生き方さえも父譲りだ。その父が今にも死にそうになっているなんて信じられない。父の手をぎゅっと握って、紫苑は思わず唇を噛んだ。人はいつか死ぬ。それはいつか分からないけれど、遠くない将来紫苑にも訪れるだろう。そのとき、自分は何を残せるだろう。










 夜は自分の部屋に戻った。一人で縁側に座っているとまるで初めからずっとここにいたような気がしてきて、ここ半年のことは夢だったのではないのかと思ってしまう。けれど決して夢ではないことは紫苑自身が知っている。もうあの頃には戻れないのだ。仮令ここに同じものが同じように佇んでいようとも。
 膝を抱えてただ黙って冷たい風に吹かれていると、後ろから気配が生まれた。彼女は消していると思っているのだろうが紫苑にはもろバレだ。そういうところは歳三にもあった。


「帰んなくていいのか、人妻」

「気づかれたー」

「ったり前だろ。何年友達やってんだよ。つーか試衛館の娘を舐めんな?」

「紫苑が相変わらず寒そうな格好してるからだよ。羽織くらいかけないと」


 後ろからやって来た雪がふわりと羽織をかけてくれた。歳三とは違うかけ方だけれど、雪の優しさも柔らかさも体に馴染んでいる。羽織をかけられても動く気にはなれず、ただ膝を抱えたまま口を噤んだ。帰ってきたらもう母に何も言われなかったけれど、それ以上に彼女自身も打ちのめされているようだった。みんながみんな、苦しんでいる。


「髪、どうしたの?綺麗だったのにびっくりしちゃった、あと刺青も」

「……」

「でも似合うよ」

「……」

「しーおん」

「……んだよ」


 ふわりどころか上から体重を掛けられた。暖かいけれど重い。けれど文句も出てこないのでただ低い声で呟いた。雪は動く気がないのかそのままの状態でさらに包み込むように腕を回してきた。笑ったのが呼吸で分かる。


「辛いよね、淋しいよね……」

「……」

「いつでも帰ってきていいんだよ。私は待ってる」

「……帰って来ねぇよ。来ない、けど……」


 ここに帰ってくる気はない。けれどやはりまだ揺らぐのだ。父がいなければ揺らぐ。どうすればいいか分からない。きっと今まで甘えがあったのだ。何かあってもここが、父が受け入れてくれると。逃げる場所があるのだと無意識にそう考えていたに違いない。けれどそれが失われ、紫苑の根本から揺らぐとすればどこを支えに生きていける。


「歳三さんは紫苑の支えにならないの?」

「あいつに寄り掛かるわけにはいかねぇだろ」

「じゃあ紫苑は何に支えられてるの?」

「…………」

「私はいつでもここにいるからね」

「雪」

「なぁに?」

「ありがと……」

「どういたしまして」


 今だけは。歳三がいない今だけ、寄り掛からせてほしい。歳三に寄り掛かることはできないとずっと一人で立てるようにと思っていた。だから屯所にいるときは誰にも寄り掛からないと心がけていた。花街にいても千代雪に甘えることはできない。表面的な行動はできても雪の前のように泣くことなんてできやしない。それ以前に、泣いたらいけないと思っていた。


「紫苑は強いんだもん。たまには弱くなったっていいんだよ」

「…………」

「紫苑は不器用だから、心配なんだよ」

「…………」

「私は紫苑のこと大好きなんだからね」


 泣き止むまで、雪は紫苑の肩を抱いていてくれた。ただ声を出さずに羽織で顔を隠していたが、彼女にも分かっていただろう。だから何も言わずに傍にいてくれる。これで少しは楽になればいいと、本気でそう思う。
 しばらく泣いていたが、すぐに馬鹿らしくなって涙は止まった。まだ父は死んだわけではないし、寄り掛かるとか支えるとかそんな目に見えないことに思い悩むなんて馬鹿らしい。開き直ったといえばそうだが、開き直ったものはしょうがない。


「……寝ようか」

「私、紫苑の隣で寝る」

「浮気じゃねぇのか、奥さん」

「紫苑がこっちにいるうちは泊まるって言ってきたもの」


 夕方に一度家に帰って子供を旦那に預けてまた来た雪は、当然のように紫苑の布団にもぐりこんだ。紫苑も一緒に布団に入り、泣いて火照っている瞼を冷たい手で冷やし目を閉じる。となりにある雪の体温が暖かくて、心地よい。


「なぁ、雪」

「なぁに?」

「お前さ、幸せ?」


 女の幸せが何かなど、とっくに捨てられた。捨てられたけれどまだ未練も残っている。だから、ここにいるのかもしれない。歳三の近くから逃げて、まだ答えからも逃げている。例えば歳三の子供を生んで育てて、彼の背中を追い続けて待ち続ける。それが幸せだとしたら、今の紫苑は幸せじゃない。
 隣から聞こえたのは考えるようなか細い息だった。しばし置いて、雪が笑った気配がする。


「私は幸せよ。好きな人の子供と幸せに暮らしてます」

「……そっか」

「でもね、それが紫苑の幸せと同じとは限らないでしょ?」

「…………」

「紫苑は私みたいな幸せ似合わないよ」


 ここでもしかしたら決まったのかもしれない。もう幸せを追い求めていなんていないと思っていたのに、心のどこかで幸せを探してた。自分にも普通の女みたいに幸せになることができるんじゃないかと思ってた。でも、そんなものは存在しない。どうせ人とは違うのだから。父にそう、育てられた。それが不幸なことだとは思わない。むしろ幸せなことだと思う。父に拾われたことが幸せ。だからもう幸せなんて求めない。
 にこりと笑って体を寄せてきた雪の頭を抱きこんで、紫苑も眠りについた。

 あんたの隣にいること以外が幸せだなんて、もう思えない。




−続−

まだ江戸を立って一年未満と言う事実に驚愕