目を覚ましたら、もう日が高く上っていた。無意識のうちに布団の中で歳三の姿を探し、彼がここにいないという分かりきった事実に苦笑を禁じえない。ここにいるから過去の幻影を追いすがる。しょうがないといえばしょうがないかもしれないけれど、これじゃダメだ。そんなことは分かっている。昨日、分かった。


「紫苑、起きて!おじさまが目を覚ましたの!」


 パタパタと雪が遠慮も情けもなく駆け込んできて、布団の中でまだ寝転がっている紫苑から布団を引っぺがした。彼女はもっと早く目を覚ましていたようで紫苑の隣に温もりもない。髪をすっきりと纏め上げた格好で、なぜか紫苑の胴着を手早く準備している。幼い頃からの友人というのは本人よりもどこに何があるか熟知しているから厄介だと思うが、なぜ胴着なのだろう。今は道場に立つ者もいないというのに。


「何で胴着出してんの?」

「おじさまがね、道場にって……目を覚ましたばっかりなのに」

「何だろ……。まあいいや、行く」


 昨夜まで危篤と言ってもおかしくない状態だったのに朝になったら道場稽古とは怖ろしい父だ。勇に道場を譲ってから隠居と称して道場に出ることはなくなった父がまだ誰もいない時間を見計らって道場で稽古していたのを、紫苑は知っている。幼い頃から、彼が人に見えないところで努力しているのを唯一見ていたし、その精神も紫苑に受け継がれている。素振りなどをしている姿を誰にも見せないけれど、組み合いなどは積極的に叩きに行くその精神は物心つく前から染み付いたのだろう。
 さっさと着替えて短くなった髪を軽くなでて、紫苑は道場に向かう。


「紫苑!」

「ん?」

「……ううん、何でもない。ごはんの準備してあるから、お腹減ったら言ってね」

「おう。美味いの頼むな」


 何かを言いたかったのだろうが、紫苑が振り返ると雪は頭を振って苦笑に似た笑みを浮かべた。何を言いたかったのか全く検討もつかないし気にならないといったら嘘だけれど、雪は言う時ははっきり言うことを知っているから、あえて笑みを浮かべて手を振った。
 部屋から道場へなんて歩きなれた道だ。離れから家に上がって勇の部屋の前を通って道場のある庭に出る。上がった時に指に引っ掛けた下駄をそこでもう一度下ろしてカラコロ鳴らして道場に入った。


「失礼します」


 当然のように頭を下げて道場に入ると、上座に父が正座していた。まだ顔色は土気色だ。一瞬見たときは昨日は夢だったのではないかと思ったが、こうしてみるとやはり体は弱っているのだ。本来ならばこんな所に座っているような状態じゃないはずだ。
 ゆっくりと開けた父の目は、しかし昔と変わってはいなかった。精気に満ちた目が紫苑を性格に捕らえ、昔と同じに口元がニィと歪む。


「紫苑、帰ってきたのだな」

「義父さんも、よく黄泉の国から帰って……」

「そこに直れ馬鹿娘!」


 父の前に座りながら茶化してみると、昔と同じに怒鳴られた。これだけ怒鳴れる元気があればひとまずは安心だろうとほっと胸を撫で下ろす。父の前で姿勢を正すと、最後にここで対峙したことを思い出した。あのときも迷って迷って、ここで父に国宗を貰った。ここで立てた誓いは、今の変わっていないだろうか。揺らいでいる今、確かめる術はない。


「紫苑、何だその眼は」

「何が」

「濁っておる」


 すっと立ち上がった父は、右手に竹刀を持っていた。背筋が曲がっているわけでも弱々しく見えるわけでもない。むしろ以前よりも力強く見えるのは紫苑が弱くなっているからだろうか。幼い頃に感じていた父の強さを今も、感じられる。


「来い紫苑、その根性叩き直してくれる」

「……お願いします」


 そういえば昔も同じ事があったと、父の前で竹刀を構えながら思った。
 父の前でぎゅっと竹刀を握り、視線を混じり合わせる。数拍置いた後、紫苑の方が床を蹴った。一気に距離を詰めて懐に潜りこもうとするが、父の方が一枚上手で軽く数歩下がって間合いをとりそこから一気に竹刀を横に払う。それを紙一重で体を逸らして避けて紫苑は突きを繰り出したが、それも父に最小限の動きで避けられた。


「……ぅオラっ!」


 昔、紫苑が喧嘩で負けて帰ってきたときも、父はこうして道場に連れ出して竹刀を握らせた。いくら紫苑といえども喧嘩の仕方などは知らなかった頃は当たり前に男に負けた。負けから喧嘩の仕方を教わったけれど、それ以上に父から喧嘩の仕方を教わった。ただ我武者羅に相手の気配を読むことや打ち込みのこつも、すべて。
 雪の結婚が決まった時も淋しくて今思えば子供みたいに拗ねて、父に甘えて暴れた。暴れて暴れて、結局こてんぱんにされた。顔に傷を作って、それを見た母も悲鳴を上げたものだ。


「甘い!」

「ッ!?」


 父の打ち込みは老齢とは思えないほど、体調が悪いと思えないほど苛烈だった。新撰組の隊士としてそれなりの稽古をしている紫苑も防戦一方にならざるをえなかったが、気合と共に打ち込まれた一撃は防いでいた上からでも十分な破壊力を有していた。受けきれず、思わず吹っ飛ぶ。
 辛うじて受身を取ったが床にたたきつけられて、体を起こす前に竹刀を喉笛に突きつけられた。


「変わらんな、紫苑」

「死に損ないが……」

「突くぞこのまま」

「降参、負けました」


 これくらいの戯言は許される。紫苑が苦々しげに呟くと、皮一枚を隔てて突きつけられた竹刀が喉に食い込んだ。このままでは本当に喉笛を潰されそうなので簡単に竹刀を離して諸手を上げた。まだ敵わない。いつまでたっても父を越えられないのは女だからじゃない。紫苑が弱いからだ。昔から成長できない。父の背中を追いかけて、まだ追いつけない。いつまでも追いかけるだけ。これだけ追いかけていて、最後に歳三の隣に並ぶことはあるのだろうか。


「……何を揺らいでいるかしらんが、私はお前をそんな腑抜けに育てた覚えはない」

「敵わないなぁ……」


 本当に敵わない。父はいつだって紫苑の弱さを見抜き、庇い責めて慰め突き放す。それが不器用な親の愛情だったり教えだったりするのだろう。普通の家だったら言葉を交えればすむことでも、父と紫苑は必ず間に竹刀を、刀を挟んできた。きっとこれはこれからも変わらないだろう。もう交わることも、ないだろうが。


「娘に負けたとあっちゃぁ、この近藤周助、男が廃る」

「いつまでも勝てないなぁ」

「当たり前だ。子供に負けるなんざ許されん」


 父はいつだって紫苑を女と見ない。母とはそれでよく言い争いをしていたが、決して女という見方はしなかった。娘と言ってもそれは子供と言う意味で使われて、女を匂わすこともない。だからこそ紫苑もそういう風に成長してきた。今更ながら父の大きさを思い知って、まだ悪い顔色に涙が出そうになる。


「紫苑、お前は好きなように生きろ。お前には道を歩く力を与えた」

「…………」

「もう教えることもあるまい。私のすべてをお前に譲った」

「父さん……」

「礼ならいらんぞ」

「じゃあいいや、ご飯食べて来よう」


 本当はありがとうと言いたかったけれど、やっぱりやめた。竹刀で悩みも愚痴もすべて伝えた。言葉を重ねることに意味などないだろう。乱暴に思えるかもしれないが、結局これしか出来ないのだ。剣術家の親子など、刀を握るしか能がない。
 立ち上がって背を向けた紫苑に、父は動かずに呼び止めることもしなかった。ただ、たった一言。


「簡単におっ死ぬんじゃねーぞ」


 その言葉に一瞬紫苑の足が止まった。死にそうになっているのは自分の癖に、いつまでも娘の心配なんてして無茶して道場なんかに出てくるなんてどうかしている。けれどそんな父に涙が出そうになるのは止められなくて、紫苑は入り口で振り返ると深々と頭を下げた。










 雪のご飯はおいしい。朝食といえども運動した後なのでおかわりまでした。汗を流していつもの着流しに着替えて食事を終えると、それを待っていたかのように母に呼ばれた。呼ばれるときは大抵小言なので嬉しいことはないが、今日くらいは付き合ってやらなければ申し訳もない。母にとって父の死というものは非常に大きなものになるだろうから、紫苑が支えなければと使命感ではないが生まれた。


「紫苑です、失礼します」


 呼ばれたのは玄関横の、昨日子供たちが寝ていた部屋だった。勇の書斎はその妻子が使っているので、今はそのが彼女の寝室になっているのだろう。紫苑の部屋は何故かは知らないが誰も使っていないように何一つ変わっていなかった。
 部屋に入ると、母は険しい顔で姿勢を正して座っていた。説教する顔だと反射的に思い逃げたくなる。けれど突き刺さる母の視線に逃げることもできないのだと悟って、覚悟を決めてその前に腰を下ろした。


「あの人は昔から女遊びが好きな人でした」

「はい?」


 一体何の話を始めたのか紫苑が首を傾げるが、母はただ黙って聞けとでも言うように厳しい目で紫苑を睨んだだけだった。思わず黙って、説教される体勢で視線を膝の上で握った拳に落とす。昔、よく父と一緒にこうして怒られたことがあった。


「貴女を拾ってきた時も、あの人と女の子じゃないかと疑いました。私に子供が出来なかったせいもありますが、貴女が憎かった」

「……義母さん?」

「だから貴女に望まない稽古をさせたこともありました。でもいつからでしょう、貴女が自分の娘なのだと思えて、愛しくなった。だからこそ普通の娘のような幸せを掴んでほしくて見合いを押し付けたこともありました」


 そんなこともあったな。紫苑は思わず目を細めて懐古する。母には何かと辛く当たられた記憶はないでもない。けれどそのたびに父や源三郎が守ってくれたし、ある程度の歳になれば普通の母子同様の関係になった。いささか紫苑の大雑把な性格のおかげで喧嘩をすることもあったけれど、それも問題ない程度だった。母がそんな思惑を抱えていたのだと、初めて知るくらいに。


「貴女は今、幸せですか?」

「…………」

「私は、貴女に幸せになってもらいたい。私のたった一人の娘なのだから」

「母さん、私は……」

「だから、貴女の好きなように生きなさい。そう思って勇さんと一緒に京へ行くことも許しました。ですが何ですか、何をしに帰ってきたのです」


 言葉がなかった。何をしにと問われたら、父の見舞いにと答えることは簡単だ。でもそれは正解じゃない。だから紫苑の口をついて出てこなかった。見舞いに来たんじゃない。ただ逃げてきた。はっきりしない現状と揺らぐ思いの間で踏ん切りも決心もつかずに、結論から逃げてきた。逃げ帰ってきたのだ。


「金輪際、ここへ逃げ帰ってくることは禁止です。私は貴女をそんな弱い娘に育てた覚えはありません!」

「母さん……」


 結局、この両親はすべてお見通しだったのだ。紫苑の悩みなど下らないと笑い飛ばせるくらいにすべてを見通していた。これだから敵わない。亀の甲より年の功とか、茶化せないじゃないか。
 口惜しさに唇を噛んで紫苑は硬く握りこんだ拳を凝視した。確かに逃げてきた。けれどここに戻ってきてやっと決心が決まった。だからもう、顔を上げていえる。自信を持って、堂々と。もう迷わないのだと言える。


「今度は、ちゃんと顔上げて帰ってくる」

「……行きなさい」


 きっと母にとって気持ちのいい話ではなかったのだろう、俯いていた。一人娘が男まがいの格好で刀を振り回しているのだから当たり前だ。結婚して子供を生んで、まるで雪みたいな平凡な女としての幸せを紫苑にも得て欲しかったに違いない。しかし残念なことに紫苑は試衛館の娘であって、その幸せは受け付けないらしい。
 これ以上ここにいても辛いだけだと紫苑は立ち上がった。何も言わずに部屋を出て、廊下に出てから息を一つ吐き出す。それから、自分の部屋に戻った。何の目的があったわけではないけれど何となく、もう帰ってもいい頃だと思った。廊下を真っ直ぐ歩いて途中で下駄を引っ掛けて中庭に出てそこから離れへ行くと、縁側で雪が子供を抱いて幸せそうに笑っていた。


「紫苑、お話終わった?」

「まーね。……そろそろ、行こうかと思って」

「京に戻るの?」

「うん。吹っ切れたから」


 何をとは言わなかったけれど、雪はただ微笑んでくれた。昔から雪は何も聞かない。聞かないでただ紫苑の隣にいてくれた。雪の隣に座ると、彼女の腕の中の赤ン坊が興味深そうに紫苑を凝視するので思わず似合わない引きつり笑いを浮かべてしまい雪に笑われた。


「ねぇ、紫苑。また帰ってくるんでしょ?」

「……さぁ」

「帰ってきて。私、待ってる。この子ね、千歳って言うの」


 腕の中の子を示して、雪は目を細める。大好きな人の子を産んで、それがすくすくと育つとはどれだけ女にとって幸せなのだろうか。その幸せを紫苑は自ら手放した。けれどもう羨望は浮かんでこなかった。雪が幸せでよかった、思ったのはそれだけ。


「この子の名前通り何年でも待ってるから、絶対待ってて。そしたらこの子に紫苑を自慢するから」

「自慢って、有名な茨垣ですってか?」

「お母さんの一番大切な友達よって」

「ありがたいやら恥ずかしいやらだな」

「だから、絶対に帰ってきてね」

「極力ね」


 生きて帰ってくる。その約束は数え切れないほどこれからすることになるだろう。けれどそれに確かな返事をすることを躊躇われた。時勢が勝てぬといっているのだ。漠然とそう思う。ただ紫苑は歳三についていくだけだからその声に耳をかそうとは思わないけれど、それでも雪は紫苑が歩き出した道を揶揄しないだろう。ただ黙って見ているだけだと分かる。だからできるだけ悲しませたくないとも思う。
 不安そうな顔をしている雪の髪をくしゃりと撫でて、紫苑は部屋の中に戻った。これから身支度をして、昼過ぎくらいにここを立とう。次に帰って来るのはいつになるか分からないけれど。

 もう、帰ってくる場所はなくなった。




−続−

父さん無我の境地