紫苑が今日に戻ったのは、風がすっかり冷たくなった十一月に入ってからだった。江戸を発って約一月の旅だが、それでも通常よりも早く帰ってくることができた。帰ってくる、そんな感覚であることが紫苑の中にしっくりときた。


「紫苑さん、お帰りなさい!」

「紫苑姉ぇ、お土産は!?」

「ただいま。あるかそんなモン」


 前川邸に戻ると、一緒にいた総司と平助が顔を覗かせて駆け寄ってきた。新撰組の中でも若い二人は一緒に行動することが多いわけではないが、なんとなく一緒にいることが多いのかもしれない。総司と平助では性格などが全然違うと思うのだが、気が合うのだろうか。
 紫苑が荷物を総司に押し付けて踵を返すと、いつも文句を言う総司の口から切羽詰ったような声が発された。こいつがこんな声を出すなんて珍しいと思い、思わず足が止まる。


「紫苑姉ぇ!……姉さんは、元気だった?」

「元気だったよ。相変わらずお前の心配してた」

「そっか、よかった……」


 即答で紫苑は笑って頷いて見せた。総司の言う姉は本物の姉だ。総司が試衛館に入門したのが九歳のときで、そのときに姉のミツと別れた。ミツがそうさせたのだろうが総司自身と会うことはせず疎遠を気取っており、ただ紫苑にだけは総司の近況を知りたがるような連絡が入り、報告ついでに遊びに行くのが常だった。総司も実姉のことを気にしていた。今日だってそうだ。江戸に行くといったら、様子を見てきて欲しいといった。
 本当は逢いに行っていない。雪に頼んで様子を見てくれるように言いそれを伝え聞いただけだ。けれどその一言で総司が喜ぶのなら嘘の一つも紫苑は顔色一つ変えずに吐き出せる。


「平助、局長どこにいる?」

「近藤局長ならお部屋にいらっしゃると思いますけど」

「そっか、ありがと」


 紫苑は軽く礼を言って今度こそ青年たちの傍を離れた。玄関から勇の部屋に行こうと歩いていると、その隣の歳三の部屋に二つの気配を感じ取った。一つは歳三のものに間違いなく、ならばもう一つは勇みのものかと思ったがどうも違うらしい。少し荒々しい声がするが、それは山南のものだった。二人が言い争っているとは珍しい。否、珍しくはないがこんなに直接的に争っているのは珍しい。
 少し疑問を覚えながら、紫苑は勇の部屋の前に立った。


「かっちゃん、私」

「紫苑か?入れ入れ」


 声をかけると、襖は開かないが明るい声で部屋に招き入れてくれた。遠慮なく入って適当なところに腰を下ろす。勇は字の練習をしていたようで机に向かっていた。彼が筆を置くのを待って、紫苑は姿勢を正した。勇の前で、深々と頭を下げる。


「橘紫苑、ただいま帰りました」

「うむ、ご苦労だった」


 たった一言、新撰組という組織としての言葉を吐き出すと、お互いに分かっているのでそのままの場所で体勢を崩した。源三郎が知ったら怒るだろうが片胡坐をかいて壁に寄り掛かり、紫苑は視線を一度彷徨わせた。場所を選んで、結局自分の手元に戻す。投げ出した右腕には、相変わらず鮮やかに紫苑の花が咲き誇っている。


「どうだった、紫苑」

「行ったらさ、父さん危篤だったんだよ」


 驚いた勇に苦笑して、紫苑はそのままの体勢で話を続けた。危篤だったし、母さんはやつれて雪が来てくれたこと、勇の子がすくすく大きくなっていることも雪の子が男の子だったことも全てまるで物語を聞かせるように淡々と話した。少し躊躇ってから、道場で父との間にあったことも大雑把に話した。「当分死にゃしないよ」と締めくくったが、お互いがその言葉が真実吐き出された言葉でないことは理解していた。


「京に来る前に、義母さんに言われたことがある」

「母さんに?」

「紫苑を頼む、と。紫苑を護ってくれと言われた」


 紫苑の言葉が切れたのをきっかけに勇が口を開いた。紫苑が母とあったことを話そうか悩んでいた時だったので、そのまま勇の話に耳を傾ける。
 江戸を発つ前、母はずっと紫苑が京へ上ることを反対していた。でも結局紫苑はその反対を押し切って京に上ってしまったので確かに母は怒っていると思っていた。けれどその前日、母は紫苑を頼むと、そう言ったそうだ。紫苑は女で、けれど言い出したら聞かない頑固者だから護ってくれと。いつまでも紫苑が女であることを諦めずにそう言ったそうだ。


「母さんは、妄信してたんだな」

「私が普通の女だって?」


 そんな馬鹿な、と紫苑は薄く笑った。今までずっと父に稽古をつけられ、普通とはかけ離れていたのを知っていたのに、そうまでして信じていたというのだろうか。自分の娘が人並みの幸せを得て生き、死ぬということを。


「母さんにとっては大切な娘だ。娘の幸せを祈るのは当然だ」


 勇は自分が正にそうであるかのように微笑んだ。確かにそうかもしれない、彼には会うことが滅多に叶わない幼い娘がいるのだから。紫苑には親の心境と言うものが分からないが、それでも母はそれならあの時、紫苑に向けた言葉にどれだけ傷つき打ちのめされただろう。そう思っていた娘に対して傷ついて来いといった言葉にどれだけ心を痛めただろう。


「母さんは、言ったんだ」

「何て?」

「逃げて帰ってくるなって。好きなように生きろって言ってくれた……」


 何も分からない娘だった。べろべろに甘えたダメな娘だった。最後まで辛い思いをさせた。きっとそれは父さんにも同じで、最後まで甘えた。それでも、紫苑は彼らにかける言葉を一つとして持っていなかった。


「だったら、生きればいい。胸を張って生きて、帰れば良いじゃないか。ここまでやったんだって、胸を張って」

「…………」

「そうだろう?紫苑」

「そうだな」


 過去を見ていてもしょうがない。感傷に浸っていても何が返ってくるわけでも現状が改善される訳ではない。過去は全て明日への糧であるべきなんだ。
 僅かに微笑んで、紫苑は立ち上がった。荷物を放りっぱなしだし、源三郎に帰ってきたと報告しなければならないしでいろいろとやらねばならないらしい。けれどこれを忘れた振りしようものなら源三郎が烈火のごとく怒るので忘れる訳にもいかない。


「隣、どうしたの?」

「ん?……あぁ、歳とサンナンか」


 話している最中もだが、隣から歳三と山南の言い争う声が聞こえてきている。彼らが声を荒げるとは珍しいし、周りの気配に気づかないのも珍しい。今まで見た事がない光景だけに紫苑が首を傾げるが、不在の二月で慣れきった現象になったらしい勇は苦笑いを浮かべた。


「近頃な、何かとぶつかることが多いんだ。何、慣れれば気にならん」

「そういうもんか?」

「そういうもんだ」


 勇は苦笑してまた机に向かうが、紫苑はどうにも納得できなくて立ち上がると部屋を出た。昔から仲がいいと言えた関係ではなかったけれど、これはひどい。ここまではなかった。しかも聞いていればひどく些細なことだ。きっと総司は嫌そうな顔をして平助は怯えているのだろう。可哀相に。
 歳三の部屋の前に立って、遠慮も情けもなく襖を開けた。二対の視線が、目をまん丸に見開いて見上げてくる。こちらの気配にも気づいていないなんて、ひどすぎる。


「ただいま」

「お、お帰り紫苑ちゃん……」

「さっきから何やってんの?」

「いや、別に……」

「……。あっそ」


 言い辛そうに山南が言いよどむので、紫苑は目を眇めて歳三に視線を移した。けれど彼も戸惑っているのか紫苑を見ることなく煙管を吸っている。その態度にもカチンと来て、紫苑は踵を返した。こんな奴の心配をしたこっちが馬鹿みたいだ。
 総司たちと遊んでやろうと思って廊下の先でその姿を探していると、後ろから山南が追ってきた。


「紫苑ちゃん」

「ん?」

「何か、誤解してないかい?」


 山南がひどく困ったような顔をしているから、紫苑は少し不審に思って首を傾げた。何か思い違いでもしているのだろうか。山南に言われて部屋に入り、紫苑は山南と向き合った。何だか真面目な話なのか照れているのか、山南は視線を自身の膝の上の拳に落としていた。


「紫苑ちゃんがどう思ったか分からないけど、決して悪いことをしていたわけではないんだ」

「喧嘩って言うか、苛められてたように見えたけど」

「そう見えてしまうのはしょうがないかもしれないけどね、決してそういうわけではないんだよ」


 山南が言うには、どうにも昔から意見の不一致があった。いつだって何だって対立しなければ気がすまなかったのだ。それを山南は変えようとした。時勢に急変がなく、内部の整理をつけようとしているときだからこそ、副長である自分たちの整理もつけるべきではないかと言うのが彼の意見だった。副長であるのだから意見は統一し、できるようにならなければならないのだと言うが、それはどうにも難しい。


「だからね、決して仲違いではないんだ」


 山南はそう言って、立ち上がった。もう一勝負と決め込む所だろう。さっき見た限りでは歳三の方から折れそうにもなかったが、その態度を崩そうというのだろうか。だったら凄い、さすが努力家の山南先生だ。紫苑は感心せざるを得ない。
 去って行く後ろ姿を見送って、紫苑は決して自分が彼のようにはなれないことを悟った。










 夜になって漸く歳三と二人きりになれた。二人きりと言っても縁側と部屋の中で距離はある。昔みたいな関係には戻れないし、戻ろうとは思わない。紫苑は熱燗を手酌しながら月を見上げる。いつの間にか紫の花は枯れてしまった。部屋からは紫苑の知らない紫煙の匂いが漂ってくる。


「先生はどうだった」

「まだ平気。私に説教するくらい元気なんだから」


 後ろを振り返りもせずに言うと、歳三が安堵の息を吐き出したのを背中で感じた。少しの沈黙が降りて、これ以上話題もないので紫苑は膝を抱えつつふと先ほどの話題を振ってみる。山南に聞いてはいたが、それが真実だとは紫苑には思えなかった。


「山南さんとやりあってんだって?」

「……あっちがわんわん喚いてるだけだ」

「サンナンは理解し合いたいみたいだけど」

「いらねぇだろう、そんなもん」


 歳三らしいと紫苑は苦笑した。お互いに必要はなのは理解ではなく対立だと歳三は言う。立場が同じであればあるほど同じではなく敵対している立場の方が組織は強くなるのだと信じている。だから歳三には山南と分かり合う気はないし、迎合する意志もない。彼の声はただの音として耳を通り抜けているだけに過ぎない。それでは確かに山南は報われないことをしている。


「もうちょっと人の話、聞けよ」

「必要ねぇ」

「分かんないなぁ、やっぱり」


 男と女は違うというが、やはり考え方一つとってもそうなのだろうか。紫苑には歳三の理屈は何となく分かるが、山南との関係が少し分からない。どうして対立して友人として認識していられるのか。それが紫苑が女だと結論付けているのだろうか。そう呟くと、歳三が鼻で笑った。


「そりゃ、お前のダチが女だからだろうが」

「あ、そっか」


 紫苑にとって男は友達ではなく舎弟か仲間で、親友といえる新八は性格が似ているのか趣味が似ているのか似通っている節が多い。だから紫苑にはその感覚が分からなかっただけかと気が楽になった。
 不意に背中に熱を感じた。


「お帰り、紫苑」

「ただいま、歳三」


 耳元で聞こえた声は落とした歳三のもの。お互いに近づくことを我慢していた。距離の取り方を知らず、試すこともできずに怯えていた。だから急に触れてみたり離れてみたりを繰り返している。それはきっと紫苑の中に迷いが合ったからまだ生じていた抵抗だったのだろう。帰ってきた紫苑は、躊躇いなく歳三の手に触れた。

 畏れるものなど、もうどこにも存在しない。




−続−

平和な時期は逆に何をしたらいいんだか