別に何があったわけではないが、突然左之助が呑みに行こうと誘ってきた。師走に入る直前の話だ。紫苑が今日に戻ってきてからと言うもの特に事件らしい事件はなく、巡察に出ても出くわす浪人は前から歩いてくるのを見るだけで脇道に逃げてしまう始末で暇でしょうがない。
 だから隊内はみんな暇を持て余していたのかもしれない。他に金の使い方も知らない男たちと呑むのも楽しいだろうということで、なぜか幹部が揃って島原に繰りだした。山南と源三郎だけが屯所で留守番を申し出たので、紫苑は遠慮なく羽を伸ばすことにした。


「それにしても、最近暇だよねー」

「最近誰も斬ってないから、刀が錆びちゃいそうだよ」

「普通は血を吸うから錆びるんだよ」


 少し離れた所にいる総司と平助の会話を聞きながら、紫苑は僅かに眉を寄せて杯を干した。今日に来てからというもの総司が生意気になった。生意気とは少し違うかもしれないけれど、どこか変わった。少なくとも紫苑は総司に進んで人を斬ってほしくはない。けれどそうは言っていられないだろう。敵を斬り屠ることが新撰組の存在理由であり、それ自体が組織に属す絶対条件なのだから。
 目を眇めて干した杯を置くと、後ろからズシッと何かが圧し掛かってきた。上空からとろみのある液体が上手に杯に注がれる。


「零れる零れる」

「呑んでるか紫苑ー?」

「何だよ、もう酔ってんの?」


 注いで来たのは新八だった。どかっと遠慮なく隣に腰を下ろすので、紫苑は新八から受け取って酒を注いでやる。さっきまで左之助と一緒に騒いでいたはずだがと辺りを見回すと、左之助は歳三の酌に回ったようだった。しかし歳三の隣には既に芸妓が一人寄り添って専用に酌をさせていたので早々にお役ごめんのようだ。邪魔そうな視線で追い払われている。


「紫苑?」

「ん?」

「土方さん気にしてんのか?」

「……な訳ないだろ。左之が可哀相だなーって思っただけ」


 誤魔化すようにふわりと笑い、紫苑は杯を飲干した。空けた器はすぐに新八によって満たされる。
 本当は気にしていた。もともと紫苑が酒を呑みに出ないので一緒になったことはないが、隊内の宴会などでは嫌がおうにも同席しなければならない。そのときに見せる歳三の気遣いが紫苑を苛立たせていた。だから紫苑が逆に女に囲まれてみたりもしたのだが、ただ空しく感じるだけ。けれど今日は歳三は一人の女性を隣に置いている。それは本来は嫉妬しなければならない場所のはずなのに、嬉しかった。
 視線を逸らせて肩を竦めたとき、左之が妙に高いテンションで戻ってきた。完全に酔っ払っている。


「呑んでるかぁ!?」

「うっせーよ、左之ぉ」

「何だよ全然呑んでねーじゃん」

「左之こそ駆けつけ一杯!」


 新八が笑ってまだ口をつけていない銚子を渡した。もう冷めているだろうから左之助はそれを一気に煽った。既に完璧に酔っているのだろう諸肌を脱いで腹に走る真一文字の傷跡が丸見えになっている。左之助が呑んでいるうちに、新八が席を立ってどこかに行ってしまったからそろそろ恒例のあれを始めるのだろう。紫苑は薄く笑って左之助の腹をたたいた。


「よーぅ、色男。いい体してんねぇ?」

「おうよ!死神も俺様の美しい肉体に恐れをなして逃げてったぜ」

「そいつぁスゲェや。この傷に敬意を表して……」

「装飾するぜぇ!」


 にやりと紫苑が笑むと、墨と筆を持った新八が戻ってきて腕を振り上げた。言うが早いか左之助の腹に筆を走らせる。紫苑はくすぐったいと思うのだが、とうの左之助は筋肉を見せ付けるように固めてそのまま動かなかった。その間に腹には見事な顔が描かれていく。それに気づいた総司と平助も寄ってきて騒いだ。左之助得意の腹踊りだ。


「ぎゃーっはっはっはっ!喋んな左之!面白すぎる!!」

「俺の踊りは日本一だぜ!平助、お前も脱げ!」

「俺かよ!?ざけんな……やめろ馬鹿力!」

「やっちまえ左之ー!」


 一気に大騒ぎが始まった。紫苑も野次を入れながらけれど被害を全く喰わずに楽しんでいる。ちらりと歳三を見ると、目が合ってしまったので慌てて逸らした。逸らしてからわざとらしかったと後悔する。逸らすんじゃなくて余裕を持って笑えばよかったのに。けれどもう遅く、逸らした先にいた総司が珍しく邪気を含んだ顔でにこっと笑った。


「紫苑姉ぇ、ヤキモチ?」

「何だお前、生意気な面しやがって」

「痛い痛い!ごめんなさい!」


 生意気でムカついたので、紫苑は総司の頬をぎゅっと摘んで捻ってやった。今更叫んだ所で遅いとばかりに頬を振れば、痛みからか目にうっすら涙を浮かべて抵抗してくる。けれど総司の力は紫苑には敵わず振りほどけない。本来ならが総司よりも女の紫苑の方が弱いのは一目瞭然なのだが、総司は紫苑には敵わないと思い続けている。それが自然に心を制御させているのだろう。総司は幼い頃から、紫苑の背中を追いかけていた。


「歳兄ぃ助けて!」


 当然の流れのように総司がその男の名前を呼んだ瞬間、紫苑の手がパッと離れた。その隙に総司が逃げるように歳三の背に移動する。その行動を目で追って、紫苑は僅かに止まっていた呼吸を意識的に繰り返した。
 歳三の背に隠れたくせに、歳三は苦笑して総司の額を指で弾き酒を煽った。


「お前ぇが悪いんじゃねーか」

「ひっどい、僕らの話なんて聞いてなかったくせに」

「聞かなくてもわかんだよ」

「話くらい聞いてよ」


 完全に酔っているのだろう「うわーん」と泣きまねをし始めた総司をうっとうしそうに眇めた目で見て、引取りに来いと紫苑に視線を送る。けれど紫苑は気づかない振りをして酒を煽り、腹芸の騒ぎの中に混じった。もう何に怯える関係ではなくなたことに、内心安堵した。










 寒さは厳しくなり、年が明ける少し前に総司が体調を崩した。上洛する家茂公の警護の為に大阪に遠征する数日前の話だ。新撰組総出で出向く予定だったが、総司だけ残しておく訳にはいかない。考えた末、総司と紫苑、そして数人の平隊士と島田が残された。歳三のしては島田は二人の目付け役のつもりだろうが、それはそれで紫苑には鬱陶しかった。
 数人の隊士を引き連れて市中見回りから帰ってきた紫苑は、総司の部屋を覗いて空の布団に肩で溜め息を吐き出して中庭に向かった。微熱が続いているというのに、あの青年はちっとも大人しくしていない。


「総司」


 中庭を覗くと、椿の花に指を伸ばしていた総司がびくりと肩を震わせて恐る恐るという風に振り返った。最近の総司は中庭が気に入っているのか椿の花が気に入っているのか、寒いのにも関わらず薄着で中に葉にいることが多い。それに溜め息を漏らして、紫苑は腕を組んだまま縁側に腰掛けた。


「お、おかえり。紫苑姉ぇ」

「ただいま」


 ぽんぽんと隣を叩くと総司は怯えたように顔を青くしたが、変わらない紫苑の表情に諦めたのかおずおずと寄ってきてちょこんと少し距離を置いて座った。薄物一枚の体に紫苑は自分が羽織っていた羽織を掛けてやり、一発頭を軽く張った。


「いたっ」

「風邪っぴきが寒い格好してんなよ。治んねぇぞ」

「……うん。でもさ、何か生きてる感じがしないから」


 ぽつりと総司が呟いた言葉に紫苑は返す言葉を見つけられず、ただ視線を赤い椿の花に移した。そのまま下に落ちている花が否応なく眼に入る。
 総司は、変わった。ここで刀を振るっていなければ生きているという実感を得られない。それは多少紫苑の中にもあるもので、修羅とも羅刹ともいえるかもしれない。生死を取引している場でなければ自分が生きていることを実感できないほど、血の匂いが染み付いている。そしてだからこそ、首を落すような花に惹かれたのだろう。


「生きてる感じ、か」

「つまんないんだもん」

「立ったら尚更、大人しくして体直せ。そしたら巡回にも連れてってやるから」

「本当?」

「私が嘘吐いたことあったか?」

「ううん!」


 嬉しそうに顔を綻ばせた総司に紫苑は目を細めて笑った。笑ってから、何かに気づいたのか眉を潜めて羽織の匂いを嗅ぐ。更に皺を深くして紫苑の着物に鼻を寄せた。クンクンと鼻を鳴らし、首を傾げて紫苑を見る。


「紫苑姉ぇ」

「何だよ」

「血の匂いがする」

「……さっき斬ってきたから」


 水も浴びたのに聡いなと紫苑は目を眇めて総司の頭をそのまま自分の膝に沈めた。さっき見回りに行った時に押し入りを働いていた浪人を二人ほど切り伏せてきたが、浴びた覚えもない返り血の匂いに気づくとは。さっき水も浴びたのにも拘らず、だ。


「今頃みんな、何してんのかね」

「少なくとも斬りあいはしてないよ」

「ったり前だ。斬りあってたらそれこそコトだろうが」


 まさか将軍の前で斬りあいなんてする訳がないだろうが、前回の上洛では「征夷大将軍」と野次を飛ばした輩もいた。今回は心配ないとは言え、会津藩も一緒なのだ。誰が喧嘩を吹っかけるとも知れない。最も喧嘩っぱやい紫苑がここにいるからそう不安はないだろうがやはり心配ではある。何があるか分からないことを、時勢が証明している。
 紫苑が軽く笑ったところで、島田がやって来た。その後ろには少女を従えている。


「紫苑さん、沖田さん。お医者様がお見えになりましたよ」

「あの時のお嬢さんじゃん」


 紫苑の姿に香という少女はぺこりと頭を下げた。父の代理だろうか、大きな薬箱を下げている。総司は「大げさなんだから」と言っていたが、総司を医者に見せるようにと歳三からも勇からも言われている。あえてこの子を選んだのは紫苑の悪戯心だが。


「んじゃ、後はお医者に任せて出かけてこようかな」

「どこ行くの?僕も行く!」

「お前ぇは寝てろ。何か土産買ってきてやるから」


 総司の言葉を一蹴して、後を島田に任せて紫苑は一度部屋に戻った。大小を差して浅黄色の隊服を出して、屯所を出た。特に目的があったわけではない。けれど何となく切れるほどの寒さに身を晒していたかった。あと数日もすればみんなが帰ってくるだろうから、それまでに少しでも静かなところで考えたかった。
 実は最近、政変で京を追われた攘夷派が密かに京に入って来て密談を繰り返し挙兵の機会を窺っているという情報がある。隊士の誰もがそれに気を張り、あわよくば攘夷派の浪人を捕縛しようと躍起になっている。でもそれは、もしかしたらただ血に飢えているだけかもしれない。かくいう紫苑も、目的がない訳ではなく長州の浪人を探して歩いている。歩きながら、やはり考えるのはただ一つのことでしかなかった。結論が出ない問答を、紫苑は一人で何度も繰り返す。

 どこまで落ちていけば底があるのかを、確かめたかった。




‐続‐

平助と総司が仲良し……