正月の名残のような餅を焼きながら、紫苑は七輪を抱え込むようにして暖を取った。隊士の大半が大阪に出張に行っていたおかげで正月は思いのほかだらけてしまい三箇日は稽古もせずに部屋に残った隊士で集まって飲み明かしてしまった。しかも月真ん中あたりに帰ってきたら、彼らとともに一緒に祝えなかった新年を祝って呑んだ。おかげで歳三に怒鳴られ山南に説教されたが誰も堪えずに二日酔いにやられて幹部が全員寝込むという事体に陥りかけたが、頭三人と総司だけが無事だった。
 その流れでまだ稽古をする気になれない紫苑は、左之助を相手にまだ酒を飲んでいる。昨日辺りから総司と平助はきちんと稽古を始めているが、新八なんぞは島原にしけこんでいる。


「餅まだか?」

「膨らんでなくていいなら食べれるけど」

「膨らまなくて何が餅だ」


 寝転がった左之助が餅の様子を覗き込んでみるが、餅は焦げ目がついているもののまだ膨らんではいなかった。紫苑も餅は膨らんでなんぼだと思っているのでまだ我慢強くひっくり返してじっくり焼くつもりだ。
 だらだらと特に会話もなく時間が過ぎる。けれど嫌な沈黙ではなく、親しいからこそ沈黙は痛くない。ちびちび酒を舐めながら、紫苑は大変なことに気づいた。


「やばい、左之」

「どうしたぁ?」

「醤油と海苔がない」

「そいつは大変だなぁ」

「持ってこいよ」

「何で俺が。お前が行けよ」

「は?なんで私が。なんならヤルか?」

「上等だッ」


 本来気の短い紫苑と左之助が一緒になると、気がついた頃には殺傷沙汰になる。以前、新八と平助と四人で一緒に飲んでいたときも左之助と紫苑が刀を抜いて新八と平助を驚かせた。お互いに傍らの得物を引き寄せて、視線を絡めた。相手が本気かを見極めつつ、けれどお互いに本気なことは分かりきっている。
 気配をお互いに探り、殺気が完全に満ちた瞬間に口の端を愉悦に歪めて腰を浮かす。けれど僅かに腰が浮いたときに襖がすっと開いた。歳三が醤油と海苔を持って僅かに眉を寄せて臨戦態勢の二人を見た。


「何してんだ、お前ら」

「……別に?」

「お、醤油に海苔じゃん。さすが土方さん!」


 歳三の手にある醤油と海苔に左之助が槍を放り出して腰を再び落ち着けた。程よく膨れ上がった餅が丁度いい。紫苑も刀を離し、歳三から奪うように醤油と海苔を取ると手早く餅を海苔でくるんだ。別に左之助に渡すのではなく、自分が当たり前のように口に運ぶ。びよーんと景気良く伸びた餅に気分がよくなった。


「あー!紫苑、お前何先に食ってんだよ!?」

「んー、んまい」

「俺も食う!」

「ん」


 喚き散らす左之助を横目に呆れた視線を投げ、歳三は紫苑の前に腰を下ろした。ふわりと香ってきた嗅ぎなれない煙草の香りに顔を上げれば、歳三が煙管を銜えてこちらを見ていた。何か言いたいことでもあるのだろうか、七輪をじっと見ている。一つ目の餅を食べ終わり、紫苑は手を叩いて指についた醤油を舐めた。


「食べたいの?」

「な訳ねぇだろ。お前らがいつまでも腑抜けてるから文句言いに来たんだ」

「小言なら間に合ってます。帰れ」

「まあ聞け」


 説教なら昨日源三郎からこってりいただいた。しかもその後山南が慰めてくれるのかと思ったらまた小言を喰らい、もう十分だ。分かっていたがどうにもやる気がでないのでしょうがない。半分逆切れのように紫苑は心底邪魔そうに手で追い払う仕草をした。
 けれど歳三はその反応をあらかじめ分かっていたのか、特に気にした風もなくそこに腰を下ろしたまま紫煙を吐き出した。濁った部屋の空気に紫苑が眉を寄せて歳三の部屋とを隔てる襖を少し開ける。


「土方さんよ、俺はいない方が良いのか?」

「好きにしろ。なんだったら餅を食ってても良いぞ」

「んじゃいただきますか」


 歳三の言い方から別に真面目な話ではないと思った左之助が、一つ残った餅を海苔で掴んだ。それを横目に見ながら紫苑はまた酒を舐め始める。それを見ながら歳三は視線を上に投げて自分が吐き出した紫煙の行方を追った。それから、ゆっくりと口を開く。紫苑の視線は小さな盃に固定されている。


「忍を飼おうと思っている」

「忍?」


 思わぬ名称に紫苑は顔を上げて歳三の顔をまじまじと見てしまった。
 忍とはそのまま隠密行動をする人間だが、すでに新撰組には監察方という奴等がいる。しかも優秀な彼らは忍と言っても間違いないだろう。それなのにまた別働を作る気なのか。必要性が分からずに紫苑が考えるように眉を寄せて器の酒の波紋に視線を落とす。けれど彼の考えていることが表面に映っている訳ではなかった。


「女忍だ。情報収集に……体で情報を集めてこれる女を加えようと思った」

「はぁ?」

「そう怒るなよ」


 明らかに不機嫌な声を上げた紫苑に苦笑して歳三は彼女の目を見た。久しぶりに絡み合う視線が穏やかだと感じる。まるで、江戸での深夜の逢瀬を思い出す。ばつが悪い歳三がやってきて、紫苑に許しを請うあの場面が眼に浮かぶ。
歳三の言葉の続きを待つために紫苑が肩で息を苛立ちと一緒に吐き出してじっと見据えると、歳三は表情を緩めたまま煙管を燻らせた。その仕草は歳三の仕草なのか新撰組副長の仕草なのか紫苑には分からない。


「お前の馴染みの……千代雪だったか、あれと会った」

「千代雪をあれ呼ばわりしないで」

「あぁ、昨日近藤さんと一緒に……深雪太夫だったか、ぞっこんだな」

「何だ、近藤さんがぞっこんたぁ別嬪なのかい?」


  餅を食べていた左之助が話に乗ってきた。食べ終わって暇なのかただ女の話だから乗ってきたのか分からないが、ちらりと紫苑に視線をやってから歳三の耳元に「寝たのか」と訊く。本人は聞こえないようにしたのだろうが、もとの声がでかいおかげでバッチリ聞こえた。別に紫苑は彼女の仕事がそういうことだと分かっているからどうと思うことはないが、表情にはありありと不機嫌さが映っていたらしく左之助が笑った。


「一丁前にヤキモチか?やっぱりお前も女なんだなぁ」

「妬いてねぇよ。ったく、どいつもこいつも。別に千代雪はそれが仕事だろ」

「女じゃねぇ、土方さんだよ」

「は?」

「土方さんが他の女を買って抱いたんだぜ?」

「お前な、そんなんで一々妬くわけねぇだろ。大体、そんなだったら石田の女は全滅してんぞ」


 紫苑は軽く笑い飛ばして酒を煽った。自分で注ぎ足して、しばし揺れる水面に目を細める。桜の塩漬けとかあったら良かったのにと、季節柄でもなく思ってしまった。
 別にそれが千代雪の仕事だとは分かっているし、紫苑は当然知らないが長州の男に抱かれることもあるだろう。けれどそれを彼女が選んだのだ。だから紫苑が口を出す権利はない。ただ、歳三と寝たのだと聞かされると僅かに胸が痛んだ。それが千代雪のことを思ってなのか歳三を思ってなのかは分からない。


「待て左之、俺は寝たなんて一言も言っちゃいねぇぞ」

「何だ、寝てねぇのかよ?」

「残念ながら断られた。俺に靡かん女は久しぶりだ」


 薄く笑って、歳三の手が紫苑の置いた盃に伸びた。躊躇いなくそれを持ち上げ、許可なく空ける。紫苑は僅かに嫌そうに目を眇めたが、文句を言う前に歳三が酒を注ぎ足したので文句を発することができなかった。仕方なしに舌を打ち鳴らして、その酒を煽る。


「じゃあ何をしてきたんだよ?」

「女忍にならないかと勧誘してきた」

「相変わらず抜け目ねぇな」

「冗談だと誤魔化すつもりだったがな、あの女は本気で躊躇いも無く頷いた」


 予想していたことだけに衝撃は受けなかったけれど、紫苑には僅かに顔を翳らせた。意識した訳ではないけれど、千代雪が本気でそこまで思っていたことに僅かに衝撃を受けた。確かに彼女は仇討ちだと言っていたけれど、本当はそんなことを忘れて幸せを探して欲しかった。だから、正直千代雪が乗り気でもそんなことをさせたくない。
 紫苑の思考を悟ったのかただ歳三の計画にとって空があったのかは分からないが、彼は「しかし」と自身の言葉を覆した。その接続に紫苑は肩を撫で下ろす。


「ただあの女は紫苑の馴染みだ。他に幹部が手を出すわけにはいかねぇが、紫苑だと長州の奴等に不審がられる」

「まあ、そうだな」

「結局、紫苑が反対したから流れたと言ったが、あの眼はこっちが怖くなるくらいだったな」


 情報を食うならば情報源の男と寝るし、流す側の人間とも寝なければ怪しまれる。ただ酒を飲むだけの相手ならばもれる心配はないと相手は高を括っているのだ。だから、女の紫苑には不都合だった。ただ彼女は普段からさり気なく情報を流してくれていたので状況は変わらない。ならば彼女が他の新撰組幹部と寝ればどうかというと、隊内で同じ女を相手にしているなどと知れたらそれこそ不審がられる。だから、千代雪では駄目だった。


「千代雪はさ、両親を長人に殺されてるんだって」

「……だから、か」

「だから正直、あんまり巻き込みたくない」

「…………関係ねぇ、な」

「言うと思った」


 紫苑の本音を冷たい声で斬り捨てた歳三に紫苑は笑い、彼の言葉とは裏腹に柔らかい表情に肩を竦める。そんなことは新撰組の鬼の副長には関係ないのだ。冷徹な鬼でなければいけない。
 空になった器に酒を継ごうと思ったが銚子の中にももう数滴しか入っていなかった。切りも良いからいい加減に道場に顔を出そうかと思って紫苑が立ち上がるが、だいぶ酔いが回ったようで足元がふら付いた。危うく倒れかけるところで、歳三の腕に支えられる。倒れこむという失態を免れて、紫苑は歳三の腕の中でばつが悪そうに顔を逸らした。


「ありがと」

「気ぃつけろ、酔っ払い」


 結局どかりとその場に腰を下ろす。もう今日は立ち上がるのは無理だ。このまま寝よう。布団も敷かずにそのまま目を閉じると、遠くから荒々しい足音が聞こえてきた。この音は新八のようにも思えるが少し体重が軽い気がする。質量的には山南だろうが、彼にしては荒々しい。


「土方君、いるかい!?」

「何だ、隣だ」

「失礼するよ」


 普段の温厚な彼からは想像がつかないほどに彼は怒っているようだった。語気が荒く、ぎんと歳三を睨みつける。紫苑は痛み出した頭を持ち上げて状況を確認したが、どうでも良くなって伏せた。年末辺りから増え始めた言い争いはもはや日常になって慣れてしまった。彼らとて反発して意見を戦わせることがいいことだと思っているが、しかしいつも歳三の意見が結局は断行される。
 今日も、山南は歳三を詰問口調で問い詰めた。すでに吸い終っていた煙管に煙草を詰めて、歳三は七輪で火を点ける。顔が僅かに鬱陶しそうに歪んでいた。


「女性を飼うとは、本気かい!?」

「その話か」

「いくら遊女といえどもひどいじゃあないか!紫苑ちゃん、紫苑ちゃんからも言ってやってくれ」

「へ?……あー、私はいいや」

「紫苑ちゃんも同じ女性だろう!」

「それとこれとは関係なくない?」

「左之助、お前らいい加減に稽古に行け。腕が鈍るぞ」

「あ、あぁ。そうさせて貰うぜ。紫苑、行こうぜ」

「あー、うん」


 半ば左之助に腕を取られる形で、紫苑は自室から追い出された。スパンと閉まった襖の奥からは山南の声がしきりに聞こえてくる。歳三を責める言葉は止むことがないが、対する歳三の言葉は何も聞こえてこない。全て聞いてから何か言うつもりなのかはなから何も言う気がないのか知らないが、聞いていて良いものじゃない。平隊士が聞いたら吃驚するだろうに。
 左之助も辟易した様子で肩を回しながらちらりと後ろに視線を飛ばしてげんなりとした表情を作る。


「京に来てから仲悪いよな、あの二人」

「いいんじゃないの、お互いに分かってやってんだから」


 ちゃんと自分で自分の立つ位置を分かっているからこそ分かっているからこそ彼らは戦えるのだろう。歳三が憎まれ役ならば山南が正論を、綺麗な言葉だけを吐き出す。紫苑には分かることだけれど、他の人間には分からないのだろうか。それとも、曖昧な人間だけが分かる感覚なのだろうか。


「ま、俺らは命令に従うだけか」

「そういうこと。あ、槍術教えてよ」

「いいけど……できんのかぁ?」

「昔、薙刀は齧ったんだけどすぐにやめさせられたからさっぱり。でも私にできないことがあるわけねぇだろ?」

「……やっぱお前、すげぇや」


 紫苑と左之助は笑って廊下の角を曲がった。ここが屯所内で左之助と話していて気を抜いていたし酔っているしで全く気づけなかったが、丁度谷兄弟と鉢合わせした。数ヶ月ほど前に入隊した隊士の兄弟で、兄の三十郎は槍術に長けている。その兄弟が紫苑は苦手だった。思わず「げっ」と呻くと、兄弟揃って睨みつけてくる。この弟が先日勇の養子になり名を周平と改めた。彼らは紫苑を女だと蔑んでいる節がある。


「橘殿」

「……なんでしょーか」

「今度ぜひ、手合わせ願いたい」

「いつでもどうぞ?」


 ぴたりと足を止めて冷ややかな三十郎の声で発された挑発に、紫苑も足を止めてゆっくりと口の端を引き上げて言い返した。彼は紫苑が女だと言う理由で気に入らないし、幹部でもないのに幅を利かせていることが気に入らないようだ。実際実力は幹部と並ぶし竹を割ったような性格のおかげで遜色はないのだが、局長に取り入り権力が欲しい彼にしては局長の親類は邪魔な存在でしかないのだろう。
 憎々しげに睨み付けてくる三十郎に余裕の笑みを送り、紫苑は左之助と共に道場に行った。なんとなく、やる気になっていた。

 曖昧な場所にいようとも、戦うことだけは確かにできる。




−続−

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