道場に行くと、珍しいことに隊の幹部が揃っていた。指導の担当ではない人間がいることが珍しいので、紫苑は結局左之助に槍術を習うのをやめて木刀を握った。紫苑が道場に入ればざわつく内部も、今日に限ってはざわつく元気もないらしく隊士が打ちのめされてそこここに転がっている。


「……何事?」

「紫苑姉ぇ!稽古するんなら僕とやろ!」

「総司、お前か」


 道場で立っているのは、幹部だけだだった。総司と平助と一が道場の中で立っていて、新八が壁にもたれて呆れたような顔をして見ている。今日の稽古当番は総司と一だったか。だったらこの現状は頷けるというものだが、だからってやりすぎだ。最も荒い稽古をすると有名な総司を小突き、紫苑は新八をにらみつけた。けれど彼は笑って顔をあからさまに逸らす。


「紫苑姉ぇ?」

「手加減を覚えろ、馬鹿」

「何でぇ?」

「何でも。ほら剥がれろ」


 仔犬のようにくっ付いて尻尾を振る総司を引き剥がして、紫苑は道場の中央に出た。自然彼女を避けるようにして下がった平助と一を順番に見やり、平助を見てにやりと口の端を上げる。平助が体を竦ませて凄い勢いで下がった。
 紫苑は左手を上げて、指で平助を招いた。


「平助」

「や、ややややや!無理ですって!!一の奴でも相手にしてやってくださいよ!」

「お前がいい。適度に弱いし」

「弱い者いじめかっこ悪い!」


 稽古じゃなくて剣術やりたいんだよなーと笑った紫苑に平助は顔を一気に青くして首を横に振った。戦いたいのではなくただ暴力を振るいたいというのが本当のところなのだが、そんなことは平助は百も承知だったらしい。一相手ではこちらが負ける可能性のほうが高いので今は相手になる気分ではなかった。総司には絶対に勝てるが、それは違う。総司は紫苑よりも弱いのではなくて、紫苑に勝つことが出来ないだけなのだから。
 もう無理矢理引っ張るしかないかと一歩歩き出したら、それを止めるべくだろう島田が前に進み出た。今の今まで気付かなかったが、今さっき到着したばかりのようだ。


「お相手いただけますか」

「島田、お前流派どこだっけ」

「心形刀流です」

「うし。こい」


 納得して頷き、構えた。島田が胴着でゆっくりと木刀を持ち上げる。二人は同じ構えを見せた。紫苑の構えがいつもと違うことに、くたばりかけていた隊士たちも珍しげに体を起こす。道場内に漲り始めた緊張感に、しんと冷たい空気のはずなのにつーっと汗が流れる。
 先に動いたのは島田だった。誘うように木刀の先を揺らし、それに乗って紫苑が大きく木刀を動かした。その隙を衝いて、島田が綺麗な型で紫苑に向けて斬撃を見舞う。


「はぁっ!」


 しかし技が決まって吹っ飛ばされたのは島田だった。正に瞬殺で、島田のふりが大きくなった一瞬を狙って紫苑が心形刀流の型で持って彼の肩に力の限り突きをぶち込んだのだ。床に尻餅をついた妙に大きな音が、道場に響いた。


「何で紫苑が心形刀流の型遣えんだぁ?」


 道場で紫苑を深くかかわりを持たないでいるものすべての気持ちを左之助が代弁した。紫苑は天然理心流の使い手だと誰もが知っている。それなのに、彼女の型は綺麗な心形刀流の型だった。恐らく島田も困惑しているだろうに紫苑は全く無視して彼に近寄るよ手を出して軽く笑って謝った。
 不満そうに唇を尖らせている総司が、左之助の問いに軽く肩を竦めて答えた。


「紫苑姉ぇって違う流派の人と試合すると必ずその流派の型習うんだよ」

「習うって、それであんな完璧に遣っちまうのか!?」

「うん。実戦ではあんまり使わないみたいだけど、神道無念流だとか北辰一刀流も遣える」


 天然理心流が一番強いけどね、と笑った総司から左之助は紫苑に視線を移したがやはりよく分からなかった。首を傾げていると、怯えた顔をした平助が寄って来て左之助の陰に隠れるように壁に寄りかかった。次は自分だと恐れているのだろう。
 島田を起こしてから、紫苑は道場中を見回して楽しそうに唇を引き上げる。これはもしかしたら、総司の稽古よりも堪えるかもしれない。


「次、いないなら平助!出て来い!」

「や、やですよぅ」


 名指しされてやはり平助は左之助の陰に隠れた。総司が名乗りを上げたが、紫苑は天然理心流以外でと軽く却下する。どうやら他の流派がいいらしい。その時、道場に新しい気配が生まれた。その人文つが、やや偉そうに声を上げる。


「ならば私がお相手いたそう」

「あぁん?」


 声のした方を振り返って、紫苑は不快そうに顔を歪めた。立っていたのは谷兄弟だった。さっき擦れ違ったばかりだというのにどういうつもりだろうか、こちらが返事もしないのにずかずか入って来て三十郎が木刀を構える。このまま試合わなければならないようで、不本意ながら紫苑も木刀を構える。
 二人を見ながら、左之助は不思議に思って総司に聞いてみた。谷は神明流剣術を使う。槍術の名人だが、使うのは今回は刀らしい。彼女は、神明流も齧っているのだろうか。


「神明流も紫苑はできんのか?」

「たぶん。構えから見るとできるみたいだね」


 のんきに話している間に、打ち合いが始まってしまった。何度か木刀がぶつかり合う音がしているが、実力は互角のようだ。谷が剣だからだということもあるだろうが、紫苑は違う流派を使ってよく互角に渡り合える。


「何であいつ、そんなことしてんだよ。一つの流派で修行すりゃあいいじゃねぇか。なあ、新八」

「強くなりてぇから、だとよ」


 自然に寄って来た新八に話を振ると、新八は苦笑に似た笑みを浮かべて紫苑を見た。不思議そうな顔をする左之助の肩を叩いて「紫苑は女だから」と彼女にとっては侮辱でしかない言葉を吐き出す。新八の意図が分からず、左之助は更に不可解な顔を作る。


「紫苑は女だから、筋力はどうしても男に勝てねぇんだよ」

「だから?」

「だから、ワザになるんだ。足りない力をワザで補って、相手の隙を如何に作るかが紫苑の強さだ」

「あー……なーる?」

「分かってねぇだろ」


 左之助が分かっているのだか分かっていないんだかよく分からない返事をすれば、新八が目の端を吊り上げる。自分の説明で分かってもらえないことに腹が立ったが、こいつは脳みそまで筋肉なんだと思うことにした。
 話を聞いていた平助が、もう安全だと判断したのか左之の陰から出てじっと新八を見やる。


「てことは、新八っつぁんも紫苑さんに教えた訳?」

「だな。初めて会ったときにちょちょっと」

「僕は教えてないのに!?」

「お前は初めて試合したときもこてんぱんにやられてたな」

「それは先に山南さんが紫苑姉ぇと試合してたからだよ」


 平助と会う前に紫苑はすでに山南と試合しており、北辰一刀流を完璧なものをしていた。彼女が指南を請うたのはその前に坂本龍馬と会ったときであり、今でこそ敵同士になってしまったが昔はそれなりに親しくしていた。ちなみに、神道無念流は新八に指南し、桂と試合した際に完全に物にしたようだ。
 ずるいずるいと平助が文句を言っている間に、試合は進行していた。先ほどの左之助の疑問を体現したような剣を、彼女は遣っている。


「神明流の型かと思えば、理心流もまじってんな」

「あれが紫苑姉ぇの楽しい型だよ。実戦向きじゃないけどね」


 神明流の型をなぞっているかと思えば、決定打になる一撃は天然理心流の型が綺麗に繰り出される。それだけに谷は受ける際にこれでもかと言うくらいに顔を歪めている。紫苑の使う剣が気に入らないのか彼女自身が気に入らないのか、あるいはその両方か。けれどここでの道場稽古は綺麗じゃない。綺麗な稽古は実戦向きではないからだ。だから実戦と稽古は違うと皆言うが、紫苑だけは実戦でも稽古でも、その姿勢は崩さない。だからこそ、彼女は天然理心流を使うのかもしれない。


「あーあ、ありゃ紫苑の勝ちだな」


 新八が言うのとほぼ同時に、木刀で横から叩き上げられ、谷の体が転がった。更に容赦なく紫苑は彼の首元に木刀を当て完全勝利を飾る。道場中からどよめきと歓声が上がった。いの一番に総司が紫苑に駆け寄り、後ろから飛びつく。


「紫苑姉ぇ!次僕と!」

「くっつくんじゃねぇ、暑ぃ!」


 木刀を引いて、紫苑は鬱陶しそうに眉を寄せた。無様に倒れている谷にはもう目もくれない。弟が局長の養子になったからと偉そうにしている谷に同情する人間もそういないのだろう、誰も気にする人間はいなかった。しかし元来優しい島田が、自分だってまだ肩が痛むだろうに谷に手を差し伸べた。しかし彼はそれを取らずに、紫苑を睨みつける。


「……そうやって、他人の土俵で相撲を取っていい気になっているのか。卑怯者!」


 谷の言葉はただの負け犬の遠吠えだっただろう。けれど、安穏とした時代に生まれ道場稽古の染み付いた隊士たちには僅かに響いた。型を無視して、幾流もの型を織り交ぜて遣うのはいささか反則のように感じられる。いくら実力主義で、紫苑の実力を認め始めているといってもどうしても女と言うものに馴染めかったから、谷の理屈を心は受け入れてしまう。
 しんとしてしまった道場で、面白く無さそうに顔を歪めた紫苑が低い声を絞り出した。


「卑怯者?」

「そうだろう!幾流もの型を遣い、剣術への冒涜だ!そもそも女が剣を持つということが間違っているのだ!」

「…………」

「相手の虚を衝き同じ土俵でぶちのめすなど、質が悪いわ!」

「言いてぇことはそれだけか」


 半眼になって、紫苑は呟く。その声に総司はあからさまに紫苑から距離を取るために踵を返す。彼は付き合いが長い分紫苑を本気で起こらせるとどうなるのかしっかり分かっている。幹部も多少理解してそっと紫苑から離れるが、谷は分かっていないようで一人で立ち上がると畳み掛けるように唇を開いた。
 しかし、紫苑が床を張った音にかき消されて言葉は消える。道場に、踏み鳴らされた床の音が余韻を持って響いた。


「同じ土俵?笑わせんなよ、始めっから立ってんじゃねぇか」

「……始めから、だと……」

「ちっちぇんだよ。同じ剣術の土俵に立って、同じ道場の土俵じゃねぇか!」

「そういう問題ではない!」

「じゃあ何だ、テメェは実戦で足取られても反則だって言うのか?ハッ、アホらしくて臍で茶が湧くってんだ」


 逃げようとしていた総司は、紫苑の思わぬ例題に思わず吹き出した。確かに実戦で卑怯な手があったとしても卑怯だなんていっていたら斬り殺される。それだけだ。所詮、綺麗事ばかりでは生き残れない。そういう場所に、自分たちは立っている。
 紫苑はこれ以上谷に興味がなくなったらしく踵を返すと、総司の後頭部を小突いた。


「遊びに行く?」

「本当!?どこ行くの!」

「診療所」

「えー」

「いいからお前は行ってこい!」


 体調を崩しやすくなっている総司を一喝して医者に行かせ、紫苑は軽く肩を回して道場を出た。身を切るような冷たさに自分を晒して少し頭を冷やせばいいかもしれない。このまま裏の壬生寺に行こうとそちらに脚を向けると、後ろから一が影のようについてきていた。けれど紫苑は黙ってそれを勝手にさせる。彼ならば思考の邪魔もしないだろう。ただ、今の紫苑には考えることが何もなかった。
 ただ何もなく、冬が過ぎ去ろうとしていた。

 この曖昧な中、私はしっかり立てているだろうか。





−続−

紫苑さんすげぇな