気がつけば雪が融けていた。もう春なのだと今更ながら散りかけた桜を見て思う。ただ冬が過ぎた訳ではなかった。容保公が転職するという事件もあったが、それは上層部の人間が知っていれば良いだけのことで紫苑には何も関係なかった。ただ稽古をして過していた。
 時折憔悴した歳三を見かけたけれど、特に言葉を交わすこともなかった。話す内容がなかった。ただ、偶に肩を貸した。疲れきっている歳三が新撰組副長という立場を忘れて肩の力を抜けるように、黙って肩を貸していただけ。それでも、二人の距離は近かったと紫苑は思う。


「島原の帰りにしちゃあ、早いじゃん」


 桜と月を肴に杯を傾けていた紫苑は、背後に生まれた気配に揶揄するような声音を発した。今日は隊を挙げて島原で宴会中のはずだが、その最中にこの男はどうして戻ってきたのだろうか。紫苑は留守約と言う名目で残ったが、それを気にかけて帰ってきたのならば大きなお世話だし、人の居ぬまに恋人に戻ろうとするのならば斬り捨てる覚悟だ。
 けれど背後の気配は、何も言わずに隣に腰掛けた。まだ寒い外気のために薄着の紫苑に羽織を掛ける。それは昔から変わらない仕草だった。


「ツマミなんてないよ」

「呑みに来たんじゃねぇ」

「宴会ほっぽり出して、じゃあ何さ」


 俳句でも詠みにきたのかとからかおうと思ったが、少し可哀相なのでやめた。ちらりと盗み見た横顔が偉く深刻だったものだからつい口を閉じる。溜め息を逃がして、代わりに酒を満たした。呑んでも呑んでも、この地で酔えたことなど一度もなかったが。


「近藤さんがな、上に建白書を提出する」

「建白書?」


 耳慣れない言葉に紫苑が首を傾げる。建白書なんて大昔の話でしかないと思っていたが今でも存在しているのかと感心する一方で、そんな偉いものが作れるようになったのかと半ば呆れた。だから最近、歳三と山南の喧嘩も止まぬ一方なのかと納得する。
 歳三の話では、市中見廻りはそもそも攘夷とは関係ない事柄だから将軍が攘夷をしないなら新撰組の存在意義がない。だから解散するぞと半ば脅しのようなものを作成中らしい。今では京の治安維持は新撰組が担っているようなものだから、これは確かに上には痛いかもしれない。


「そんなことしたって攘夷決行はされないと思うけど」

「この場合は結果が大事なんじゃねぇ。出したっつー事実が重要なんだ」


 そんなものかと紫苑は深く考えずに「ふーん」と気のない返事を返して杯を呷った。深く考えてはいけないという自戒は、まだ守っている。深く考えるのは幹部の役目の主に歳三と山南の仕事で自分たちは手足となって動くだけだ。更に言うなら、余計な事を考えずに紫苑は歳三のために生きようと思う。彼を支える為には、ときに深く煮詰めた己の思考なんて邪魔になるだけだ。


「それで、それをやりに一人で帰ってきたわけ?」

「まぁな」

「それはそれは、お仕事熱心ですこと」


 もともと歳三が騒がしいことを好まないとは知っているが、それでもたった一人で帰ってきたことについては腑に落ちなかった。確かに総司や左之助がいれば邪魔にはなるだろう。なのに山南がいない。いままでならば二人で帰ってくるはずなのに、最近は言い争いが激化でもして態度にまで表すようになったのだろうか。
 仕事内容に口を出さなくても、紫苑は仲間関係に対しては考える。仲間は歳三にとって心の支えになるはずだ。自分一人で十分などと傲慢になれるほど紫苑は愚かではない。


「山南さんは?」

「平助に止められて出て来れねぇ。まあすぐ来るさ」

「あいつ酔うと半端ないしね」


 ここから立ち上がろうとしない歳三は、何も言わずに空を見上げた。散りかけの桜木が月の光を受けて輝き、偶に舞い散る花びらを照らした。その下には、蕾すらつけていないシオンの花がある。ちらりと陰のある歳三の顔を盗み見て、はたと気づいた。これは山南の陰謀ではないだろうか。


「紫苑」

「…………」

「お前に自重しろとは言わねぇが、ちったぁ考えろよ」

「何が?」

「隊士虐めだ、隊士虐め」


 急にかけられた厳しいような呆れたような声に何かと身構えたが、何のことはない紫苑の普段の問題行動の一つだった。常に実践的であり器用に剣を使う紫苑は、現在道場で一日隊士の稽古をつけることが増えている。仕事がなければ皆道場は基本ではあるが、師範のような立場なのだ。それは向上心の塊である紫苑には嬉しいことだったが、対した隊士は最終的には泣き言を漏らしている。


「別に虐めてないって」

「お前の立場が悪くなってんだよ。谷がお前のことなんて言ってるか知ってんのか?」


 杯を煽るが、酔えはしなかった。しょうがないので、注いだ水面に月を映す。溜め息を吐き出すと、月が揺れた。
 正月明けに試合してからというもの、非常に敵視されて困ってはいたのだ。あれは紫苑の剣術が卑怯だというが、現場でそんなことを言っていられる余裕はないのだ。生死の境においては勝ちか負けのどちらかしか存在せず、勝者のみが正しい。それを知らない人間を紫苑は無視し続けていた。


「あんなの関係ないじゃん。何、それともみんなそんな腰抜けなのかよ」

「そうじゃない、そうじゃないが……」

「はっきり言え」

「所詮女だと、お前が貶されるのに俺は耐えられない」


 言葉を紡ごうとした紫苑の口は、開いただけで中途半端に息を吸って閉じた。結局どこにいこうとも男女は相容れないと思われているのだ。特にああいう坊ちゃんには分かるまい。最近では総司以上に容赦のない稽古に隊士たちは紫苑に畏怖の念を抱いているというのに、谷の一言でそれが水泡に帰すといったことになりかねなかった。
 正直な所斬っちゃおうかなと思ったけれど、紫苑は考え直して苦笑した。言いたい奴は言わせておけばいい。それで潰れるなら、それまでだったということだ。


「言いたい奴は勝手に言わせとけば」

「あいつがお前を手篭めにしようと画策していてもか」

「返り討ちにしてやるよ」


 どうせそうくると思ってはいたので同様はしなかった。男が偉いと思っている奴等の考えることはほぼ一緒だ。女を辱めその尊厳を地に落とす。それによって自分の優位性を再確認する。それだけだ。くだらないと紫苑は思う。思うが、歳三はそう思っていないようだった。にやりといつもと同じ自信満々に笑ったのに彼は不安そうな顔をしている。


「いくらお前でも縄でも打たれたら……」

「その前に逃げるっつーの。小石川の茨垣舐めんなよ」

「…………」

「そもそも総司の部屋に寝てんだからどっちか気づくだろ」


 狭くなった屯所と体調を崩しやすい総司の見張りの意味もこめて、紫苑は総司の部屋に寝起きしている。夜に襲われたらそのまま手篭めにされるよりも相手を殺してしまうほうを懸念した方がいいような感じすらする。
 眉間に皺を寄せて歳三は黙ってしまい、結局紫苑は肩を竦めるしか出来なかった。谷がそういうのは、きっと紫苑が局長の身内だからだ。実弟が局長の倅になり威張れるのにそんなもの関係ないとばかりに紫苑が立ち振る舞うから気に入らないのだろう。そもそも紫苑が勇の兄妹であることも気に入らないのであろう。


「とにかく気にすんなって」

「……あぁ」


 短く返事は帰ってきたものの、その声は不機嫌そのものだった。山南が来るまでまだ時間はあるだろう。紫苑は手持ち無沙汰に縁台に触れている歳三の手に自分の冷たいそれを重ねた。すぐに歳三は手を抜いて紫苑の手を温めるように上から握った。










 勇の建白書が効果を奏したかどうかは定かではないが、確かにあれ以降捕り物が増えた。けれど紫苑はどれも蚊帳の外だった。斬りあいにも発展しないなんてつまらないので蚊帳の外でも構わないが、それでもやはりしっくりとは来ない。
 市中見廻りも通常通り行ってはいるが、いかにも怪しげな浪人は浅黄の羽織りを見て逃げていくので斬りあいには発展しそうもなかった。ただ、祇園祭の前と言うことで町全体がざわついている。


「平助?」


 一緒に見廻りの任についた平助が歩調を緩めたので、紫苑は足を止めて彼の名を呼んだ。呼べば忠犬のようにやってくるが、その顔色は何となく悪い。何かを忌避したいような表情だったが、平助は自分のことを多く語らない性分なので訊いても無理強いしない限り決して話さないだろう。
 歩きながら、紫苑はここが四条通りであることに思い当たった。屯所に帰るための道だと普段考えていたが、平助にとっては実の父親の藩邸かもしれないのだ。もしかしたら兄弟もいるかもしれない。通りたくない道だろう。


「道、変えるか?」

「な、何でですか?やだなぁ、紫苑さん。大丈夫ですよ」


 問いかけると、平助はこちらの気が抜けるほどあからさまに笑った。きっと本当は大丈夫じゃないくせに、強がっている。それとももう吹っ切ったのだろうか。新撰組が自分の居場所だと思ってくれたらいい。
 見えてきた件の藩邸を一瞥して、紫苑はふとその手前の角からやって来た浪人を見止めた。どこかで見た顔だ。


「平助。あの男、知ってるか?」

「どの男ですか?」

「あいつだ、あのこっちに来る素浪人風の」

「あいつは……あぁ!宮部鼎蔵の部下ですあいつ!」

「そっか」


 宮部の名前が出た瞬間に、紫苑は柄に手を掛けて駆け出した。宮部は尊皇派で有名な人物だ。その部下となればそこそこの剣を使って楽しませてくれるだろう。後ろで平助が叫んだのを聞きながらも紫苑は止まらなかった。口の端が愉悦に歪む。


「そこの素浪人、新撰組だ。神妙にしなくていいよ?」


 相手が驚いている間に紫苑は刀を抜いた。可能性は皆無であるが神妙にしろと言って神妙にされても楽しくないので、源三郎あたりが聞いたら確実に怒る台詞を口にして刀を裏返した。これなら切りあっても峰打ちですむ。こいつは殺さない方がいいのは辛うじて分かった。
 刀を抜いてかかってくるだろうと思ったが、相手は何を思ったのか悲鳴を上げて踵を返した。まさかの敵前逃亡に舌を打ち鳴らして紫苑は追う。逃げるよりも追う方が紫苑は得意だ。もちろん逃げることも得意だが、こういうことにおいて紫苑は負け知らずだ。喧嘩を前提にしていなかったから石は持っていないが、それに近いものは意外に転がっている。


「行け!紫苑さんが何かやる前に捕縛しろ!」

「うっせぇぞ平助!」


 平助の指令に文句を飛ばしながら、紫苑は近くにいた子供が持っていた蹴鞠を分捕り振りかぶってぶん投げた。見事にそれが男の頭に当たり、男はもんどりうって倒れる。足を止めた紫苑に平助が追いつくのと男に隊士たちが群がるのはほぼ同時だった。


「逃げんなよ、戦わせろ!」

「紫苑さん……乱暴すぎです」

「とっとと捕縛して屯所連れてけ。最近物騒だしよ」


 つまらなそうに紫苑は口を尖らせて立たされた男の下まで刀を納めながら歩いた。途中跳ね返った蹴鞠を拾い上げ、けれど呆然としている少年に返さずに男に近づきおもむろに足を蹴り上げる。眇めた目が軽蔑の色を浮かべているが、男にそれを感じる余裕はないようだ。
 股間を強打され身悶える男を前に、隊士たちは揃って我が身で想像して背筋を震わせた。


「腰に刀ぶち込んどいて、みっともねぇんだよ」


 低い声で唸って、紫苑はスタスタと男に背を向けた。そして先ほどの不運な少年に蹴鞠を差し出し、ぽんと彼の頭を撫でた。少年は吃驚したように紫苑を見る。それを遠くから見て、平助は正直に羨ましくなってしまった。


「ありがとうな」


 少年は大きく頷くと、踵を返して走っていってしまった。それを見送ってから紫苑は隊士たちを仰ぎ見て「連行連行」と笑った。平助は紫苑に駆け寄り、「お疲れ様です」と声を掛ける。何故か紫苑は平助を見て笑うと、ぐりぐりと頭をかき回した。
 連行された男はその日のうちに南禅寺の山門に息晒しになった。紫苑が翌朝に殺しに行くと息巻いていたが、彼は夜のうちにどこかへ消えた。

 誰も気づかないうちに、時勢は大きく流れようとしていた。





−続−

紫苑さん相変わらず喧嘩っ早い……