奇妙な沈黙を突き破ったのは、紫苑が席を立とうとしたからではなかった。バタバタと廊下の向こうから走ってきた足音が三つ、部屋の前で止まった。その足音から新八、左之助、平助であることが知れる。紫苑が総司と過す時間が多いように、彼らは三人で過すことが多い。
 歳三の「終わったか」という問に、障子の向こうで新八が否と答えた。何が終わったのか何が否なのか、紫苑は何も知らない。


「何、何の話?」

「落ちねぇのか」

「結構がんばったんスけどね。駄目でした」

「ご苦労。俺が行こう」


 軽く身を乗り出した紫苑を無視して障子の向こうと会話していた歳三は、立ち上がりながらやっと紫苑に一瞥をくれた。しかしそれだけですぐに視線を外して立ち上がった。羽織を手にして部屋を出ようとするので、障子に手を掛ける前に紫苑は立ち上がって思い切り足を上げた。
 障子の向こうから三人分の悲鳴が聞こえたが、紫苑は完全に無視してぽかんと見下ろしてくる歳三をきっと睨みつける。障子に貫通させた足を抜いて、二本の足でしっかりと立った。


「何の話って、訊いてんだろ」

「…………」

「紫苑!紫苑さん!?どうして急に穴とかあけんだよ!?」


 障子の向こうから新八が叫んできたけれど「うっせぇ」とだけ返して、視線を決して歳三から逸らしはしなかった。真っ直ぐに見つめるその視線を、歳三の瞳は受け止められずに逃げるように見つめるものを探し、紫苑の袖から覗く紫の花弁で留まる。結局、彼は紫苑を直視できないくせに視線を逸らすこともできない。


「何、やってんだ」

「古高を、絞っている」


 重ねて紫苑に問われ、悔しげに歳三の口から声が漏れた。決して紫苑の顔を見ないからどんな表情をしているか分からないはずなのに、次の瞬間に浮かんだ色は鮮明に目の前に浮かび上がった。きっと子供のように楽しそうに目を輝かせているに違いない。
 それを確認するために顔を動かさず視線だけを上げてみると、寸分違わぬ顔を紫苑はしている。そのことに、歳三は至極安堵した。


「面白そうじゃん。混ぜろよ」

「いや……」

「何、仲間はずれ?」

「……好きにしろ」


 結局、紫苑には敵わない。逆らう方法が分からない。紫苑のこの顔を見ると、歳三はどうしても自分が間違っていると思えなくなる。きっといつまでもこの関係ではいけないのだ。あぁ、だから。だから紫苑は甘やかすなと言ったのだ。それを理解したのに、もう遅い。返事は口から出てしまっている。
 歳三の後悔になんて気づこうともしないで紫苑は腕を思い切り伸ばした。上に伸びた手には凛と紫のシオンの花が咲いている。お互いの視線がそこに集まっていることをお互いに知らないまま、華は咲いている。


「んじゃあ、紫苑さんと地獄の逢引と行くか!」

「私もご一緒します紫苑さん!」

「いや、いらないし」


 障子を開けると、やはり三人が立っていた。手を勢いよくあげて名乗り出た平助に一瞥もくれず、紫苑は振り返って歳三に現場を訊く。訊いた所で返ってこない返事を不思議に思って振り返ってみれば、煮え切らない表情で障子の穴を見ていた。女々しい男だと小さく舌を打ち鳴らし新八に視線を移すと、彼は前川邸の方を指差して笑った。


「向こうの蔵」

「了解」


 パンッと手を打ち合わせて、紫苑は意気揚々と廊下に出た。数歩歩いても歳三が追いついてこないので不審に思って振り返ると、三人組が何も言わずに部屋の中を指差した。まだ固まっているのかと呆れて戻り、問答無用で手を引いた。
 触れているはずなのに、遠い。木刀でも掴んでいるような気分になって、イライラして強く握ったらようやくその弾力と歳三の抗議の声に傍にいることを理解できた。










 蔵の中は熱気と死臭に満ち溢れていた。生の匂いがしていない。そのことに顔を歪めながら、紫苑は縛られて吊るされている男を見た。確かにあの時にちらりと見た男であるのだろうが、もともと人の顔を覚えることが苦手なので確証はない。ただ、古高だと言われたからそうなのかと思った。
 着物を剥ぎ取られ、下帯一枚になりながら全身を赤で塗装した男がぐったりとしている。ただ可哀相だとかそういう感情は毛ほども存在しない。これは敵なのだから。


「何か知ってるわけ?」

「たぶんな」

「ふーん。まずは起こすか」


 入る前に手にした木刀を振り上げて、喝の如くに肩に叩き込んだ。メリッと変な手ごたえがしたが気にしない。古高だと言う男がみっともなく悲鳴をあげて身を捩るが目を覚ましたのでいいことにする。その男の前にしゃがみこんで、紫苑は脛を何度か木刀の先で突いた。


「おはようさん。目覚めはいかが?」

「ぅ、あ……お前はっ…」

「橘紫苑ってんだ。よろしくな、クソ狸」


 にたりと笑って、更にコツコツと脛を打つ。心臓の鼓動と合せて叩いていると、男の口からは悲鳴ばかりが漏れた。古高の前で紫苑は一人で殺戮劇を演じている。その光景がこの空間で蘇っているのだろうか。この、血と熱に浮かされている密室で。
 光源の炎が揺れるたびに古高の顔にも紫苑の顔にも陰を作り、怪しく表情が揺らめく。ただ目だけが爛々と輝くのを紫苑は知っている。知っていて、眼を近づけて笑った。


「お前、何知ってんだ?」

「ひぃ……!」

「とっとと吐けよ。新八にも左之にもだんまりだったんだって?こっちだって疲れてんだよ」


 コツコツと、脛を打つ。打ちながら、指でするりと血と脂でぬれている顎を撫でる。上を向かせ、そして勢いに任せて脛を二本叩き割ってやった。鼓膜を破るような悲鳴が耳に不快なので更に割れ目に捻りこむように木刀で突く。足を切断するその勢いに何も言わずに歳三が紫苑の肩に手を置いて、それでようやく紫苑は木刀から手を離した。ガランと凶器が床を転がって、男の悲鳴も止む。


「この、古高……、こんなナリでも、攘夷志士……」

「ぁん?」

「誰が、壬生狼……なんぞに、口を割る……か」


 手を吊るされているからそこまで痛みがないのだろうが、古高は不遜に笑う紫苑を見て口角をスーッと引き上げた。安い挑発だ。そう頭では分かりながら、紫苑は指先で木刀を探り当てると立ち上がりながら拾い上げてそれを振りかぶった。別にもう死んでもいい。口を割らないのなら死んで構わない。何の感情もなく憮然と振り下ろす先には、血まみれになりながらも勝利を確信した古高が笑っている。


「紫苑」


 冷静な声に名を呼ばれると共に振り上げた右腕はそのままで動かなくなった。反射的に振り返って睨みつけてやるが、歳三は紫苑を見てはいなかった。ぱっと手を離され、勢いを失った手がそのまま下りる。再び手から離れた木刀がガランと淋しい音を立てた。


「口を割らねぇってことは、何か知ってるってことだろう?」


 歳三はそう言って口の端を引き上げると、外の隊士に命じて古高を蔵の梁に逆さに吊るした。紫苑に両足を折られているおかげで途中何度も気絶したが、その都度水を掛けて意識を保たせた。汗がぽたぽたとはるか下に垂れる。それはすでに落ちた糞尿にまみれて簡単に見えなくなる。
 梁に登ってその様子を観察しながら、紫苑は興味無さそうに足をブラブラさせた。もう悲鳴も上げつくしたようで、先ほどから古高は呻き声の一つもあげなかった。


「油でもかけて火ぃ点けようよ」

「阿呆。吐けなくなんだろうが」

「あぁ、そっか」


 まるで焚き火するための枯葉を集め終わる前に芋を入れようと言うような何のこともない口調で紫苑は言ったが、歳三が彼もまた枯葉の中に入れなければただの丸焼けになるだけだと言わんばかりの言い方で紫苑の提案を却下した。背にも無数の傷が出来ている。これは紫苑たちの前に口を割らせようと新八達がつけたのだろう。どうせならもう少し楽しい事をすれば良いのにと紫苑は思ったが、これ以上は何も言わなかった。


「おい、古高。早く何か言った方がいいぞ。さっきこいつが折ったおかげでいつ千切れてもおかしくねぇ」

「……ぅ、ぐ……」

「ちょっと、私悪いみたいじゃん」

「お前、ちっと黙っとけ」


 歳三の言い方もそうだがちらりとこちらを見てきたので思わず口を挟んでしまった。細い切れ長の眼が向いて、紫苑を黙らせる。抵抗できないこともないが、一応黙って置いてやる。
 しばらく古高の顔を木刀で殴っていた歳三は一度梁から飛び降りた。何を持ってくるのかと見送ると、そのまま蔵を出て行ってしまう。死の匂いが立ち込める蔵に死に掛けた男と二人にされて、紫苑は短く息を吐いた。あまり深く呼吸をすると、死が自分の中に根付いてしまいそうだ。


「男ってのは、何の為に生きてるんだろうな」


 小さく、本当に小さく紫苑は呟いた。別に死を前に感傷的になった訳ではない。ただ不意に、この死に損なっている男を見ていたら思ってしまった。女は父に従い夫に従い、子をなして男に尽くすために生きているといわれてきた。そんな一生紫苑は死んでもご免だったから男に生まれてきたかったと昔は幾度も思った。しかし今こうなって、男も女もない立場にあってどんな理由があって生きているのかどうやって死に逝くのか、目の前が何も見えなくなった。


「……歳三のために」


 何が見えなくても、歳三の姿さえ見えれば紫苑は生きていけるだろうか。否、姿が見えなくても隣にいれば、どこにいるか分かれば。存在があれば、生きていけるのだろう。だから怖がるものなどたった一つしかないのだ。そして今、歳三がいるべき場所に彼はいない。
 紫苑はそっと拳二つ分隣に手を伸ばしたけれど、やはり歳三の温もりはなかった。微かな残り香は、死の熱に飲まれてしまっている。
 蔵の扉が開いて、細い光が差し込んできた。人が一人分通れる細さだったそれはすぐに短くなる。戻ってきた歳三は、手に釘と蝋燭を持っていた。再び梁に上がってくる歳三を見ながら紫苑は声を掛ける。


「何それ」

「どう見ても釘と蝋燭だろうが」

「だから何に使うんだって訊いてんの」

「こう、するんだ」


 持ってきた釘を紫苑との間に一本置き、歳三は古高の足の平に釘を思い切り打ち込んだ。突如上がった悲鳴が肉を裂き神経を引きちぎる音を掻き消す。足の骨を折られ筋肉と神経で繋がっているところに釘を打ち込まれ、皿に釘の上に歳三が火の点いた蝋燭を立てた。それを両の足に施す。とろとろと溶けた蝋が釘から足に開いた風穴の中に零れる。
 古高の口から呻き声が途絶えることはなく、そして彼が唇を震わせて計画を語りだすのにそう時間はかからなかった。


「強風の、夜を選び……風上に、火を点け……騒ぎの隙に天子様に、御動座戴く……」


 話の全貌を計画したのが吉田稔麿であることはある程度分かっていたが、古高の話で全てに得心が行った。天皇を連れ去って長州が抱え込み、そこから詔勅やらを出し天子を祀り上げての長州の天下を作ろうというのだ。古来から天皇を抱え込んだ方が戦の勝ちとされてきた。室町幕府もそうであったけれど、それ以降は公家は巻き込まれることをせずに勝者に尾を振っていた。
 この計画の汚さは、だから侍として許せるものではない。


「……クソッタレが……」


 小さく呻いて、歳三は梁から飛び降りた。着地してからちらりと見上げて来たので、紫苑も軽やかに飛び降りる。足早に蔵を出ると外で待機していた隊士に「始末させとけ」とぶっきら棒に言って、そのまま自室に戻る道を進む。


「山崎!」


 歩きながら歳三は山崎を呼ばわった。紫苑もついて行ったけれど、山崎をあまり好かないので表情は浮かない。それだけではなく何となく自分の体に死臭が染み付いているような感じがするから不愉快だった。
部屋に入るなり山崎が音もなく現れた。歳三は神経質そうに腕や顔やらを手で払いながら、ギリッと奥歯を噛み締める。一度動きを止めて、そのままの顔で山崎を睨んだ。


「吉田だ。あいつ、仕掛けてやがった」

「………」

「探せ!集会だろうがなんだろうが、ぶっつぶしてやる!」


 声が抑えられている分震えている。ひどく怒っている理由が非人道的だからか守り敬うべき天皇に対する非礼だからか、侍としての行動違反に腹を立てているからかは知らないけれど、ただ紫苑が何か口を出したらまずい気がして黙っていた。
 山崎が静かに下がってから、言葉もなくただ紫苑は立っていた。しばらく歳三も黙っていたが、静かに出動命令を口にした。

 どうしても私は、一人で抱え込まないでなんて優しい言葉を掛けられない。





−続−

池田屋勃発!