祇園祭が開催されるときいても別に参加できるわけではないので紫苑には関係ない。新撰組は屯所警備に重きを置いたと言っても非番の隊士は祭に繰り出したようで方々で祭の様子が話されていた。それは紫苑の周りでも同じことで、街へと繰り出した新八と左之助が楽しそうに思い出話を伏している総司の部屋でやってくれたので迷惑この上なかった。
 新八に至っては手を怪我しているのにも関わらずの外出で、それを額を割られた平助がものすごく羨ましそうにしていた。どちらにしろ病人の部屋で鬱陶しいことだ。


「見ろ紫苑、お前に土産だ土産!」

「べっこうあめ。お前、誘っても来ないもんだから買ってきてやったんだぞ」


 まだ微熱を出している総司の看病をするために屯所に残ったのだが、もともと紫苑は祭が好きなわけじゃあない。江戸にいたころは雪に誘われて強請られて祭に繰り出したことはあったけれど、自分から行くことはなかった。だから篭って遠くの祭囃子を聞いているのも好きじゃあなかった。
 だから、差し出された鼈甲飴を見てどういう返事を返すべきか分からなかった。紫苑が甘いものを好まないのは分かっているはずだからただ単に嫌がらせだろうか。思わず眉間に皺が寄って、それを新八の瞳の中で確認した時に自分で苦笑が浮かんだ。


「いらねぇ」

「えー、折角買ってきたのにかよ!?」

「頼んでねーだろ。総司……や、平助にやるよ」


 甘いものなら総司だろうかと思って顔を向けると布団を被ったままうつ伏せになってにこにこ笑っているのでやめて、左之助から飴を奪って羨ましそうな顔をしている平助に押し付けた。ぱっと顔を輝かせた平助は妙に嬉しそうだった。


「ありがとうございます!」

「あ、うん……」

「ずるい、平助ばっかり!」

「うるっせぇ病人!お前らも出ろ、病に障るっつの」


 掛布を跳ね除けて手足をジタバタさせる総司を一喝してついでに集まってきた外野にも怒鳴りちらして紫苑は総司の手足を押さえつけた。布団を引っ掛けて、顔全体で文句をつけてくる総司の額にデコピンを喰らわせ黙らせる。
 そんなに居座る気がなかったのか左之助と新八はさっさと出て行ってしまった。それを見送って紫苑は一息吐き、それから平助を軽く睨んで肩を竦めた。


「平助はもう大丈夫か?」

「は、はい」

「そっか」


 額の傷は昨日の今日なのにもう血も止まり傷口はくっついたそうだ。大した怪我じゃあないのに大騒ぎしてと一人で憤っていたが、それでも大怪我には違いない。新八だって親指の付け根をごっそり持っていかれたが出かけているのを大層羨ましがっていたのには笑った。まだ微熱が下がらない総司は部屋に縛り付けておくとして、紫苑は立ち上がった。


「平助、行くぞ」

「はい!」

「僕も行く!」

「熱が下がったらな。後で石田散薬持って来てやるから大人しくしてろ」

「苦いからあれ嫌だなぁ」

「平助」


 名を呼ぶだけで行くぞと伝え、紫苑は総司を睨みつけてから部屋を出た。
 どこに行く予定もなかったけれどとりあえず壬生寺だと方向を定める。遠くから聞える祭囃子や人々の喧騒が耳に心地いい。夏になったその証拠とでも言うように吐き気がするほどむしむしと湿度が高く、何もしていなくても自然に汗が浮かんでくる。汗を額で拭いながら胸元に空気を入れるように動かすと隣に並んでいた平助があらぬ方を見上げた。


「し、紫苑さん……」

「んあ?」

「……目のやり場に困ります」

「困るなよ。別に何でもないんだから」

「そういう訳には……」


 困惑した平助に軽く首を傾げたが、気にしないことにして紫苑は暑い暑いと口の中で繰り返しながら壬生寺に向かった。祭の喧騒だけではない喧騒が聞えてくる気がするそれは、寺から不穏な金属音を交えて聞えるような気がしていた。
 壬生寺に行くと、何人かの隊士が抜き身の剣を下げて列を成していた。その先頭には木に括られた死体が縛られていて、珍しくも勇が羽織を着て立っていた。気づいた勇が笑顔で手を上げるが、隣の平助を見て眉間に皺を寄せた。少し足を速めて近づき、それが数日前に殺した長人だと気づいた。


「何してんの?」

「まだ人を斬ったことのない隊士がいるからな、その感触を知ってもらおうと思ってな」


 にかりと笑った勇に紫苑は呆れるでもなく同調するでもなく笑った。確かに人を斬るのは道場で稽古をするのとも藁を斬るのとも違うから、死体であっても斬ることはいいと思う。けれど、だからと言って死体を斬らなくても良いのではないだろうと思うのは、紫苑が女だからだろうか。そんなことはないはずだと思いながら、この思いを口に出す勇気が紫苑にはなかった。相手にだって誇りがあるだろうに死して尚辱められるのは溜まらなかろう。ただそれは、我々の発展に必要な肥やしとなるのだと歳三はいうだろうことは想像がついた。


「そうだ紫苑、江戸に手紙を出すことにした。お前も何か書け」

「いいよ、別に」

「お雪ちゃんに何か送ってやってもいいだろう」

「あんたも女房になんか贈ってやんな。でもいいな、ちょっと外行ってくる」


 少し気分転換がてら出掛けてくると紫苑は軽く首を回して踵を返した。「お供します」と紫苑に合せて踵を返した平助の額を指先で叩くと、平助は悲鳴を上げて蹲った。その悲鳴に紫苑は笑ったが、その場にいた八番組の隊士が平助の身を案じて駆け寄ってきた。


「紫苑!」

「怪我人なんかいるかよ、バーカ」


 薄く笑って、紫苑はスタスタと歩き出した。後ろから隊士たちが文句を言ってくるが、そんなものを聞いて傷つくほど繊細な心をしていない。ただ何となしに耳に入ってきた平助の「紫苑さんの優しさだ」というどうにも気楽思考には笑った。
 八木の正門から屯所を出て、人ごみにぶつかるのを避けるために裏路地に足を向けた。今日は大小は刺していない。ただ女の着物を昔のように適当に着流している。源三郎に見つかれば怒られるだろう。けれど大仕事の後は少し楽に過したい。ただ、裏路地に入った瞬間に奇妙な気配を感じた。池田屋の捕り物で尊皇派は緊迫しているといわれていたので、もしかしたら仇討ちにでも来たのだろう。


「新撰組だな」


 路地を一つ曲がったところで、後ろから付いて来ていた気配が姿になった。かけられた低い濁声に自然紫苑の視線が鋭くなる。やっぱり出だかと思ってもいたし、出るだろうとも思っていた。しかし刀を持って来てもいないのは自分でも解せないが、ようはそういう気分だったのだ。振り返りもせず、紫苑は静かに足を止める。


「女が粋がってんじゃねぇ!」


 後ろから気配が駆け寄ってくる。それを感じながらただ訛りがないな、と紫苑は思った。
 右側を狙って繰り出された突きを僅かに左に体を傾けて避け、ほぼ同時に懐から常に潜ませている懐刀を左手で抜く。髪一本分の間で交わした刀から更に伸びてきた腕をそのまま右腕で捻り上げて密着した脇腹に懐刀を差し込み、右手を離して添え更に深く抉って引き抜いた。


「きっさまー!」


 もう一人が刀を上段に構えて突っ込んできた。目を細めて男が振り下ろした刀をパッと左手に持ち替えた懐刀で受け止めて、驚いた顔に手刀を作ってその頚椎に叩き込む。力の抜けた手を柄尻で叩いて落とし、後ずさった足が縺れて倒れる前に男の喉許を切り裂いてやった。ビシュッと上がった血柱を避けるために一歩身を引くと、また後ろから気配が生まれた。反射的に振り返る前に、その気配は屋根の上から降りてくる。


「ほんま、けったいなお人やなぁ」

「……山崎」

「あんた一人がいのうなったら、副長も楽になるやろな」


 屋根から降りてきたのは山崎が紫苑はあまり好きではない。いやらしい気配の絶ち方や紫苑に対する態度が癇に障るし、何よりも紫苑が一番納得しなければいけないことを真っ直ぐにつきつけてくる。それが何よりも鬱陶しかった。
 今だって姿も見たくないから背を向けているが、にやりと笑ったいやらしい口元が目に見えるようだ。血の付いた刀を懐紙で拭うことで誤魔化してみるが、この気持ち悪い感触は拭えない。


「何が言いたい」

「あんたはんは要らんのや」

「うるせぇよ」


 そんなことは分かっているとばかりに紫苑は吐き捨てて歩き出した。これ以上ここにいたら死臭で参ってしまいそうだ。先日から続けての死体はできるだけ見たくない。それが女だからとかそんな理由は存在していない。ただ、紫苑が見たくない。
 だからもし歳三に要らないといわれても、要らないのは紫苑自身であって女ではないはずだ。だから、要らないものになんてならない。










 江戸牛込の道場は畳まれて久しいが、その奥屋敷は紫苑たちが発ったままにしてある。そこを雪は時折尋ねては勇の娘と己の息子を遊ばせたり紫苑の部屋に入り浸っては掃除をしたりしている。雪にとって親友の紫苑の部屋を彼女の義姉にあたるツネに掃除をさせたくはないし、紫苑もそうであろうと言う心積もりだった。
 その日も遊びに行くと近所の人や縁の人たちが集まっていた。歩くようになった息子を連れてその輪に入れば歓迎された。


「何々、どうしたんです?」

「京にいる勇たちから文が届いたんだ!お雪ちゃんにも、ほら」

「わ、ありがとうございます」


 文や小包を中心に人が集まっていて、長く病床に付いていた周斎老が手紙を読んでいた。雪は押し付けられた包みを開いて、中に入っていた綺麗なかんざしにぱぁと顔を輝かせた。包みに結ってあった文には紫苑の不器用な手で短くいつもありがとうと綴られていて、彼女の心が言葉が少ない分大きく感じられた。
 雪は紫苑にずっと待っていると言った。だからずっと待っているけれど、時々それがとても悲しくなるときがある。紫苑が変わってしまったのではないかと不安になり、待っていても帰ってこないのではないかと泣きたくなった。安否の分からないところにいるのはきっと誰だって同じなのだ。けれどここの人たちは皆その不安は口には出さず、ただ彼らが無事に生きていると信じている。


「見て、お母さんに似合う?」


 かんざしを挿して子供に意見を聞けば、息子は笑って手を伸ばしてきた。今日の上物だろうから高いだろう。これを旦那に見せたら腰を抜かすだろうか。その様すら想像だけで面白くて、雪は笑って息子を膝の上に抱いた。
 贈られてきた品々は勇の手紙だけではなく少量の金や向こうで買ったと思われる物品や歳三の手紙も入っていた。誰かがそれを読み上げて、素っ頓狂な声を上げている。


「『報告の心を忘るる夫人かな』だとよ!」

「え、なんですか?」

「歳三の自慢話だよ、あの野郎。向こうの女は綺麗なんだろうなぁ」


 その手紙に同梱されていた包みを開けると、たくさんの文が出てきた。誰かが一つ開いて読み上げると、それは女から贈られた文である。皆が騒いでいるのを聞いて、雪は唇を噛んで胸の中に生まれた理不尽な怒りをやり過ごそうとした。けれどどうすることもできずに息子の手を取ると、紫苑の部屋に向かった。
 紫苑の部屋の襖を閉めて、そして雪は崩れた。堪えようとしていた涙が零れて止まらない。震える肩を自分で抱いて声を押し殺したが、本当に消えているかは分からなかった。ただ息子が背を撫でてくれたのは分かった。


「ひどい……」


 こんなものを送りつけてくる歳三が雪には分からない。紫苑がどんな気持ちで着いていき、どんな覚悟で戻ったかも知っているつもりだ。雪には紫苑の考えていることが全て分かるわけではないし、もしかしたら何も分かっていないのかもしれないが、それでも紫苑が傷つかないわけがないことを知っている。紫苑は強いけれど、いつまでも一人で立てるのではないはずだから。だから、これ見よがしに女と遊ぶ歳三の行動が信じられなかった。
 どれほど紫苑が傷ついているか、きっと雪にしか分からない。





−続−

ラブレター事件は本当は半年くらい前の話です。