平助の額の傷も塞がり、気温も高くなってきた。しかし総司の体調は未だ完治せず微熱が続いている。半月ほど前から長州が兵を率いて上京しているという話が流れてきたが、町には入れずに京の内部では緊迫しつつもなんら変わりのない生活が繰り広げられていた。
 全軍撤退の命令が出ていたにも拘らず半ば強引に戦いの幕が上げられたのは、七月十八日のことだった。新撰組は九条河原への出陣の命が出、それが全隊士に伝わったのは半刻以内のことだった。すぐさま幹部が召集され、一同は地図を囲って介した。


「九条河原へ陣を敷く。まず総司、お前は残れ」


 総司が未だ微熱が引かずに咳も止まらないことには歳三も気づいている。それでも誰よりも早く戦支度を整えた総司を歳三だって連れて行きたいと思った。けれど、仄かに赤く上気した頬がそれをやめさせる。総司の後ろに黙って立っている紫苑に眼を向けてみても彼女は俯くように目を逸らされた。彼女の視線が己の腕に咲き誇る花を見ているのはすぐに分かる。


「えー、何で!?」

「体調、悪いんだろうが」

「僕は大丈夫だよ!僕ばっかり仲間はずれにしないでよ!」


 ねぇ、紫苑姉ぇ。そう言うように声を荒げて上を仰いだ総司を歳三は黙殺して他の布陣を割り当てることに専念し始めた。ぶつぶつ文句を言っている総司を小声で紫苑が乱暴な口調ながら諭すように体調のことを言うのを端目に見留めながら歳三は淡々とした口調で割り当てていく。紫苑が総司の頭を殴ったのが見えた。
 総司の病が長引いていることに懸念がないわけではない。紫苑もいつもと変わらない言動を見せているけれど心の内では不安でしょうがないはずだ。いつも総司の近くにいるからこそ、理屈ではなく肌で感じているはずだった。それでも、彼女は強く立っている。


「一番組は紫苑、お前が指揮しろ」

「私?」

「総司がここを守ってくれるんでな。もうお前を女だからと従わない者はいねぇだろ」


 歳三が最後に口にした言葉に、紫苑は総司の頭を叩いた体勢のまま顔を上げた。意外そうな顔をしているが、特に奇抜な事を言った訳ではない。多摩にいたころは彼女が近所の青年たちを従えて地元を闊歩していたのだから、統率力はあるはずだ。それに、彼女を総司の隊に所属させたのは総司の目付けもそうだが彼が何らかの理由で先頭に立てなくなった場合、紫苑に任せられるからだ。
 頭を撫でて睨みつける総司の頭をもう一度殴り、紫苑は今までの話をちゃんと聞いていたのか今この場所だけ聞いていたのか分からないけれど口の端を引き上げて笑った。


「従わなかったら?」

「斬っても構わん」


 冷えた声音でそう口にしたけれど、歳三自身彼女に従わない隊士がいるとは思っていなかった。普段の見廻りで紫苑と市街を歩く者も多く、その隊士らは一度でも彼女が刀を抜いた姿を見ると二度と文句を言わなくなっている。だから大丈夫だろうと踏みつつも念のために確認する。
 紫苑は楽しそうに笑って、総司の肩に手を置くと留守番頼むな、と本当に楽しげに言った。不満そうに顔を歪めた総司にこれから戦地へ赴く男たちに掛ける言葉があるわけもなく、集まった山南だけが苦笑を浮かべて総司を見た。


「沖田君、屯所の守護も大事な仕事だよ。一緒に頑張ろう」

「……はぁい」

「山南さん、総司のことよろしく」


 風邪で体調の悪い山南も今日は屯所の守護につく。この場にいる唯一の留守番役に総司も頬を膨らませるだけで何も言えなくなり、黙って頷いた。それを持って会議が終わると、全員で脇に置いた刀を引っ掴んで九条河原へと隊列を組んで向かった。










 九条河原へ布陣を終えたが、いつまでも出陣の命は出なかった。いつしか真上にあったはずの太陽は落ち、代わりに月が輝いていた。皮肉なくらい太陽に似たまん丸の月が、薄い藍色の空に静かに佇んでいる。それは本当にここが戦場なのかと、疑いたくなるほどだった。


「……総司、大丈夫かな」

「大丈夫だろう。京の街中で無体な真似はすめぇ」

「そうじゃなくて。体のほう」


 あまりにも待機の時間が長すぎて隊士たちは各々好き勝手に集まって喋っている。隊士たちから少し離れて紫苑も歳三と隣り合わせて近くの手ごろな石に腰を下ろした。手が触れ合える距離なのに、お互いに決してその領を侵さない。一つ分離れた拳がぶつかることはない。
 月を見上げながら、紫苑はそっと呟いた。止まらない咳と続く微熱。総司がだるそうにしているのも知っている。それを常に一番近くで見ている紫苑だから、強がっていようとも不安に陥る。特に、己の命すらも危機に感じているこの瞬間には。


「医者は、なんだって」

「労咳かもしれないって」

「労咳……」


 総司が見回りの隙に紫苑が医者に行って確かめたところ、労咳の可能性が高いと言われた。けれどきっと総司は医者に血を吐いたことを伝えていないだろう。それはきっと今になっては紫苑にしか知らないこと。だから紫苑の中で、総司が労咳だというのは事実になり始めていた。
 昔から一緒にいて、勇が兄ならば総司は弟だった。無邪気な笑顔で紫苑姉ぇと呼んで、何も考えずに紫苑のあとをついてくる。それは今も変わらず、彼にとっては倒幕も左幕も関係ない。ただ紫苑が底を見ているから、それしかない。昔は紫苑のほうが総司よりも強かった。いつから総司に勝てなくなったのだろう。そう考えても、紫苑はもう思い当たることができない。それほどに剣が好きで天賦の才すら持ち剣術に愛された総司が、なぜそんな目に遭わなければならないのか。


「なんで、総司が……」

「……紫苑……」


 空を見上げていたはずなのに紫苑の視界はじわりと滲み、月の輪郭がぼやけた。ツンと鼻の奥が痛んで、思わず紫苑は奥歯を噛み締めた。いつから泣くことが苦手になったかは分からない。けれど、どうしても彼の前で泣くことは許されないと思った。涙が零れたが最後、今まで必死に歯を食いしばって立ち続けていたそれが足元から崩れるような、そんな気がする。
 それでも総司のことを思うと、そんな場合じゃないと知りつつも嗚咽が漏れそうだった。誇るように光る月から顔を逸らして必死に逃げることを許さないように奥歯を噛み締める。拳が震えるのは、止められなかった。


「紫苑」


 歳三の優しい声が聞こえたと思ったら、生ぬるい外気に晒されていたにも拘らず冷たい手があたたかい温もりで包まれた。目で確認しなくてもそれが歳三のものだと分かり、それだけで心が凪いでいくのが分かった。手から伝わってくる温もりを拒絶することなく、紫苑はその中で拳を固める。それでも泣くもんかと噛み締めた奥歯が肉を噛み潰したのか、口内に血の味が広がる。ただ何も言わずに紫苑は再び月を見上げ、挑むように夜の支配者をにらみつけた。










 夜が明けて尚九条河原が戦場になることはなかった。しかし御門の方面での戦闘は激しいらしく、昼前からけたたましい銃声と鬨の声が聞こえてくる。どれくらい歯噛みして待っていただろうか、会津藩の方から蛤御門への援護をするように下命されてそちらに向かった。しかし、新撰組が到着する頃には長州藩の撤退は始まっており戦闘の跡こそ激しいものの戦闘自体はほぼ終結を見せていた。


「くっそ、また無駄足かよ!?」

「もっと早く我々を呼ぶべきだったんですよ!」

「紫苑、平助、落ち着け」


 敗残兵すら残っていないような戦場へ辿りつき、真っ先に声を上げたのは紫苑だった。苛立たしげに舌を打ち鳴らし意味もなく近くの壁を蹴りつけている。それを見ていつもならば乗るはずの新八も左之助も、今日ばかりは表情を引き締めている。まだここが戦場であるからこその対応であるはずだが、最早戦後と言ってもいいような状況ではある。
 あたりをザッと見回した歳三は、腕を組みながら山崎と数言言葉を交わした後集まっている幹部の元まで歩いてきてぐるっとその顔を見回した。


「まだ敗残兵がいるかも知れねぇ。まず永倉・原田は公家屋敷を中心に落ちようとしている奴等を捕まえてくれ」

「おう」

「平助は局長と同行して藩邸へ向かってくれ。それから源さんと紫苑と斉藤は市中見廻り、残りのものは俺と共に敗残兵を追う」

「えー、源兄ぃと?」

「皆、頼んだぞ」


 紫苑の不満そうな顔を無視して歳三は全員の顔を見回すと、一つ頷いて踵を返した。一斉に皆言われた方面へ向かっていくのを一足遅れて、紫苑はにっこりと笑っている源三郎を見た。いつもならば総司が一緒にいるし、そうでなくても新八たちの誰かが一緒にいるのによりにもよって今日は一。あまり会話が弾まないのでいてもいなくても代わらないので、結局久しぶりに源三郎と二人きりのような状況だ。後ろめたいだけに、今の紫苑は遠慮したかった。


「行くぞ、紫苑」

「……はい」


 しぶしぶ返事をして、紫苑はゆっくりと踵を返して市中へ足を進めた。隣に並んだ源三郎と少しの距離を置いて、ゆっくりと歩く。そこかしこに銃弾の痕や刀傷が生々しく残っており、死骸も転がっている。その光景に目を眇めはしても目を逸らしはしなかった。


「紫苑」

「……なんでしょうか」

「別にもうとやかく言う気はないから、警戒するな」

「本当?」

「俺がお前に嘘ついたことあったか?」

「ない、けど」


 静かな声音で昔と同じように諭され、紫苑は若干言葉で疑ったが内心そんなに疑ってはいなかった。源三郎が嘘をついたことがないのは事実だったし、この場の雰囲気が嘘ではないと言っていた。後ろに従う隊士たちは紫苑の言う事を良く聞く奴等にいつの間にか育っており、各々が楽しそうに会話を繰り広げている。一番組の組風は総司によく似て、他組に比べて少々子供っぽい一面がある。


「じゃあ安心しろ。お前は最近の山南さんをどう思う?」

「どうって?」

「池田屋からこっち食欲もないようだし、歳三との言い争いも耐えない。どこか悪いんじゃあないか?」

「山南さん、ねぇ……」


 今の今まで紫苑の頭の中には総司のことしかなく、山南の様子がおかしいなどと考えても見なかった。ただ確かに歳三との言い争いも絶えず、もうその声を聞かない日のほうが珍しいくらいになっている。ただ紫苑にしてみれば彼らの喧嘩は子供の喧嘩だから、何も心配していないしお互いにそんなに子供じゃあないはずだ。お互いの口に上るのが本心でも悪意があるわけではないと分かっているから、だから喧嘩している。


「いいんだよ、あいつらは。分かってんだから」

「分かってる?」

「ちゃんと分かって、それで喧嘩してんだからほっときゃいいの。それより……」


 一旦会話を打ち切って、紫苑は眼を眇める。歩いて行けば行くほどに町が燃えている。どこも燻っているような状況だが半分ほどは焼失している家屋すらある。多分このまま行けばひどい火事のところもあるだろう。紫苑はざっと状況を確認すると、振り返ってやいやい雑談を交わす隊士に向かって鋭い声を向けた。


「お前ら!うだうだやってねぇで消火だ!」

「はい!」

「周平は屯所行って留守してる奴等引っ張り出して来い!ただし、平の奴等だけだぞ!」

「はい!」


 指示を全て飛ばし終わると、紫苑は腕で額の汗を拭った。もうもうと最も煙を上げる場所を目指して紫苑が浅黄色の羽織を翻して駆け出すと、意図に気づいた源三郎が紫苑の肩を掴みその足を止めた。たたらを踏んで文句を言おうと振り返った紫苑に、今までとは違う柔らかい笑みが彼の顔に浮かんだ。


「無茶はするなよ」

「今更」


 にかりと笑って、紫苑は文句も言わずに駆け出した。方々に散っていく浅黄の羽織りが戦禍でくすぶっている京の町から浮いて見える。ただその色が鮮やかで、紫苑は眼を細めて確かめるように己の腰の刀に触れた。

 あの手があれば、何も怖いものなどない。




−続−

一番組はみんなで鬼ごっことかするんだぜ、きっと