街中の消火が終わったのは日が暮れてからだった。街中を駆けずり回り顔を煤だらけにして屯所に戻った紫苑を出迎えたのは、歳三と山南の言い争う声。屯所に入った時には疲れ切った顔で新八たちが座り込んでいただけだったのだが、顔を洗うために手拭を部屋に取りに行った際に聞えてきた声に自然に眉間に皺が寄った。
 聞き耳を立てていたわけではないのに聞えてくる声に簡単に状況を把握しつつ部屋に入ると、布団の中で不機嫌な総司と目があった。


「……ただいま。何膨れてんだよ」

「べっつにぃ」

「戦闘なんかなかったからな。私なんて火消しの仕事してきたんだから」

「…………」


 どうせ戦闘に参加できなかったから拗ねているのだろうと思ったので、慰めをこめた真実を伝えたけれど総司からは何も返ってこなかった。明るい「なぁんだ」という言葉が返ってくるとばかり思っていた紫苑は、箪笥から手拭を取り出してから総司を見下ろした。けれど紫苑の視線を避けるように総司は布団に頭まで潜ってしまう。喉からでかかった言葉は、そこに引っかかって出てこない。


「全ての敵を殺してどうなるというんだ!?」


 襖の向こうから聞こえてきた山南の激昂した声に、喉に引っかかった言葉は霧散してしまった。思わずその場に腰を下ろし、黙って話に耳を傾ける。どうやら歳三たちは長州の敗残兵がどこへ落ちるか見当をつけたらしい。こちらにも負傷者がいたため一度引き上げて体勢を整えようと言う考えらしい。しかし山南はそれに反対らしい。


「逃げようが敵は敵だ。徹底的に潰さなけりゃ意味がねぇだろ」

「逃げた彼らは十分に幕府の恐ろしさを分かっている!」


 黙って聞いていた紫苑は、総司が布団からそっと顔を出したことに気付かなかった。
 確かに山南の言っていることも分かる。逃げた兵士はもう兵ではない。戦う意志のないものは見逃すべきだ。理解はできる。けれど、納得はできない。一度刀を抜いた以上、命を懸けると示した以上背を向けることは許されない。勝つための背ではなく命を繋ぐためだけに向けた背中にかける慈悲は持ち合わせていない。一度刀を抜いたら、周りに動くものがなくなるまで納めるべきではないと紫苑は妄信的に思っている。


「もう向かって来ねぇ保障にゃあならねぇな」

「しかし!」


 山南の声が飲み込むように切れたことで、紫苑の意識もそこから途切れた。ふっと冷たいものを感じて反射的に身構えながらそちらに視線を向けると、総司が布団の上で刀を抜いていた。
 隣の部屋では山崎が入って行った気配がする。何事だとそちらから聞えてくる「天王山に向かったと思われます」という声に逃げた奴等の目的を探りながら、総司をにらみつけた。彼が放っているのは殺気ではないけれど、刀からは禍禍しいほどの殺意が読み取れた。


「総司、何のつもりだ」


 隣の部屋から聞えてくる山崎の台詞は、頭に上手く染み込まない。それでもただ状況を把握するためだけに紫苑の耳はその音を拾っている。天王山に向かった兵士たちを率いたのは真木和泉。聞いた事があるその名から姿を連想することは、しかしできない。ただ情報だけが耳に流れ込んでいく。


「…………」

「総司」


 真木和泉はもともと長州の人間ではないが、長州に協力していた。しかしこうなっては長州とともに逃げ帰ることを良しとしせず、天王山にて潔く腹を切ろうと仲間を集めたらしい。真木和泉といえば討幕派でも名が通った男だ。これに腹を斬らせる手はないと、歳三が声を荒げる。


「…………」

「宗次郎」


 強張っていた総司の顔がじんわりと歪み、乾いた唇が割れて「総司だよ」と声は出ないまでも動いた。慣れた動きで刀を鞘に納めて、総司は刀を握ったまま俯いてきつく唇を噛んだ。肩が僅かに震えているような気がして、紫苑の方が泣きたくなった。
 刀に魅入られた若者はもしかしたらもう刀を握れないと気付いてしまったのかもしれないし、そうではないかもしれない。ただ総司の痛々しい姿に掛ける言葉を見つけられはしないけれど、紫苑は眼を逸らさずに総司の頭に手を乗せた。総司を守るのは自分だと、はっきりと誓ったのはいつだっただろう。


「大丈夫だ、私がいる」

「紫苑姉ぇ……」

「明日になったら元気になってる。また道場で構ってやるから、早く寝ろ」


 総司の頭をかき回して、紫苑は無理矢理に微笑を刷いた。それを見て総司の表情が安堵するように綻び、張り付いた刀から指を一本ずつ剥がすようにゆっくりと手を離す。総司が布団に入って寝入るのまで待って、紫苑はようやく顔を拭いに部屋を出た。どうしてかこみ上げてくる苦いものを、煤と一緒に洗い流そうとした。










 三日後、新撰組は隊士を選りすぐって天王山へと向かった。負傷した隊士は原則留守番を命じられたが、新八も左之助も鉄砲傷があるくせに隊士を引き連れて加わった。天王山への道は人の足跡が付けられていたし、点々と血痕も落ちている。気温が高いので武装も解き身軽ではあるが、それでも汗は滴ってくる。


「……静かですね」

「暑ぃ」

「沖田君は来なくて正解ですね」


 暑さのおかげで隊士たちの口数は格段に減っているが、それでも体力自慢の男たちはこのくらいでは答えないのかそこかしこで話し声は聞えた。しかし音がするのはここだけで、逃げたはずの長州勢の声は全く聞こえない。
 紫苑の隣にはいつもいるはずの総司ではなく、平助が並んでしきりに声を掛けてくる。総司の顔色が悪いから置いてきたけれど、正解だったようだ。ただ、紫苑はあの夜の総司の様子が気にかかった。


「でも沖田君、大丈夫でしょうか」

「……平助」

「はい!」

「暑い。何か芸しろ」

「ここでですか!?」

「おいおい紫苑、何いきなり無茶な振りしてんだよ」


 暑いのと総司が気にかかるのとで、紫苑も苛々していたのだろう。山の中だというのに汗を拭いながら平助に冷たく言い放った。周りで聞いていた左之助がつっこんできたけれど無視して、ついでに物まねをし始めた平助も無視して紫苑は眼を細めて先を見た。真っ青な空が気を挟んだ向こうに広がっている。その青に目を細めて、少し歩調を上げて歳三に追いついた。拳を口の中に入れようとしている平助は完全無視。


「何か聞えない?」

「……あぁ」

「上の方」


 天頂が見えてきたとき、低い重低音が聞えてきた。鳥の声とも木々のざわめきとも違うその音にはすぐに気付いたけれど、それが何を意味しているのか分からない。新撰組がきたことに気付いたのか、それとも何も気付かずに娯楽なのか。
 紫苑が声に出すと歳三も静かに頷き、先頭を歩く勇に声を掛けた。彼も分かっていたのだろう呼びかけを聞いてすぐに全軍を制止させる。振り返って隊士を見下ろし、ゆっくりと口を開いた。


「何があるか分からん。斥候に……紫苑」

「了解」

「一人じゃあ何だし、一も連れてくわ」

「あぁ。何かあったらすぐに戻って来い」


 何があるか分からないからと勇に念を押されて、紫苑は笑って頷いた。黙っていた一の腕を掴んで行ってくると笑みを残して、道ではなく雑木林の中に入った。極力音を立てないようにして山に登っていく。
 しばらく歩いた所で一の手を離すと、彼は足を止めずに紫苑を見つめた。けれど彼の口から言葉が出てくることはない。


「なぁんだよ」

「…………」

「ま、いいや。行くぞ」

「…………紫苑殿は」

「あによ」


 相変わらず一のためが長いだけで、紫苑が待つのをやめて視線を上に戻した時にようやく一が口を開いた。名前を呼ばれて、すぐに応じる。ちらりと一を見ると、何かを考えているんだかいないんだか分からないけれど、ぼんやりした顔が見えた。


「どうして紫苑殿は、私を選んだのでしょうか」

「お前が一番冷静で合理的だからだよ。……待て」


 不思議そうにきょとんとした顔は、子供のようだった。それに笑いかけて、紫苑は足を止めた。刹那後には鋭くなった視線が一人の人物を捕らえていた。金色の烏帽子に直垂を着たその堂々とした男があの声を出していたのだと動いている口から理解する。正直に、動けなかった。
 金縛りにあったように動かなかった足が動いたのは、彼の唄が終わって踵を返したときだった。動けるようになったのと同時に一は踵を返して山を下り始めたけれど、紫苑は四肢に力が入らずに立ち竦んでいた。堂々と芯の通った声はどこか哀愁を漂わせ、知らないうちに涙が浮かんだ。


「紫苑!」


 男が視界から消えても立ち竦んでいた紫苑がやっと反応したのは、歳三の叫び声だった。反射的にその方を向いたときには歳三が紫苑を突き飛ばすように飛び掛ってきた。覆い被さるように倒されて、その刹那に頭上に八方音が木霊する。彼の腕に守られたことに気付いたのは、音が止んでからだった。


「何ぼうっとしてやがんだ、馬鹿野郎!」

「ご、ごめ……」

「紫苑?お前、何泣いてるんだ」


 歳三の怒声に我に返って、慌てて涙を拭った。けれどそれに気付いた歳三が上に跨ったまま紫苑の手をとる。力任せに涙に濡れた顔を晒されて、抵抗するのではなく何故だか安堵した。ただ自分でも涙の理由が分からないから、首を横に振るしかできなかった。
 きっと、あの男の唄に自分たちの先を見たのかもしれない。それは総司のそれでもあり歳三のそれでもある。あの唄のように破滅へと向かうことはできても希望の唄ではないのだろう。悲しくないといえば嘘になるけれど、それ以上に純粋に、何かの琴線に触れて涙が零れた。


「紫苑、歳!」


 勇の号令で、歳三と紫苑は起き上がった。山頂へ駆け上がる隊士たちに少し遅れたけれど、もともと足が速い二人は山頂に着く頃には勇に追いついていた。そうして目の前に広がっていた光景に、息を飲むことになる。
 頂の木々に張り巡らされた幔幕が、赤く染まっていた。勢いのついた火はまるで火葬の邪魔をさせないかのように地面を舐めて人を寄り付けなかった。立ち上る煙は白く、紫苑はただぼんやりと其れを眺めることしかできなかった。この白い煙こそが人の魂で、清められて空へと昇っていくのではないかと、漠然と思った。掴もうと伸ばしたては、炎に阻まれて戻ってくる。


「……間に合わなかったな」

「ある意味、よかったのかもしんねぇぞ」


 空を舐めつくそうとする炎の勢いを見つめて、左之助がしみじみと呟いた。それに新八がぼそりと応じ、それ以降火が消えるまで誰も口を開こうとはしなかった。
 火が消えるころには火も落ち始めていた。とこどろこど燻っている中を捜索して、黒コゲになった死体を十七つ見つけることができた。その誰もが見事な切腹を果たしており、その中で直垂を着けた男の遺体を見つけた。それが真木和泉だと気付いたのは、勇だった。


「敵ながら見事な死に様だ。俺たちもこう死にたいもんだな、歳」

「……そうだな」


 遺体を運んでいくのを見ながら勇が呟いた言葉に、紫苑は奥歯を噛み締めた。どこかに浮かんでいるはずの真木の魂を探すように空を睨みあげると、既に月が昇り始めている。時勢と言うものに逆らえないのならば、潔く散っていくしかない。ただその時には、歳三を綺麗に死なしてやりたい。
 誰もが敵の死に言葉なく、悔恨と相手への賛辞を綯い交ぜにした気持ちで山を降りた。

 私がどうなろうとも彼のために死ねれば、それでいい。





−続−

総司と紫苑さんは同室です