天王山から戻ってこちら、紫苑は考え込んでいる時間が増えた。本人は自覚していないだろうけれど、周りから見ていればそれはよく分かる。特に夜になれば縁側で銚子を片手にいつまででもそこにいて空に浮かぶ月を眺めている。昼間も、仕事がなければ散歩と言ってふらりとどこかに出かけてしまう。誰もが彼女の変化に戸惑いながら、けれど言葉にはできないでいた。


「紫苑ちゃん。今日もお出かけかい?」
 
「……山南さん。うん、散歩」

「今日は僕も一緒していいかな」

「いい、けど……」


 秋になり高くなった空を見上げて歩いていた紫苑を山南は呼び止めた。彼も、最近室内に篭っていることが多くなった。その山南と一緒に行こうといわれ、紫苑は頷きながらも少し不審に思って誰も気づかない程度に目を眇めた。この場に総司がいれば気づいただろうけれど、あいにくと彼は今市中見廻りに出ている。


「紫苑ちゃん、最近考え込んでいることが増えたね」

「そうかな」

「うん。ずっと何を考えてるんだい?」


 特に目的のない散歩だから紫苑は周りの景色なんて見ていない。だからいつもは足の向くまま歩いていたけれど、今日は山南にあわせている。彼が行こうとする方があるのならばそれでいい。ただ、彼の質問は気になった。もしかしたら歳三に何か言われて来たのではないかと思うから、紫苑は少し彼を警戒した。
 問われて答えない紫苑に対して山南はしばらく答えを待っていたけれど、それでも返事がないと分かると一つ息を吐いて苦笑を浮かべた。


「僕は別に、土方君に何かを言われたわけじゃあないよ」

「……お見通しって訳」

「井上さんに頼まれたんだよ。紫苑ちゃんの様子がおかしいって」

「源兄ぃ……」

「確かに気になっていたし、僕もちょっと……悩んでいたからね」


 歩調を緩めたおかげで、鴨川のほとりを歩いていたことに気づくことができた。水面に水が反射してきらきらと輝いている。そろそろ冷たくなるだろうに川で遊んでいる子供たちの顔はみな楽しそうで、聞こえる喧騒もすべてが風の流れの中のように紫苑の周りを駆け巡った。この風景すべてを、紫苑は見ていなかった。


「心配かけてごめん」

「うん?悩むことも時には大事だからね」

「なんか、悩んでたの馬鹿みたい」

「え?」


 足を止めた紫苑に山南は不思議そうに数歩先で首をかしげて振り返ったけれど、その頃には紫苑は底が抜けたようにさっぱりとした顔をしていた。そうして、山南を追い越すように大またで歩き出す。慌てて山南は彼女の後を追った。
 どうやって死ぬとかその理由とか、そんな理屈は結局体に合わなかった。物事はもっと単純に昔から紫苑の中で図式化されている。時には強者と弱者であり時には敵と味方であった紫苑の世界は、結局自分中心に回っていかなければならない。だから結局落ち着くところは、紫苑がどうしたいかなのだ。


「鬼娘!」

「竜馬。まだ生きてたんだ」

「土佐の坂本竜馬!」

「山南さん、待った」


 遠くから声をかけて走ってくる男がいると思ったら、土佐藩の坂本竜馬だった。紫苑にとっては友人の坂本竜馬だけれど、新撰組にとってはお尋ね者の坂本竜馬である。彼に気づいた山南がまず刀に手をかけたけれど、紫苑はすっと手を出して彼を制す。竜馬もさりげなく手を柄にかけているけれど、紫苑だけが腰の刀を抜く気配もなくへらりと笑った。


「二人とももちっと気楽に行こうよ」

「紫苑ちゃん!?」

「サンナンさん、こいつは私の友人だ」

「しかし……」

「こいつは私の友人の洟垂れ竜馬。それだけだ」


 今にも斬りかからん勢いの山南に向かって鋭い声で柄から手を離させ、それを確認してから紫苑は笑って見せた。竜馬が面白そうにいいのかと訊いてくるけれど、構わない。今はあの浅黄色の羽織を着ているわけではないのだから。竜馬にその意思を伝えるために笑みを向けると、彼は山南よりも早く合点して体から力を抜いた。


「ちょうどええ時に会うた、鬼娘。ちくと飯でも食わんかい」

「いいけど……なんか裏あんな」

「さすが鬼娘じゃ」


 腹に手を当てて空腹を訴えてくる竜馬に紫苑は昔と変わらないと思わず吹き出した。隣でまだ複雑な顔をしている山南の背を叩き、近くの茶屋に入る。奥の座敷に入れてもらい適当に甘味と軽食を注文した。紫苑と山南が並び、その向かいに竜馬が人懐っこい笑顔で座っているけれどどうにも二人の雰囲気はよくなかった。


「ほんまにわしのこと斬らんでええんか?」

「そんなに斬ってほしければ仕事中にきな。生憎今はあの羽織を着てない」

「そっちの御仁にゃ睨まれちゅうがぜよ」

「……山南さんも」


 もしかしたらこれが男と女の大きな違いなのかもしれないと、忘れようとしていた疑問がわいた。紫苑はただ歳三のためにだけについてきた。それ以外に考えられず、天下国家なんてどうでもよかった。けれど男たちは違う。本気で天下国家を憂いている。彼らの視界に広がるのが世界だとしたら、その背を追いかける紫苑が見れるのはたった一人の男の背中だけなのではないか。そのときに、自分の存在というものの胸を蝕まれるような思いをする。


「そうじゃ鬼娘、知っちゅうがか?」

「何?」

「桂さん、生きちゅうぜよ」

「あいつ生きてんだ」

「女の機転で危機一髪。今はその女に匿われちゅうとか乞食やっちゅうとか」

「へぇ。お前、そんなこと私に言っていい訳?すぐ捕まえちゃうけど」

「今はただの鬼娘、なんじゃろ」

「分かってんじゃん」


 ためしに捕まえると口にしてみるけれど、竜馬は泰然と笑う。彼を見ていると好きに生きなければ人生損しているように思えてしまうから不思議だ。
 運ばれてきた料理に手をつけながらしばらくは食事のために黙っていたけれど、一段落着くころになって紫苑は竜馬なら答えを知っているんじゃあないかと思って戯れ程度のつもりで言葉にしてみた。


「女も、綺麗に死ねるかな」

「なんじゃ、鬼娘らしくないがぜよ。男も女も関係ないに決まっちゅう」


 ここ何日もずっと考えていたことにはっきりとした答えが欲しかった。けれど事情を知っている人から聞く言葉は白々しく響いてしまうから、全く何も知らない人からの意見が欲しかった、そうして、竜馬は紫苑が欲しかった言葉をくれた。全く何も知らない人間の言葉というのは強いのだと、実感できる。


「あんがと」

「礼を言うのはこっちじゃ。飯食わしてもらっちょるんじゃから」

「じゃ、借り貸しなしだな」


 竜馬には意味が分からないだろうけれど、紫苑的には全部チャラだ。何となくすっきりして、指で誓った花を撫でる。この花が咲き誇っている限り自分は立っていられる、大丈夫だ。










 池田屋事件と蛤御門の変が立て続けに怒り、新撰組の名は京だけに留まらず天下に鳴り響いた。隊士たちは気をよくして島原に毎晩のように遊びに行っては湯水のごとく金を使ってくる。報奨金も女遊びに消えているのだろう。そんなものに興味がなく、ただ酒だけを飲みに行く紫苑はそう金も減らず時間を持て余しがちになる。そういうときには、いい暇つぶしのものがある。
 紫苑はそっと歳三の部屋に忍び込むと、天袋に隠してある一冊の冊子を取り出して縁側に出た。月明かりの下でぱらぱらと捲っていると、風が冷たくなったような気がした。


「紫苑姉ぇ、何見てるの?」

「豊玉発句集」

「えー。歳兄ぃに怒られるよ」


 後ろから覗き込んできた総司は、怒られるといいながらも紫苑の隣に座って句集を覗く。歳三が書き溜めたこの発句集の存在はおそらく紫苑と総司しか知らないだろう。歳三もまさか見られているとは気づいていない。暇なときの紫苑の娯楽の一つだ。それは江戸にいたときから変わらない。


「……紫苑姉ぇ、足音」

「いやいや、ばれないって」


 ぱらぱらと句集を捲っていると、不意に総司が目を眇めた。注意してと促してくるけれど、紫苑は別にばれてもいいので気にせずに項を繰る。相変わらずに女のような細く神経質な文字で下手糞な句が連ねてある。字だけなら歳三の方が女らしいかもしれない。
 刹那、後ろから殺気を感じて紫苑は振り返った。


「紫苑、お前何見てんだ……?」

「豊玉発句集」

「おまっ……それ、どこから出した!?」

「天袋。な、総司。気づいてなかったろ」

「さすが紫苑姉ぇ!」

「総司、感心してんじゃねぇ!返せ紫苑!!」


 後ろでは顔を引きつらせて怒っている歳三が仁王立ちしている。今までも何度かあったけれど、その都度紫苑が勝って疲れたころに句集を返していた。今日も歳三が紫苑から奪うために腕を伸ばしたけれど、紫苑が先に彼の腕の軌道上から逃がした。そうしてひらりと交わし立ち上がる。


「紫苑!」

「そんなに怒んなよ。今更だろ」

「そういう問題じゃあねぇ!」


 逃げる体制万全で歳三に向き合う紫苑と威嚇する歳三を見比べて、総司は目を瞬かせた。歳三が取り返すべく腕を伸ばすけれどそれを見事に避ける紫苑を一番見ているのは総司だ。だからなんだか江戸にいるころのように見えた。結局最後には紫苑が手加減して歳三に返すのもそのままだ。
 句集が歳三の元に戻って、やっと二人は並んで座った。


「ったく、油断も隙もねぇな」

「本当は見て欲しいくせに」

「な訳あるか。……って総司、なに笑ってやがるんだ」

「ん?何か前みたいだなって思って」


 最近の歳三は眉間に皺を寄せてばかりだし紫苑は何か考えていることが多かったから、と笑った総司に、紫苑と歳三は思わず顔を見合わせた。お互いにそんな自覚が全くなかったからかもしれないけれど、総司に指摘されるなんてなんだか癪だ。だから、紫苑は総司を抱きしめてくすぐった。


「生意気なんだよ、宗次郎」

「総司だよ!」


 げらげら笑う総司を昔と同じに抱きしめるけれど、総司は咳が止まらないのか小さく咳き込んでいる。それだけが変わってしまったことのようだったけれど、きっとすべてにおいて変化が起こっているのだろう。紫苑は咳き込む総司をくすぐるのではなく背を撫で、歳三に水を取りに言ってもらった。背を撫でながら、紫苑はそっと総司を抱きしめた。

 留まることもできないのなら、同じ破滅の道を歩む覚悟を。





−続−

発句集はボケアイテム