勇が深雪太夫を身請けした家に紫苑は特に用事があったわけではないが頻繁に足を運んだ。新八も平助も、勇さえも江戸に隊士を募集に行ってしまいこの家が深雪だけでは心もとないからと自分に言い訳をしているけれど、本当は屯所にい辛かった。
鬼のいぬまを狙うならば鬼の副長が不在のときを狙えばいいものを、『局長』がいないという事実が隊士達の士気を緩めたのか隊内で男色が流行している。どいつもこいつもが色目を使いあっている中は気色悪くて身を置く気がしない。
けれど、総司が泣きそうな顔で歳兄ぃが怒ってる、なんていうものだから紫苑は嫌々ながら屯所に戻った。
「……妙なもんだな」
「何が?」
「普通、隊内に女がいれば男色の前にお前がまず狙われるだろう」
「それは紫苑姉ぇが女に見られてないからじゃないの」
屯所に戻り、縁側ではなく歳三の部屋でごろごろしながら昔のようにくだらない話をした。
以前から目立たないけれどそういうことを好むものがいないわけではなかった。けれどそれは個人の趣味であり、目をつぶってきた。けれど今回は大流行で、外に女を囲うことができない平隊士たちの本能がそちらに向かっているものしょうがないのかもしれないがそれで刃傷沙汰はやりきれない。ついさっき、痴情の縺れで隊士が法度を破って私闘を行い切腹したばかりだった。
「でもこのままだったら痴情の縺れで新撰組崩壊しそうだね」
「……不吉なことを言うんじゃねぇよ」
「でも歳兄ぃ、紫苑姉ぇが狙われなくて安心してるでしょ」
「まぁな。そもそも紫苑襲ったらそいつの命が危ねぇだろうが」
「うわ、ひでぇ」
自分の惚れた女に対する言い草かと紫苑は顔を歪めるけれど、それ以上は何も言わずに買ってきた団子の串に手を伸ばした。確かに、隊内にいる女が紫苑一人である以上、通常ならばまず誰か一人は紫苑を手篭めにしようと考えるはずである。それなのに紫苑はかなり平和に日々を過ごしている。
確かにな、と思いはするけれど平和ならそれに越したことはないし実害がないのはいいことだ。そう思って紫苑は特に返事をしなかったのだが、机に向かって筆を握っていた歳三が急に振り返って真剣な眼差しで紫苑を見つめた。
「紫苑」
「ん?」
「本当に何もなかったな?」
「ない。総司が抱きついてくるくらいで、総司だって知ってるもんな」
「うん。何もない」
「そうか」
あからさまに安心した歳三の表情に紫苑の方が表情を険しくする。そんなに信用ならないのかと思う一方でまだ自分を女扱いしている歳三の姿が垣間見えたことが酷く気に入らなかった。けれど確かにあの日、歳三は女の紫苑を護ると約束してくれた。それを一瞬遅れて思い出して、眉間の皺が緩んだ。
「何変な顔してんだ。別にお前ぇが不細工と言ってるわけじゃあねぇ」
「別にしてない」
「そうそう。紫苑姉ぇはみんなから女に見られてないだけだよ」
ふっと表情を緩めて歳三が笑うから、紫苑はなんだかばつが悪くなって団子を頬張った。不細工とかそういうことを気にしているわけじゃあないけれど、歳三に言われると妙に腹が立った。けれどそれに続いた総司の言葉には逆に目が点になる。意識して欲しいわけじゃあないけれど、それもそれで複雑だ。けれどその原因も紫苑にあるのは分かりきっている。江戸にいたころも、紫苑は舎弟が多かったから。
「道場で紫苑姉ぇって負けなしでしょ。だからみんな、紫苑姉ぇのこと女っていうか兄貴みたいな目で見てるよ」
「またか」
「いいじゃんいいじゃん、私が認められてるってことだろ」
「お前は……。いや、いい」
何か言いかけた歳三が、なんでもないと再び机に向き直った。団子のなくなった串を銜えて、紫苑はほんの少しだけ目を眇める。言いかけたことを途中でやめられるととても気になると昔から言っているのに直らない。言おうが言うまいが紫苑には彼が何を言おうとしたかなんて丸分かりなんだけれど。どうせ、お前はいいかもしれないが俺はよくない、だ。鼻で笑い飛ばされると思ってやめたのだろうから、お互い様か。
「なんだよ、気になるじゃん」
ただ時間を持て余して暇だから、紫苑は串を皿の上に置くと歳三の背中から圧し掛かるように体重を預けて彼の手元を覗き込んだ。思ったとおり彼は仕事をしているわけではなく細い女のような字で句作をしている。江戸で隊士募集をしてる傍ら京でもまた隊士を集め始めているけれどそれ以外対してやることがないのが事実で、たまの休日を楽しんでいるようだった。だから、昔に帰れる。
「紫苑!」
「精が出ますなぁ、豊玉センセイ?」
「テメェなぁ!」
つまらないのでからかったら、本気で切れられた。もともと歳三が俳句のことでからかわれるのが嫌いだと知っていたけれど、彼とこの他愛ない掛け合いが酷く好きだった。怒って腕を引っ張って、そのまま畳に押し付けられてじゃれあうのが酷く好きだった。けれど今は、そこまで。それ以上は決して進まないことをお互いに理解している。
こんなじゃれあいをしているとき、廊下の外を誰かが話しながら通った。気が抜けているのか副長の部屋の前だというのに声がだだ漏れだった。
「男もいいけどやっぱ女だよなぁ」
「女って紫苑さん?あの人はやめとけって」
「あの人は女って感じじゃねぇよ。なんつーか、姐さん?むしろ兄貴!みたいな」
「だよな。いい女なんだけど、中身がなぁ」
「そうそう!」
「ところで知ってるか?八番組の小倉、可愛いぞ」
わいわい騒いでいる隊士を歳三が怒鳴りつけるかと思ったら、彼の肩から力が抜けただけで大きな溜息を吐き出して何も言わなかった。紫苑にとっても歳三にとっても好都合で求めていた隊士たちの反応だったのだけれど、こう落ち込まれたら困る。総司だけがもう話題に飽きたように団子を食べていた。
「そういえばさ、平助が大物釣り上げたみたいなこと言ってたけど」
「あぁ。隊士募集で大物が参加してくれるらしい」
「誰?」
「北辰一刀流の伊東だ」
「誰?」
「もしかして伊東大蔵?」
「だから誰」
歳三も総司も分かっている中、紫苑だけがその男の素性を知らずに首を捻った。江戸の三大道場の男なら大抵紫苑は竹刀を交えたことがあるから見知っている。坂本竜馬も桂小太郎もそのときからの友人だ。けれどその伊東という男は覚えのない名だ。正直にそう言って話題の男の素性を問いかけているのに、返ってきたのは呆れたような顔と溜息だった。
「紫苑姉ぇ……」
「なんだよ」
「会ったことあるだろうが。いけ好かねぇとは言っていたが」
「いけ好かない男なんて多すぎてわかんない」
「前に試合しに来た人だよ。紫苑姉ぇに気があるみたいだった人」
「だから見てみないとわかんないって」
「全然覚えてねぇのかよ」
「喧嘩するのに必要な情報じゃなきゃ覚えてないって」
総司が懸命に説明しようとするけれど、まったく記憶の中にはないようだった。そもそも紫苑は覚えようと思わなければ覚えない。桂だって覚えるのに半年かかった。たとえば好敵手になりそうな奴だとか結構喧嘩が強い敵だとか、そういうのしか覚えようとしない。
来たら分かる、と歳三は言って諦めたのか筆をおいて立ち上がった。どこに行くのなどと野暮なことは訊かないけれど、総司と二人でいつまでもだらだらしていた。
江戸募集に出ていた彼らが戻ってきたのは十一月に入ってからだった。平助はまだ募集を続けるので江戸に留まっている。新入隊士をみるという理由も兼ねて宴会を行った。その席で伊東という男は己の名を甲子太郎と改めた。新八たちはその人物に対して妙な顔をしていたけれど、紫苑はやはり分からなくて一人で首を傾げていた。
「紫苑、まだ分かんねぇのかよ」
「全然分からない。でも左之が腹芸したら思い出すかも」
「よーし、やったらぁ!」
十八番の宴会芸を披露させて、紫苑は杯を口に運んだ。こくんと軽く呑み干して手酌で酒を注ぐ。顔を見ても思い出せないなと軽い気持ちで思いながら左之助の腹芸に笑った。
しばらくいつものように騒いでいたら、伊東が近づいてきていた。ただの隊士に何の用だと紫苑が背後に両腕をついて背を逸らせるようにしてそちらを仰ぎ見ると、伊東がにっこりと笑って立っていた。涼しい目元の優男といった印象ではあるけれど、なんだか気色の悪い目をしていると紫苑は思った。
「橘紫苑殿。お久しぶりです」
「……どーも」
「おや、お分かりになりませんか?伊東大蔵といえば、あるいは」
知らないことを隠しもせずに適当な返事をしたら、伊藤のほうが気を使って改名する前の名を口にした。けれど言われようともわからない。どこかで見たことのある顔だなと思うようになっただけ進歩だと思ってほしいくらいだ。周りではそれが分かっているからか笑っているが、伊東一人だけ表情が固い。
「お分かりになりませんか。どうやら貴女の頭には今も昔も土方君しかいないようですね」
「……はい?」
「貴女は隊士だと聞いておりましたが、色隊士ということでしょうかね」
おそらくは紫苑が名を思い出さなかったことが原因なのだろう。けれどほろ酔い状態ということもあるしもともとも紫苑の性格も手伝って簡単に頭の中でプチンと何かが切れた音がした。周りからは宥める声と手が伸びてきたがそれを無視して、乱暴に立ち上がって男の胸倉に手を伸ばす。
「紫苑!?」
「紫苑!」
やめとけと言ったのは、新八。急な雰囲気の変化に驚いた声を上げたのは勇。殴りかかりそうな紫苑を止めたのは、すごい力で両腕を掴んだ島田と歳三の鋭く名前を呼ぶ声だった。びくりと固まった紫苑の身体を島田がこれ以上暴れられないようにしっかりと拘束する。けれど拘束には気づかずに、ただ歳三の方を見ていた。助けを求めていたわけじゃあないのに、きっと泣きそうな顔をしている。
「言いたい奴には言わせておけ」
「…………」
「お前が気にすることじゃあない」
「……ちっ」
静かに言い紫煙を燻らせる歳三から視線を逸らし、紫苑は舌を打ち鳴らすと島田の拘束を振り払って座にドカッと腰を下ろした。気にしすぎなのかもしれないけれど、やはりこの手の発言は紫苑の中で爆弾になっている。最近ではそう言われることもなくなってきていたから、大勢が薄れたのかもしれない。
ここにきて、自分はやっと正しい評価を得られるようになったと思っていたのは、あながち幻想じゃあない。
「紫苑姉ぇ、気短すぎ」
「相変わらずだなぁ、お前。ま、呑め呑め」
「うるっせぇ」
酒を呑みつつ、やっとあの男が何者か分かった。昔いけ好かないと思った男はやはりいけ好かないで、嫌な表情を浮かべている。極力係わり合いになりたくはないと思いながら呑んでいたからか、悪酔いしてそんなに量を呑んでいないのに気分が悪くなった。
この加入によって隊の編成も少し変わった。伊藤が参謀になったと知ったときは、歳三の頭をも疑ったけれど、彼のやることに口を出す気はない。だから、紫苑は夜にあの縁側で離れて座る彼に少しだけ文句を言った。
せっかくここに、居場所ができたのだから。
−続−
そんなに嫌いか伊東が