江戸で隊士募集を続けていた平助が京に戻ったのは、勇たちが戻ってから半月が過ぎた後のことだった。そろそろ新規加入した隊士たちも新撰組に慣れている頃ではないだろうか、と考えながら平助は屯所に戻ってまず歳三に報告に言った。延長してもなかなか隊士が集まらなかったことと伊藤の様子を窺うためだったが、報告を始めてすぐに気になったのは道場から声が聞こえてこないことだった。いつもならば男たちの激しい声が聞こえてくるのに。
「道場の方、静かですね」
「あぁ。今、紫苑と総司が稽古をつけてるはずだからな」
「それで……。それじゃあ私も久しぶりに手合わせしてもらいに行きます」
「ご苦労だったな」
報告も終わって平助がそう言って腰を浮かすと、歳三が何か言いたそうに平助を見た。何事だろうかと片膝を立てた状態で待っても彼は何も言わずにただ労いの言葉を口にしただけだった。彼が何を言いたかったのかまったく見当がつかないので、そのまま平助は退室した。
もしも総司だったら、彼が言わんとしたことが分かっただろうか。紫苑だったら分かったかもしれない。ならば左之助ならば、新八ならば。彼らはわかっただろうか。所詮平助は彼らの仲間ではない。試衛館組、幹部だと言われていたところで流派は違う。途中から転がり込んだようなものだ。だから総司は彼らにとっても特別なんだ。それは知っている。
「平助!帰って来たのか」
「左之さん。こんなとこで何してんだよ」
「見廻りの帰りだ」
「ご苦労さん。左之さんさ……」
「何だ?」
「いや、やっぱいい」
左之助ならば、このやりきれない気持ちが分かるだろうか。彼も純粋に試衛館組じゃあない。けれど訊いてからすぐにそれは子供の理論だと思い直して言葉を紡ぐことをやめる。単純な構図で仲間意識をしたところで何の意味がある。ここは新撰組という組織なのに。ここにいるのは、みんな仲間だというのに。
不思議そうな顔をする左之助に背を向けて、平助は胴着に着替えると竹刀を持って道場へ向かう。短い道筋で考えるのは、仲間から離れて江戸で一人で延々と考えていたこと。自分は、どこに行きたいのだろう。
「藤堂君。ずいぶん遅いご帰還だったね」
「加納さん。こんな入り口で……」
道場のすぐ入り口で声をかけられてそちらを向けば、伊藤と一緒に入隊した加納鷲尾だった。彼らとは剣術修行時代から交友があったので平助が新撰組に誘った。けれど、道場の中を覗き込んで紫苑と総司が対峙しているのを見たら誘うんじゃあなかったという思いの方が強くなった。自分の居場所を、削り取られているような気がする。自分がいけないというのは、わかっているのに。
紫苑と総司が立会いをしていると、妙な空気が流れる。道場が静まり返り、殺気が漲って呼吸すらしづらい。そして平助は、そのたびに自分が彼に敵わないのだと強制的に自覚を促された。
「橘さんと沖田君の立会いはすごい迫力だね」
「そうですね」
「橘さんはただの色隊士だと思っていたけれど、こんなに使えるんだね」
「はい?」
「唯一の女性隊士だなんて、そう思うだろう?」
「紫苑さんはそんな人じゃあありません!」
加納の言葉で、カッとして頭まで沸騰したように熱くなった。その原因は分からないけれど、彼女がそういう風に思われているのは不快だった。声を荒げてから加納の驚いた顔を見て後悔しても遅い。ばつが悪くなって道場の中に一礼して入ると、既にそこは戦場だった。
紫苑と総司の刀が特有の金属音を立ててぶつかる。新撰組では稽古で真剣を使う。もちろん切れないように刃は潰してあるけれど当たればそれなりに痛い。それを隊士たちは恐れも怯えもなく振り回している。それが仕事だからだ。一際高い音がしたと思ったら、紫苑の刀が総司のそれを跳ね上げてそのまま首元に刃を突きつけた。
「紫苑姉ぇ、怖い!」
「あ、平助。おかえり」
「無視しないでよ!」
彼女の雰囲気は確かに今日恐ろしかった。けれどそれは道場にいたからだと平助は理解していた。しかし総司はそうではないらしく、怖いと抗議している。けれど紫苑は取り合わず、平助を見つけると刀を下ろして軽く手を振った。頭を下げて、こちらに向かって歩いてくる紫苑を待つ。彼女の迫力に呑まれてか、まだ隊士たちに声はない。
「いつ帰ってきたの?」
「今さっきです。土方さんに報告してからすぐにこっちに」
「へぇ……」
平助がそういった刹那、紫苑の顔色が変わった。不満気に唇を歪め、放つ雰囲気も幾分か重いものになっている。その意味を尋ねていいものか考えながら彼女の視線を追えばその先には加納の姿があり、彼は何か含みのある笑みを浮かべたもののすぐに軽い会釈をするとそそくさと去っていってしまった。丸まったその後姿を見送って紫苑が舌を打ち鳴らして不機嫌な表情を作る。
「紫苑姉ぇ、殺気出しすぎ」
「うるせぇ」
「あの、紫苑さん?」
「出かける。言っといて」
何が彼女の機嫌を損ねたかは分からないけれど、紫苑はそう履き捨てて刀を平助に押し付けると荒い足取りで道場を出て行った。ぽかんとその後姿を見送った平助は、背後に新八がやってきているなんて気づいていなかった。初めから平助の目には紫苑しか映っていなかったのだからしょうがないのかもしれない。
だから、後ろから声をかけられてものすごくびっくりした。
「平助」
「えっ!?」
「いやいや、驚きすぎだろ」
新八が驚きすぎだというのは当然で、こんなことでは簡単に命はなくなってしまう。それを新撰組は許しはしない。
後ろ髪を引かれるような気分になりながら、平助は新八に手合わせを挑んだ。彼と刀を交えることで何かが見つかるんじゃあないかとそんな気がした。どんどんここに居場所がなくなっていくみたいで、怖くなった。
途中でばったりと山南に会い、紫苑は最近塞ぎこみがちの彼も誘ってまだ明るいうちから島原へと繰り出した。お互いに塞ぎこんでいるから丁度いいと酒を呑みながら馴染みの娘が来るまでの時間を静かに過ごす。新八たちといればそれなりに騒ぐ紫苑も、山南と一緒にいれば黙っていることの方が多い。彼も口数が多い方ではないので沈黙も痛くない。
「山南さん」
「なんだい」
「最近、口論しなくなったね」
「……そうかな」
伊藤が来てから、山南と歳三が言い争うことが激減した。それまでが多かったといえばそうかもしれないけれど、意見が正反対の彼らは江戸にいる頃から何かといえば口論を繰り返していた。時に子供のじゃれあいのようにすら見えたそれは、伊藤が入隊してからぱたりと止んだ。
彼らの入隊に際し、勇が勧誘した客分という立場上参謀という役職を設けた。そこに伊藤が入り隊内ででかい顔を始めたものだから紫苑はそれも気に入らない。なんだか自分の居場所が不安定になったような、そんな気がしていた。
「紫苑ちゃん」
「ん?」
名前を呼ばれて返事をしたけれど、彼は言葉を選んでいるのか長く沈黙した。その間に紫苑は手酌で杯に酒を汲み煽る。
歳三との口論が減ったのは伊藤のせいだとは知っている。彼が気後れしていることもそうだし、それを歳三は増徴させるような手ばかり打つ。紫苑にはその思惑は理解できたけれど、それは外から見ているからであって当事者には分からないだろう。それが見ていてもどかしい。
「なんでもないよ」
結局話を有耶無耶にすることにしたのか言葉が見つからなかったのか、山南は紫苑に伝えることをやめた。それが面白くないような酷く難しいことを諦められたような妙な気持ちになって紫苑は何も言わずに酒を煽った。
また妙な沈黙が生まれたとき、襖の向こうから女性の声が聞こえてそっと開いた。先ほど呼んでおいた娘が来たことに安堵し、紫苑はようやく強張った顔に笑みを浮かべた。彼女の視線の先には、千代雪の変わらない笑顔があった。
「紫苑はん、呼んでくれておおきに」
「千代雪、聞いてよぉ」
にこりと微笑んで寄ってきた千代雪を抱きしめて、紫苑はさっそく愚痴をこぼそうとした。けれどその前に一緒に入ってきた綺麗な女性に目を取られる。彼女は紫苑の視線に千代雪とは違う知的そうな笑みを浮かべると、軽く会釈をして山南の傍に寄っていった。それを目で追っていると、千代雪にパシッと手を叩かれる。振り向けば頬を膨らませた彼女がいた。
「うち以外を見んといておくれやす!」
「ごめんごめん、知的な美人さんだなと思って。山南さんの馴染みさん?」
「明里どす」
知的な美人は丁寧に頭を下げる。その所作の一つ一つが精練されていて、紫苑は思わず感心してしまった。千代雪はまだどこかに幼さが残っているし、その姉の深雪とも違う可愛さの欠片もない所作。けれど彼女からは気品を感じる。それは以前、お梅に感じたものに似ていた。
紫苑が明里を褒めるとそのたびに千代雪は頬を膨らませて紫苑に怒って見せた。それが可愛くて紫苑は彼女をからかっていたが、しまいには山南に怒られた。
「でね、聞いてよ千代雪」
「聞かへん。紫苑はんも明里はんにお話したらええ」
「そんなに怒んないでよ。千代雪の方が何倍も好きなんだから」
「……ほんま?」
「本当。こっちの方が私の好み」
「次浮気しよったら姉さんに言いつけますえ」
「しません」
紫苑は笑って酒を煽る。すぐに千代雪は空いた器に酒を注いだ。そうして紫苑の言葉を待つ。もう一口煽ってから、紫苑は杯を叩きつけるようにしておいた。そうして口から出てきたのは、ここに来れば毎回のように口にする伊藤への愚痴だった。
「伊東の野郎がさ、色目使ってくんの!」
「紫苑ちゃんにかい?」
「歳に!」
もともとこの話は千代雪にしたかったわけじゃあなくて山南にしたかった。紫苑なりに彼のことを考えてのことだったけれど、山南はなにか違うことを感じ取ったのかものすごく表情が引いていた。
伊東はよく歳三にちょっかいをかけに来た。初めは一緒にいる紫苑が目的かと歳三が警戒していたけれど、彼の目的は初めから歳三のようで紫苑のことを邪魔そうに見ていた。ただ紫苑はそれも作戦のような気がしてならない。新撰組に取り入るには歳三を落とせばなんなく堕ちる。言い換えれば紫苑が最も新撰組を手にするのがたやすいところにいるということだ。紫苑にその意思が欠片もないから誰も気づかなかっただけのことだ。
「だからさ、山南さん」
少し荒げた声を落として、紫苑は細く息を吐き出した。彼らは当事者で距離が近すぎて分かっていないのだ。本当はお互いに誰よりも信頼しているということを既に忘れきっている。歳三が本心をぶつけられるのは山南だけだし、それを彼もしっかり理解しているはずなのに、それが新撰組という魔物によって呑み込まれる。そんな危うさを感じた。
「歳は信じてるんだよ、山南さんのこと」
「え?」
「誰よりも総長のことを頼りにしてるし、その絆を信じてる。だから断ち切らないであげて」
慎重に紫苑は言葉を紡いだ。せめて昔のことを思い出してくれるといい。山南の方から歳三を断ち切るようなことをして欲しくない。彼は山南に言葉をぶつけて自分の正しさを計り、誤っても彼の言葉によって素直に修正する。今、漏れ聞こえてくる伊藤との会話にはそんな欠片は見られない。ただの言葉の駆け引きはきっと彼の心をも磨耗させている。今山南と言葉を交わさなくなったのも、自分たちの結束の強さを認めさせるためだろう。
紫苑が真っ直ぐにそう告げると、山南は薄く微笑んで酒を煽った。それで分かってくれたんだと紫苑は思った。
「紫苑ちゃんは本当に土方君思いだね」
「はい?」
「君の方が心配になってしまうよ」
「何で?」
「君は人のことばかりだから。少しは自分のことを心配して欲しいよ」
「私のことは源兄ぃが心配するからいいの」
「そうか」
薄く笑った山南の心中は読めない。ただ彼が心配してくれたことに笑ったけれど、なんだか上手く話をはぐらかされたような気がした。別に紫苑は誰かの心配をしているわけじゃあない。自分の居場所を護るために、新撰組に不変を求めているに過ぎない。まるで足元が薄氷を踏んでいるように危うい。伊藤の加入が何を変化させたか分からないけれど、何かは確実に変化している。
胸の中心にわだかまるものを消し飛ばすために浴びるように酒を呑み、紫苑は千代雪に介抱されながら眠った。夢の中で、紫苑は故郷の山を見た。
過去にしがみつくつもりはないけれど、それでも変わらないものもある。
−続−
紫苑さんて結構世話焼きだよねー