急に朝晩の冷え込みがきつくなったと思ったら、総司が熱を出すようになった。昼間に元気に動いていればその分だけ夜に出る熱は上がっている。十日ばかりそれが続いて、紫苑はやっと神妙な顔をして勇の部屋に向かった。夜なのに、人数が増えた分屯所の中は煩い。特に狭いから、男たちのだみ声は煩くて耳についた。
「かっちゃん、私。入るよ」
「紫苑?どうした」
隊士たちの前では局長を敬って近藤さんと他人行儀に呼んでいるけれど、人払いが済んでいれば昔のようにかっちゃんと呼ぶ。彼との関係を変えた覚えはないし、公私混同という意味でもそれでいいと思っていた。問題ならば勇なり歳三なりが文句を言っただろう。
襖を開けて部屋に入ると、勇だけかと思っていたけれど歳三がいた。男たちの間には碁盤が置いてある。鼻をつく紫煙の匂いに紫苑はまず顔を顰めた。目だけを向けてくる歳三の真意を探りながら、紫苑は二人の間に腰を下ろした。碁盤を三人で囲んだ形になるけれど、それがあらわすとおり紫苑は部外者だ。
「こんな時間に何か用か?」
「ちょっと、総司のことで」
あからさまに邪魔だという意思が伝わってくる言葉の向こうから、ギャハハハっと筒抜けに明るい笑い声が聞こえてきた。最近臥している隊士も多いというのに迷惑この上ない。紫苑が足を崩して座り直すと、歳三と勇が顔を見合わせた。すぐに勇の手が碁盤をどかし、三人の円座になる。まるで昔のようだ。紫苑の向かいには大人しく座っていない総司の場所だ。そこが今は、空いている。
「総司がどうした?」
「夜になると熱でるんだよね。もう十日続いてる」
「何だってもっと早く言わない!?」
「総司が言うなっつったんだよ。特にかっちゃんには」
「なぜだ!?」
「あんたが兄貴だからだよ」
声を荒げる勇に対して、紫苑は静かな声で返す。意味が分からないとでも言いたげに勇の視線が歳三に向かって泳ぐが、彼が答えを持っているわけではない。でも紫苑にも総司の気持ちは分かるつもりだ。勇が兄で、紫苑が姉。そう思って育ってきた総司は勇に対して降伏しているし好いている。だから心配をかけたくないし変な負い目を感じたくもない。昔紫苑が思っていたことと寸分たがわないことを総司だって考えているのだろう。
視線をもらって、歳三が細く紫煙を吐き出す。そして、「紫苑に任せておけ」と吐き出した。総司の隊長が思わしくないので、最近は紫苑が一番組を率いて見廻りに出ている。総司の代わりは立派に務めているつもりだ。
「それにしても、うるせぇな」
「大所帯になったからな」
また一つ耳障りな笑い声が響いた。耳に馴染まないそれを聞くに堪えないというように顔を歪めた歳三は、小さく舌を打ち鳴らす。あまり騒ぎを好まないこの男はこの喧騒は気に召さないようだ。祭の喧騒は好きなくせに。
歳三の手が背後の盆を引き寄せて、煙管を甲高い音で叩きつける。灰を落として新しいものを詰めながら、独り言のようにうるせぇなと唇が動いた。恐らくは正真正銘の独り言なのだろうけれど、紫苑も勇もそれを聞き逃すほど彼との付き合いは短くない。
「どうした?」
「いや。引越しするかな、と思っただけだ」
「引越し?」
「ここもだいぶ手狭になった。それに、伊東の野郎がこんなに近くにいるのはな」
感情を殺したような声で喋っていたくせに、最後の最後に歳三は感情を滲ませた。殺意とも悪意ともつかない負の感情を乗せ、その言葉が出てきた。勇はわけが分からないという顔をしていたけれど、紫苑はすぐに思い当たる。やはりあの男は歳三に色目を使っていたのか。昔は女に気のあるふりをしておいて、本当は男が好きだったのだろうか。だったら気色悪いことこの上ないな、と紫苑は思いながらごろりと寝転がる。自然の言葉は出てきた。
「何、なんかされたの?」
「されてねぇよ。だがあの視線が気に食わねぇ。というか、すべてが気に食わねぇ」
「気に食わないならあんな扱いやめてあげなよ」
「おいおい、歳」
ククッと喉で笑って紫苑はうつ伏せに寝転がった。頬杖を突くような体勢になって歳三を下から見上げるとぶすっとした顔をしているから相当なにか嫌なことがあったに違いない。少なくとも紫苑をはじめ新八も左之助も彼のことをよく思ってない。引っ張ってきた平助はどうなのだろう。分からないけれど、その男のおかげで隊内の雰囲気が悪くなったのは確かだ。
けれど勇は伊東と言う男を信頼している。参謀において意見を重宝しているし、幕閣に会う際には同伴させている。彼の引き連れてきた男たちがそれなりの地位の役職に置かれていることも隊内の反感を買った。対して実力もないくせに、とみんな思っているのをしっているはずだ。けれど歳三は、それに関して何も言わない。
「なんだって参謀なんて置いたの」
山南さんが可哀想じゃん、という言葉を紫苑はかろうじて飲み込んだ。可哀想という言葉は適切じゃあない。彼は同情をして欲しいわけではないはずだ。だから紫苑が紡いだのは、いけ好かないだとか気に食わないだとかそういう漠然としたものだった。きっと歳三は、山南のことも気づいているだろう。
「参謀なんて大層な役付けとけば満足するし、下手に動けねぇだろう」
「あぁ、そういう」
「おいおい、お前たち。伊東先生は立派な方だぞ」
「…………かっちゃん」
「いやいい。大将はこういうのが一番だ」
人を疑うと言うことを知らない勇は心の底から伊東を信頼しているのだろう。だから庇うようなそぶりを見せるけれど、その代わりに歳三が何も信じない。けれどそれだけでは足りなくなっているのだ、きっと。言葉が足りない。恐らく歳三が信じている絶対的な絆は、もうブチブチと音を立てて千切れ始めている。それを補強するには、きっと彼自身の言葉が必要なのだ。けれど彼はとても口下手だから、おそらくこの縄は切れるだろう。そんな予感があった。
紫苑は立ち上がると、背中を伸ばすように伸びをして戻るわ、と欠伸交じりに呟いた。
「歳」
「…………」
「言葉にしないと分からないよ」
それだけ言って、紫苑は部屋を出た。廊下はひんやりしていて、身体が竦む。身を縮めるように肩を竦め、紫苑は自室へと足音を忍ばせる。足の平をしっかり付けると、その分身体がすぐに冷えそうだった。
きっと歳三ならばあれだけで分かっただろう。それで何もできないのなら、歳三が悪い。これ以上紫苑がお節介を焼く必要はないはずだった。
新八と剣を交えても答えが出ることはなかった。メタメタに打ちのめされてそれでも心の中のもやもやしたものは消えない。夜になって一人で再び道場で刀を握り素振りをした。刀を振りながら、考える。自分は何を迷っているのか。何に惑っているのか。
ブン、と木の棒が空気を切る音が鼓膜を揺らす。キンと冷えた床は足から冷やすけれどそのうち気にならなくなるだろう。肌に当たる冷たすぎる空気も、いつしか気にならなくなる。
伊東が隊に入ってから、平助の安定も崩れた。新撰組の藤堂平助は、いつのまにか伊東道場の藤堂平助へと混同されていた。本当の己は、どこだ。どこにいたいのかどうありたいのか、自分でも分からなくなっていた。
「藤堂さん?」
「……沖田君」
風切り音の向こうから聞こえた声に平助は手を止めた。振り返れば、着流しにたすきをかけた総司が木刀を持って立っている。彼の名前を呼べば、いつもと変わらないにこっとした笑みを向けられるから、何をしに来たのかと訊く時機を失ってしまった。
「一本付き合ってもらっていいですか?」
「それは、いいけど……」
すっと構えた総司に向かって、平助も構えた。気合もなくすっと打ち込んでくる刀を、完全に遅れる形で受ける。平助にとって総司は、憧れの存在であって高すぎる目標だった。今だって、彼の攻撃を受けるだけしかできないでいる。
総司はいつもずるいと思っていた。剣の腕に優れ、平助ではいけない高みにいる。人懐こくてたくさんの人に愛されて、新撰組の中にいなくてはならない存在になっている。それが妬ましく、羨ましかった。生まれたときから必要のない存在だった自分との違いに幾度打ちのめされたか分からない。それでも平助は、総司に憧れていた。
一瞬胸をよぎった不穏の影に気をとられた瞬間、刀は弾かれて手からとんだ。突きつけられたそれは、喉仏に触れている。
「何か悩み事?」
「え?」
「刀が迷ってた」
「なんでもないよ」
呼吸を制限されるような気分は、総司の刀が降りた瞬間には消え失せていた。ほっと安堵したと共に、彼の剣技に驚かされる。彼は人知を超えている。平助も刀を下ろして、額から吹き出す汗を拭った。自分の顔の血の気が引いていたのは分かった。けれどそれを外気のせいにして、平助は額に当てた手で顔に残ってしまった痕をなぞる。池田屋に討ち入ったときに受けた傷は名誉のそれであり悔恨のそれだ。自分がもっと強ければ、こんな苦汁を舐めなくても済んだ。総司だったらこんな怪我を負わなかっただろう。そう思うと、目の前にいる総司が憎くてしょうがなかった。否、憎いのではなく己が惨めなのだ。
「藤堂君?」
「なんでもないったら!」
「ご、ごめん」
「あっ……もう休む、から。おやすみ」
逃げるように早口でそう言って、平助は足早に部屋に戻った。
組長が与えられている私室の壁は、けれど薄い。足音を響かせて部屋に戻った平助は敷きっぱなしの布団にすっかり汗の引いた身体を放り投げた。身体から力を抜いた瞬間、目にも涙が滲んできた。理由も分からない涙は勝手に溢れ、大声で泣きたくなった。その嗚咽だけは布団を噛んで飲み込んだ。そんな自分がひどく情けなくて、それも涙を誘った。
理由は分からない。悔しさと絶望と羨望と口惜しさがすべてない交ぜになったひどい気分だった。
雪でも降りそうな日、紫苑は新八たちを誘って酒でも飲もうかと彼らの部屋に向かった。廊下を一度曲がったところで、ばったりと武田観柳斎に会ってしまった。紫苑は彼が嫌いだ。あからさまに媚を売ってくるくせに女の紫苑を心の奥底では蔑んでいるような、そんなところに嫌悪感を感じる。
「これは、橘殿」
「……どーも」
「これからどちらへ?お時間があればご一緒にいかがですかな」
欠けた歯を見せて笑って、武田は右手で猪口を持つまねをした。それをクイッと煽る形に動かす。酒に誘う動作のそれだと分かっていても、紫苑は嫌悪感に顔を歪めるしかできなかった。いつものように「結構」と短く言って断ろうと思ったけれど、今日はその前に助けが来た。
「紫苑さん!」
一番組の隊士たちは紫苑のことを名前で呼ぶ。他隊の隊士たちが羨望と畏れによって彼女を呼ぶのではなく、それに好意も含まれているから余計その声は親しみの溢れるものになる。総司の代わりに組長を務めるようになって、紫苑には手下が増えた。
彼らは武田の姿を見ると一度足を止めて頭を下げるけれど、紫苑が「どうした」と呼んでやれば駆け寄ってきて不安そうな顔を向けた。
「沖田組長の体調がお悪いというのは本当ですか?」
「あー、まぁね。でもあいつ、昔から風邪引くと長引くからそんなに心配しないで平気」
「そうですか、よかった!」
隊士たちはぱっと顔を綻ばせて、お互いの顔を見合った。その行動に思わず紫苑の口元が歪む。見廻りに行ってきます、と言って頭を下げてから駆けていく隊士たちを見送って紫苑も同じノリで武田に頭を下げた。
ていよく逃げられて、ほっとして新八の部屋の襖を声もかけずに開けた。すでに中にいた二つの視線が一気に紫苑の方を向く。不躾な闖入者が紫苑だと知ると、彼らは一瞬釣り上げた視線を柔らかくして完全に出来上がった顔で笑った。
「なんだ、紫苑かよ」
「どうしたんだ?」
「呑みに行こうって誘いに来たんだけど、もう呑んでんのかよ」
「いいところに来た!ほら、一献」
「頂こう」
へらっと紫苑も笑い、新八の差し出した杯を受け取った。こういう空間もひどく好きだ。先ほど嫌なことがあったものだからなおさらそう感じる。
杯を重ねながら、紫苑の足元はふらついていく。このくらいふわふわしていたほうが足元の不安定さに気づかないからいいのかもしれない。部屋に充満する暖かい空気と酒の陽気さに満たされながら、笑い声に混じる。その中に平助が混じっていないことを不思議には思わなかった。
足場がなくても立てるくらい強ければ、私たちは迷わなかっただろうに。
−続−
平助が愛おしくてしょうがない