道場から聞こえてくる隊士たちの元気な掛け声は、いまや彼には耳障りなものでしかないのかもしれない。
以前腕を怪我してから、山南は隊士と立ちあうことをやめた。刀が振るえないわけではないのだけれどもう思うままに操ることはできない。戦場に出ても足手まといでしかないから、屯所の自室に篭っていることも多い。そういうときを見計らうように時には総司が、時には紫苑が顔を出して外に連れ出してくれる。けれど最近は、それも減った。新撰組という組織が名を上げ忙しくなったという理由故だから頼もしいと思う。けれど、隊が名を上げればあげるほど己の存在意義というものを失っていくような気が否めない。
「山南さん、ちょっといいですか?」
「藤堂君?珍しいね」
急に冷え込んできたその日、山南の部屋に平助が尋ねてきた。彼はいつも仕事には真っ先に飛び込んでいくし、時間があれば真面目に稽古をしているか新八や左之助と出かけることが多い。まだ若い分力が有り余っているのか大人しく部屋にいることは少ない。だから、彼が訪ねてきたことが珍しかった。
彼を部屋に招きいれようと声をかけたのに、襖が相手も平助が入ってくる気配がなかった。俯いて、何か言いたそうに顔を上げて唇を開くけれど、結局何も言わずに視線を落とす。それを二度ほど繰りかえし、山南が再度用件を聞いたらようやく平助の声が聞こえた。
「どうしたんだい、藤堂君」
「あの、伊東さんが……緒に呑みに行かないかって」
「伊東さんが?」
「北辰一刀流の同門でって……」
いつも快活な平助らしくなく言葉を濁し、叱られる子どものように俯いてしまった。流派の絆はなかなか切れるものではない。大きな道場もそれは同じで、新八がいい例だった。たしかに久しぶりに同門の仲間と話すのもいい気分転換になるかと山南は笑顔で頷いた。
隊士たちは幹部も含めて彼を嫌っている人間も多いようだけれど、山南は彼が新撰組において不穏であるという理由のみで嫌うことはできなかった。同門だし、学者肌で博識なので話が難しいだけかもしれない。逆に新撰組を手にするための権謀術数かもしれないけれど、それならばそれを見極めたいと思う。新撰組は山南にとってもかけがえのない大切なものだ。
「ぜひ、ご一緒させてもらうよ」
「よかった……」
「どうしたんだい藤堂君。そんなに安心した顔して」
返答に対して平助があまりにも安堵したように息を吐き出すから、からかい混じりに訊いてみた。もしかしたら伊東派の人間に脅されでもしたのかと思ったけれどそれに対して返ってきたのは「山南さんが最近元気なかったから」という優しい言葉。久しぶりに彼の笑顔を見た気がして、山南は少し安心した。彼も少し悩みがあったようだったから。
最近では繰ることがなくなった島原の店に足を踏み入れて、山南は部屋の中にいた面子に僅かに顔を眇めた。恐らくそうであるとは思っていたけれど隊内で伊東派と呼ばれる人物たちばかりだった。その中で一人、部屋の端で黙って杯を重ねている男を見つける。斉藤一だった。
「山南総長、来てくださってありがとうございます」
「お招きくださりありがとうございます」
「ささ、こちらへ」
上座で杯を傾けていた伊東が顔を上げて笑顔を作った。その作られたそれからは裏を感じる。特に警戒していたわけでもないのに、彼が何かを考えていることが即座に分かった。彼は何かを狙っている。新撰組を狙っているのか局長の命を狙っているのかまだ分からない。けれど確実に、邪悪なものを感じられた。だとすれば、ここは敵地と相違ない。どういうつもりで平助がこの座に山南を呼んだのかも合点がいく説明ができそうにない。
「山南総長、腕の方はいかがですか?」
「えぇ、まぁ。ぼちぼちですよ」
「総長がしっかりしていないと隊内が引き締まりませんからね」
「そう、ですね……」
彼の言葉の端々に厭味な色が窺えるのは、被害妄想だろうか。ちょびちょび酒を舐めながら山南の顔は愛想笑いを刻む。張り付いた笑みはいつまで持つだろうか、と自分と相談した。あぁ、明里に会いたい。
話は新撰組の過去の栄光から順を追う形で進められる。池田屋から始まり禁門の変、天王山。このすべてに山南は参加していない。屯所を守るために留守番していたけれど、そんなのは言い訳に過ぎない。邪魔だから、屯所に残ったのだ。本当に新撰組に、自分は必要あるのだろうか。総長としてその場にいる意味は残っているのか。分からない。
「ところで。橘紫苑さんというのはどういう方なんですか?」
「……紫苑ちゃん、ですか?」
「えぇ。色隊士だとかいう噂もありますが、本当のところはどうなんです?」
一瞬にして伊東の目が変わった。それを察した山南は自己嫌悪から理性を抜け出させる。すばやく部屋中に視線を巡らせると、彼らの一派の目がみな酔いの欠片もない。あぁ、これが狙いだったのか。彼らの狙いは新撰組を乗っ取ることだ。それからどうする予定なのかは分からないけれど、彼らに新撰組を渡す気はさらさらない。
平助と一をみれば、一は読めない表情で辺りを見廻しながら酒を舐めている。妙に緊張感の漂う会場で伊藤だけが余裕を持っていた。
「土方君と良い仲だと小耳に挟みましたが、本当のところは?」
「紫苑ちゃんはとてもいい子ですよ」
どこまでが言っていい言葉か判断がつかず、山南は酒を舐めることで言葉を濁した。歳三と紫苑の関係は隊士たちは知らない。ただ仲がいいということまでしか知らないはずだ。ここで紫苑の立場を悪くする必要もないし、もしかしたらそこから綻びが生じる可能性だってある。ここは極力当たり障りのないことを口にしなければならないだろう。
平助は下座で俯いて酒を舐めている。新八や左之助と一緒に騒いでいるときも面影は、どこにもない。
「剣もたちますし面倒見も良いですし、新撰組にはなくてはならない存在です」
「なくてはならない存在、ですか」
「隊士たちも慕っていますし、沖田君の代わりも勤めていますからね」
「彼女にいい人はいないんですか?」
「……さぁ?」
紫苑の良いところを並べるのも悪いところを並べるのも同じくらい簡単だ。そして彼女の守るものを壊すのも守るのも、同様に容易い。言葉を濁して微笑めば、そんな下世話な話はここで打ち切られるはずだ。それはその通りになったけれど、変な方に矛先が向いてしまった。伊藤は歳三について訊いてきた。
「土方君は?好いた人はいないんでしょうかね」
「か、彼はモテますからね……。女性はたくさん寄ってきますよ、昔から」
「特定の人物は?」
「さぁ?彼は秘密主義ですから」
さすがに意図が分からなくて首を傾げると、少し口惜しそうに伊藤は顔を歪めた。そのときの反応の意味を、山南は最期まで理解することができなかった。
ただ分かったのは、伊東は危ない。新撰組を潰す気でいる。
伊東が酒の席に誘ったのは山南だけではなかった。一人か二人か、少数ずつの幹部を酒に誘っているらしい。何をされているのか分からないけれど必ず門限を越えて帰ってくる。隊内の士気が下がると歳三はイラついているし総司の体調も思わしくないし、紫苑のイラつきも限界に達しつつある。特にこの寒いのに。けれど何の解決策を打ち立てるまもなく新年を迎えようとしていた。
「紫苑!大掃除くらいしろ!」
「私、見廻り夜番だったの。寝かせてよー」
「うるさい!起きろ!」
源三郎の大声で紫苑は覚醒を強いられた。明け方まで見回りで京を大掃除してきたというのに、朝から掃除をさせられるなんてやっていられない。その上寒い。布団から出たくなくて包まっていると、昔のように布団を剥かれた。寝巻きから覗く足が寒くて包まるものを探すけれど見つからないし、総司はもういないし。暖かいものが見つからなくて、諦めて体を丸めた。
「紫苑!」
「うるっさい!」
「掃除の邪魔だ、買い物にでも行って来い!」
「だから起きないってば!」
「酒買って来い、今夜どうせ呑むんだろうが!」
「行ってくる!」
酒のその一言に紫苑の意識が一気に覚醒した。寒いなんてどこかへ通り越してガバッと一気に体を起こし、源三郎が見ているだとかは全く関係なく着物を脱ぎ捨てる。後ろで大騒ぎしている小姑を無視して手早く晒しを巻いて、着流しに羽織を引っ掛けた。ギャーギャーがなる文句を聞き流して、顔を洗いに外に出る。さすがに寒さに体が震えた。
「紫苑!足袋を履け!」
「お、平助!一緒に買い物行くか?」
「紫苑さん、おはようございます!」
廊下でばったりと平助に会って、紫苑はにかっと笑いかけた。平助の方がぱっと頭を下げ、どこか緊張した顔をしている。今まであまり見たことのない顔に紫苑は僅かに疑問を覚えたけれど、気にせずに行こう、と繰り返した。後ろから源三郎の怒鳴り声が聞こえたから、それから逃げるように平助の手を引っ張って屯所を飛び出した。
屯所を飛び出して少し進んでから、紫苑は足を止めた。ちらりと後ろを振り返って追っ手が来ないことに安堵し、ゆっくりと歩き出す。
「最近山南さんの様子、最近変じゃない?」
「そうですか?」
「なんだか上の空って言うか、そんな感じ」
最近声をかけても微笑するだけで何か肝心なことを言ってくれないと思う。恐らく気のせいではないのだろう、平助に訊いてみても返事は曖昧なものだった。確実に何かを隠しているような声音だけれど、今回ばかりは問い詰めるのをやめる。平助にも問い詰めたらいけないと、そんな気がした。
だからそれ以上会話も見つけられず、紫苑は喧騒の街中を歩く。数歩歩いて、足を止めた。
「平助?」
数歩後ろにいる平助は、その門を見つめていた。彼の視線の先にあるのは藤堂藩の藩邸だ。その瞳には羨望のような色が浮かんでいる。紫苑はその瞳の意図を理解できない。唯一分かったのは、平助が新撰組ではなく藩邸の中に居場所を探そうとしているのかもしれない。平助の居場所は、新撰組のはずなのに。
なんとなく、彼の心は遠くなった。そんな気がした。
「平助!」
「は、はいっ!」
「お前は私の隣だ。とっとと来い」
「はい!」
声をかけたら、平助はハッとした顔で駆け寄ってきた。彼の顔に浮かんだ笑みはいつもと同じものだったから、少し安心する。さっきの一言で自分の場所を納得してくれたら、それでいい。
酒を買って帰って、夜になるまで寺でぶらぶらしていた。夜になれば、試衛館の古株で酒盛りが始まるのだろう。久しぶりの身内だけの酒盛りだ。気のおけない仲間たちと呑むのも昔の関係に戻るのも、ひどく楽しいだろう。
けれど、夜になっても全員が集まることはなかった。新八と一と、平助の姿が見えない。だからなんだか妙な静けさがあった。
「パチたちは?」
「呑みに出かけてる」
「平助も?」
「伊東の野郎と一緒だとよ」
隊士を引き連れて呑みに言ったのだと歳三が憎憎しげにいい、それを山南が宥める。それは今までと同じ形に見えた。けれど、きっとどこかが変わってしまったのだろう。先に飲み始めていた左之助は、新八も平助もいないおかげで一人仲間はずれのような感覚を味わっているようだ。紫苑も酒を含みながら彼らの不在に不安を覚えた。
まるで新撰組が分断されているような、そんな気がする。
「総司、お前体調よくないんだからあんまり呑むなよ」
「だいじょうぶー」
「それにしても、平助と新八と一って変な組み合わせじゃない?」
「そうだよな!俺を退け者にしやがってー!」
「そりゃお前が煩いからだろ!」
結局酒を必要以上に呑んで、無理矢理酔おうとした。どれだけ呑んでも頭の芯はしっかりと現実を見ている。芯まで酔えばいい。何も分からないまま痺れてしまえばいい。それなのに、どれだけ呑んでも意識を呑み込んではくれなかった。左之助と馬鹿みたいにはしゃいで、呑み比べをして。必要以上に騒いだ。
「紫苑、いい加減にしておけ」
「うるっさい!呑ませろ!」
「紫苑ちゃん!そろそろやめておいた方がいいよ」
「左之ぉ、呑もうぜ!」
「おうよ!」
周りが止めるのを無視して、呑んだ。歳三が渋い顔をしているけれど、その意味を深く探るほど頭は機能していない。中途半端に覚醒して痺れた頭では何も考えたくなかった。段々眠くなってきて、源三郎に寄りかかる。それでも杯を離さないので源三郎にも怒鳴られた。でも、それが楽しい。
楽しくなって眠くなった。酒の力はすごいなと、紫苑は安心して目を閉じた。ここが一番、安心できる。
「大はしゃぎだな」
「紫苑も何か感じ取ってるんじゃないのか」
「ただこの明るさに救われるよ、俺は」
沈みそうになる意識に、男たちの声が聞こえる。それを上手く吟味できないで、そのまま意識が落ちる。歳三と勇の苦笑。源三郎が髪を撫でる手の感触。きっと左之助はもう眠っている。総司も紫苑に寄りかかるように先に眠ってしまっていた。ひどくこの空間が安心する。
意識が落ちきる前に、山南の落ち着いた声が聞こえた。けれど彼の言葉の意味は、分からない。
大丈夫だよ。君は何も心配しないで、そのままでいて。君が君でいることが、支えになるんだから。
−続−
大はしゃぎ!