正月以降隊の空気が思わしくなく、紫苑は屯所にいることを避け始めた。居場所がないわけではないけれど、なんとなくい辛いから時間が空けば道場か勇の妾宅で持て余す日々を続ける。総司の体調が思わしくないからという理由もあるかもしれないが、それで誰も何も言わないのだからそれはそれで問題ではないだろうか。
暇だから妾宅に行くか、千代雪を呼んだら来るだろうか、と考えながら屯所の門をくぐったとき、新八の姿が見えた。正月の謹慎以来、勇や歳三と距離を取り始めた新八に紫苑は声をかけあぐねている。あれ以降口を利いていないのも、本当のことだ。
「紫苑」
「……でかけんの?」
かけられた新八の声は、今までとなんら変わらないものだった。それに対した紫苑の声はかすかに緊張が走っている。なんて情けない、と自分を叱咤しつつ紫苑は歩を進めた。新八は紫苑から十歩程度しか離れていないところにいる。歩きながら恐る恐る新八を見ると彼はひどくおかしそうに笑っていた。
「帰ってきたとこだろ、どう見ても。紫苑バッカでぇ」
「うるせぇ!どこ行ってたんだよ、まともな格好しやがって」
門から入ってきたのならば帰ってきたところだと気づけばよかったものの、緊張で失念していた。照れ隠しに新八を怒鳴りつけると、西本願寺だと予想外の回答が返って来て首を捻る羽目になる。けれどそれは今までと同じ反応だった。紫苑と新八、異性だけれど親友という立場の、受け答えだ。
けれど西本願寺とはまた妙なところへ行くものだと問い返す。西本願寺といえば長州へ肩入れしているでかい寺ではなかっただろうか。紫苑の知識は山南から聞いた曖昧なものだが、たしかそんなことを言って歳三と喧嘩していた気がする。あぁ、そうか。屯所を移すとか言っていたか。
「屯所、移転するんだっけ?」
「その候補地に行ってきたんだよ。広くてよかったぜ」
「そういえば……最近、山南さんとあんまり喧嘩してないみたいだな」
「だれが?」
「歳三」
伊東が来る以前ならば激論を交わし、止めに入ったほうが良いんじゃあないかと思うほどの口論だったのが最近では全く声を聞かない。屯所の移転なんて山南が建設的な意見を出してくれるはずなのに、今回はそんな話をちらりとも聞かなくなった。なんだか、妙な空気だ。妙な空気といえば新撰組の空気は伊東が来てから変わったようなものだ。それがひどく紫苑にとって忌々しい。今まで正常に回っていたものが、異物を混入されて回らなくなる歯車のように、今の新撰組はちぐはぐだ。
「そういえば、山南さんどうしてるんだろ……」
「さあな。俺、報告があるから行くぜ。お前どうするんだ?」
「気分変わった。島原行って来る」
「いいご身分だなぁ、お前」
新八が笑って、ひらりと手を振ると屯所の中に消えていく。その背中を見送って、紫苑は肩から息を吐き出した。なんとなく、肩の荷が一つ下りた気がした。
妾宅に行こうかと思っていた足を正反対の島原へ伸ばす。冬だし人が少ないだろうか、それとも常と関係なく生活しているだろうか。なんとなくあそこは変わらないんじゃあないだろうかと思いながら紫苑は馴染みの見せの暖簾をくぐる。まだ早いかと思ったら、店主に山南が来ていると教えられた。
屯所が静かだと思ったらこんなところにきていたのか、と紫苑は店主に同室にしてもらうように頼んだ。まだ女たちは支度があるから部屋まで来ない。早く訪れたこちらが悪いので文句があるわけじゃあないけれど、その時間だけでも少し話したかった。昔と変わらない、この場所で。店主に了解を取ってもらうと、そのまま部屋へ案内される。
「やぁ、紫苑ちゃん」
「……山南さん」
彼はなんて安らかな表情をしているんだろう。一目見て、そう思った。まさか彼がこんな表情をするなんて思っても見なかった。昔は少し矜持が高そうな表情で、こちらに来てからはいつだって微笑の中に強かさを隠した姿でいた。それが今、目の前にいるのはなんと安らかな目をした男なのだろう。悪く言えば牙を失った猛獣、よく言えば悟りきった仙人のようだった。
紫苑が無礼を詫びると、彼は穏やかに微笑みながら首を横に振り、紫苑に傍に座るように示した。すぐに酒を運んできた男が、山南の前に座を設えて下がっていく。
「少し話をしようか」
「……なんの?」
「昔話だよ」
何が山南を変えたのかは分からない。けれど確実に何かに変えられてしまった山南を見て紫苑は目を眇めた。それがいい方向なのか悪い方向なのか、全く検討がつかない。そんなことは初めてだった。
昔話、と言って彼が語りだしたのは本当に昔話だった。日野で出会った頃の話、試衛館で過ごした日々。彼の口からその話を聞いたのは初めてだったので、なんだか懐かしさを伴いながら新鮮な気がして紫苑は手酌で酒を注いだ。そんなに昔じゃあないはずなのに前に、試衛館の板張りの道場でこうして酒盛りをしたことを思い出す。あの日から自分たちは何が変わってしまったのだろう。
「ねぇ、紫苑ちゃん。もしかしたら我々は変わらなければならないのかもしれないよ」
「…………」
「君は変わった。今や立派に新撰組の一番組組長代理だからね」
「代理だよ」
「いいや、君はあの頃とは違うよ。新撰組も、もしかしたらそうした変化の時何じゃないかと思うんだ」
変化と言われて、それを紫苑は納得できなかった。まるでこれでは、新撰組の体質を改善するために自分が犠牲になるとでも言っているように聞える。それは絶対に違うと思うし、新撰組は変わる必要なんてないと思っている。どいつもこいつもバカばっかりか、と器に並々注いだ酒を一気に胃に落とした。
確かに紫苑は変わったかもしれない。変わらなければならなかった。女のままではいられなかった。けれど新撰組は新撰組であるものだ。そこには山南も新八も総司も、みんなみんな必要なのだ。それとも、それは子どもくさい願望なのだろうか。
「組が変わる必要なんてないと、私は思うよ」
「紫苑ちゃんにだって見えるだろう?時勢の流れってやつだよ」
「……でも山南さんにはいてもらわないと困る」
「そうだね、まだやることはあるから」
組が変わる必要なんてない。山南がいなくなる必要なんてない。紫苑は繰り返しそう述べたけれど、彼が本当に納得してくれたかは分からない。表情は一貫して変わらなかったし、それは何かを決意した顔でもあったのかもしれない。
これ以上何を並べ立てればいいんだと紫苑自身が迷っているところに明里と千代雪が入ってきて、会話が中断された。その後も同席を許された紫苑は千代雪とともに他愛ない話をしながら山南を窺っていたけれど、彼は変わらずにこやかに明里に接していた。その触れ方が、ひどく羨ましい。あぁ、全身で愛しているんだと思える姿を紫苑は夢想したことすらない。
「山南さんて、明里さんのこと大好きなんだな」
「紫苑はん?」
「ん?こっちの話」
「浮気したらあきまへんよ!」
「シマセン」
可愛らしく頬を膨らませる千代雪に紫苑は笑って、酒を煽った。たまに、羨ましいと思う。あんなふうにただ愛され、愛することが出来たならば幸せと呼ぶのかもしれない。あれは雪の幸せに似ている。けれどそれを紫苑は手に入れること画でいなかった。今の形を求めたのは紫苑自身だ。だから、後悔なんてしていない。けれどたまに、羨ましくなることがある。
「千代雪可愛い」
それを誤魔化すために、紫苑は千代雪を抱きしめた。女の子らしい柔らかい肢体と甘い匂い。紫苑が心のどこかで欲しながら自ら切り捨ててきたものたちだ。腕の中で笑う千代雪の肩に頭を預けて、酔った振りをして少し黙った。羨ましくても、選んだものは自分だから後悔はしていない。
それを確認して、紫苑は顔を上げる。自分はいつだって、自分のために正しい決断をしてきたつもりだ。
寒い、と思う。吐く息は白く濁り、まるで呼吸そのものが形を持っているようだ。けれど山南はそれが嫌いではない。キンと冷えた空気も痛いほどの沈黙も、全て静かで心地はいい。朝靄の中島原からの帰路を歩きながらただたんにそう思った。
いつからだろう、腰の刀が重いと感じ始めたのは。いつからだろう、新撰組の居心地が悪いと感じ始めたのは。
「おかえりなさい、山南さん」
「……伊東さん」
壬生寺にふと寄って見た。そこで、声をかけられて山南は振り返った。その瞬間、彼を敵だと感じた。それまで描いていた自分の絵図に墨を垂らして全てを消し去りたくなる衝動に駆られながら、しかしそれを理性で押さえて山南は微笑を浮かべる。どっちみち、もう遅いのだから。
「山南さん、ご存知ですか?屯所移転の件、西本願寺に決まりそうになっているそうですよ」
「そうなんか。それより伊東さんはどうしてこんな時間に?」
「散歩です」
あぁ、そうですか、と返しながら山南は目を眇める。こんな時間に散歩なんてあからさまにおかしい。この男はそんなことも気づかないほどの愚か者なのか、それを欺くために自分は……。幾許かの後悔にさいなまれながら、けれどもう止まれない山南は笑みを浮かべるだけで踵を返した。
失礼します、と言葉だけを置き去りに、屯所へ向かう。まだみんな寝ているだろうか、土方は、紫苑は。朝食当番は置きだしているだろう。朝が弱いあの二人はきっと寝ている。勇は、もう起きて朝稽古でもしているかもしれない。昔からみんな、変わらない。
山南はしんと静まり返った屯所に入って己の寝所ではなく土方の部屋に向かった。障子の向こうからは光が漏れている。もう起きているのか、寝ていないのか。どっちにしろ面白いと思いながら声をかける。
「土方くん、お邪魔していいかな」
「……あぁ」
帰ってきた声は少し眠そうだった。やはり夜通し起きていたのか、と障子を開ける。途端に暖かい空気に包まれてすっと呼吸が深くなった。部屋に入って障子を閉め、そうして改めて驚いた。布団は敷いてあるけれど土方は文机に向かっている。布団は膨らんでいて小さく上下すらしている。これは何かと訊こうとしたが、その前に土方が目を細めてその声を遮った。口元に指を置いて、短く息を吐き出す。
「紫苑が寝てんだ。そっとしておいてやってくれ」
「珍しいね、ここで寝るなんて」
「総司の咳で寝れねぇらしい」
彼の優しげな表情を見て、だからこの部屋は暖かいのかと合点がいった。未だに土方は紫苑を守ろうとしている。大切に抱え込んで、仕舞っておこうとさえしているのかもしれない。それを本人が良しとしないだけで、土方は昔と変わらず、頑なに変わらずに紫苑を愛していた。彼女は、幸せなのだろう。そう思うと自然に口元も綻んだ。
「なんでぇ」
「いや、紫苑ちゃんも幸せだと思ってね」
「そんなこと言いにきたのか?」
「いいや?」
胡乱気な土方の視線に笑みを向けることで答え、山南は彼の動きを待った。それを悟ったのか土方は無言で山南の前に一枚の紙を置く。それを開いてみて、口元に満足そうな笑みが浮かんだ。
屯所移転の計画を記した紙だ。数箇所候補に絞ってみたが、西本願寺に正式に決定したと書いてある。西本願寺ならば地理的にも良いし、広く隊士を収容できる。そしてなにより、長州を庇っていると思われる彼らに対する抑止力にもなる。けれど表向き山南は寺だからと言う理由で反対している。けれど二人になれば、途端に柔らかい笑みを浮かべた。
「よかった」
「そうか?」
「土方くん」
黙々と何かを書いていた土方に声をかけて、山南は書面を返した。数度頷き、布団の膨らみに視線を送る。安らかに眠る彼女は、このたった一人の計略が成功したらどんな表情をするのだろう。悲しむだろうか、紫苑ならば全てを理解した後に仕舞いこむかもしれない。そうなったら、彼女には重荷になる。
短く息を吐き出して、山南は天井を見上げた。さぁ、最後の仕事をしよう。
翌朝、新撰組副長山南敬介が、手紙を一枚残して屯所から姿を消した。
−続−
とうとうここまできてしまった……