大通りから一本外れた人通りの少ない日陰の道は、大通りの喧騒が嘘のように遠くから聞こえてくる。周りの音が妙に現実感を失って右耳から左耳を素通りしていく気がして、不意に怖くなった。地味な制服を着た少女が、薄暗い道で佇んでいる。見上げる視線の先には古びたビルと狭くくすんだ空があるだけで、少女は汗ばんだ掌をきつく握りしめた。ビルの看板に示された二階のフロア部分には『不思議屋』の文字。埃っぽい空気にかすんでしまいそうな名前は、喧騒の中で静かに何の不自然さも漂わせずにある。まるで、何百年も前からそこに佇んでいたかのように。
 少女は決心したように一つ頷くと、ゆっくりとビルの階段に足を乗せた。雑然として薄暗い階段を上がると、塗装のはがれかけた鉄の扉が壁のように前に立ちふさがる。少女は一つ深呼吸すると、きゅっと唇を噛んで震えるこぶしで扉を叩いた。ガンガンと金属が振動する鈍い音をさせると、ややあって中から扉が開いた。薄暗い足元がほんのりと明るくなる。


「あ、あの……」

「餓鬼の遊び場じゃねぇぞ」


 自分よりも頭一つ以上大きな青年に不機嫌そうな瞳で見下ろされ、少女は一度開いた口を閉じて俯いた。不機嫌な低い声に圧倒されるように汗ばむ掌を握り締め、自分がここにやってきた理由を思い返して恐る恐る顔を上げる。


「不思議屋さん、ですよね」


 確認するようにゆっくりと言うと、青年は軽く瞠目しながら頷いた。不意に、少女の瞳が揺らいだ。見る見るうちに大きな瞳が水気を増して溢れそうになるが、それを堪えて青年を見やった。


「私を、助けてください……」


 震える声は、のどの奥からそれだけ紡ぎだすと苦しそうに引きつった。嗚咽を飲み込んで少女が唇を噛む。彼女の様子に青年がわずかに困ったように眉を寄せて、とりあえず中に促そうと口を開くが、声が洩れるよりも先に背後からのほほんとした声が掛けられた。


「あれ、氷川。お客様?」


 にっこりと笑ってどこか眠そうな顔を覗かせた優しげな青年の顔を見た瞬間、少女は緊張の糸が切れたようにその場にへたり込んだ。










 ずずっと緊張感の欠片もなくお茶をすする音が響いた。時々しゃっくりあげる声がその音を現実感のない音に変えている。


「瑞穂ちゃん、でいいのかな?」


 優しげな笑顔で問われて、佐伯瑞穂と名乗った少女はこくんと頷いた。南壱路と名乗った優しげな青年と、藤堂氷川と名乗った無愛想な長髪の青年と向かい合って、瑞穂は熱くなった瞼を無意識に押さえる。
 ようやく泣き止んだ瑞穂を全く気遣う風もなく変わらない笑顔で、壱路が肩眼鏡越しに微かに眼を細めた。


「君は何をして欲しいのかな」

「助けて欲しいんだろ?」


 壱路の台詞に瑞穂が驚いて顔を壱路に向ける。それと同時に氷川が眉を寄せて言った。氷川に視線を移して壱路がため息を吐き、すぐに瑞穂に向き直った。


「おい、何だよ」

「さて瑞穂ちゃん」

「無視かテメェ!」


 いきり立つ氷川を無視して壱路が湯飲みを持ったまま瑞穂の瞳を覗き込んだ。優しげなはずなのに冷たい色を含んだ瞳につい、息を飲んでしまう。呼吸が、上手くできない。


「僕たちに何をして欲しいのかな。いじめっ子をやっつけて欲しい? それともストーカーの撃退かな」


 自分がここに来た理由を言おうと思って瑞穂は口を開くが、言葉が出てこなかった。言われて気づいた。自分は、ここに何をしにきたのだろう。
 二ヶ月ほど前の話だ。突然、瑞穂の両親が死んだ。飛行機の事故だった。仕事が忙しく普段から両親がいないことに馴れていたから、彼らが死んでも実感がわかなかった。悲しいと感じなかった訳ではない。まだ生きているのではないかと、明日にでも連絡が入る、そんな風に思っていた。両親がいなくなっても日々に変わりがある訳ではなかったが、瑞穂は祖父に引き取られた。元々家も近所でよく様子を見に来てくれていた祖父が瑞穂は大好きだったから、何の問題もなかった。大好きな祖父と暮らせる、そのくらいにしか思っていなかったのに。周りが変わった。
 学校が変わった訳ではない。友達が変わった。仲の良かった友達が急によそよそしくなった。教科書に落書きがされていた。存在が、消されていた。祖父には心配を掛けまいと、家でもずっと苦しかった。苦しくて苦しくて、でも泣く訳にはいかなくて。そして、この店を知った。全てを解決してくれる、魔法使いの店。助けてくれると、思った。


「助けて、欲しいんです」


 漸く言えたのが、さっきと同じ言葉。全て吐き出したはずの涙がまたじわりと浮かんできて、瑞穂は唇を噛んだ。何をして欲しいかなんて分からない。ただ自分だけでは身動きができなかった。


「私は悪い事なんて何もしてないのに……! どうしたら良いか、分からなくて」


 引きつった声を抑えて膝に視線を落すと、壱路のため息が聞こえた。涙の滲んだ瞳を上げると、曖昧な表情をした壱路が唇を引き結んでその眼を歪めていた。その隣で、氷川が表情を固くして眼を伏せる。


「瑞穂ちゃん」


 やや置いて、壱路がゆっくりと口を開いた。その声にはどこか硬質なものが含まれていて、瑞穂は無意識に息を飲んで目の前の青年を見つめる。


「君を助けよう。君の願いを叶えてあげる」


 にこりと、壱路が笑った。笑っているはずなのにどこか冷たい笑みは瑞穂の顔に笑みを浮かべる事を許さず、瑞穂は固い表情のまま頷いた。


「ありがとう、ございます」

「もう何の心配もしなくて良いよ。さぁ、今日は帰りな。遅くなるとお家の方が心配するよ」


 にこりと、壱路の優しげな笑顔を見て、瑞穂は笑い返して立ち上がった。未だ固い表情のままの氷川にも礼をして、部屋を出て行った。軽快に階段を下りていく音を聞きながら、壱路が小さく息を吐いて隣の氷川に寄りかかり、居心地悪そうに氷川が身じろいだ。


「……俺のこと、気にしてんのか?」


 ぽつりと吐き出された低い声に壱路は閉じかけていた眼を開けて視線だけで氷川を見た。その表情からは感情は読み取れないが、壱路にだけは彼が何を考えているか分かる。だから、笑う。


「そんなことないよ」


 すると微かに氷川から安堵の息が洩れ、壱路は眼を閉じるとクスクスと笑みを漏らした。


「氷川、お茶淹れて」

「そこにあるじゃねぇか」

「新しいのがいい」


 大仰なため息が聞こえて、すぐに壱路は体の支えを失った。ソファに倒れこむと、氷川がぶつくさ文句を言いながらお茶を淹れに台所に向かう音を聞いて、手のひらで視界を遮って笑みを漏らした。










 ざわつくこの雰囲気が、怖かった。
 どこか雑然としたどこにでもある学校の、教室の雰囲気に足が竦むのを感じて、瑞穂はドアに掛けた手を離してゆっくり握りこんだ。生唾を飲み込んで、震える体をどうにか落ち着かせようとする。
 昨日は、教室に自分の机がなかった。
 一昨日は机に菊の花が飾られていた。
 その前はゴミが山積みにされていた。
 その前は……。
 ふるふると頭を振って、浮かんだ過去に唇を白くなるほど噛む。昨日、あの不思議な店で不思議なお兄さん達からほんの少し勇気を貰った気がするから、きと今日は大丈夫。自分に言い聞かせるように深く息を吐いて、ゆっくり瞬きする。爪が食い込んでしまったこぶしをゆるゆるとといて、俯き気味に立て付けの悪いドアを開けた。
 ドアを開ける音が妙に大きく聞こえて、教室中の視線が自分に突き刺さった気がした。ざわついていた教室は一瞬にして静まり返り、瑞穂は更に深く俯いて張り付いてしまったような足を引きずるように自分の席があるはずの場所に向かう。窓際の、一番前の席。あったはずの机はなくぽっかりと空いていて、瑞穂はぐっと唇を噛んでこぼれそうになる涙を飲み込んだ。視線を巡らせて机を探す。周りからは明らかな嘲笑の声が聞こえてくるが、それを聞いたら負けだと思った。昨日は教室の後ろにぞんざいに置かれていた机だが、今日は見当たらなく流石にあせる。慌てて周りを見回して探すが、余っている机など一つもない。日に日に悪化していく事態に、瑞穂は目眩を覚えた。そのまましゃがみ込んでしまおうとしたがどうにか踏みとどまる。きっとこのまましゃがみ込んだら今まで溜めていた涙まで一気に溢れ出してきて、立ち上がれなくなる。折角勇気を貰ったのに、そんな事はしたくない。自分は、そんなに可哀想な人間じゃないのだと、信じていられなくなる。
 担任が現れる前にどうにかしなければと思考を巡らせたが、いい案が思いつく前に大きな声が飛び込んできた。遅れてチャイムも鳴り始める。


「おはよーみんな! 席つけぇ」


 ガタガタとクラス中が甲高い声で喋りながら、自分の席に着き始めた。顔も上げられずに立ちすくんでいる瑞穂に向かって、教師が不思議そうに顔を傾けた。


「机はどうした? 佐伯」


 反射的に口を開いて一瞬、瑞穂はためらった。口を閉じてからもう一度、今度は出来るだけ笑顔を浮かべて口を開く。


「……ボロボロだったので用務員さんに言ったら、取り替えてくれるって言ってたんですけど、まだみたいです」

「そうかぁ。じゃ、これからオレが持ってきてやるよ。今日の一時間目は道徳だからな!」


 一瞬だけ眉を寄せた担任に念を押すように微笑むと、彼はすぐに破顔して大きく頷いた。誰にも気付かれないように安堵の息を吐いて、瑞穂はその場に鞄を下ろして壁に寄りかかる。これでよかった。『何か』を言う必要なんてない。きっとすぐに彼らが助けてくれるんだと思えたから、あの人に頼らなくても大丈夫だと、思えた。
 朝の会をすっ飛ばして机を取りに用務員室に行こうとして、教師は立ち止まって教室を見回した。


「今日の授業は特別に先生が二人みえてるから、お前らいい子にしてるんだぞ?」


 一瞬にしてざわついた教室に教師は何故か満足したように笑って、教室を出て行った。まるで転校生でも来るように「男の人かな」「格好良かったらどうするー?」「女かもよぉ」「男子見てきてよー」などと大騒ぎしている教室を冷たく見やって、瑞穂がため息を吐く。
 ふと視線を感じて瑞穂が顔を上げると、クラスの輪の一番外側から、親友だった愛子がこちらを見ていた。反射的に微笑みを向けようとして、すぐにとどまって顔を逸らす。かつて親友だと思っていた彼女は、もう親友なんかじゃない。クラスの皆が自分を無視し始めたら自分の身の可愛さに裏切った愛子を、もう親友だと思わない。


「みなさーん、チャイム鳴りましたよ」


 控えめなチャイムなんかは聞こえる訳がない教室に担任とは違う若い男が二人入ってきて、教室は一瞬静まり返った。その空間で、片眼鏡をかけた優しげな青年と愛想の欠片も無さそうな長髪の青年が視線を交わす。フリーズした教室内がガタガタと慌てた音に満たされて騒いでいた生徒達が席に座り、しかし黙って青年達を見るわけもなく近くの友達と「格好よくない!?」「あたし長髪の人の方がいい!」「なんだ男かよー」などとクラス中に聞こえるような小声を交わす。
 長身の青年が早くも口元を引きつらせて切れそうだ。
 彼らはちらりと瑞穂に視線を送ると、教室中を見回した。


「はじめまして、今日授業を見学させていただく南です。こっちの大きいのは藤堂」


 壱路が微笑んで自分よりも頭半分ほど長身の氷川を指すと、氷川は無言で頭を微かに垂れた。昨日見たばかりの二人の姿に妙に安堵して、瑞穂はその場にズルズルとへたり込む。


「偉い人の命令で、一応学校の査定ってことになってるんですが、気にしないで楽しく授業してくださいね」


 にっこりと微笑んで真っ赤な嘘を吐いた壱路に氷川は微かに目を眇めるが誰も気付かず、生徒達は元気良く返事をした。その空間はまるで平和なクラスそのものだった。


「青山先生のご到着だぞー。みんな拍手ぅ!」


 自分で拍手を要求しながら、担任が帰ってきた。肩に担いで持ってきた机を受け取ろうと瑞穂が立ち上がるが、その前に氷川が無言でそれを受け取って瑞穂の席まで持ってくる。予想外の事に、クラス中の冷たい視線を感じながら、瑞穂は俯いて小さな声で言う。


「……ありがとうございます……」


 昨日あったばかりなのに違う人間のように見えて、なぜか氷川が怖く思えた。昨日始めて会ったときもどこか怖いとは思ったが、それとはまた違った恐怖に捕われているように思う。
 みんなの視線が怖い、痛い。息が、苦しい。


「じゃ、授業始めるぞ!」

「せんせー。道徳の授業って何やるんですかー?」

「みんなで『イジメ』について話し合おう!」


 一瞬、空気が止まった気がした。クラス中の視線が自分に突き刺さったように感じて、瑞穂は唇を噛んで俯いた。視線は真新しい机の木目を映している。私が悪い訳じゃないのに。
 やる気満々で教卓に立った担任はそんな雰囲気に微塵も気付かず、バンと思いきり黒板を叩いた。


「みんな、意見をバンバン言ってくれ!」


 なんで、こんなにやる気満々なんだろう。瑞穂はそんな事を思ってほんの少し顔を上げる。彼はこの現状を分かっているのだろうか。こんなことでイジメ問題をあぶり出そうとでも言うのだろうか。無理に決まっているのに。教卓でやる気満々の担任から視線を逸らして教室の端の方で見学している青年達に視線を移すと、壱路は変わらない笑みで、氷川は表情の乏しい顔を微かに歪めて彼を見やっていた。


「はーい」

「お、いいぞ紗佳。なんだ?」

「イジメはいけないことだと思いまーす」


 紗佳と呼ばれた派手な少女が、現代っ子特有の語尾の延びた言い方で言ってちらりと瑞穂に視線を送る。教師を見るときは笑っていた目が自分を見るときだけ氷のように冷たく思えて、瑞穂は膝の上で手を握り締めて上げた顔を俯かせた。
 あの視線が怖い。息が上手く、出来なくなる。


「そうだな! このクラスにはイジメなんてないよな! 他に意見はないか?」


 当たり前のように破顔して教室を見回した担任にみんなは自慢気な笑顔で頷いた。まるで瑞穂など存在していないように、笑顔で。深く俯いていた瑞穂は、暗い顔をして顔を伏せた友人の存在に気付かなかった。


「義朗センセェ」

「なんだぁ、哲央」


 机にだらしなく上体を預けていた男子がにんまりと笑みを浮かべて手を上げた。一度瑞穂を見てから紗佳と目線で笑いあう。


「イジメられる方も悪いと思いまーす」


 そうだ、と頷く声が教室中に広がる。それを聞きながら瑞穂は唇を噛んで更に深く俯いた。教室の空気が上手く吸えないような息苦しさを感じる。イジメられる方が悪いというのなら、私が何をしたというの。なぜ何事もなかったかのように軽く笑っていられるのか分からない。なんで、私ばっかり。


「そうだな、イジメられる方にも問題があるかもしれないな。佐伯はどう思う?」

「え?」


 話をふられて、瑞穂は慌てて顔を上げた。握り締めた拳をほどきながら教卓で気楽に笑っている顔を見る。握りこみすぎた掌にはくっきりと爪の痕がついていた。答えを求めるように端に立っている壱路と氷川に視線を送ると、微かに氷川の顔が苦々しく歪んでいるのだけは分かるが、壱路は変わらずに微笑んでいた。

 ――君を助けよう。

 昨日の壱路の台詞が脳裏を過ぎる。あれは、嘘だったのだろうか。黙ったままでいるのを促すように「どうした」と声を掛けられ、再び手を握り締めた。教室中の視線が自分に突き刺さるのが分かる。ここできっと助けてくれと言ったって誰も助けてなんてくれない。震えそうになる自分を叱咤して、俯き加減に口を開いた。


「……イジメは、悪い事だけど…………、イジメられる方も、悪いと、思います……」


 息が苦しいの。誰か、誰か助けて。
 上手く息が出来ないの。ねぇ、お願い。


「そっかぁ……。じゃあ次のお題だ! 友達がイジメられていたらどうする?」


 力なく俯いた瑞穂にやや萎れ気味に頷いたが、教師は気を取り直して話を変えた。新しい話題に皆の意識はそちらに移るが、背筋に悪意の篭った視線が刺さっているこの感じて瑞穂は更に深く俯いた。


「はいはい! もちろんオレは助ける!」

「哲央なんかに助けてもらいたくなーい」

「なんだとぉ!?」


 クラスメイトの他愛ない会話が、自分から酸素を奪っていくようで。息苦しさを感じて瑞穂は軽く咳き込んだ。のどの奥に何かが突っかかっているようで上手く息が吸えないような気がする。


「まぁまぁ、お前等は心配なし! 田本はどうだ?」

「センセ、愛子はイジメられちゃうタイプだって」

「だーかーら、オレが守ってやるってば!」

「私は……、きっと何も出来ない、と思う」


 呼吸が出来ているかがわからない。苦しい。苦しいの。


「なんでだ?」

「だって、私までイジメられちゃうから」


 息が、上手く、できないの。誰か、助けて。
 息を吸ってもまるで吸っていないかのようで、呼吸が大きくなってしまう。苦しいのと混乱で胸元を掴んで荒い呼吸を繰り返す。
 だれか、だれか。いきが、うまく、できないの。


「おい、落ち着け」


 瑞穂の異変に気付いて、氷川が真っ先に駆け寄ってきた。後ろから背を撫でて壱路に視線を送る。氷川の行動で瑞穂に気付いた教師は慌てて瑞穂に近寄って、青ざめた顔を覗き込んだ。


「大丈夫か、佐伯! どうした?」


 ぼんやりとした視界で氷川だけを認識していた瑞穂は突然入ってきた担任の顔にと近づいてきた手に恐怖を感じて反射的に手で払った。あれは自分を助けてくれる手ではない。


「きっとシックハウスかなんかですよ。保健室に連れて行くので、先生は授業を続けてください」


 明らかに嘘と分かる言い訳を笑顔で言って、さり気なく壱路は教室のドアを開けた。目で促すと、氷川が軽々とほとんど意識のない瑞穂を抱え上げ、壱路は彼を先に通して軽く頭を下げてからドアを閉めた。


「氷川、もうちょっと丁寧に扱ってあげてよ」

「十分大事にしてんだろ」


 優しく落ち着かせるように頭を撫でられて、瑞穂はなぜかそれが自分を救ってくれる手だと思った。










 イラつきながら煙草を口の端で引き出すと、氷川は不機嫌に顔を歪めたままポケットからライターを漁った。ズボンの後ろポケットから探り出して、火を点ける。深く紫煙を吸い込んで、肺の空気を全て吐き出した。
 私は悪くない。そう、叫んでいるように見えた。それが過去の自分と重なって、忘れていた昔を思い出させる。自分は悪くないと信じていなければならなかった、あの頃。


「氷川も落ち着いた?」


 微笑んだ壱路の声に氷川は軽く頷いて椅子の背もたれに体重を掛けて反り返った。ギシッと簡単に安価なパイプ椅子が悲鳴を上げる。瑞穂を保健室に運んで、薬をかがせて寝かせてしまった。保健医には壱路が上手く言って誤魔化したらしいが、氷川はよく知らない。その辺は壱路の担当だ。


「ムナクソ悪ぃ」

「そうだね。コーヒー、飲む?」


 氷川が低い声で呟くと、壱路は笑ってどこからか缶コーヒーを取り出した。笑ってはいるが、不可解なのには変わりない。


「どこから出した、それ?」

「最近の保健室はなんでもあるね」


 本来は湿布等を保管する為であろう冷蔵庫を指差した壱路に、氷川はぎこちなくも口の端を歪めて缶を受け取った。まだ長い煙草を椅子の金属部分に押し付けて、辺りを見回して吸殻をその場に落とす。


「氷川、ポイ捨て禁止だよ」

「飲み終わったら、中入れる」


 冷えたコーヒーを一口呷って、氷川は瑞穂の寝ているベッドに視線を移した。意識なんてほとんどなかったくせに、幼子のように縋って握りしめた手は震えていた。きっと彼女は拒絶される事を何よりも恐れたのだろう。助けて、と言っていた。


「ねぇ、氷川」

「………」

「僕は氷川がいてくれてよかったよ。氷川がいてくれたから生きていられる」

「………」

「瑞穂ちゃんにも、そういう友達がいればよかったね」


 さきほど聞いた、彼女の親友だという少女の答え。

 『私までイジメられちゃうから』

 なんと自分勝手な言い訳だろうか。そんなのは自己保全でしかなくて、彼女にとって何よりも裏切りに近いものだと思っただろう。でも自分はそれを非難する資格なんてないと思っている。きっと自分の方が非道い選択をしてきたのだから。


「俺だって、変わらねぇよ」


 小さく、小さく吐き出された氷川の本心。
 壱路は軽く瞠目して、次いで微笑んで氷川の缶に自分の持っていた缶をぶつけた。カンとほんの少し湿気を帯びている音がやけに耳に大きく聞こえた。


「氷川がいてくれたから、僕がここにいるんだよ?」

「俺の考えてる事なんて分からねぇくせに」

「分かるよ。自分だって自己保全だって言うんでしょ」


 自己保全。自己憐憫だ。誰かのためにと立派そうな理由を立てて、自分が悲劇のヒーローのような面をして。あいつの為に、自分がやっているのだと自分を正当化する理由を創って。それだけではないと砂粒一粒くらいは理解してはいるけれど、きっとただの自己満足。


「氷川が自己保全だって言うんなら僕だって自己保全で生きてきたよ」

「……そっか」

「そうだよ」


 言葉が見つからずに氷川が頷くと、壱路もにこりと微笑んで頷いた。この笑顔に自分はいつだって、救われていたんだ。丁度良く、授業終了のチャイムが鳴った。










 覚醒しきらない頭で青年二人の声を捕らえて、ゆっくりと瞼を押し上げた。彼らはこちらに気付いていないのか声を落としながら話を続けている。自分がどうなったのかと考えて、瑞穂は自分が運ばれてきた事に思い当たった。苦しくなって、自分が金魚鉢に捕らえられた金魚のようになった事は覚えている。そして、その原因は。

 ――だって、私までイジメられちゃうから。

 きっとどこかで信じていた。彼女が変わらずに親友でいてくれることを。でもそれを裏切るように彼女の口から漏れた本音。結局、人間なんて自分が一番可愛いんだから。信じていたのに、裏切られた。愛子の事なんて考える余裕もなくて、自分の事だけで瑞穂は詰まる息をゆっくりと吐き出した。目頭が熱いのをあえて無視して、唇を噛み締める。
 本当は分かっている。だれだって自分が一番可愛い事も、自分も一番自分が大事だと想っている事も。でもそれを認めたくなくて、自分が惨めだなどと信じたくなくて、何でもない振りをして自分で自分を傷付けている。私は、悲劇のヒロインなのだと。悔しい。声にならないことが。苦しい。声をだせないことが。のどを焦がすように熱い涙が頬を伝い、それを隠すように腕で顔を覆い隠す。身じろぎする音はチャイムにかき消されて瑞穂の耳にしか届かなかった。





 チャイムの音に無意識に天井を見上げて、壱路が微かに眼を細めた。視線をそのままに指先で氷川の服の裾を摘む。


「なんだよ」


 氷川が缶を呷りながら言って、ベッドに視線を投げた。瑞穂の体勢は先ほどと変わっていて、微かだが体が震えている。起きたのかと思う反面、声を掛けるべきではないと判断して視線を離す。彼女は自分の愚かさと狡猾さに気付いてしまった。気づかない方が楽だった感情を突きつけられたときの感情は、氷川自身知っているつもりでいた。


「佐伯ー。大丈夫かぁ?」


 ノックもなくいきなりドアが開いて、やや声を落し気味の青山教諭が入ってきた。瑞穂の肩がほんの少し強張ったように思えて氷川はあまり変わらない表情を険しくして誤魔化すように煙草に手をやる。


「氷川。校内禁煙」


 煙草を引っ張り出そうとする氷川の手を制して、壱路が笑顔を浮かべた。瑞穂のベッドを覗き込もうとしている青山に同じ笑顔を向ける。


「青山先生。寝てるみたいなんで、こっちへどうぞ」

「佐伯は大丈夫なんですか?」

「ただのシックハウス症候群ですよ」


 明らかに嘘だろう。微かに呆れた表情を浮かべる氷川を無視して、壱路は有無を言わせぬ笑顔でコーヒーをすすった。


「授業、どうでしたか?」

「あ、あぁ……。みんな良く発言してくれました」

「元気なクラスですね」

「はい。みんな仲が良いですから!」


 顔を輝かせて自慢気に言う青山に、氷川は壱路にしか分からない程度に目を眇めた。上っ面ばかり見ている教師というのはどこの世界にもいる。自分が正しいと思い込んで、間違いを見ようともしない。なんともムナクソ悪い話だ。自分の過去が絡んでいるからそんな風にしか見えないのかもしれないけれど。
 氷川の顔に微かに嘲笑にも似た色が浮かび、それを打ち消すようにコーヒーを呷る。


「やっぱりイジメ問題っていうのは誰が悪いんでしょうね」

「イジメられる方にも問題はあると思いますよ」


 壱路の言葉が誘導尋問めいている。そんな風に思いながら氷川はちらりと瑞穂の寝ているベッドに視線を送った。彼女はこの話を聞いて、何を想っているのだろう。


「僕はね、イジメる方が一方的に悪いと思いますよ」


 あぁ、自分はいつかも同じような台詞を聞いたことがある気がする。なんとなく胸のうちを締め付けられるような心地悪さに襲われて氷川は顔を歪めた。気を落ち着ける為に煙草を一本さっさと引っ張り出して火をつける。軽く瞠目して、青山は壱路を見つめた。その顔を、氷川はどこかで見たことがある気がした。


「イジメる方にも理由があるんじゃないですか?」

「でもそれが、誰かを裁く権利になんてならないでしょう」


 柔らかく、壱路が微笑む。しかし声は笑っていなくて、青山が言葉に詰まったのだろう息を飲むのが分かって氷川は口の端を引き上げた。壱路のあの笑顔に恐怖を感じない奴がいたら人間じゃない。


「瑞穂ちゃん、大丈夫ですかね」

「あ、家に電話したらおじいさんが迎えに来るって……」


 そうじゃねぇよバーカ、と口元を揶揄の笑みで歪めながら、氷川は紫煙を吐き出した。さっきまでの感情が胸の奥に落ちたような感覚は酷く奇妙だが、先程よりもだいぶ楽だ。


「瑞穂ちゃんてどういう子ですか?」

「佐伯ですか? うーん……、明るくていい子ですよ。最近あまり元気がありませんけど、素直で頭も良いし」

「教師受けがいい優等生な」


 つい、口を挟んでしまった。心が軽くなった分口も軽くなってしまったのか、自分でも予想外に言葉が飛び出し、氷川は顔を歪めた。壱路が意外そうな顔でこっちを見るので、顔を背けて煙草を吹かすと小声で「吸っちゃダメだって言ったのに」と聞こえた。
 その時コンコンと控えめなノックの音が聞こえてドアが開き、大柄な初老の男性が姿を現した。


「佐伯です。いつも孫がお世話になっております」

「あ、佐伯のおじいさん!」


 瑞穂を迎えに来たのだと言った男性は、長身の氷川よりも更に頭一つ分ほど大きく聡明な顔立ちをしていた。どことなく瑞穂に似ているかもしれない。祖父の声を聞いて、瑞穂がゆっくりと体を起こした。のそのそとベッドから降りると、眉を寄せるて青山を見る。


「瑞穂ちゃん、おじいさんが迎えに来たよ」

「はい……ごめんなさい」


 俯いて謝って、瑞穂は足早に祖父の許まで行き、そっとその顔を覗き込んだ。不安そうな祖父の顔に無理矢理笑みを作ってみせる。


「何でもないよ、おじいちゃん」

「ちょっと疲れてるみたいなので、ゆっくり休ませてあげてください」


 何事かと口を開こうとした男性の言葉を飲み込ませるように壱路が間髪いれずに笑いかけた。その言葉に瑞穂が安堵したように微かに肩を撫で下ろし、ちらりと氷川に視線を送る。その視線に気付いて氷川が視線だけで問い返すが、瑞穂は柔らかく微笑んだだけだった。


「あ、私の荷物……」

「持ってきたぞ。ゆっくり休めよ、佐伯」

「……ありがとう、ございます」


 ほんの少し剣呑さの混じった瞳で自分のバッグを差し出した担任を見て瑞穂は頭を下げた。帰ろうと踵を返す祖父の後ろに続こうとして、一度氷川を振り返る。彼の手が、自分を掬ってくれる手のように思えたのは幻だったのだろうか。


「壱路さん、氷川さん。ありがとうございました」


 邪気のない笑顔を浮かべてぺこりと頭を下げ、ほんの数歩先で待っている祖父の背中を追いかけた。
 自分の後姿を悲しい眼で見つめる担任の姿を、瑞穂は知らない。





-続-

紗佳(さやか)
哲央(てつお)
念のためにルビりました。