深夜の職員室で懐中電灯の明かりだけを頼りに、どこにあるか分からない書類を捜す。ありそうな所をだいぶ前から探しているが、肝心なものが見つからない。


「氷川、あのダンボールの中は?」


 バサバサと手元の書類を漁っている手を止めて、氷川は顔を上げた。視線を彷徨わせて壱路の指の先を探すと、端に積んである重そうなダンボールの山の真ん中に確かに『青山』と表記してある。


「お前さ、ちったぁ自分でやれよ」

「僕、頭脳派だから」


 呆れたようにため息を吐いてダンボールの山を崩しながら言う。手伝わせようと思ったが、壱路がさらっと言い放ってその辺にある椅子に腰掛けた。


「どう、ありそう?」

「あー……わかんね」


 重いダンボールの中を漁ると、何となく正解に近いような物が入っていて、もしかしなくてもこれは重要な書類なのではないか。こんなにぞんざいに扱っていいのだろうかとどうでもいい疑問も浮かんでくる。


「それにしてもこの学校って都心のくせにアナログだよねー」

「都心だから逆にアナログなんだろ。と、これか?」


 壱路の気楽な問いに、舞い上がった埃に眼を眇めながら答える。顔写真の付いた書類を見つけて、氷川は足早にその場から身を翻し壱路に突きつけた。


「あ、正解」


 にこりと笑って壱路が言うので、氷川は脱力したように勝手に椅子を引っ張り出して座った。壱路が、あらかじめ氷川が用意した水槽の中の水に白い粉を溶かすのを見ながら、ポケットから煙草とライターを引っ張り出す。粉が溶けきって透明に戻った水に壱路が何のためらいもなく書類を浸した。
 叩いて飛び出した煙草を銜えて、火を点けながら氷川が口の中で呟く。


「……本当にいいのかよ」


 水に浸された紙からは、ボールペンで書かれた文字だけが滲むように浮かび上がり水の中に溶けていく。それをぼんやりと見つめながら息を大きく吸うと、なぜだか妙に先端の火種が明るく見えた。


「またぁ? 氷川」


 いつもいつも氷川は仕事の度に文句を言ってと口を尖らせた壱路に氷川はばつが悪そうに顔を歪め、肺に吸い込んだ紫煙を彼の顔に向かって吐き出した。


「氷川!」


 不意にくらって咳き込みながら、壱路が怒ったような顔を向けてくる。それをザマァミロと軽く笑い飛ばして、視線を水槽の中に戻した。書類から剥がれた写真に写っていた瑞穂の姿が、溶けるように掻き消えた。


「まだ答えを、出してないだろ」


 彼女は自らがここを去ると決めた訳ではないのに、自分たちは彼女がここから消える準備をしている。なんとなく居心地が悪いのは、自分が彼女にこの場所で頑張ってほしいからだろうか。自分は、逃げ出したくせに。眼を伏せた氷川に、壱路はふっと柔らかい笑みを浮かべて囁くように言った。


「そうだね。でもこのままでも、あの子の為にはならないと思うよ」


 壱路の声は、優しい。氷川は伏せた視線を誤魔化すように紫煙を吸い込みながら天井を仰ぐ。
 自分はなんて、自分勝手だったのだろう。自分のエゴを手前勝手に押し付けて、彼女を辛い道に追い詰めようとしていた。誰に言われなくても頑張って頑張って、もう頑張れない彼女に、自分はまだ頑張れと言おうとしていた。もう頑張れないと、叫んでいたのに。きっと知っていると思っていた感情ほど、知らない感情なのだ。


「さ、氷川。もう一頑張りしてね」

「まだやんのかよ」


 呆れながらそう言って、しかし立ち上がる。さっきとは違うダンボールを漁りに行く氷川の背中に笑いかけ、壱路は眼を細めた。


「帰りに金魚、買って行こうか」

「もう店が閉まってるだろ」


 どうせ自分じゃ世話しないくせにと口の中で文句を言いながら、氷川は埃まみれのダンボールを漁り始めた。









 昨日、あの後どうなっただろう。
 心配そうな祖父にもう大丈夫だと笑って、いつもと同じ時間に家を出てきた。教室の前に立つ時は、いつも緊張する。でもきっと、今日は特別。昨日早退してしまった事から来る恐怖なのか、今日は自分を助けてくれる人間がいることから来る安堵なのかは分からないけれど、いつもと違う。それでも体は恐怖に竦む。それを無理矢理奮い立たせて、瑞穂は教室のドアを開けた。一瞬刺さった教室中の視線と、真空のような息苦しさに軽くめまいを覚える。視線を下に落として足早に自分の席に行って、机の変化を探した。昨日となんら変わっていないように見えるが、机の中にはガビョウが大量に放り込まれている。それをかき出していると、視界に影が落ちてきた。


「ちょっと顔、貸してくれる?」


 強張る体を無理矢理に動かして顔を上げれば、紗佳を中心にクラス全員がこちらを見つめていた。その中にはもちろん愛子の姿もあり、彼女をきつく睨んでから瑞穂は胸の前で手を握って紗佳を見た。


「……何?」

「アンタ、チクッたんじゃないよね?」


 尋ねられているというよりは脅されているようだった。見下すように睨まれて、呼吸が喉に引っかかる感覚を覚える。
 まただ。息が、上手く、吸えない。
 さっさと答えろとでも言うようにクラス中から視線を浴びて、瑞穂はほぼ無意識のうちに首を横に振った。


「知らない、私。どうして……?」


 もしかして、と一瞬背筋が冷たくなった。嫌な予感が背筋を這い上がってくるような感覚にぎゅっと手を握りこむ。紗佳は一度クラス中を見回して、一つ頷くと瑞穂をジロリと睨みつけた。その視線は本当かと揶揄しているようにも見える。その寒気すら起こすような視線に、瑞穂が蛇に睨まれたカエルよろしく身を竦ませて深く俯いた。
 息が、苦しい。誰か、助けて。


「昨日あの後、義朗がさ、アンタがイジメられてるんじゃないかって言ったんだよね」

「センセー、私イジメられてるんでぇす。助けてぇ」

「哲央キモッ!」


 あぁ、やっぱり。最悪の事態になった。
 妙に気が抜けて、瑞穂は頬を緩ませる。何だってこう自分の思い通りに行かないんだ。こんなに頑張ってきたのに全てを水の泡にされた。これは、誰が悪いの?


「話、聞いてる?」

「……私は、何にも言ってないよ」


 誰か、だれかたすけて。息が上手く吸えないの。水槽の中を泳いでいる金魚って、こんな気持ちなの?


「佐伯って優等生だもんなー。先生に言って自分がどうなるか、分かんだろ」

「ほぉんと、そういう所がムカつくんだけどね」


 顔を見合わせて、紗佳と哲央が耳に付く声で笑った。それにつられるように教室中が嘲笑の笑いで満ちる。ほんの少し視線を上げて愛子を探せば、笑いもせずに関わらないように輪の外れの方にいる。


「親が両方死んじゃって可哀相だねー」

「だからっていい気になんじゃんぇぞコラ」

「遺産がいっぱいあって、お金持ちなんでしょぉ?」

「教師の同情も買えるしなぁ」

「新しい先生の気も引けるしね」

「可哀想な私を可愛がってってかぁ?」


 紗佳と哲央から発せられる言葉に、瑞穂は耳を疑った。両親が死んでしまう前は普通に仲の良かったクラスメイトが、突然に変わった。そんなほんの僅かの優越感に浸るために、ここまで自分を苦しめる権利を、誰が持っているというの。怒りが湧き上がってきたというよりも頭の中が混乱して、無意識に口の端から言葉が漏れた。


「それが、理由なの?」

「は、理由? そんなもんないよ」


 何かが、壊れる音がした。自分の中で何かが弾ける音。理由なんかない? たかが貴方達の娯楽のために私はこんなに苦しい思いをしたの?全身から力が抜けて、瑞穂は笑い出したくなってその場にへたり込んだ。偶然見つけた玩具が、可哀想な自分だったってことでしょう?
 息が、上手く吸えないよ。


「……もう死んじゃいたいよ」

「じゃあ、死ねば?」


 無意識に口の端から零れた言葉にキャラキャラと笑って、紗佳が踵を返した。それに従うように全員が彼女に続いていく。愛子だけが躊躇ったが、しかし彼女もすぐに紗佳の後を追った。
 ほら、ひとりぼっち。
 床にへたり込んだまま、瑞穂は引きつる息を吐き出した。喉に引っかかって上手く息が吸えず、苦しげな呼吸を大きく繰り返す。吸っても全て吐き出しているようで。
 息が上手く吸えない。苦しい。苦しい。誰か、助けて。


「おい、大丈夫か?」


 不意に影と声が落ちてきて、大きな手で優しく背を撫でられる。顔を上げると、ほんの少し眉を寄せて表情を険しくした氷川の顔があった。


「……氷川さん」

「落ち着いて、ゆっくり息吸え」


 いつも冷たい色を宿していると思っていた瞳は優しく瑞穂を見下ろして、手の温度が心地いい。その手は自分を掬ってくれる手だと、何の確信もなく思った。









 校舎の裏で煙草をふかしながら立てた膝に両肘を預けて首だけ反らせて、氷川はぼんやりと空を見上げた。抜けるような青空はいつの間にか薄い橙色に変わっていて、もうすぐ今日が終わる事を告げている。朝は苦しそうにしていた瑞穂だが、チャイムが鳴るまでには何とか体調を取り戻していた。気になるのは、彼女が担任に向けた殺気の篭った視線。その視線には覚えがあって氷川には何も言う事はできないが、どこか心の隅に引っかかった。


「にしても、遅ぇな」


 空を仰いだまま、独りごちる。壱路は教室で彼女の痕跡を消す準備をしていた。それに抵抗を感じる氷川には適当に待っていろと言う。これは逃げている事なのではないかと思うが、逃げ道があるうちはどうしてもそちらに足が向いてしまう。
 背を預けている教室の戸が開く音がして、無意識に肩を竦めてしまった。別に生徒でもないので喫煙で注意される事もないのだろうが、何となく学校という環境が緊張を強いる。そして何より今、壱路がいない。


「悪いな、佐伯。放課後に呼んだりして」

「……いえ」


 入ってきたのが瑞穂と青山だと気付き、氷川は微かに目を眇めた。瑞穂の硬い声が聞こえる。青山という教師はどうも分からない。何を考えているのかも、何をしたいのかということも。椅子を引く音がしてやや沈黙が生まれる。先に沈黙を破ったのはやはり青山だった。


「先生は弱い奴の味方だ。だから正直に答えてくれ」


 なんと言う前置きだ。聞こえてきた声に氷川は唾を吐き出したくなった。きっと瑞穂はほんの少し不機嫌に目を歪めでもしただろう。それが容易に想像できて氷川は自己嫌悪にかられてイライラと紫煙を吐き出した。


「佐伯、イジメられてるんだろう?」

「そんな事ないですよ」


 即答して、瑞穂が笑った気配がした。分かりきった答えに、氷川は足を投げ出して、上体で空を仰ぐ。登っていく紫煙に眼を細めた。ここでイジメられていると言っても何にもならないのは誰だって分かる。そして何よりも、自分自身が認めたくはないのだろう。そんな、惨めな事は。しかし青山には分からないのか、彼が身を乗り出した気配がした。


「正直に言ってくれ。分かってるんだぞ」

「分かってたら何だって言うんですか。私がイジメられてたからって、先生に関係あるんですか」


 イライラしたような瑞穂の声。自分の声も、かつてはこうだったのだろうか。短くなってしまった煙草をコンクリートに押し付けて、氷川は新しい煙草を引っ張り出した。火を点けながら、室内の会話に耳を澄ませる。


「関係ない訳ないだろう! 俺は先生だぞ!!」


 バンと大きな机を叩く音がした。耳に響くその音に数秒送れて、椅子が倒れるけたたましい音が鳴った。


「………」

「何で先生に相談してくれなかったんだ」

「相談したら何をしてくれたんですか」


 冷めた声は、瑞穂のもの。きっと泣きだしそうなのを我慢しているのだろう、微かに声が震えている。相談したって、状況を悪化させるだけでしかない。そんな事をありありと分からせる瑞穂の声音に氷川は煙草の先端を噛み締めた。
 結局、自分のことは自分で決めるしかなかった。
彼女にはもう誰もいないのかもしれないけれど、自分の場合はあいつがいた。お人好しな馬鹿だけど、その存在にどれだけ助けられただろう。


「私はイジメられてなんてないですし、先生には関係のないことです。失礼します」


 ガタンと立ち上がる音がして、聞き取れないほど小さな会話が聞こえる。その音を痺れる頭で聞きながら、氷川は伸ばした足を左足だけ引き寄せた。膝を抱えて俯いて、肺の中身を全て吐き出すように深く深く息を吐く。
 追い詰められていた時があった。それが彼女の姿と酷似していて、自分の記憶を呼び覚ます。

『お前は自分が悪いと分かっているのか!?』

 そう投げかけられたのはいつだっただろうか。もう苦しくもない言葉だけれど、あの時の自分には確かに苦しかった。俺は、何も悪い事なんてしてないのに。


「こんな所にいた、氷川」


 地面を踏みしめる音がして視線だけ微かに上げると、髪に遮られた向こうに壱路がいつもと変わらない、あの頃と変わらない笑顔で現れた。壱路がゆっくりと氷川の前まで足を進めて彼を見下ろして笑う。


「煙草、吸いすぎだよ。体壊しても知らないから」

「……うるせぇ」


 顔を上げずに呟いて、腕を伸ばした。思ったとおり手の届く所にあった壱路の腕を掴んで引き寄せる。


「わっ」


 小さく壱路が息を飲み、氷川の胸に倒れ掛かった。それを受け止めて、赤茶っぽい色素の薄い柔らかい髪を掻き抱くように強く頭を自分の胸に押し付ける。自分はいつだって、この笑顔に助けられてきたのだと思い出した。


「ひーかわ。一緒にいてくれて、ありがとう」

「ん……」


 苦笑を含んだ声に小さく頷き、しばらくの間二人でそのまま、太陽が沈むのを待っていた。










 そのまま帰ろうかと思ったが、教室に荷物を置きっぱなしだった事を思い出して、瑞穂は教室に戻った。夕日に照らされている教室はどこか淋しげで、落書きの酷い自分の机をみたら泣きたくなった。


「あ、愛子……」


 人の気配がして振り返ると、死角だったところにかつて親友だった少女の姿があった。無意識に口から漏れた言葉を飲み込もうとしてももう遅く、愛子は申し訳無さそうに眉を寄せて瑞穂を見た。


「ごめんね、瑞穂ちゃん」

「何、が……?」


 何で今更そんな事を言うの。
 深海に押しつぶされたような瑞穂の心が、親友だった少女に驚いたような顔を向けさせた。心のどこかでは愛子がそういう子だと理解している。でも、何で今そんなことを言うの?


「私、本当はいやなんだよ。でも……私、瑞穂ちゃんのこと好きだから。だから、ごめんね」

「何を言われても、言い訳にしか聞こえない」


 そんな事言われても、嬉しい訳ないじゃない。驚いているはずなのに、声には自分でも驚くほど冷たい色が宿っていた。急いで鞄の中を確認して、掴む。


「瑞穂ちゃん……!」

「もし、新しく会ったら……」


 早足でドアまで歩いて、呟いてから振り返った。自分よりも泣きそうな顔をした親友の姿が、眼に入る。


「もしまた出逢ったら、友達になれるかな」


 愛子の答えを聞く前に、瑞穂は踵を返して教室を出て行った。段々歩調は速くなり、校舎を出る頃には本気で走っていた。本当は、まだやり直せると思っていた。まだ親友でいたい。優しい愛子が大好きだった。
 さっきまで乾いていた目から急に涙が溢れてきて、校庭の真ん中で立ち止まった。今までずっと泣けなかったのに、なんで今更。後から後から途切れずに流れてくる涙は、開放を喜ぶ涙か。それとも別離を惜しむ涙か自分でも分からなかった。辛うじて声を上げずに、瑞穂は急に重くなった足を引きずって駅に向かう。自分を掬い上げてくれる手を持つ人に、会うために。










 事務所に戻り、壱路はご機嫌に室内を見回すと新に増えた所員とも言うべき仲間ににこりと笑みを浮かべた。


「エサ、あげようか」

「その前に水を変えてやれよ」


 この間、結局買ってしまった金魚の水槽が、ラックの上に鎮座している。その前で朝と全く同じ事を言ってエサの箱を持つ壱路に、氷川がソファに寝転がって読んでいた雑誌から目を逸らし、呆れ口調で呟いた。
 朝から学校に出向いているので事務所に居る時間は短いくせに、壱路がやたらとエサを与えるので水が濁ってしょうがない。すると、壱路が不満そうに唇を尖らせて振り返った。


「そんなこと言っても、そろそろご飯の時間だよ」

「まだ七時じゃねぇか」


 時計を見やってそう言って、氷川は手探りでテーブルに置いてある煙草を手繰り寄せた。口で引き出して、最後の一本だった事に舌を打ち鳴らす。


「……氷川、来たよ」


 火を点ける為に体を起こした所で、壱路が優し気な瞳の奥に鋭い光を灯して玄関に視線を投げた。氷川が仕方なく煙草を仕舞っていると、扉が叩かれる。


「あの、瑞穂です……」


 やや間があって、瑞穂が顔を覗かせる。瞼が腫れたその顔に氷川は一瞬顔を歪めるが、瑞穂はにっこりと微笑んだだけだった。彼女の顔には決意のような、どこか諦めのようなものが浮かんでいて、氷川は無表情を取り繕うと彼女に座るように促した。彼女に自分のエゴを押し付けてはダメだ。


「助けて、ください」


 はじめこの店で見せたのとは全く違う、何も恐れてなどいないような目で、瑞穂は正面に座っている壱路と氷川を見た。
 迷いも恐怖もないのだろう。彼女の声は震えてはいなかった。


「僕たちに何をして欲しいのかな」


 初めて瑞穂がこの店を訪れた時と同じ問いを、壱路も返す。氷川はただ黙って二人の言葉に耳を傾けていた。口を挟んだら、彼女を否定する言葉が出てきそうだった。逃げずに、戦って欲しいと。そう思っていた。


「みんなの記憶から、私を消してください」

「消して、どうするの?」

「一からやり直してみたいんです」


 逃げるのではなく、新たに戦いたいのだと。一度だけ向けられた視線はそう物語っているように思えて、氷川は微かに視線を落とした。長い髪が逃げるように視界を遮る。
 自分は逃げたら負けだと思っていた。挑む以外の方法があるとは思わなかった。今から過去を変えることなんて出来ないけれど、もし過去の自分が知っていたら遠回りでも違った道を歩く事ができただろうか。自分は、間違っていたのだろうか。


「そう、分かった。じゃあこの白い粉をおじいさんに飲ませてね」

「何の粉、ですか?」


 瑞穂の声を聞きながら、氷川は自嘲めいた笑みを刷いた。自分は結局、自分以外の生き方はできないだろうから、ほんの少し彼女が羨ましい。


「記憶を消し飛ばす薬だよ。ご近所とかには水道水に混ぜて撒き済みだから、安心してね」

「ありがとうございます。……氷川さん」


 頭を下げて、瑞穂が真剣な面持ちで氷川を見つめた。彼女からほんの少しだけ視線を逸らして、顔を上げる。瑞穂は微かに俯いて、しかし直ぐに顔を上げて氷川を真っ直ぐに見据えた。


「一つだけ、お願いを聞いてもらえませんか?」

「あ?」

「頭を、撫でてください」


 唐突なお願いに瞠目して、視線を壱路に向けてみた。しかし壱路はにこりと微笑んで頷くだけ。内心舌を打ち鳴らしたくなりながらもぎこちなく腕を持ち上げて、壊れそうな少女の頭をゆっくりと撫でる。


「氷川さん。私、貴方の手は私を救ってくれる手だと思いました。失礼かもしれないけど、私たち、きっと似ている」

「……そうかもな」


 はっきりと顔を見て言われて、無意識のうちに氷川は柔らかい笑みを浮かべた。一つ頷くと満足そうに瑞穂が身じろぎ、礼を述べて立ち上がる。


「ありがとうございました。もう、来ません」

「そう、頑張ってね」


 壱路が微笑むと、瑞穂はもう一度深く頭を下げて事務所を出て行った。手にはしっかりと粉の入った袋を握り締めて。階段を下りる軽快な足音を聞きながら、氷川はずるずると倒れ込んだ。膝の上に落ちてきた長髪を何とはなしに撫でながら壱路が微笑むが、氷川の目は閉じられていて見ていなかった。


「おつかれさま」

「………」

「今夜は奮発して、スキ焼にでもしようか」

「………」

「ネギ、いっぱい入れてね」

「……俺がやんのかよ」


 やや呆れながらも苦笑して体を起こした氷川に微笑んで、壱路は水槽に視線を移した。元気に泳ぎまわっている二匹の金魚が眼に入る。ぶつぶつと文句を言いながらエプロンを探す氷川に、壱路は笑いかけた。


「金魚の名前、リホにしようか」

「もう一匹はどうすんだよ」

「ミズホ。いいでしょ?」

「いいんじゃねぇの」


 濁った水槽に視線を投げて、氷川も苦笑を浮かべた。
 きっとこれから金魚の世話は自分がするんだろう。でもそれも良いかと、そう思えた。





-焉-

余りにも長いので前後編です。
それにしても青山先生ウザイですね。