バイト募集の雑誌を見て、藤堂氷川はソファに寝転がったまま溜め息を吐いた。雑誌と言っても駅前で配布しているあれだ。こんな物で目下の問題が解決されるのだろうか。この問題は自分にとっても『不思議屋』にとっても由々しき事態なのだが。


「まぁた氷川は溜め息吐いて。しあわせ逃げちゃうよ?」

「幸せ掴む為にやってる気がすんだけどな」


 じろりとのんびりテレビを見ている壱路を睨んで溜め息混じりにそう言って、氷川は再び雑誌に視線を戻した。本当にこんなものでどうにかなるのか。何度思ったか分からない事をまた思い、氷川は何度目か分からない溜め息を吐く。
 その時、ボロボロの扉が武骨な音を立てた。曇り硝子の向こうに人影が立っている。壱路と一緒に顔を見合わせて、氷川は腹筋で起き上がってドアを開けに行く。


「いらっしゃいませ?」

「あの、バイト募集の広告を見たんですけど……」


 目の前の気弱そうな青年をみて、思わず氷川は目を瞠った。まさか、あんな物で本当に来るとは思わなかった。驚いて他人からはそう見えないだろうが呆然としつつ青年をとりあえず中に促すと、お茶を啜りながらテレビを見ていた壱路はにこりと人のよさそうな笑みを浮かべて言った。


「氷川、ご飯」

「………勝手に食え」


 大事なバイト志望を無視して何抜かすと氷川がじろりと睨むと、壱路は肩を竦めて奥へ行った。おいおい、本当にバイト志望ほっといて飯かよ、と思いながら氷川は青年をソファに促し茶を淹れて彼の前に置いた。
 不思議屋は、だいぶ危ない状態になっていた。仕事は滅多いないし、あったらあったで相当なリスクがある。だから朝から晩まで神経を張り詰めていなければいけないし、その上炊事洗濯掃除とやる事は山積みだ。こんなのではそろそろ体力的にも命も危ない。だからバイトの募集を出したのは氷川だし、壱路は元から乗り気ではなかった。しかし、一切の家事をやらされている氷川にとっては死活問題だ。壱路にずっと味方だと言った以上、仕事を一人でやらせる訳には行かない。彼は、いつ何をしでかすか分からないから。


「えっと、バイト募集?」

「はい、野上章一です」


 壱路がパンを銜えながら戻ってきた。不機嫌な顔をしながら隣に座るので氷川が茶を淹れなおして壱路の前に置くと、無言のままもぐもぐと口を動かす。それを横目に見ながら、氷川は青年を眺めた。野上章一と名乗った青年は大学生くらいだろうか、ひょろりと細長い体に大き目の鞄を持っている。長い前髪と分厚い眼鏡は根暗な印象を受けるが、もともと怪しい商売なので見目麗しい奴が来るとは思えないのでルックスはスルーする。頭もあまり良さそうではないが、大丈夫だろうか。


「何か出来るか?」

「いえ、特に。でも一応車の免許は持ってます。これ、履歴書です」


 差し出された履歴書を見ると、横から壱路が覗き込んできた。肩に乗った頭に何気なく手をやって氷川がちらりと壱路に視線を向けると、壱路は唇を尖らせて視線をあからさまに逸らした。
 本当に何のとりえもない人間を、氷川は初めて見た気がした。三流高校出身で三流大学在学中の21歳。特殊能力を書く欄がないからハッキリは言いがたいが、まさか超能力を持っていることはないだろう。


「一番大事なこと聞くが、命の保障はしかねる」

「はい?」


 真面目な顔で告げたにも拘らず聞き返されて、氷川はイラッときた。元々短気なので聞き返されることが大嫌いだし、いつも交渉の類は壱路が担当している。しかし今回は自分がやならければならないので、落ち着くために煙草に火を点け、大きく紫煙を吐き出した。
 落ち着いてから再び口を開こうとして、隣から壱路に制された。にこりと微笑んだ壱路が足を組んで片眼鏡を直す。


「野上君、不思議屋の志望理由は?」

「……金が欲しいんです」


 壱路の笑みに章一は一瞬躊躇ったが隠しても無駄な事を悟ったのかはっきりと言った。不思議屋のバイト広告の給金は、壱百万。しかし仕事の日は不定期で時間も決まっていない。そんな怪しげな広告だったのだから来る人間も何かしら理由があるのだろう。
 真面目に言った彼に、壱路は微笑んだまま言った。


「若いうちは命を大事にした方がいいよ」


 俺らも十分若いけどな、と氷川は思ったが口に出さなかった。極道の方々と銃撃戦になったのは記憶に新しい。でも氷川としては事務所の留守番と電話番と炊事くらいをして欲しかっただけだ。事務所襲撃等の危険があるからそう言っただけで、仕事事態に引っ張り込もうとした記憶はない。


「まぁ、もう少し考えてまた連絡します」

「はぁ……。よろしくお願いします」


 あまり納得していないようだが頭を下げた章一に壱路は微笑み、氷川は微かに眉を顰めた。
 どこかしょぼんとした彼の姿を立ち上がることもせずに見送って、無情にところどころ塗装の剥げたドアが閉まる。ドアが閉まってから沈黙が訪れ、居心地の悪さに氷川は食事を作りに立ち上がろうとした。しかし袖を掴まれて立ち上がれず、壱路の手が頬を包み込んだ。


「一つ聞くけど、何でバイトの募集なんてだしたの?」

「何度も言ったけど、忙しいから」

「氷川のご飯以外食べない」

「お前な、」

「氷川以外いらないもん……」


 近づいた顔が泣きそうに歪み、続けようと思っていた言葉を氷川は飲み込んだ。近づいた顔は氷川の胸にぬくもりを落とし、拗ねた子供のようにぎゅーっと腰を抱きしめられる。その背をぽんぽんと撫でながら、氷川は青年が残していった履歴書を指でつまみあげた。
 自分たちはお互いに、依存しているのだから。


「そうだな」

「じゃあバイトなしね」

「そういう問題じゃねぇだろ」


 呆れを含んだ声でそう言うと、壱路が不機嫌な顔で見上げてきた。その顔が幼い頃と変わらないことに安堵と焦燥を、氷川は覚える。
 氷川の手から履歴書を奪い取ると、壱路はぐしゃぐしゃとそれを丸めてゴミ箱に向かって投げた。しかし縁に当たって跳ね返る。それを見た氷川は大きく溜め息を吐き「飯食うんだろ」と呟いて立ち上がり、背を向けた氷川に壱路は微笑を浮かべて自分で投げた履歴書を拾い上げた。










 事件が起こったのは、章一が再び現れたその日に起こった。しとしとと雨の降る日に、バイトを断る旨の電話をしたところ詳しい理由を聞きたいと事務所を訪れたのだ。第一印象が頼りなさ気な青年だった割りに、第二印象はなよなよしているになった。


「あの、どうしてですか?」

「役に立たないから」


 彼の思いつめた顔に壱路がにっこりと笑顔を浮かべて言い切った。追求を許さないその笑顔に章一は俯き、微かに体を震わせる。壱路の笑顔の恐ろしさを知っている氷川はまさか泣かしてしまったかと思ったが、その瞬間に彼の隠れた目から雫が零れた。それをみて氷川は硬直するが、壱路は微笑んだまま章一を見つめた。微かに唇を振るわせる。


「……理穂ちゃん?」

「は?」


 壱路の口から小さな声で漏れた呟きに氷川が思わず声を漏らすと同時に章一の体がびくりと震えた。
 半年ほど前だろうか、病気だという少女を元気にするという仕事をした。その少女の名がなぜ今頃出てくるのかと目を瞠るとその視線に気付いて壱路が視線で章一を指した。不可解な顔をしたまま視線を移すと、章一の体が傾いで、彼の上空にぼんやりとしたもやが現れて人の形を取る。


「どうして分かったんですか?」

「う−ん、気かな?」


 少女の形を取ったもやは知った声で尋ねた。まるで普通の人と話しているように壱路が笑う。その隣で氷川が固まっているが誰一人気にしない。というかこの場で生きている人間は壱路だけなので全く気にしない。
 もやの形が段々はっきりとした人型を取り、見覚えのある少女の姿になった。白い肌とふわふわの髪は、生前と変わらない。


「どうしてここにいるのかな?」

「私、成仏できなかったんです」


 数々の超現象に職業上出会っている氷川は漸く落ち着きを取り戻した。無意識に煙草を引き寄せてニコチンを摂取し、頭を回転させる。今目の前にいる三枝理穂は、幽霊だ。よし、分かったらもう怖くない。
 ちらりと浮かんだ理穂が視線を向けてきたので氷川は微かに首を傾げた。


「私、氷川さんにこのまま死んじゃってもいいって言いました」


 微かに震えた理穂の声に、氷川は視線を天井に泳がせた。彼女と遊園地に行ったとき、そんな話をした。ずっと病院のベッドの上で生活して、楽しい事も知らない代わりに辛い事も知らない少女。あの時、幸せを一杯味わって、死という絶望に沈んでいった少女に尋ねた。「幸せだったか」と。その時は理穂は死んでもいいと答えたが十二才の少女がそう簡単に死を受け入れる訳がない。


「でもやっぱり死にたくなくて、怖くて……」

「成仏できないんだね」


 壱路が優しい言葉で問いかけると、理穂はこくんと頷いた。震える声は彼女が泣いていることを教えてくれるが、幽霊の彼女は涙を流さない。


「理穂ちゃんはどうしたいの?成仏させて欲しいのかな」


 壱路が言うと、理穂はぶんぶんと首を横に振った。壱路が「じゃあ何がして欲しいの」と問いかけると、理穂はちらりと氷川に視線を向ける。その視線を妙に居心地が悪くて氷川は紫煙を吐き出しながら目を閉じた。震える理穂の声が、鼓膜を揺らした。


「ここに、いさせてください」

「ここに?」

「もっとたくさんの事を知りたかった。できれば、お二人のそばで」


 俯いた理穂をみて考えるように壱路が視線を彷徨わせる。短い沈黙の間に聞こえたのは外から聞こえてくる雑踏の音と、水槽の電気音。長いような短いような沈黙の後、壱路はにこりと微笑んで理穂を見た。その笑顔に理穂がびくりと体を震わせる。


「いいよ。いらっしゃい、不思議屋へ」

「ありがとうございます……」

「でもその姿は不便だから氷川、押入れにフランス人形あったよね?」


 当初の目的からだいぶ逸れて見つかったバイトに氷川は嘆息して押入れに押し込んであるはずのフランス人形を探すために立ち上がった。
 お互いに依存して相手しかいらないと思って、誰も入ってくることを許さない空間があった。その中に入り込んできた異物とでも呼べるような少女の霊。それがこの空間にとって歪みを起こすのか穴を開けるのかは分からないけれど、万物は変わり続けるから、変化を恐れてはいけない。





-焉-

理穂ちゃん再来。
フランス人形を抱えるのは主に氷川の仕事です。