夜の九時を過ぎると空はもう暗かった。けれどそんなことは少年には関係ないように、ランドセルを脇に置いてブランコを足で漕いだ。一目で良家の子息だと分かる制服を着ている少年は十をこえたくらいだろうか、幼い顔立ちをしていた。
 家に帰る気が起きずに、塾が終わるまで公園で時間を潰しているのだ。それはもう何日も続く日課だった。一度時計を確認するがまだ九時になったばかりで、塾が終わるまで1時間以上あった。深く息を吐き出す。


「ボク、こんな時間に何しているの?」


 不意に落ちてきた人影と優しそうな声。驚いて顔を跳ね上げた。この時間に声をかけてくる人間は警察しかいないと思って慌てたけれど、見下ろしてきている人影は若い青年だった。茶色がかった長めの前髪の奥にある片眼鏡の更に奥から優しげな瞳が見えてひどく安堵した。もしかしたらこの人は、救世主なのかもしれない。ただぼんやりと彼を見ていると、その人はにこりと笑って隣のブランコに腰を下ろした。腕に抱えている紙袋からはネギが飛び出していて、何だか妙にちぐはぐな映像にほんの少し心が軽くなった気がした。


「こんな時間に、家出かな?」


 答えなかったからだろうか、彼は顔を覗き込む仕草もせずにそう問いかけてきた。別に家出と言うわけではないけれどと思っているが、名門小学校の制服を着て日が落ちてから一人で公園にいる理由は家出くらいしか思いつかないだろう。けれどやはり答えは浮かんでこなくて、だってこれは家出ではなくただ時間を潰しているだけで。嘘でも何でもいいのに返せる答えが思いつかずに俯いてしまうと、軋んだ金属の音がした。


「僕の名前は南壱路です。怪しい人じゃないよ」

「………そうですか」


 少年自身、気が利かないぶっきら棒な答えだったと思う。けれど名乗った青年は「そうですよ」と軽く笑みを含んだ声音で言って、数度ブランコを漕いだ。金属音だけで変な沈黙が落ちてしまった。こんな所で見ず知らずの子供に構ってないでさっさと帰ればいいのにとかそのネギは味噌汁になるのか薬味になるのかどっちだろうとか考えていると、不意にブランコを漕ぐ音が止まった。


「君、困ってるでしょ」


 驚きすぎて、固まってしまった。軋んだ音でも立てそうなくらいぎこちなく顔を青年の方に向けると、彼はにっこりと笑顔を浮かべていた。笑顔なんだけれど、見ているこちらが寒くなるような、そんな笑顔。どうしてだろうと逃げたくなる視線を懸命に動かしてみると、彼の眼が笑っていない事に気づいた。上っ面しか笑っていない顔。まるで、少年と一緒。
 瞠目して目の前の偽物の笑顔を見つめたまま固まってしまうと、壱路は笑顔を少し困ったように歪めて自分の職業を語った。彼が不思議屋という店を経営している事、その店は要するに何でも屋で、金さえ積めばどんな事でもする事、そして新宿の裏の裏治外法権の発動する場所に店を構えている事。その言葉を聞いた瞬間逃げたくなったが、体は意に反して動かなかった。逃げたいけれど逃げたくない。このままでいたい助けてもらいたい。相反する二つの感情が胸のうちでせめぎあっているようだった。


「助けてあげられるよ。気が向いたらおいで、こんな時間にその格好は危ないしね」


 笑って壱路が立ち上がった。何のためらいもなく前触れもなく歩いて行ってしまいそうだったので、半分反射で彼のロングコートを掴んでしまった。振り返った壱路の顔は驚きでも何でもなく、ただただ穏やかな笑顔が浮かんでいた。










 彼の仕事場だという廃ビルのようなボロいビルの二階。ところどころ錆びた扉が何故か彼は違う世界に住んでいるのだと少年を納得させた。曇り硝子の向こうから鈍い明りが漏れてきているので人がいることが分かるが、なかったらただの空室だと勘違いしてしまうだろう。それほどに人がいる気配がしなかった。壱路が袋を持っていない方の手でドアを開けて、中をキョロキョロと見回した。


「氷川?ただいま」

「遅ぇ。ネギ買ってくんのにいつまでかかってんだ」

「ごめんごめん、お客さんだよ」


 ソファの上の塊が動いたと思ったら、不機嫌そのものの長髪の青年がやはり不機嫌な声で呟いた。壱路に向けていた視線を顔を覆う髪を掻き揚げながら後ろに少年に移すので驚いて数歩後ずざる。壱路がにこにこ笑って氷川と呼んだ青年にネギの飛び出した紙袋を渡して彼の隣に座った。正面に座るように目で促されて、半ば無意識にかび臭いソファに座るとソファの左側、窓際に近いところに置いてある大きな机の上に座っている古ぼけたフランス人形が僅かに動いた。


「新しいお客様ですか?」

「そうだよ」


 え、今人形が動いた?動いたって言うか喋った?目を凝らしてもやはりそれは人形で、だとしたらそんな機能が内蔵されているのだろうか。けれど大の大人がにこにこと人形と会話をしているのは事実で、何が何だか顔には出さないけれどパニックになってしまった。いつからか、顔に感情を出すのが苦手になっていたのだ。
 黙っていた氷川が、ネギを隣に置いてテーブルの上の煙草を大きな手のひらの中で遊ばせながら苦々しく顔を歪めて低い声をだした。

「犬猫拾ってくるみてぇにガキ拾ってくんじゃねぇ」

「やだなぁ、拾ってきたんじゃないよ」

「元のところに返して来い」

「え、お客様じゃないんですか?」


 三つの声が不機嫌と笑みと驚きとを含んで聞こえて目眩がした。ここにいるのは三人だけで自分は口を開いていなくて、けれど聞こえる声は三つ。そのうちの一つは、甲高い少女のような声だった。
 パンパンと壱路が手を叩いて話を打ち切り、正面を見てニッコリと笑った。無造作に手を組み合わせて膝の上に乗せる。それから例の、見ている方が怖くなるような笑顔を浮かべた。


「お名前を訊いていいかな」

「……境亮介です」


 一瞬背筋が凍るかと思った。あの笑顔に心臓を打ち抜かれるかと、そう思った。けれど目を離す事も出来ない視線が絡み付いて窒息しそうになる。これが蛇に睨まれたかえるって言うのかな、なんてどうでもいいことが頭を過ぎった。


「ここに来たのも何かの縁だし、助けてあげる」

「あ、あの……」

「何も言わなくていいよ。全部分かる。ほら、これを見て」


 すっと差し出されたそれは、ただの紙だった。否、紙の中心に黒いインクを垂らしたような模様だろうかついている。どこを見ていいのか分からないけれど何となく模様に目が行ってそれをじっと見つめていると、段々視界がぼんやりとしてきた。壱路の「耳を塞ぐよ。音楽を聴いて気分を落ち着けて」という声がしてくるので待っているとすぐにイヤホンが当てられる。奥からノイズのような音がしてきた。ぼんやりした意識のまま黙って点を見つめていると、耳の奥からママの冷たい声が反射するように響いてきた。
 小さい頃から「勉強勉強」としか言わないで、目標は東京大学現役合格。一流企業に就職してエリートコースをひた走る。それが、ママの夢。そしていつの間にか、亮介の夢にもなった。だから家族で出掛けた記憶なんてない。でも本当は、ママの人形になっていただけだって分かっていた。反抗できないのは、それでも愛情を信じていたかったから。ママが愛してくれていない事を知っていたのに、愛していない事を心の奥で分かっているのに。
 妙に冷めた気分でママの声を聞いていると、不意に意識が遠くなった。


「さて、効いたかな」


 テーブルに突っ伏すように眠ってしまった亮介の体を軽く揺すって、壱路はそう呟いた。実際事が始まってしまえば氷川は働くので、億劫そうながらも少年をソファに横たえる。氷川自身良くないとは思ってはいるが、壱路に逆らう気はなかった。いつまでも壱路の味方でいると誓ったのは氷川からで、口にしなくても当たり前のように隣にいるのだから。
 壱路は棚の奥からヘルメットに配線のたくさんついたものを上機嫌に持ってくると、亮介の耳からイヤホンを乱暴に引っこ抜いて代わりにヘルメットをかぶせた。


「もうちょっと丁寧にやれよ」

「面倒くさいんだもーん」

「にしても、珍しく無償仕事か?」


 ヘルメットから伸びる配線を古びたテレビに繋ぎながら氷川は軽く笑って見せた。不思議屋は普段から非現実的な金額を請求する。こんな如何わしい店に物事を頼むのはそれ相応の人間だから普段は気にしていないしこちらもそれなりに身を危険に晒しているので普段は全く気にしていないが、こんな子供からそんな金が取れるとは思っていなかった。ちなみに理穂の時も相応の金は取っている。
 配線を繋ぎ終えて、テレビを点けた壱路の隣に座るとテーブルの上で大人しく鎮座していたフランス人形がぴょんと飛び降りて見事にソファに着地した。住み着いた当初は禄に動けなかったのにと氷川は口の端を歪めるが、当の理穂は一生懸命氷川の膝の上に登ってきていた。


「だってこの子、あの鷹丘学園の制服きてるんだもん。後で身代金要求しようよ」

「鷹丘学園って、東大合格率八十パーセントとかって言う?」

「そう。相当のお坊ちゃまだよ。氷川、ご飯食べながら見よう」


 にこにこと当たり前のように犯罪に走ろうとしている相棒に呆れながら、氷川は理穂を壱路の膝に移して自分は紙袋を抱え上げた。確かに夕食の準備をしている途中で薬味が無いことに気付いたから買いに行ってもらったのだ。腹も減ったしと氷川は亮介の夢の中を移しているテレビに背を向けてエプロンを手にとって台所に向かった。










 ふっと我に返ったら、自宅の前だった。時計を確認しても十時三十分いつも塾が終わる時間を待って家に帰るのと同じ時間だった。今日は寄り道をした気がしたのだけれど、ブランコの上での妄想だったのだろうか。興味のないことはどうでもいいから特に深く考えずに鍵を使って玄関のドアを開ける。光は漏れてこなかったので、まだ誰も帰ってきていないんだろう。パパはいつも仕事で遅いし、ママもどこかに出掛けている事が多い。本人は隠しているつもりだろうけれど、パパ以外の男と遊んでいるのは知っている。息子から奪った自由をママが使っているようで、なんだか今日はイライラした。


「……ただいま」


 誰もいないことは分かっているけれどそう呟いてリビングに行くと、テレビだけが点いていた。誰かが帰ってきたのだろうかと部屋を見回してもやはり誰の帰ってきた気配もなかった。ママがお風呂にでも入っているのだろうかと思ったけれど、テレビだけが点いているのは不自然だった。
 その時、玄関の扉が開いて誰かが帰ってきたようだった。パタパタとこの足音は、ママのものだ。入ってきたのは案の定ママだった。


「あら、帰ってたの。今日は早いのね」

「ママも、お帰り」


 テレビが点いている事を気にも留めずに綺麗にお化粧したママは亮介を不審そうに見た後に黙ってリビングの電気を点けた。ハンドバッグを皮製のソファの上に放り出し、キッチンで手を洗う。水音を聞きながら亮介が今日塾で貰った宿題のプリントを保護者への手紙と一緒にバッグから引っ張り出すと、何故か明日返ってくるはずのこの間の模試の結果まで出てきた。貰ったはずないのに、まだ返ってくるはずないのに。ドキドキしてみると、いつもと同じ点数と偏差値が書いてあって少しほっとした。


「今日学校でテストがあったんでしょ?どうだったの」

「う、うん。いつも通りだよ」

「今回こそは一番とれるんでしょうね」


 全国でもトップクラスの鷹丘学園に通う亮介の成績は、学年で二位だ。入学してから四年間一度たりとも抜けないが、亮介はその生徒が嫌いではなかった。けれど毎回ママは一番になれという。きちんと頷けなくていつものように曖昧に頷くと、ママは手を拭きながらソファに座り適当にテレビのチャンネルを回した。遠慮がちに隣に腰掛けてプリントを差し出すとママは溜め息混じりに呟いた。


「何の為に高い学費だして塾にも通わせてるのか分からないわ」


 そういうことを言うから、疲れちゃうんだよ。普通の子には無理な事を言わないで、ママだってパパだって普通の人なんだから、その子供が普通なのはしょうがないじゃないか。自分に出来ない事を過度に子供に要求するのはやめてくれ。言いたいことはたくさんあったけれど、それを口にすることはできなかった。それをしたら、全てが壊れてしまいそうだったから。

『壊しちゃいなよ』

 不意に、耳の向こうから聞いた事があるような声が聞こえた気がした。どこで聞いたかは思い出せないけれど、何となく聞いた声があるような、強制力を持った声だった。妙に渇いた口を開いて否定の言葉を出そうとするが、聞こえたのはママの驚いたような声だった。


「やだ、三者面談があるの?あんた塾でちゃんとやってるでしょうね」


 ママは、亮介の顔を見ない。顔は見ないけれど成績表は見る。もしかしたら成績という形のある評価が好きなのかもしれない。だったらママに必要なのは亮介なんて人間じゃなくて、成績のいい息子なんじゃないかな。やっぱりいらない子なんだ。だったら、ママが要らないね。
 こんなことを考えたのに、間違えたとは思わなかった。本当にママがいらないと思ったし、ママがいなくなるのが当たり前のように思えた。耳元で「殺しちゃうの?」と声に訊かれたから、躊躇うこともなく「うん」と答えた。すると、バンと渇いた音が鼓膜を破るほどに強く揺らした。これが驚きに目を瞠ってぐらりと傾ぐママを見ながら、ただ鉄砲の音は案外渇いているんだなと思っていた。





-続-

壱路は頻繁に犬猫を拾い、そのたびに氷川に怒られます。