まるでホラー映画の一場面でも見ているような気分になって、氷川は分からない程度に眉を寄せた。何だって食事しながらこんなグロテスクなものを鑑賞しなきゃならないんだ。しかも、野郎二人で。
 壱路が亮介を眠らせて機械を取り付けたのは、三十分ほど前だろうか。食事をしながら、彼の見ている夢を鑑賞していた。氷川は今日の夕食が蕎麦で心底良かった。ミートソーススパゲティとかだったら食べられたもんじゃない。こんな、母親殺しの現場を見ながら。


「子供って楽しいね、悪事を簡単にやってのける」

「そうさせてんのはお前だろ」


 何が楽しいのか隣でにこにこと笑っている相棒に目を眇めて、氷川は食器を片付け始めた。壱路はとても残酷だ。笑顔の下できっと誰よりも現実を残虐に見ている。理想を空想する氷川なんかよりも、よっぽど。亮介が母親を殺したのだって、彼の意識に侵入して唆したからだ。壱路本人は「亮介君本人が決めた事だよ」というだろうが、壱路が殺した事にはかわらない。あれは、壱路の理想でもあったから。だから今、きっとあの映像を誰よりも楽しそうに眺める事ができている。氷川になんて思いも寄らないほど、純粋に楽しんでいる。
 氷川がもう一度テレビの画面に視線を移すと、亮介がお互いに向かい合っているところだった。










 ママが死んだ。正確には、殺された。三流ホラー映画なみの陳腐さで、銃声がした後にゆっくりと体が崩れた。亮介が恐る恐るどす黒く染まったママの胸元に手を伸ばしてみると、生温かくて粘着質の液体がびちゃりと手を汚した。その感触に背筋が凍る。足の先から凍るような、これを恐怖と呼ぶのだろうとへんなところで感心していると背後からクスクスと笑う声が聞こえた。


「死んだね」


 その声の主は誰か分かったけれど認めたくなかったから中々振り向けないでいた。けれど暗がりの中でママが大きく目を見開いて掠れる声で「あんたのせいで」と言って亮介の肩の向こうを見るものだから、やはりママの目には僕は映っていないんだと思って振り返ってしまった。予想していたけれど認めたくなかった予想が事実となって目の前に突きつけられて、吐き気がしてきた。
 やっと振り返った亮介に、亮介は無表情に倒れて冷たくなろうとしている塊をゆっくりと指差した。その先には、さっきまで煙を吐き出していた凶器がある。そのままでクスリと笑った。


「これからどうしようか」

「お前が殺したんだ……」

「亮介が殺してって言ったんだ。亮介が殺したんだよ」

「違う!お前が殺したんだ」

「そうだよ、でも亮介だ。だって僕も亮介だもん」


 ママを殺した。それは悪い事だ。なんで。だって、サツジンは悪い事だから。なんで。だって、法律で犯罪だって定めてるから。なんで。人の命は、そんなに軽くないから。でも。ママがいけないんだ、子供を道具のようにしかみていなかったから。でも。殺した罪は消えないんだ。このまま警察に捕まって牢屋に入れられて、シケイになる。そして、おわり。
 でもママはずっと子供を道具としか見てなくて、成績だけがすべてだった。母親失格は罪じゃないのか。ママがいなくて誰が困る。誰も困らないじゃないか。悪い事なんてしてない。ママがいないほうがいい。ママは必要ない人間なんだ。それを退治しただけ、悪い事なんてしていない。


「どちらにしようともう遅い。殺人犯になったんだ」

「あれは僕じゃない……僕じゃない!」

「亮介だよ。折角邪魔なママを殺したのに、本末転倒?」

「うるさい!」


 確かにママはもう動かない。立派な凶悪犯になった。けれど今はママがいないことを嘆いている場合じゃない。そもそもママがいないことを嘆く方法が分からなかった。悲しいという感情も嬉しいという感情も全てこそげ落ちたようで、喜ぶべきなのだろうけれどそれよりも先に自分の犯した罪の後始末を如何にかしなければならないのだと焦っていた。折角自由になったのに、本当に世界の終わりだ。まずしなければならないのは、証拠の隠滅。冷静にそう思えた。


「亮介、母さん。帰ってるのか?」


 玄関のドアが開いた気配はしなかった。けれど突然聞こえたパパの声に体が勝手に萎縮した。このままリビングに入ったら血まみれのママの存在がばれてしまう。パパは息子が殺人犯だと気付くだろうか。いや、気付かないかもしれない。あまり顔をあわせたこともない、戸籍だけの父親だ。いつだって仕事仕事だと家にいなくてママが執着している成績にだって関心を示さなかったのだから、今更息子のことに関心を示すとは思わなかった。けれど、ママを殺したのだとばれるのは怖かった。


「誰もいないのか?」


 リビングに入ってきたパパと眼が合ったのと亮介が「殺しちゃえ」と言ったのと銃が唸ったのとは、同時だった。初めて撃った銃は思ったよりも大きな音で思ったよりも衝撃を受けた。よくマフィア映画とかであんなに撃てる。パパが床に倒れた音で、銃が自分の手の中にあることに気付いた。これで、パパを、撃ったんだ。


「さぁ、これからどうする?」

「どう、する……?」


 楽しそうな自分の声と、震えている自分の声。繰り返した声が本物の己の声だと自覚はしたけれど、もう一つの声も間違いなく自分の声。心の底で望んで生まれた、もう一人の亮介。きっと心で現状を否定した所で心のどこかでこうなる事を望んでいたのだろう。本当は分かっている。わがままだけれど、正直な惨事だ。
 これからすることはたくさんあるだろう。まずパパとママの死体の処理。それから、自分の生活。塾と学校をやめようか。でも唯一自分の上にいる学年主席のあの女の子と会えなくなるのは少し淋しい。パパの会社にはどうしよう、これからの生活は。きっとさっきの銃声を聞いて近所の人が警察に通報したかもしれない。そしたら本当に通報されて、刑務所に入れられる。その前に、逃げなくちゃ。どこへ。どうやって。


「みんなみんな、殺しちゃえ」


 誰かに捕まるのなら、その人間を。邪魔するのなら、その人間を。みんな、殺してしまえばいい。囁いた亮介に亮介は頷いた。そうして総てを殺して、殺して。そして最後には誰もいなくなって、そして誰にも愛される事なく愛すことなく、死んでいく。そう考えた瞬間ママを殺した時よりももっと深い恐怖を感じた。やっぱり嫌だ、一人は嫌だ。でも誰も助けてくれない。殺人鬼だから。最後は一人ぽっちになって死んでいくなんて、耐えられない。何がいけなかったのかなんて考える暇はない。悪かったのは、ママを殺した自分自身。
 自らの目からボロボロ零れる涙に気付かなかったけれど、向かい合っている亮介が泣いているのは見えた。そして、原因である亮介に手にした銃を向ける。お互いに。









 ザーッと砂嵐の映り始めたテレビの電源を切って、壱路は大きく息を吐き出してクスクスと笑い出した。本当に、子供は面白い。何のためらいもなく殺し、そしてドツボに嵌っていく。氷川に言わせたら趣味が悪いというだろうけれど、壱路はそうは思わない。子供だからこそ、感情に素直に行動しているのだ。それが僅かに羨ましい部分ではある。
 一しきり笑い終わると、膝の上で眠ってしまった氷川の髪をくしゃくしゃと指の先でかき回してみる。夕食を終え並んで彼の夢を盗み見ている間に氷川は飽きて眠ってしまった。初めはソファに寄りかかっていたけれど気付けば壱路の肩に頭を乗せて。だから壱路は少し動いて膝に乗せてしまった。氷川が離れるんじゃないかと不安なるのは、もうたくさんだったから。


「壱路さん、何がそんなに楽しかったんですか?」

「後先考えずに殺して、最後には耐え切れずに自分を殺しちゃう所かな」


 フランス人形の不思議そうな声ににこりといつもの笑みを刷いて答え、今度は氷川の肩を揺すってみる。すると不機嫌な唸り声が聞こえてきた。もともと氷川は眠る事が苦手で、特に壱路以外の人間の前で眠る事を極端に嫌がる。けれど代わりに壱路の傍で寝るときは大抵無防備になっているし寝起きが最悪だった。壱路では手に負えないほどの悪さではないけれど、その類である事には変わりない。理穂ちゃんがいるのになぁとか思っても人形は数に入らないと以前氷川本人が言っていた。


「眠り姫には王子様の口付け、かな」


 悪戯に笑ってじーっとこっちを見てくる理穂にウィンクすると人形の癖に頬を染めて小さな手で顔を覆った。けれど指の間から見えている。面白い事をするなと思いながらも期待に添わないのは申し訳ないような気がして氷川の顔に掛かる長い髪を掻き揚げてそっと顔を近づける。けれど、唇が触れる前に力の限り顔を押し返された。


「てめぇ……その眼鏡割んぞ」

「氷川の髪バリカンで刈るよ。それでもいい?」


 「何言ってんの」的な上から目線で言われ、氷川は押し黙った。何だってこうも偉そうな発言が出来るんだ、そもそも髪刈るってどういうことだ。理不尽な要求に寝起きの不機嫌さと相俟って顔を歪めていると、加害者であるはずの壱路がにこりと笑って「おはよう」とか言った。文句の一つでも言いたい所だがその笑顔に毒気を奪われ、代わりに煙草に手を伸ばす。


「……ガキは?」

「そろそろ目が覚めるんじゃないかな。って何、氷川」


 ふーんと興味無さそうに返事した割りに、氷川はおもむろに片腕で壱路を抱き寄せた。無理矢理顔を心臓の上に押し当てて、けれど何も言わずに黙っている。口を尖らせて文句を言おうとしたけれど、氷川の心臓の音が余りにも心地よかったから、何も言わずに聞いていることにした。呼吸する音も、近い。氷川は一度紫煙を吐き出してからぽつりと、本当に小さな声でそっぽ向いて呟いた。


「お前に、このままでいて欲しいんだ」

「うん、ごめんね」


 その声にも、返せる答えはこれしかなかった。氷川の望むようにいることは出来ない。何を言われようとも、絶対に目的は果たさなければならない。これは、壱路の目標。そしてそれを氷川は知っている。もちろん、止められない事も。
 変わらない返答に氷川が黙ってしまい、外から聞こえてくる雑音だけが聞こえてくるようになった。居心地が悪い訳ではないけれど、何故だか淋しかった。その時、もぞもぞと向かいのソファで寝ていた亮介が身を起こす。寝ぼけたように青い顔で部屋を見回し、抱き合っているように見えなくもない二人の前で視線を止めた。けれどまだぼんやりしているのか、視線は虚ろだった。


「おはよう、亮介君。いい夢見れた?」

「………はい」

「そう。じゃあ結論もでたかな」


 にこりと笑って、壱路は電話に手を伸ばした。氷川にまだ抱き寄せられている状態なので氷川が煙草を口に挟んだ状態で腕を伸ばし、電話機を鷲掴んでテーブルの上に移動させる。壱路が電話をかけるその光景をぼんやり見ながら、ふと亮介は背筋を震わせた。先ほどの血の感触も銃の痛みも総て、覚えてる。あれは夢だったのか。


「お宅の息子さん、亮介君を預かりました。本当に必要だと思うなら指定講座に五千万振り込んでください。何ならケータイにでも連絡してみればいいんじゃないですか?ちなみに、振り込まない場合はこっちで亮介君を始末させてもらいます。それでは」


 電話の向こうではヒステリックな声が聞こえてきたけれど壱路は無視して受話器を置いた。隣で「五千は吹っかけすぎだろ」と呆れたように呟く氷川に僅かに煩そうに眉を寄せたけれどにこにこ笑っている壱路に、まるで重要なんかではない連絡網でも回したような錯覚を覚えるけれど、確かにあの電話は亮介の身代金要求だった。ぞわっと背筋が粟だち、思わず立ち上がる。


「お世話になりました、帰ります」

「うん、五千万振り込まれたの確認してからね」


 壱路の目を見たら何かに押さえつけられたような感じがして、思わずすとんと腰を下ろした。結局子供はママのお人形で、それを脱しようと思ったら今度は知らない人間に操り人形にさせられて。無力なんだ。勉強が出来ようとも金があろうとも、それは変わらない。きっと一生誰かの人形でいる。けれどそれを壊してしまうには人間は弱すぎる。誰かを操っている振りをしてその人も誰かに、もしかしたら世界そのものに操られているんだ。


「ガキが生意気な事考えてっから悪い人間に捕まるんだ」

「ちょっと、僕が悪い人間みたいじゃない」

「悪くないってか?」

「氷川みたいに悪人面じゃないからね」


 きっと世界には誰も太刀打ちできない神様がいて、人間は操り人形なんだ。そして反乱を起こすと、玩具の兵隊に捕まって抹消される。だからきっとステレオタイプな生き方が一番利口。何も考えずに、目先のエリートコースを見てればいい。幸いにも早く五千万振り込んでもらえたから、亮介はもう二度と来る事のない不思議屋の事務所を後にした。送ることも声をかけることもしなかった彼らがこれからどうなるのかは知らないけれど、けれどもう絶対に逢うことがないことだけは分かった。
 亮介が出て行った後、口座の通帳を見ながら壱路はゆっくりと口の端を引き上げた。夢といい操り人形の思考といい、面白い事ばかり子供は口にする。


「じゃあ、僕は神様に喧嘩を売ることになるのかな」

「おい」

「なんと言われてもね、あの人を殺すのが目的だから」


 目的を果たした後はどうなっても構わないんだよ、と笑った壱路の見慣れた顔に、氷川はため息の代わりに紫煙を吐き出して短くなった吸殻を灰皿で押しつぶした。目的を果たした後をどうにかする為に自分はここにいるのだから、今更壱路を止める権利なんてその手に持っていない。





-焉-

何がしたかったんだ…!?
たまにはガチガチに悪い人の話をしてみたり。