どうしてこんな事になった。どうしてこんな事になった。考えても当てのないことを呪文のように口の中で唱えながら、男は薄暗く細い路地を選んで走った。耳には耳鳴りみたいな不快さでパトカーのサイレンが未だに木霊している。けれど今聞こえるのは現実と幻が半分ずつくらい混じっているのだろう。
 現場の銀行から一キロくらい離れただろう下水の匂いがする路地の奥で、彼は壁に背をつけて弾む息を整えようとした。向かい合った壁が思いのほか近くて圧迫感を覚え、思わず抱えていた重いボストンバッグを抱えなおした。同時に誘惑に駆られてバッグのファスナーを少し引っ張ってみる。暗い袋の向こうには魅惑的な紙切れがちゃんとぎっしり詰まっていた。これだけあるといっそ贋物のように思えるけれどさきほど銀行から奪ってきたばかりの本物だ。
 本物のにおいに少しばかり酔って、誘惑に負けてカバンを置いてしゃがみこんだ。しゃがんだだけで尻が後ろの壁に吸い付き、頭は前の壁をこすった。そもそも誘惑に勝てたら銀行強盗なんてしていない。自身の性癖に自嘲して、彼は鞄から札束を一束引っ張り出した。なんて、いい匂いがするのだろう。


「いたぞ、こっちだ!」


 急に視界が明るくなったと思ったら、警察官の声らしきものが聞こえた。慌てて札束をポケットにねじ込んで逃げ場所を探す。前はふさがれているようで、真っ黒な人影がこちらに向かってくるのが見えた。身体を反転させて後退するけれど、逃げる場所なんてあるんだろうか。
 どこか、どこかと逃げる場所を探して路地に入って行く。多分ここからでても大通りには警官が固まって己を捕らえようと勢い込んで構えているだろう。それだけの大罪を犯した。けれどこの腕の重みは後悔を伝えてくれない。ここから逃げることは不可能だろう。だったら王道で、逃走させてもらおう。それには人質が必要だ。
 適当なビルを捜しながら走るけれど、どのビルも廃屋のような雰囲気だった。退廃した空気もくぐもった光も人がいるとは思えなかった。ここから出られないんじゃないかと半分絶望しかけて、彼は体力の限界を感じて埃っぽいビルに飛び込んだ。誰もいなくていい、少し休息が欲しい。


「何だ……『不思議屋』?」


 選ばずに飛び込んだビルの二階に外の様子を窺う目的も持って上がった。誰もいないだろうと思っていたけれど、武骨な鉄の扉の向こうからはくすんだ光が漏れてきている。曇り硝子の上に『不思議屋』という文字を刻んだプラカードが掛かっている。ところどころ剥げているのに年季を感じる。
 人がいたところでこんな所にいるのはどうせ碌な人間じゃない。構わずドアを蹴破って中に飛び込んだ。


「手ぇ上げろ!」

「わ、びっくりした」


 飛び込みながらさきほど使った拳銃をポケットから取り出して突きつけた。部屋の中は何かの事務所のようで、男性が二人だけしかいなかった。廃れた店なのだろうか。こちらが銃を突き出しているというのに彼らは動揺している素振りを微塵も見せないで、モノクルをかけている男性に至っては少しだけ驚いた顔をしてこちらを一瞥しただけでまた新聞に視線を落としてしまった。暗い部屋で奇妙に光っているテレビが、強盗のニュースを流していた。


「氷川、とりあえず捕まえて」

「銃持ってんぞ」

「ドア壊された。賠償つきで弁償させるの」


 男性はどこか怒ったような声音をしていた。長髪の男性が一度溜め息を吐き出してこちらに向かってくるので、思わず引き金を引いた。弾は彼の頬をかすって背後の壁に穴を開けた。けれど男性は怯まずにこちらに向かってきて、体力がなくなっていたからだろうか簡単に拳銃を奪われて、手足を縛りつけられてしまった。こちらが呆然としてしまうほどあっという間の出来事だった。身体の自由を奪われて薄汚いソファに放りだされ、目の前にはにこにこと優しげな表情を崩さない男。だがこの男がこの行為を命じたいのだから笑っている分怖い。


「いらっしゃい不法侵入者さん。どういったご用件でしょうか」

「………」

「うちのドアって特殊合金だから三千万はくだらないんだよね」


 笑顔であからさまに嘘を吐かれた。しかも超怒っているようで、表情は笑っているけれど目は笑っていなかった。なおも沈黙していると、この笑顔の男性はゆっくりと首を傾げて隣の仏頂面の男性を見た。彼は眼が合うと、表情を変えることなく立ち上がり、ソファの横に転がっているボストンバッグを拾い上げてゆっくりと開いた。
 後ろで光っているテレビが丁度、銀行強盗のニュースを伝えている。己の犯罪の報道なんて聞きたくもない。


「テレビを消してくれ」

「誰に向かって命令してるつもり?」

「おい、落ち着けよ」

「ドア壊されて落ち着ける訳ないよ」


 男たちは短い会話を交わし、片眼鏡の男性がテレビを振り向き長髪の男性は鞄の中を覗きこんだ。あぁ、もういっかんの終わりだ。
 ブラウン管の中では事件の詳細がまだ若い男性キャスターから具に語られ、ご丁寧に顔写真まで映されている。どうして何かを被っていなかったんだろうとかどうしてもっとしっかり計画を立てておかなかったんだろうとか、嘆いたところで後悔にしかならない。


『犯人は阿川健司(43)、新宿区内を逃走中の模様です。銀行から五億円を盗んだ彼は……』


 もういい、やめてくれ。テレビの報道と見比べられてどうにか逃げ出したいけれど拘束された状態で逃げられる訳もなく、ただ視線を感じないように顔を深く伏せることしかできなかった。


「氷川、それ五億ありそう?」

「ありそうだけど、お前……」

「うん、ドアの弁償金」

「ボリすぎ」

「忘却剤の消費が激しいんだもん、あれ高いのに。さて、阿川健司さん」


 笑顔の青年は、今度は本当に目を笑わせてこちらを見た。阿川も居を正したいけれど縛られている状態ではどうにもならない。しばらく芋虫のようにくねくねと奇妙に動いていると、長髪の男性が縄を解いてくれた。これは親切なのだろうか、それともそんなものがなくても構いはしないという圧力なのだろうか。


「不思議屋店長の南壱路と申します。こっちの大きいのが藤堂氷川、そこのフランス人形は三枝理穂ちゃん」

「はじめまして」

「に、人形が動いた!」


 驚いて思わず仰け反ると、机に座っていたフランス人形がそのからぴょんと飛び降りて南壱路と名乗った男の膝の上に着地した。少しだけバランスを崩してよろけたけれどどうにか踏ん張って、氷川という男性の膝の上にちょこんと座った。鋭い表情と人形の可愛らしさのギャップが妙にアンバランスでそれでいて似合っていた。


「ここは不思議屋。万人を救う場所」

「万人を、救う?」

「記憶を消すこともその人間を消すことも何でもできます。何か、思っているんでしょう?」

「別に、何も……」


 彼の眼が怖くて、思わず一度合った視線を逸らしてしまった。笑っているのに目はこちらの心の中を見透かして試しているようで、目を合わせたくなかった。別にやましい事をしたからではない。他人に心の中の臆病を悟られるのが嫌だった。けれど俯いていた所で視線は追ってきて、心を圧迫していく。視線が物理的な力を持っているようで、苦しい。


「例えば記憶を消して違う人間にしたり、記憶の改竄をして人に罪を着せたり」


 ドクンと、心臓の音が大きく鳴った。まるで鼓膜を破りそうなほどだ。見透かされている。自分では一度も考えたことがなかったはずなのに全て見透かされた気がして、身体が震え始めた。全て見破られている。自分ですら気づいていないところまで、全て見られている。
 そういう意識にさせたのだろうか、それが彼の力なのだろうか。身体に力が入らなくなった。


「俺は、銀行強盗だ」

「そうですか。そんなに弱いんじゃ、すぐに捕まりますね」

「捕まりたくない!捕まりたくなんかない!!」

「けれど犯罪を犯したのは貴方だ。ばれたのも貴方の罪だ」


 上手く、誘導尋問されているようだと思った。けれどこの思考は膜一枚隔てた向こう側のことのようで、上手く自分の中に入ってこなかった。ただ、怖ろしかった。己が犯した罪が裁かれるのも己が犯罪者になることにすらも恐怖した。自分が悪いとどこかで分かっていながら、同じ部分で拒絶している。自分は、悪い人間なんかじゃないんだ、と。


「金が欲しかったんだ、競馬でスって借金して、にっちもさっちも行かなくなって……金が欲しかったんだ!」

「お金は手にしたけれど、犯罪者になったじゃないですか」

「俺が悪いんじゃない、やらせる方が悪いんだ!!」

「そうですね。きっとこれは貴方の罪じゃない、他人の罪だ。貴方は全く関係がない。そう思いたいんですね」

「そうだ!」

「ならばこの記憶は偽物だから抹消しなければならない」

「そうだ!!」

「ありがとうございます。お代のほうなんですけど、ドアの修理費はサービスしますね」


 気がつくと、体に汗をかいていた。これが冷や汗なのか脂汗なのか判断できないけれど、やっとこの店長に踊らされたことに気づいた。酔っ払ったように自分を見失っていつの間にか操作されて、望んでもいないことを押し付けられる。いや、この場合は望んでいたのかもしれない。ただ、それを形にすることを畏れただけで本当は、求めていたのかもしれない。己が犯した罪が消える方法を。


「しめて五億円になります。耳を揃えて現金払いでお願いします」

「ご、五億だと!?」

「安いものでしょう、阿川健司さん?」


 安い、かもしれない。これで平和が訪れる。なかったことになる。確かに金は全てがパーになるけれど、もともとあってなかったような金だ。それで全てがなかったことになる。そうなったらまた真面目に働けばいい。未練なんて、なかった。


「お願いします」

「契約成立ですね。では五億はこちらでお預かりします、少々お待ちください」


 そう言って、男たちは連れ立って部屋を出て行った。膝の上に乗っていた人形はソファの下に降ろされ、今はこっちをじーっとみている。まるで監視でもしているようだと思うし、事実そうなのかもしれない。今は監視が必要な人間であっても、もうすぐ違う自分になれる。生まれ変わることができる。そう思うと胸の高鳴りを抑えられそうになかった。










 朝日が出始めた頃あの店で目を覚まし、始発がもう出ている時間なのでバッグを置いて自宅に向かってまずは駅を目指した。朝早い時間なのにこの街にはいろんな人が活動している。活動と言っても昨日からの延長だろう。この街にはホストとか水商売の人間しかいないのだから。
 駅で路線ずを見ながら、ふと気づいた。一体何処に帰ればいいというのだろう。帰るべき家を忘れることなんてありえない。そういえば自分がどうして昨夜あんな店にいたのかと言うことも思い出せない。気づいたら朝あそこにいて、手ぶらで帰るように言われた。ただ電車の乗り方も分かるしあの店が如何わしい店だということも知っている。分からないのは、自分のことについてだけだ。


「俺は、誰だ……?」


 不意に浮かんだ、浮かぶはずのない疑問。存在と言うものは酷く不安定で、他人の中にいなければ確認できないものだという話がある。そして自己を形作る為に過去も必要で、他人と過去と、縦と横の関係でやっと確立するのだと。今、自分にあるだろうか。確かに確立する要素があるだろうか。縦も横も、何もないのに。


「ちょっとすいません」

「はい?」


 切符売り場の前で呆然としてしまったようだった。声を掛けられたから邪魔なのかと思って少し身体をずらして振り返ると、制服を着た警官だった。ちらりと腕時計を確認したかったけれどなぜか時計を所持していなかった。くせで腕に目をやったということは普段はつけているはずなのに。そういえば自分の癖も何も覚えていない。自分は、何者なのだろうか。


「朝早くからご苦労様です」

「昨夜から働きづめです。銀行強盗のおかげでね」

「そんなものが出たんですか、大変ですね」

「いい迷惑ですよ。お名前お伺いしても?」


 昨夜の記憶から持ち合わせていない。だからだろうか、昨夜の銀行強盗という単語がひどく不安を煽った。自分の知らない事実が存在しているということ、それが身近に合ったということ。自己を揺るがすこの言葉に酷い嫌悪を覚える。
 窺われたのは名前。けれど、答えは残念ながら持ち合わせていなかった。けれど答えられないのはおかしいだろう。咄嗟に何気ない振りをしてポケットの中を確認して身分証のようなものを探すけれど、生憎とそんなものは所持していなかった。免許証も持っていなかったから、免許自体は持っていなかったのだろうか。財布の中には、小銭が千円分くらいしか入っていなかった。


「どうしたんですか?」

「あっ、すいません。ちょっとボーっとしてしまって」

「朝ですから、低血圧の方には辛いですよね。それで、お名前は?」

「浦沢勉です」


 全く思い出せそうになかったから、眼に入った広告に書かれていた作家の名前を名乗った。警官は「そうですか」と気のない返事を返した後、胸ポケットから一枚の紙を取り出してそれをまじまじと見た。何だろう、あの紙は。とても嫌な感じがした。


「阿川健司ではないんですか?」


 その言葉は背筋を粟立たせるには十分だった。理由は分からない。分からないけれど嫌だとは正直に思った。掴まれた腕を反射的に振り払って、逃げ出した。どうしてだ、何故。どうしてこんなことになる。一体何をしたと言うんだ。こうならない為に、こうしていたのに。
 今来た道を戻って大通りから路地に曲がった。昨日自分が何をしてたか分からないけれど、身体はずいぶんと疲弊していたらしくすぐに重くなった。手足が粘つくような感覚に思わずへたり込みそうになるけれど、今しゃがみ込んだら立ち上がれそうになかった。帰るところもない、自分が誰かも分からない。そんな自分が、一体何処に逃げるというのか。


「そうだ、不思議屋……」


 唯一覚えているあの場所。どうしてあそこにいたのか分からないしあそこが具体的に何の店なのかも覚えていない。ただ、とてもお世話になったことと彼らならどうにかしてくれると思った。










 久しぶりの客の相手をして少し疲れた壱路は、代金を金庫に仕舞いながら欠伸を噛み殺した。収入は現金五億円、これを数えるのは機会だから簡単だけれど重いので少し腕が痛い。いつもなら氷川に任せるのだが、今日は氷川は朝食の準備をしているため壱路がやらざるを得ない。
 片付けを終えて、仕事道具の仕舞われている棚を見上げながらそろそろ買い足しに行かないと仕事に支障が出てしまうかもしれないと眉根を寄せる。なんとなく嫌な予感がするので、これから一眠りした後にでも行こうか。こういう勘は当たらなくていいのに当たってしまう。


「飯の準備できたけど」

「うん、こっちも終わった」


 ドアに向かった所で氷川がエプロン姿で覗き込んできた。確かにトーストの焼けるいい匂いがしていると鼻を鳴らし、空腹を訴えてくる腹に手を当てて後ろを向いた氷川の背中に飛びつく。けれど反応してくれないのでそのまま氷川の背中に捕まったまま事務所に戻ると、理穂が電話の横に座って舟をこいでいた。


「理穂ちゃん、電話番ご苦労様。もう寝ててもいいよ」

「だいじょうぶですよぅ」

「全く余計な客が来たもんだよね。寝不足は美容の敵なのに」

「壱路さんそういうの気にしてるんですか?」

「別に?」


 氷川が入れてくれたコーヒーを口に運びながらテレビを点けると、丁度天気予報がやっていた。今日は快晴、暖かくなるらしい。これなら机で日向ぼっこでもしながら眠るのもいいかもしれない。氷川をちらりと窺うと、気難しい顔をしていた。きっと昨日の仕事のことで文句を言いたいんだろう。いつだって、氷川は文句ばっかりだ。


「氷川、後で車出してね。買い物行かないと」

「……記憶を消して、あの男はいいことあったんかな」

「ないと思うよ。記憶を失うなんて正常じゃない、以上だから」

「嫌な記憶ならないほうが幸せなんじゃないですか?」


 眠そうな声で首を傾げた理穂に壱路は微笑んだ。氷川がジャムを塗ったトーストを受け取ってけれど口を付けずにサラダを食べながら「幸せにはなれないんだよ」というと理穂はとても不思議そうに首を傾げる。氷川も質問してきた割には独り言のようなもので純粋な疑問ではなかったはずだ。説明してあげてと壱路が目で促すと、氷川がトーストをかじりながら頷いた。


「人ってのは過去と周りの人間からの認識で存在できる。例えば、お前のことを俺たちも知らなかったとするだろ?」

「はい」

「お前も過去の記憶を失っていた。そしたらお前という存在を認識するものは何もなくなるだろ」

「……はい」


 誰も認めてくれないことはきっと何よりも恐怖だ。それを想像したのか理穂の声のトーンが落ちた。きっと生身の身体があったら青ざめているのだろう。それほどに普通の人には恐怖を掻きたてることだ。ここに理穂がいることが良いことだったのだろうか悪いことだったのだろうか、壱路にも氷川にも判断しかねた。二人だけならば、別に困らないのだ。記憶がなくても。


「トースト食えよ」

「サラダ美味しいね」

「トースト」

「人来たみたいだけど」


 階段を人が上がってくる音がして、壱路がにっこりと笑った。氷川は胡散臭げに壱路を見たけれど、たしかに聞こえた焦ったような音に氷川は破壊される前にドアを開けた。それとほぼ同時に男が飛び込んできた。その男を見てあからさまに壱路が顔を歪めた。


「助けてくれ!」

「嫌です」

「助けてくれ、追われてるんだ!」

「お金ない人に協力しません」


 つんと顔を逸らした壱路に少しだけ溜め息を漏らして、氷川は食事を片付け始めた。それを壱路が恨めしげな顔で見るけれど無視して片付けた。入ってきた男は、阿川健司。さっきここを出て行った銀行強盗だ。まだテレビで大々的に報道されているほどの有名人がこの時間に外を歩いて無事なわけはないから、見つかって逃げてきたのだろう。
 氷川が食器を置いて事務所に戻ると、阿川がソファに座って項垂れていた。一体壱路は何をやらかしたんだ。


「ご相談ならお金持ってどうぞ?」

「追われてるんです、警察に。全然見に覚えがなくて……」

「見に覚えって……」


 何を言っているんだと思わずお互いに顔を見合わせて、示しを合わせたわけではないのに同時にテレビに顔を向けてしまった。丁度銀行強盗のニュースが報道されている。
 犯人の名前と写真が大きく写っていて、釣られてそれをみた阿川は絶望したようにテレビの画面を見つめていた。確かに自分が何者で何をやらかしたのか知らないのにいきなり銀行強盗だと知らされたら絶望するしかないだろう。下手したら、崩壊してしまう。


「貴方は昨日、ここで記憶を消しました」

「他の人の記憶を消すことはできないんですか!?」

「できますよ、お金次第ですけど」

「いくらですか」

「十億くらいですかね」


 にっこりと何でもないことのように言い切った壱路に阿川は思わず息を飲んだ。その顔からどんどん血の気が下がって青くなっているのを見て、氷川はお茶を淹れながら軽く肩を竦める。そんな金を払える訳がない。けれどその男から金をむしりとり偽りの倖せを与えるのが不思議屋の仕事だ。それを壱路は分かっているし氷川も認めている。


「助けてあげましょうか」

「……え?」

「銀行強盗でもすれば一回で済みますよ」

「銀行強盗!?」

「いいんですか?」


 このままでも銀行強盗だと、壱路は笑顔で告げる。
 これで頷く男に対してどうせ面の皮の厚いヤツだと嘲るだろう。それだけ命に縋る男に対してみっともないと嘲笑うだろう。けれど氷川はそんな壱路が心配でしょうがない。そうなって欲しくないから、反対しているのに。自ら戦う意志を持った壱路でいてほしいから。
 けれど阿川は決意を固めたのか、唇を白くなるほどぐっと噛んで微かに頷いた。そして、氷川の嫌悪する回答を口にする。


「……お願いします」

「先払いですから」


 にこりと壱路が言うと、男は深く頷いて立ち上がった。絶対に戻ってくると言って、事務所を出て行った。テレビでは未だ阿川のいかめしい写真が映っていた。彼は帰ってくるだろうか。帰ってこなければ良い。けれどきっと壱路は帰ってくると答えるだろうから、氷川は黙ってテレビを消した。





−焉−

壱路さん、悪党商法みたいです。