フランス人形の中に入っている三枝理穂は、車の中でワクワクと壱路の膝に抱かれている。この車に乗ったのは、死ぬ前のことだ。理穂が死んだ日、この車で遊園地に連れて行ってくれた。この車は理穂にとって楽しかった記憶と辛い記憶が混在しているといっていいだろう。
そんな車の助手席に座る壱路の膝の上は、何となく緊張してしまい少し居心地が悪かった。いつもなら氷川の膝の上に乗っているが、今は運転中だから仕方あるまい。窓の外を流れる景色を何となく見ていた理穂は、顔を上げた。
「これからどこに行くんですか?」
「今日はこれから氷川とデートだよ」
「えぇっ!?」
「ただの買出しだろうが、馬鹿」
そんなところに自分がいていいのかと大きくならないガラス球の目を見開いたが、間髪いれずに視線も逸らさず氷川が冷たい声で否定した。壱路は詰まらなそうに口を尖らせるが、どこか楽しそうだ。その隣で氷川はいつもより更に不機嫌そうな顔で運転している。でも運転自体は安全だった。
「同業さんとかお仲間がたくさんいるんだよ」
「お前、誘拐されるなよ」
「物騒だからねぇ」
淡々と話す氷川の声はいつも通りだし壱路はいつもよりも僅かに楽しんでいるように思えて、理穂は背筋が凍る思いがした。この人たちの冗談は冗談に聞こえないから冗談かどうか判断できない。でもまさか人形が誘拐とかはされないだろう。拾われることはあるだろうが、いざとなったら理穂は魂だから人形から離脱して逃げられる。
それ以降会話が見つからなくなってしまって、理穂は黙って人形の振りをしながら窓の外をずっと見ていた。
治安の悪い繁華街の更に奥の裏路地で“闇市”は行われている。車を近くの路上に止めて、卑猥な格好をした少女や怪しげな外人が客引きをしている道に入っていったときは理穂はどうなることかと思ったが、彼らは更にその奥に入っていった。表の市とは違い、裏は喧騒に包まれていても雰囲気はまるで違った。言葉では言い表せないが、同志集団の思念が混在して漂っているような妙な雰囲気だった。何となく秘密めいているからだろうか。何せ、皆一様に黒マントを羽織っているのだから。
「不思議屋じゃねーか。久しぶりだな」
「どうも、ご無沙汰してます」
「……薬屋か」
「相変わらず警戒してんな、でかいの!」
氷川に薬屋と呼ばれた男はげらげら笑って氷川よりも更に頭半分ほど大きな巨体を揺らした。同じマントを被っているのによく見わけがつくものだと不思議に思っていると、その薬屋は物珍しそうに氷川が抱えている理穂に気づいた。もちろん理穂も黒い歯切れを被ってはいるが、それが意味を成すものかは分からない。
「何持ってんだ?そりゃ……魂か!」
「声がでけぇよ」
「ただの魂じゃないですよ。うちの助手です、以後よろしくお願いします」
「え、えと……よろしくお願いします」
もともとマントなんて意味がなかったのか歯切れの上から見られているようなので理穂は戸惑いながらも挨拶をした。名前を名乗ろうかと思ったのだが彼らが一度もお互いの名前を呼んでいないので何となく自重した。
薬屋は大きな声で「薬屋だ。よろしく頼むぜ」と挨拶した。それから壱路と数言言葉を交わして別れた。情報収集なのかあちこちで話している声が聞こえる。
「……魂……」
「魂……」
「……魂!」
男が去った後に気づいたが、周りの背景と化していた者たちがそこここに身を寄せ合って声を上げていた。口々に同じ言葉を発してはこちらに視線を寄せてくる。その言葉の意味は分からずとも自分を指していることには気づいた。こんなに大勢の人に注目されるのは死んでからも死ぬ前も一度たりともないから人形の体が竦んだ。
「あの野郎、余計なことしてくれやがって」
「急いで帰ろう」
「おい、離れんなよ」
え、と思ったときには遅く壱路と氷川は足早に人の間を縫って歩き出した。人の横を通るたびにまだまるで品定めでもするような視線が突き刺さり、それから匿うように氷川が理穂を小脇に抱えた。
しばらく歩いていると、急に壱路が立ち止まった。一歩遅れて氷川も足を止める。店と言うにははかばかしくはない、むしろの上に老婆が座っているその前に壱路はしゃがみ込む。その後ろに氷川は控えるように立っていた。時間が掛かるのか、ポケットから煙草を漁っている。
「こんにちは」
壱路が声をかけると、老婆がゆっくりと閉じていた目を開いた。胡乱気な視線が段々と時間をかけて焦点を結び、壱路の姿を確認するとついでその後ろに氷川に注がれる。それから一度彼が抱えている理穂に視線が合わされ、また壱路に戻ってにぃと笑った。
「不思議屋の旦那かね。今日は何を?」
「忘却薬と移植セットいくつかと……夢瓶各種二つほどください」
「少々お待ちよ。そっちの子、魂かい?」
老婆が隣に置いてあった木箱から小さな包みを取り出しながら弛んだ皮膚に埋まった目で理穂を見た。ちらりと壱路もその視線を辿り、それから笑う。さっきから魂魂と、何のことを言っているのか理穂にはさっぱりだが壱路には合点がいくところがあったのだろう声を落とした。
「えらくみんな気にしてくるけど、足りてないんですか?」
「足りてないさね。詳しいことは言わないよ、情報屋にでもお聞き。はい、まいど」
「そうします。ありがとうございます」
黄ばんだ紙袋を受け取って、壱路が立ち上がった。それを無言で氷川に押し付けて、またスタスタと歩きだす。煙草を一本吸う時間も与えられなかった氷川は少し困ったように眉間の皺を刻んで理穂を見下ろした。何かを考えるようにじっと見てくるので理穂が首を傾げると、それを合図にしたように煙草を銜えたまま壱路の隣に並ぶ為に少し歩調を上げた。
またしばらく歩いて行くと、今度は更に奥の薄暗い路地があった。道と言うわけではなく建物の狭間なのだろうと理穂は理解したが、それは道であるらしく壱路は躊躇いなくそこに入っていった。人が擦れ違えるはずもない狭い道だ。当然光なんて入ってこない。
「ここにも誰かいるんですか?」
「情報屋だ」
路地の奥には常時使っている情報屋が待っているらしい。壱路だけが路地に入って行って氷川は壁に背をつけて煙草を吸っていたが、声はここからでも僅かに聞こえた。周りの人間には聞こえないがこちらには辛うじて聞こえる、絶妙な声量だ。
「あの事件の関係者は依然発見できず」
「……そうですか。これは別件、噂話でいいんですが魂は今不足しているんですか?」
「戦時のストックもなくなり、新しい魂は手に入らない。魂屋は血眼になってる」
「やっぱり……」
「不思議屋はかなり目立ってるぞ」
「え……っな!?」
壱路の言葉が切れた瞬間、情報屋の気配がなくなって氷川は反射的に煙草を吐き捨てると路地の中に飛び込んだ。あったはずの情報屋の姿は消え、代わりにあったのは決してここで遭いたくない人物だった。殺しだろうと神父だろうとどんな仕事も代行して遂行する、掃除屋。それが、壱路の手を引き寄せようとしている。
「氷川っ!」
「氷川さん!」
壱路が伸ばした手を掴もうと氷川も右手を差し出した。その瞬間、氷川の左に妙な衝撃が走った。するりと理穂が抜き去られ、そこに空虚が生まれる。理穂の悲鳴も聞いた。けれど理穂を助ける為に振り返るより、氷川は壱路の手を握ることを選んだ。
急に頭を掴まれて、理穂はあっという間に振り回されながら走っている事を知った。視界がグラグラ揺れて焦点が定まらない。感じる風の抵抗から、相当な速さだと言うことは分かった。もしかしてさっき言っていた魂屋とか言う者たちだろうか。悲鳴を上げたくても、悲鳴を上げることもできなかった。
「魂!」
「魂!!」
いくつか木霊する声はどれも狂気を纏っていた。まるで何かの宗教儀式のようだ。これから我が身に何が起こるかもわからないし、とにかく怖くて理穂は思わずぎゅっと目を瞑った。
どれほどそうしていただろうか、四方に振り回されて、終いにどこかで止まったようだった。空気抵抗が止んでどこかに横たわらせられたので恐々目を開くと、三人の男たちに囲まれていた。見下ろす目はどれも飢えたようにギラギラ光っていた。
「魂!」
「これで首の皮が繋がった!」
「早速取り出さねば!」
彼らから漸く発された人間らしい言葉は、しかし聞きたくはない言葉だった。取り出すとは何をだろう。助けを呼ぶために慌てて周りを見回すが、人の姿が全くない路地の外れだった。幾分か広いが、丁度行き止まりになっている。ここが彼らの住処だろうか。
一人の男がギラついた目でもって理穂の髪を掴んだ。別に痛みを感じないけれど、思わず悲鳴を上げる。
「痛い!」
「怖くない。君は生まれ変わる」
「美しい女性か、素晴らしい男性か。はたまた、犯罪者か」
髪を掴んだ男は、そのままで移動した。丁度進行方向、理穂の目の前には煮え立ったお湯が真っ赤な湯気を上げてぶくぶくと沸騰していた。湯気は赤いのに、お湯自体は黒い。あの中に入れられるのだろうと理解した瞬間、理性ではなく本能が抗って体を激しく振った。
「やっ!いや、離して!!」
「怖くない。あの中で一度無に還る」
「あれは羊水。安心して赤ン坊に還る」
「助けて!壱路さん!氷川さん!!」
「ここ結界張ってある。誰も来ない」
特殊な結界で外からは見えないようになっているらしい。そんなものがあるなんて、絶望的だった。せめてもの抵抗を繰り返してみるが、その力は鍋に近づくに連れてどんどん弱まっていった。鍋の真上に翳されて、もはや絶望を感じた。
一度は死んでもいいと言い、けれどやはり死にたくないと思いこの姿で彼らの側に置いてもらっている。生きているときですらベッドの上にしかいられない体だったから、もっとたくさんのことを知りたい、経験したいとそう思った。思ったのに、こんなところで消えてしまうのか。無に還る状態がどういうことを指すのか分からないけれど、少なくとも今の自分ではなくなってしまうだろう。それはもう、死と同意だ。
「魂屋三人衆、マナー違反だ」
不意に、声がした。突風が起こったかと思ったら、理穂はそれに捕まっていた。風に抱かれているような気がして、とにかく落ちないように何かにしがみ付いた。このまま落下したら、どす黒いお湯にぼちゃんだ。それは絶対に嫌だった。
風が止んでゆっくりと目を開けると、白いマントを被った三人が並んで立っていた。その真ん中の人物に理穂は抱かれている。
「誘拐とかで殺すぞゴラ」
「殺してから言わないの」
理穂の右側の人物がからかい混じりの声で叫んだ。その声からまだ少年のように感じられる。彼の声が響いた刹那の後、固まってた男たちの胴体から上がずれた。ずるっと横に滑り、そのまま地面に落ちる。不思議と血は吹き出さなかったけれど、代わりに傷口は燻製のようになっていた。
左隣の声が呆れたように呟く。それは、女の声に聞こえた。
「お前、どこの子だ」
問われたがいいが、さっきの恐怖でだろうか声が出てこなかった。喉に音が張り付いたようで風の音すら出てこない。女の声が「怖い顔してるから」と笑ったが、それ以外に原因があると理穂は分かっていた。まだ安心できないのだ。彼らが何者か分からない。
「理穂ちゃん!」
声と一緒に視界がパリンと裂けた。一瞬視界を閃光に焼かれて目を閉じ、数秒立ってからそろそろと目を開けて声のしたほうに視線を巡らせると壱路と氷川が少し顔色を悪くして立っていた。氷川はそうでもないが、壱路は肩で息をしている。息が切れ切れの壱路の代わりに氷川が呟く。
「……始末屋」
「このお嬢さんは不思議屋さんの?」
「り、理穂ちゃ……、無事?」
「はい!」
苦しそうに呼吸をしている壱路の背を軽く摩っている氷川が僅かに表情を緩めて理穂を見た。彼は普段表情が変わらない分、こうした僅かな変化がとても大きな変化に見える。二人の姿を見て本当に安心だと理解して、理穂は飛び降りた。氷川に駆け寄って、よじ登る。足に飛びついた時点で氷川は抱き上げてくれた。
いつもの煙草の匂いに安心して、理穂は泣き出してしまいたかったが残念ながら人形だから涙は出なかった。壱路と氷川は数言始末屋と言葉を交わしていたが、理穂はそれを聞いてはいられなかった。
−焉−
八夜さんを出したかったのに!