買出しに出てからと言うもの、理穂の体調が思わしくない。昨日なんて、くしゃみを一つしただけで魂が人形から飛び出してしまった。文字通りの幽体離脱だ。
 初めて幽霊になってやってきたときと同じ、空中にぼんやりとした形を形成している。彼女はそれが恥ずかしいのか早く戻りたいとしきりに言ったが、別に霊体は裸ではなくワンピースを着ているのでこの方が理穂であるというイメージは沸きやすい。


「でもまあ、困ったよね」

「こうポンポン出られちゃな」

「入れるときの処置も結構適当だったからなぁ」

「醤油醤油っと」


 壱路は本気で悩んでいるとは思えない軽い口調で、事務所ではなくその奥にあるダイニングのテーブルに座って言う。それに対して氷川は昼食を作りながらなのでちゃんと聞いているかどうかすらが怪しいところだった。理穂は、食器棚の上辺りに浮かんでいる。


「いっそ理穂ちゃん、その体で家に帰る?」

「え?」

「たぶん次に固定したら出られなくなっちゃうと思うんだよ。だからその前に、その姿で家に帰ってみる?」

「家に……お母さん……」


 壱路にしたら何気ない台詞かもしれないが、理穂の目の前にふっと母の顔が浮かんだ。生前献身的に看病してくれて、それでも恩返しなんてできずに理穂は死んだ。きっと悲しんでいると思う。けれどどうしても行くことは出来なかった。死んで幽霊になった時も、家に帰るのではなく不思議屋に来た。母に会いたくなかったからだ。会いたくなかったのではなく会えなかったのかも知れないけれど、合わせる顔がないと思った。


「私のことを呼んだかね!」


 いきなり突然、ダイニングのドアが開いて人が入ってきた。外からここに来るには事務所を通らなければならないので、とりあえず無断侵入だろうか。
 ぽかんと口をあけた理穂に対し、壱路はあからさまに嫌そうに目を眇めたし氷川に至っては振りかえりもしなかった。そんな対応にも闖入者はめげずに壱路の正面の椅子に腰を下ろした。
 長い黒髪の女だった。すらっとした長身は壱路くらいあるだろか。真っ黒いパンツスーツに身を包み、見た目はとても美しかった。けれど入ってきた状況を考えれば彼女が普通でないなんてすぐに分かる。


「氷川、ご飯まだ?」

「私の分ももちろんあるんだろうねっ?」

「もうちょっとなんだから大人しく待ってろよ。あ、お茶くらい自分で淹れろよ?」

「すっかり私のことは無視する姿勢なのかな!?」


 変な侵入者を主二人は完全に無視している。ただ彼女が座った椅子が氷川の席なので、これからのことは分からない。徹底的に無視する気なのか、声が聞こえない訳があるまいに無視して壱路が珍しく自分でお茶の用意をし始めた。
 二人の様子に黒ずくめの女性は肩で息を吐き出し、くるりと振り返って理穂をまじまじと見た。長めの前髪で入ってきた時は分からなかったが、顔も整っていた。


「君が例の魂かな。噂は友人のレイちゃんから聞いているよ。何でも魂屋に誘拐されたんだって?」

「え、えっと……」

「うんうん、こんな可愛い女の子なんだから誘拐されても頷けるというもの。言い換えれば致し方ないことかもしれないねっ」

「はっちん!どうしてそのことを知ってるのかな?」

「やっとシカトゲームは終わったようだね!嬉しいよ」

「こっちは不本意なんだよ。退け、俺の席だ」

「じゃあ私はどこに座ればいいと言うんだい。全く、相変わらず客に対してひどい振る舞いをする店だね」


 はっちんと呼ばれた女性は、移植屋だろうか。以前言っていた臓器などを移し変える専門の八夜。それがこんな女性だったのだとは少し驚いた。彼らは親しいのか、勝手に入って来た事を本気で咎め立てることはしないようだ。


「そもそもはっちんを招いてないよ」

「不法侵入の上に昼飯を要求すんな。始末屋呼ぶぞ」

「残念、始末屋のレイちゃんは私の友人だ!」

「……それはそれは、口惜しいね」

「兎に角八夜の飯はねぇ」


 ぞんざいな口調のとは裏腹に氷川は客人用にお茶を用意し、二人分の食事を盆乗せて事務所のほうに移動するようだった。壱路が不満そうな表情を浮かべながらも自分のお茶を持って事務所に先に戻る。もちろん理穂のぬいぐるみも抱えている。
 女性がソファに座って煙草に火を点けて一息吐き出した頃になって、氷川はお茶請けまで持って来た。当然のように彼女の体面に座っている壱路の隣に腰を下ろす。


「はっちん如きにお菓子なんていらなかったのに。いただきます」

「賞味期限危ねぇんだ、あれ」

「あぁ、そうなの。じゃあ丁度いいね」

「……客人になんて物を出すんだ、君たちは」


 ずるずるとラーメンをすする彼らに女性は高圧的な口調でもって呆れた声を出したが、その手は躊躇いなくお菓子の袋に伸びている。ピッと封を切って匂いを嗅いでから食べ、空中に浮かんでいる理穂をじっと見やった。


「で、はっちんは何をしに来たの?」

「別に?」

「帰れ」

「氷川、塩」


 心底嫌そうな対応に彼女は笑って理穂を指差した。彼らとて本気で追い出したいとか用もないのに来たと思っていなかったのだろう。ラーメンのスープを飲んでいる。
 視線を向けられて、理穂はビクッとなって形を形成しているもやが一瞬ぼやけた。壱路と氷川の対応から悪い人ではないのは分かっているが、先日の件で敏感になっているようだ。いつもなら人形姿で氷川の陰に隠れるのに今日はそれもできない。
 一方の彼女は、満足気に顎に手をやって、何にもないのに数度撫でつけた。


「そんなに怯えないで。私は移植屋の八夜といいます」

「み、三枝理穂です……」

「こんなに可愛らしいお嬢さんをこの世に留めておくなんて、しかもこんな姿で!」


 芝居がかった口調で八夜は両手を広げ、ラーメンをすする男たちを見た。その視線には哀れみにも似た色が映っている。その視線を物ともしないというか完全に無視して、氷川は煮卵の硬さが気に入らないとぼやいた。


「変態だね!」

「テメェにだきゃ言われたくねーよ」

「おや、聞いていたのかい。てっきり無視されているものだと思っていたよ」

「っのヤロ……」

「だから、はっちんは何しに来たの?」

「君たちが魂を飼っていると聞いたからだよ。こんなことだろうと思ってね」

「こんなこと?」

「こんな定着じゃあいずれ魂は崩壊する。その前に心配して駆けつけてやったんだ、感謝した前」

「やっぱ帰って」

「おや、図星を突かれて気恥ずかしいのかい?」


 ご馳走様、と壱路にしては珍しく乱暴に器を置いた。その拍子にスープが零れたが、先に台布巾を持ってきていた氷川が何も言わずに拭いた。いつもなら短い注意が飛ぶが、今日はそれすらもしないということは彼もその意見に賛成なのだろう。
 話を聞いた時は少し仲が良さそうだったので、理穂は思わず首を捻って上空から彼ら三人を見下ろした。


「これには少し理由があるんだ」

「君らの技術不足の言い訳の間違いだろう」

「理由だって、僕は言ったよ?」

「……分かった、聞くよ」


 壱路の微笑は彼女にも有効らしい。聞く体勢になって口を引き結んだ八夜を見もせず、壱路はちらりと氷川を見る。それから、その向こうの理穂に視線を向けた。訳も分からず首を傾げて壱路を見るが、この部屋の空気ですぐに察した。自分はここにいたらいけないのだろう。


「私、奥にいた方がいいですよね」


 本当は自分のことだから少し聞きたい気もした。けれどもしかしたら理穂のことではなく壱路自身のことに関するのかもしれない。だから許可が下りなければ理穂に聞く権利はない。結局、理穂は邪魔者で異分子なのだ。
 少し悲しくなって微笑を無理矢理浮かべる。こんな笑みは昔から慣れていた。入院が嫌だった時も母を心配させないように大丈夫だよと笑った。だから、慣れている。


「別にお前が邪魔な訳じゃねぇよ」


 奥の部屋に飛んで行こうと思っていた理穂は、けれど氷川の声で動きを止めた。煙草を取り出しながらの氷川の言葉は、いつも理穂の心を刺激した。生前は問題提起をして、それを一生懸命考えた。答えは今もってまだ出ていないけれど、けれどあれからあの質問は理穂の命題になった。生きるか死ぬか。どちらが幸せなのだろう。


「ただ八夜が来たならお前を完璧に定着してもらうことになるだろうから、その前に親に会いたいなら行ってこい」

「氷川さん……」

「親に会えるうちに会って来いよ」

「そうだよ、理穂ちゃん。もしかしたらもう会えなくなっちゃうかもしれないんだから」


 氷川に壱路も同調し、行っておいでと笑った。
 本当は少し気になっていた母の様子は、けれど見に行くことはできなかった。だって、もしも自分が死んだことを母が喜んでいたら死んでしまいたくなったろうから。消え方が分からないけれど消えたくなってしまうだろう。生前、親戚の何人かが理穂のことを煙たがっているのを知ってから、母に対してもそんな感情が生まれていた。
 正直今も怖い。けれど会えるうちに会っておいでという氷川の言葉は生前と同じく胸に真っ直ぐ届いた。


「会えなくなったらきっと会いたいと思うよ。……僕みたいに」

「壱路、さん?」

「おセンチな南君にはほら、私の胸で特別に抱きしめてやろう!」

「行って来い。その代わり夕飯までには帰って来いよ」


 八夜の言葉を無視して、氷川はしなだれかかってきた壱路の背を叩きながら僅かに理穂に笑いかけた。帰って来いというその言葉に、理穂は力強く頷いた。帰ってくる場所があって、そこが受け入れてくれる場所ならばどんなに悲しくても帰ってくる場所なんだと素直に嬉しくなる。


「じゃあ行ってきます!」

「行ってらっしゃい」


 手だけを軽く振って、壱路は理穂を送り出した。理穂を形取るもやはガラス窓を抜けてふわふわと外に出る。一人で外に行くのは人形になってからは初めてだった。けれどそれまでの短い間に家の前まで行ったことはあった。だから迷うことはない。
 理穂の姿を見送って、けれど壱路が退こうとしないので氷川はそのままの体勢で煙草に手を伸ばした。口の端で引き出して片手で火を点けると、胸に顔を押し付けたままの壱路が「煙草臭い」と文句を言った。


「おやおや。南君は相変わらずの甘えん坊やだね」

「……そういうわけじゃねぇよ」

「そしてジュニアは相も変わらずの過保護っぷり」


 大げさに嘆き手を額に当てて天井を仰いだ八夜をギロリと睨んだが、苦々しい顔をしただけで言葉の変わりに紫煙を吐き出した。このことに関しては多少の自覚はあるので何を言われても痛くもかゆくもない。過保護といわれようと、氷川も壱路に依存している。


「はっちん。僕は理穂ちゃんにね、姉さんを重ねてるんだ」


 氷川から顔を上げて、壱路は静かに言う。眼は伏せられているが確かにその声に痛々しい色が宿っているので、思わず氷川は壱路の手を握った。昔と同じく、元気付けるように手を握る。
 壱路の告白にも八夜はさして驚いた風もなく、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。まるでその告白を聞いても「知っていたよ」と言っているような態度に、氷川は握った手から僅かにも力が抜けたのが分かった。


「重ねた所で彼女は帰って気やしないし、あの子は雛汰(ひなた)じゃないんだよ」

「でもあの子は、姉さんと同じ病気で死んだ。姉さんと一緒じゃなくても、僕には姉さんに見えた」

「雛汰は、留まることを望んだのかい?」

「でもあの子は、それを望んだ」


 はっきりと壱路は言って、唇を噛み締めた。壱路にとって姉の話はまだ辛いものなのだろう。何年経とうともその記憶が色褪せることなく生々しい色を持って思い返すことができる。氷川にとってそれが過去のことであろうとも、壱路にとっては現在進行形の事象でもある。
 確かに生き続ける事を望まなかったかもしれないが、理穂は望んだ。生まれてから病院と自宅を行き来し、生と死の狭間を歩いた少女はそれでもこの世界に留まりたいとそう願った。だから、それを叶えた。なのに不確かな存在、不完全な状態に置いたのは多少のためらいがあったからだ。


「でも分からなかった。死して尚留まることが幸せか、死んだら諦めてこの世に見切りをつけるか。だから中途半端にしたんだろう?」

「……はっちんに、何が分かる」

「分かるさ。私は雛汰の親友だ!そして最愛の友は死んだら潔くこの世と別れを告げると言っていた」


 不安を見事に言い当てられて、壱路は珍しく普段の柔らかい表情を崩して目の前の女性を睨みつけた。けれどその表情は八夜にとっては子供の口惜しそうなそれとなんら変わらない。からかう気はないが、これ以上虐めても罪悪感を得るだけに違いない。事実、壱路の隣で氷川は今にも噛み付いてきそうな表情で固まっている。


「結論はあの子が帰ってきてからにしようじゃないか。それまでオセロでもしてようじゃないか!」


 昔と変わらない、変わらな過ぎる古馴染みを眼にして、八夜は呆れながらも答えを先延ばしにしてソファにふんぞり返った。せっかく場を和ませようとした提案も、彼らは顔を見合わせると立ち上がって奥に行ってしまった。慌てて追えば、壱路はダイニングのテレビを点けてドラマの再放送を見始めるし氷川はその近くで洗濯物にアイロンをかけ始めた。
 窓から覗いた空は、溶けてしまいそうに青い。





−続−

はっちん超迷惑!