ふわふわと上空を通り、迷うことなく理穂は自宅へと辿りついた。生まれてから入院している時間のほうが自宅ですごした時間よりも多かったのに、家を見たらほっとした。
 理穂の家は大通りを少し入った住宅街にある。まだ緑もたくさん残り、言いようによっては田舎だが、病院はもっと田舎にあったので理穂にとってはここは都会だった。竹垣に囲まれた家の庭はいつも母が手入れしていて、季節季節に咲いた花をよく病室に持って来てくれた。家に帰ったとき、その花をみるもの嬉しかった。


「ただいまって言うのも、変な感じ」


 小さく一人語ちて、理穂は誰にも見咎められないとは思いながらもそうっと門をすり抜けた。玄関から家に入るのも気恥ずかしいので、まずは日当りのいい場所にしてもらった自分の部屋へ行ってみることにする。一面窓張りにして、そこにベッドを置いた。家に帰ってもベッドにいたので、ここから見える外の景色が全てだった。
 窓をすり抜けて入ろうと思ったけれど、窓は開いていた。網戸が閉まり、部屋の換気をしているようだった。部屋は相変わらず、理穂が使っていたときのままになっている。


「……まだ、残ってたんだ」


 部屋に入って、ベッドに座ってみる。部屋にある小物一つとっても何も変わっていなかった。ただ部屋に埃はなく生前と同様綺麗なものだ。きっと母が今も掃除してくれているのだろう。この部屋がこのまま残っていることが、嬉しくてたまらなかった。
 自分はもしかしたら疎まれているのかと思っていたから、部屋を残してくれたという事実が嬉しくてたまらない。ただ、面倒で片付けていないのではないかと言う懸念は僅かに心にわだかまっている。


「理穂ちゃん、入るわよ」

「お母、さん……」


 コンコンとノックの音がして、母が顔を覗かせた。まだ理穂が生きているような仕草をして部屋を見回し、ベッドの上の理穂のところで動きを止めた。一瞬本当に見えているのではないかとびっくりした。けれど理穂のことが見えるのは壱路と氷川だけのようで、悲しそうに瞳を歪めると母は微笑した。


「……もう、あの子はいないのよね」

「お母さん!」


 自身に言い聞かせるような響きを持ったそれに、思わず理穂は声を上げた。ベッドから立ち上がったけれど、自分には足がないのだと思い出す。もう死んでいるのだ。自分からは姿が見えても、母からは自分の姿は見えない。一方通行の関係。理穂は、ここにいていい存在じゃないのかもしれない。
 母親の溜め息の中に混じる声に、泣きそうになった。


「理穂が死んでからもう随分経つのに……慣れなくちゃいけないわね」

「お母さん!お母さん、私ここにいるよ!」

「理穂……。丈夫に産んであげられなくてごめんね」


 母は痩せた。入院している時も思ったことはあったけれど、理穂は今ほどそれを思ったことはなかった。白髪が僅かに混じったくらいだった髪はいつの間にか真っ白になっていて、顔にも皺が増えた。きっとあれから笑うこともなかったのだろう、笑い皺が消えている。
 苦労させて苦労させて、それなのに死んでしまった自分。まるで罪の塊のように思えた。自分が母にこんな仕打ちをしたと思うと、辛い。


「お母さん!」

「理穂ちゃん、ごめんね」

「謝らないで!私が、私が悪いんだから……ごめんなさい……」


 最後には消えそうな声で、理穂は喉から搾り出した。母が謝るのが苦しかった。きっと生まれてきて母を苦しめたのは理穂なのだ。生まれてこなければよかったと思ったことはなかったし、死にたいと本気で思ったこともなかった。治療がいくら辛くても、絶対に思わなかった。
 けれど今、初めて生まれてきたことを後悔した。消えてしまいたいと思った。これ以上、大好きな母を苦しめたくなかった。


「お母さん……」


 ベッドの上に浮かんで、理穂は涙を零した。けれど霊は泣けないらしい。目からは涙もそれに似た何も出ては来なかった。
 母は開け放した窓を閉めると、部屋を少し整えて出て行った。後を追うことも出来ずに、自分の部屋を見回す。ずっと大切にしていたぬいぐるみにもノートにも、数度しか使っていない学校の教科書も全部そのままになっている。
 理穂は部屋から出て、家の中を回ってみた。みんなで楽しく食事をした台所の冷蔵庫も変わっていないし、柱に理穂がつけた傷も色を少し濃くして残っている。壁の落書きもそのままだし、怖かった木目の染みもまだある。少ないといっても理穂はこの家で家族に囲われて成長した。思い出が、数え切れないくらい詰まっている。


「これ、私が描いたやつだ」


 壁に貼ってあるのは、小さい頃に病院で描いた家族の絵。決して叶いはしないけれど、みんなで旅行する絵だ。実際は理穂が激しい運動などが出来なかった為に行くことが出来なかったけれど、幼い頃は元気になれば叶うと思っていた。もしかしたら、母はまだこの夢を追っているのだろうか。
 そのとなりに、症状が貼ってある。初めて手術を経験し、病院の看護婦さんがくれた『がんばったで賞』それから幾度となく貰って、それは理穂のアルバムに貼ってある。これは初めの記録だ。


「がんばったで賞、三枝理穂様……。頑張れなかったよね、私」


 結局は死んでしまった。がんばったその賞状が、とても滑稽なものに思えた。けれどその滑稽さが愛おしく涙が滲んでくるが、やはり涙は流れなかった。
 部屋中を見回して母の姿がないことに不安を覚え、無意識に母を捜して家の中を歩き回る。今は足がないから歩けないけれど、昔から母の姿を探して家の中を歩き回ることが多かった。台所で、庭で作業していた母は、理穂の呼ぶ声を聞くといつも飛んできて「どうしたの、理穂ちゃん」と笑ってくれた。今は、声も届かない。


「お母さーん!」


 けれど、呼んでみた。呼んでみたけれど、やはり返事は返ってこない。そんなことは分かっていた。
 理穂はすっと母の寝室に入った。父の部屋でもあるけれど、理穂の莫大な治療費を稼ぐために出稼ぎに出ていた。今はもうそんな必要もないから、この家で暮らしているのだろうか。母にだけではなく父にも、経済的にも迷惑を掛けていたのだと、今になって初めて気づいた。


「理穂はいーっつも、お母さんにくっついてたんだよね」


 母の声が聞こえて、理穂は声のした方を見た。和室の一角に備え付けられた仏壇には先祖代々の位牌が置いてある。一番新しいのは理穂のもので、写真の中で自分が笑っていた。少しぎこちない笑顔で、背景は庭だ。初めて不思議屋に会って健康にしてもらった時に、庭で撮った写真。だからその顔は、その先にある死を見つめて翳っている。
 いつも理穂は怯えていた。死ぬことに対しても母に疎まれるのではないかと言う不安も、いくらでも怖いことはあった。


「三歳の理穂はいたずらっ子で、お母さんの言うことなんてちっとも聞かなかった」


 母は仏壇の前でアルバムを捲っていた。十二年分しかない薄いアルバムに貼られた写真はほとんどが家の中か病院か少なくとも近所で撮った写真しかない。けれど母は懐かしそうにその一枚一枚に目を落として語りかける。まるでそこに理穂がいるように語るから、引かれるようにして母の後ろに移動した。自分の写真が入っている写真楯のガラスには、当たり前のように理穂の姿は反射していない。


「本当は、もっといろんな経験をさせてあげたかったのにね。楽しいことも、嬉しいことも一杯。もう辛い思いも苦しい思いもして欲しくはないけど」


 母の後ろから写真を覗きこむと、写真の中の自分と目があった。あの頃はまだ、未来を信じて笑っていられた。いつ頃からだろう、未来が信じられなくて母の優しさが信じられなくなったのは。


「お母さん、ごめんね。大好きだよ」

「理穂。お母さんのこと恨んでるでしょ?ごめんね……」

「そんな……っ」

「生まれてきてくれて、ありがとう」


 恨んでなんかないよと言いたかったけれど、声にならなかった。ただ涙が流れているような感じがして首を横に振る。大好きとごめんなさいを繰り返して、理穂は母がここを立ち上がるまでずっと後ろで泣いていた。涙なんかがでなくても、泣いていた。










 夕方になるまで外をずっと漂っていた。あんなに母を苦しめている自分の存在が苦しくて、どうしたらこの錘を取り除けるのかを考え続けた。きっと自分が生まれたことが母を苦しめる最大の原因だったに違いない。生まれたから別れて、だから辛い思いをした。
 氷川に夕食までに帰って来いと言われたので、半ば呆然としながらも理穂は事務所に戻った。橙の差し込む事務所にはしかし誰の姿も見えず、理穂は張り詰めた顔で奥に行ってみた。トントンと包丁がまな板を叩く音が聞こえるから氷川がいるのだと少し安心する。すっと扉を潜ると、その空間は軽くカオスだった。氷川は食事を作っているけれど壱路はテレビを見ていて、八夜が一人で七並べをしている。


「おかえり」

「た、ただいまです……」


 背を向けていたはずの氷川が一番に気づいてくれて、理穂は緊張して頭を下げた。彼の姿は、台所に立っていた母に似ているから胸が苦しくなる。ずっと小さい頃から、理穂は退院してくるとこうして食事を作る母の背中をみていた。
 顔を上げた壱路が、少し不思議な顔をしてじっと理穂を見た。その視線に心の中を見透かされそうで思わず顔を逸らすと、彼はクスリと笑った。


「理穂ちゃん、何かあったのかな?」

「な、何にもないです……」

「顔に書いてあるけどね。一人で泣いてないで、僕らに頼っていいんだよ」


 はっとして理穂は顔を隠したけれど、もう遅かった。その行動自体が何かあった事を物語ってしまい、理穂は観念してすーっと降りて氷川の椅子に腰を下ろそうとしたけれど八夜が座っていたので、壱路の前のテーブルの上に正座した。氷川に怒られるかもしれないけれど、背中を向けているからまあいいか。
 少し畏まって言うべき言葉を口から出そうとしたけれど、やはり躊躇った。自分で下した結論は、自分で下したくせにひどく苦しい。けれど、これ以上の苦しさを一番大切な人に強いている理穂は、震える声で縋るように壱路を見た。


「お願いです、お母さんの記憶から私を消してください!」

「え?」

「私をいなかったことにして欲しいんです」


 壱路にしてみたら予想外の話だったのだろう、大きく目を見開いて次いで氷川を見た。氷川も理穂の言葉に驚きすぎて振り返って固まっていた。驚いていないのは八夜だけのようで、トランプを片付けながら訳知り顔で灰皿から吸殻を一本選び取って火を点けた。


「それは早計と言うものだよ、お嬢さん」

「はっちん?何を言う気……」

「黙ってな、坊ちゃん。いいかい、お嬢ちゃん。悲しいもまた思い出なんだよ。それは無くして綺麗さっぱりと言うわけにはいかない。無くしたら、漠然とした穴が胸に開くだけさ」


 八夜が理穂が見る限り始めて年相応の優しげな微笑を浮かべ、白い手袋をはめた手を伸ばしてきた。すり抜けると思った手はしかし理穂の胸の上でしっかりと止まる。久しぶりに誰かにしっかりと触れられた感触が、した。「ここに理由も分からない穴が開くんだよ」と彼女は笑う。


「漠然とした穴ってのは質が悪くてね、悲しいよりも切ないことになる」

「でも……」

「それにね、悲しい穴は幸せな思い出が埋めてくれるんだ」


 ゆっくりと八夜の手が離れた。短くなったのを吸ったからだろう、すぐに嫌そうな顔をして灰皿に戻し「ジュニアは不味いのを吸っているね。味覚音痴かい?」などと言って笑った。壱路も氷川もまだ話の展開に固まっているらしく、そんな軽口にも返事はなかった。
 改めて自分の胸ポケットから煙草を出して火を点けた彼女は、そっと理穂の頭に触れて鼈甲色の髪を撫でた。その手は、母の手に似ていた。


「だから、消えたいなんて思っちゃ駄目だ」

「……はい」

「いい子だね。さあジュニア!そろそろ腹も減ったから夕食と行こうじゃないか」

「お前の分は作ってねぇよ。さっさとコイツ定着させて帰れ」

「なんと、この私に無償奉仕をさせようというのかい!」

「その通りだ。つーかさっきと言ってること違うじゃねーか」


 理穂を撫でていた手は、煙草の灰を落す為に離れた。トントンと灰皿に打ち付けられて、灰が散る。
 理穂はふわりと舞い上がって人形の中に納まった。何となく、その方が収まりがよかった。母がたくさん経験することを望んでくれた。ここにまだいて良いと言ってくれた。だから、理穂はここに留まることを選んだ。この人形の中で、もう少し外の世界を見て見たいと思った。


「でもね南君。それは理穂嬢の考えてあって、雛汰はそうは思っていなかったんだよ」

「……うるさい」

「雛汰は潔かったからね、まあそれも人生だ。私たちも食事にしようじゃないか!」

「食べたら帰ってよ」


 壱路も何かを悩んでいるようだったけれど、理穂を見ていつものように微笑んだ。
 夕食の後、理穂は八夜に完全に人形と一体化してもらった。もう出ることは叶わないだろう。もしできるとしたら自分がこの世から消えるときだ。母にも会いにいけないけれど、これでよかったのだろう。会った所で姿が見えなければ、悲しさが募るばかりだ。


「本当にこんな小汚い人形で良いのかい?なんだったらそのくらいの年の女の子の殻を見つけてきてあげるよ?」

「これでいいです」


 氷川が抱きかかえても大丈夫なくらいのこの大きさの人形がいいのだと、そのころには笑えるようになった。そして理穂は、いつまでともしれない時間をこの人たちと一緒に過すことに決めた。ここならば違った世界を見ることができるから、母が願ったとおりにいろいろな経験ができると、そう思った。
 八夜はビールまで飲んで楽しそうに帰っていったが、彼女が出て行った後に壱路は無言で塩を撒いた。





−焉−

理穂がどれだけ可愛いんだ私。