あの人のことを、本当に心の底から愛していただろうか。そう聞かれて、最近ようやく頷けるようになった。けれどその頃には、平凡ともいえるその生活に嫌気がさしていたのも事実だった。若さから求めたものは、刺激。小学校の教師をしていたのも、子供が好きだったこともあるけれど自分よりも下等な生き物と群れを成してその支配者でいられる快感に酔っていたのではないだろうか。そう言ったのは、かつて愛した男だった。
 うとうとと暖かい部屋で眠りそうになっていた白鳥立子は、目を覚まして窓の外に吹雪に目を細めた。今日は客人が来て晩餐会を行う。毎月のことで昨晩から泊まっている客もいる。早く準備をさせないと、と時間も分からないまま立ち上がった。


「今日なのね、彼が来るのは」


 目に付いたカレンダーに特別に付いた赤い丸は、それが今日だと言う知らせ。この印をつけたのは半月ほど前だったろうか。情報屋に情報を流したのは半年前だから、やっと来た連絡ともいえる。とはいえ、何年も胸の内で燻っていた想いが成就しようとしているわけだから気がはやらないわけがない。彼女は自分の皺の刻まれた手を伸ばしてカレンダーの横の写真たてに手を伸ばした。夫の写真が、歳を取らずにそこにある。


「奥様、晩餐の準備はいつもどおりでよろしいでしょうか」

「いいえ、今日は二人お客様が多く見えるわ」

「かしこまりました」


 控えめにノックが響いて、彼女は視線をドアへと移した。樫で作られた重い扉の向こうでは使用人が畏まっているのだろう。彼女の唇が妖艶に笑みを刻む。今日来るその二人の客こそが今日の目的なのだから。
 もう何年前になるだろう。十五年近く昔になるのだろうか、彼女は六年生の担任をしていた。そこには一風変わった少年がいた。たった二人で世界を構成し周りを寄せ付けない少年たちに懸念を抱いたものだ。何度言っても二人は二人の世界から抜け出せず、その関係は親友というわけではなく主従というのが一番近いような関係だった。その歪さを何度も指導しても変わらない少年たちは、まだ変わらないのだろうか。


「そうだわ、部屋を片付けておかなくちゃ」


 彼女は一人語ちながらも遥か昔に思いを馳せる。
 あまりにも変化がなく、痺れを切らして行った家庭訪問でした衝撃の経験。けれどそれは、彼女が求めていたものだった。巨大な豪邸には屈強な男たちの見張りが何人もいて、問題の少年たち二人の姿を見つけることができなかった。けれど、訪問の目的を告げて通された大広間で出会った生徒の両親。そうして立子は、少年たちの歪さを思い知った。同時に、彼女も歪の輪に加わることになる。


「奥様は亡くなったと聞いたわ。そうして、私も今夜終わりにするの……」


 愛した主人の面影を偲んで、もう何年経っただろう。けれどこれですべてが終わりになる。歪を与えた少年が、歪を払う。簡単な図式に彼女は笑いを止めることはできなかった。
 再びノックの音がして、彼女は窓の外に視線を向けた。雪が降っている。過去のすべてを覆い隠し、塗りつぶし、そうして新たな世界を構成するように雪は降っている。まるでこれから自分の未来を象徴しているようだ。


「奥様。不思議屋と名乗る男性がいらっしゃいました」

「お通しして頂戴」

「畏まりました」


 やってきた。歪な少年たちが。歪の輪を作り出した少年たち、すべてを始め、そして終わらせてくれるかつての少年たちが。そうして彼女は、彼らと対面するために重い樫の扉を押して石造りの部屋を出た。薄暗い廊下は室内とは違い熱を発するものがないのでひんやりとしている。肌に浮いた鳥肌は、温度が原因か真っ白になる自分に対する武者震いか。分からないけれど、彼女は階段をこつこつと下りて階下へ向かった。










 雪。それは冬の象徴であり人によっては美しく見えるもの。藤堂氷川もそれなりに風流心を持ち合わせているため雪がはらはらと舞い落ちている光景は綺麗だと思う。けれど東京のど真ん中では雪が降ることもあまりなく、降ったとしてもすぐに解けるか人々に踏まれて汚らしく道を汚している。東京で生まれ育った氷川は、だから雪に大した思いではない。そういえば昔、大雪が降った。小学生の頃だったと思うけれど、そのときも一人で雪達磨を作ったくらいの記憶しかない。
 やはり思い出してみても雪にいい思い出なんてないな、と現実逃避に窓から外を見るけれど、ゴーゴーと吹雪く雪が止むわけではない。憎憎しげに外から再び室内に視線を移し、石造りの暖炉の前でぬくぬくと温まっている壱路を睨んだ。


「何だってこんな雪降ってんだよ」

「僕に怒らないでよ。天気が悪いんだから」

「いい加減にここに来た目的くらい話せ」

「本当に聞きたいの?」

「当たり前だ」


 しょうがないな、と壱路は笑ったけれど、理由を知りたくないわけがない。
 朝食の席でいきなり仕事だから出かけると言ったのは今から五時間ほど前のこと。いきなり仕事だといわれることは珍しく、依頼人なんていないだろうと言った氷川に対して壱路は曖昧に笑った。それ以上何も言わないのは聞くなと言っていると判断し、氷川は黙って壱路に言われるとおりに車を走らせた。今から考えればあの時に詳しい事情を聞いておけばこんな吹雪の中不気味な洋館に閉じ込められることもなかったし、こんなにも不愉快な思いをしなくてすんだのだ。けれどそれはすべて過去のこと。もうこうなっている時点で遅いことは馬鹿でも分かる。


「今回は特殊な仕事でね、報酬は現金じゃあない」

「……ネタか?」

「まぁね。ちょっと怪しいんだけど、情報は情報だから」

「いつの間に連絡があったんだ?」

「情報屋から流れてきたんだ。そこで、氷川にお仕事です」

「肉体労働か」

「ある意味肉体労働だね」


 大抵の仕事は、不思議屋を頼って事務所に人が現れる。けれど壱路が集めているある事件の情報と引き換えに仕事を請け負うことがある。それはすべて情報屋を通しているから持っている人間が不思議屋に依頼するという情報は確かなのだが、その人物が事件の情報を持っているということについては確かではない。それでも壱路は、僅かな期待を持って仕事を請け負う。
 今回もそれなのかと氷川は表情を歪めて煙草をポケットから引き出すけれど、文句を言うつもりはない。氷川には、この件に関して壱路に何も言う権利を持っていない。


「この館の主は白鳥立子。一晩彼女の旦那になって」

「は?」

「一晩だけ彼女の旦那になるの。悪いけどよろしくね」


 白鳥立子、と氷川は聞き覚えのあるその名を口の中で呟いてみた。何となく引っかかってはいるけれど、芋づる式に嫌なものも引っ張り出てくるような気がして脳がそれ以上の詮索を拒絶した。それと同時に、この館に入ってから誰にもあっていないことに合点する。姿を変えるのなら、藤堂氷川という男の姿なんて見せないほうがいい。


「今日ここで晩餐会が会ってね、旦那に会わせる代わりに情報をくれるんだって」

「それで旦那の代わり、か」

「彼女、還暦すぎらしいから。がんばってね」


 にこりと笑った壱路の顔がいつもと違う。何かを隠しているような表情に理由を問おうとしたけれど、その前に聡く踵を返した彼は荷物の中からがさがさと資料とチューブタイプのクリームを取り出す。はい、と渡すときに思い切り顔を背けるから、頬を摘んで捻ってやったが逆に理由を聞きづらくなってしまった。
 差し出された少しくしゃくしゃになった資料を見ながらクリームを手のひらに出してまず肘辺りまで伸ばした。しばらくするとむず痒くなって、張りのあった皮膚がたるむ。資料には生きていれば六十五になると書いてあるからこのくらいだろう。氷川がこれから成りすます男性というのは、白鳥寛という実業家で資産は数十億とも言われている。死んだのは今から八年程前で、夫人の立子はそれをきっかけに勤め先をやめてこの館に移り住んだそうだ。この館はもともと別荘として使っていたそうで、現在夫人は遺産で生活しているらしい。
 資料を読み終える頃にはすっかり氷川の姿は変わって六十五の実業家になってしまった。鏡で自分の姿を見て顔を歪めるけれど、壱路が差し出してくれた錠剤を飲み干す。これで三十分もすれば錠剤から溶け出した情報が脳へと伝わるだろう。


「気付いて怒られるの嫌だから先に言うよ」

「何だよ」

「というか、まだ気づいてないの?依頼主のご夫人、僕らの小学校の頃の担任だよ」


 途端に鏡の向こうの老人が眉間の皺を濃くした。自分がその変化をしていると気付くのに一テンポ遅れるので、できればそんな衝撃の告白は早くして欲しかったけれど壱路は誤魔化すように資料読んでも気付かないなんて、と笑った。
 小学校の記憶にもいい思い出はあまりない。その頃から氷川は壱路のものだったけれど、その関係をよく思わない担任が文句を言っていたのは確かだ。多すぎて誰がどれだかわからないけど。嫌な記憶は忘れてしまう、それが氷川が貫き通してきたスタイルだた。だから、白鳥立子なんて名前に覚えはない。


「六年生の時の担任の先生」

「六年……」


 必死に記憶を手繰るけれど、その頃の記憶は大雪が降ったくらいしか思い当たらない。
 いや、一つだけあった。それも大雪の前後の日だった。授業が中止になって全員で校庭で雪遊びをすることになったけれど、壱路は寒いからという理由で教室に残っていた。当然氷川も教室で、何もすることがなくて暇を持て余していた。そんなときに戻ってきた担任は、外で遊べと半ば強制的に追い出した。不機嫌な壱路に当たられ、そうして氷川は――。


「っ!?」

「何となく、分かった?」

「……あぁ。胸糞悪ぃ」


 何かを思い出しかけたけれど、それを拒むように頭が痛んだ。突き刺すような刹那の痛みに米神を押さえ、逃げるように煙草に手を伸ばす。壱路に当たられたまでは覚えている。でもそれは子供の頃の些細なことで、いつものことと言ってもいいただのじゃれあいだった。たしかその後に彼女に呼ばれ、その後に職員室で何かがあった。その先を考えようとすると邪魔をするように頭が痛んで思考は進まない。それは紫煙を吸い込んでも同じことだった。
 ツキツキと痛む頭に奥歯を噛んで、ゆるゆると息を吐き出す。落ち着きはするけれど鈍い痛みは消えそうにない。


「ごめんね、氷川」

「……構わねぇよ。俺はお前のモンだ」

「ありがとう」


 昔から、それこそ生まれたときから氷川は壱路のものだ。だから、それがどんな苦痛を伴う道でもついていく。確認の意味もこめてそう言えば、壱路がふりゃっとした顔で笑った。この笑顔が見れればいいだなんて、一体いつから思うようになったのだろう。





−続−

寒いからって室内にいる壱路さんがすげぇ