食事の準備ができたと使用人に呼ばれて、立子は会場になるパーティルームに向かった。旦那が好きだった黒いイブニングドレスを着てもあの部屋は暖かい。袖のないドレスは年老いた体には似合わないだろうけれど、あの人は似合うよと言ってくれるだろう。立子がいつからか愛せなくなってしまった、あの笑みで。
 パーティルームに入ると、すでに客人は全員揃って席についていた。各々が向けてくる会釈程度の挨拶を返しながら一番奥の席に向かえば、亡くなったはずの主人が席についていた。彼は立ち上がると立子のための席を引き、彼女はそこに腰を落ち着けた。この平凡さこそ、きっと大切だったのだろう。


「奥様、本日はお招きいただきありがとうございます」

「こちらこそ、出席していたいてありがとう。最後の晩餐になりますけど、楽しみましょうね」


 主人が死ぬ前から月に一度の晩餐はささやかながら催されていた。当時から親交があった友人たちを集めての今日の晩餐を最後と定めている。もともと立子は彼が死んで晩餐を開こうとは思わなかっただろう。ただ一つの激情に似た感情がそれを 行わせた。立子は使用人がワインを注いでいるのを見ながら、向かいの席に座る青年に微笑みかける。十年以上ぶりに再開した教え子は、その父親に似てきたようだ。


「今日は特別ゲストに私の教え子がいるんですの。南君、来てくれてありがとう」

「お招きいただけて光栄です、先生」

「楽しい会にしましょうね」


 立子が笑うと、隣の主人がワイングラスを持って立ち上がった。乾杯の音頭を取るのを彼女は黙って見守っていたけれど、正面に座る青年が含みのある笑みを浮かべているのが見えてしまった。その笑みこそ彼の父親に似ている。
 乾杯、という声の後、一瞬静まり返った。そうしてしめやかな晩餐が始まる。カチャカチャとしばらくは陶器のぶつかる音しかしなかったけれど、しばらくすると各自がしゃべり始める。友人同士の集まりは近くの人間がしゃべるから話題が拡散して騒がしくなるけれど、今日の話題は生き返った旦那に集中した。


「でも奥様、白鳥さんはどうやって?」

「南君がね、生き返らせてくれたのよ。この子はそういうことを仕事にしているの」

「まぁ、素敵」

「不思議屋を営んでおります、南壱路と申します。皆様も有事の際はぜひご利用ください」


 にこりと笑った壱路の視線からその意図はつかめない。けれど立子にはそれがたまらなかった。すべてを知っているはずの子供は、知っていてなお彼女に会いに来た。誘いに乗るまでずいぶんかかったけれど、やっと彼女の願いも成就する。それと同時に今までずっと歪な少年たちを心配していた。たった二人で世界を形成していた彼らがどのような大人になるのかずっと気になっていた。
 だから立子は彼の隣にもう一人の青年になっているだろう姿がないことを不思議に思っていた。屋敷に来たのも一人だというし、歪さはいつの間にか歪ではなくなってしまったのだろうか。


「南君、藤堂君は今どうしているの?」

「一緒にいますよ。僕らはずっと一緒です」

「そう……」


 やはり、彼らは歪だった。ただ壱路の視線が自分の旦那に行っているように見え立子は軽い罪悪感を覚える。それは当然のことで、しかも原因は立子にあるのだから拒絶も否定もできることではないだろう。そうと気づいていながら立子は知らないふりをしてワインを口に運んだ。


「それで、南君。ご家族は?」

「死にました」

「そう……。お父様も?」

「それはあなたが知っているんじゃあないですか?」


 にこりと笑ったはずの彼の笑顔には、心臓が凍りつくかと思うくらいに冷たかった。そうして唐突に、彼はすべてを知っていてなおここにいるのだと気づいた。自分の浅はかな策略なんてこの歪な少年には通じないのだ。自分が彼を出会った当初のままだと勘違いしていることには、気づかない。


「み、なみ君……」

「なんですか?」

「ちょっと、いいかしら」


 この観衆の中で話せる話題でもないので、立子は席を立った。ちょっと失礼といいパーティルームを出る。廊下は室内と違って冷え切っていた。遠くから誰かの足音と窓を伝っての吹雪の音。背筋に鳥肌が立ったのは決して寒さのせいではないだろう。そうではなくて、壱路の冷ややかな目があの人によく似ていて。やはり、彼が来てくれてよかった。


「さて先生。ビジネスの話をしましょうか」

「そ、そうね」


 いつしか立子は、かつての少年に恐怖を抱き始めた。そうしてやっと、自分が間違っていたことを悟る。彼はかつての少年ではなく、また歪なまま成長したわけではない。彼は、歪そのものになってしまった。己の力不足のためか、目論見の外れた故かカタカタと体が震え始める。それでも、この恐怖すら求めていたものだったのかもしれない。
 かつて子供たちを心配して訪れた南邸。話では経済界で急成長した家だと聞いていたけれど、それに違わぬ豪邸だった。屈強な男たちに案内された広い部屋には、優しそうな女性がいた。お茶を出してくれた女性には別段何某かの感情が生まれたわけではない。そうして、この時点で少年の父親においても。


「うちは先払いなんですよ」

「そう……」

「あの男の居場所が条件です」


 死刑宣告を突きつけられたような気がして立子は息を呑んだ。あの日、少年の母親は殴り倒され屋敷のどこかにいた彼はその部屋に呼ばれた。そうして彼の父親は、息子と妻の前で立子をただの女と呼んで床に引き倒した後犯した。本来ならば夫もあった身で抵抗して嫌悪するのがしかるべきだったのに、立子はそれを受け入れてしまった。そうしてあまつさえ彼を受け入れ愛してしまった。
 突きつけられた条件を避けるようにして、立子は視線を逸らした。死ぬ前の旦那の肖像画が目に入り、罪悪感に胸を絞られるようだった。あの日から立子は主人を愛せなくなってしまった。


「南君、先生ね……」

「あなたの話なんて聞いてません。僕が欲しいのはあの男の居場所です」

「南君」

「やっぱり知らないんですか。あなた如きが知っているとは思わなかったですけどね」


 あんな男、と吐き出した壱路はにこりと微笑んでパーティルームに戻っていく壱路の背中は憎らしいほどあの男に似ていた。
 立子は彼に日常を破壊され、夫を裏切った。後ろめたい日々が続き、夫では満足できなくなった自分が憎かった。けれどその男を忘れることもできずこうして探す日々が続いている。その自分がひどく悲しい人間に思えた。
 カツンと壱路の足が止まって、振り返ったその顔は歪そのものだった。


「まぁ、多少は楽しませてあげますよ。あなたを利用したんですから」


 彼の背中を追うことができず、その場に立ち尽くした。青年の姿が視界から消えてからやっと、自分が敵に回した男の巨大さを思い知ったけれどもう遅い。きっと遅いのは始まりのあの日から取り戻せないものではあったのだろうけれど、決定的にそれを突きつけられた。自分は、魔物を起こしてしまった。
 いつまでも立ちすくんでいた立子を、吹雪の音が押してパーティルームに戻した。










 晩餐会で初めて氷川が目にした依頼主の女性は、彼の記憶にはやはり残っていなかった。体が知った情報に沿って意識しない限り勝手に動いてくれるので特に困ったことはない。けれど頭の片隅がずっとちりちりと痛んでいた。しかし表面上氷川に変化はなく、原因を考えることを放棄していた氷川はそれを探ることができなかった。
 そうして、晩餐会が終わってやっと壱路の言った肉体労働という意味が分かった。確かに肉体労働には違いないけれど。


「今日は楽しかったわね、あなた」

「あぁ、そうだね」


 口からは流暢に思っても見ない彼女を労わる言葉が漏れるけれど、その内側で嫌悪に顔が歪む。大きなベッドに座って服を脱ぎ始めた彼女に対しての嫌悪と言ってもいいけれど、それ以上に女性というもの、人間というものに対する嫌悪がいつからか氷川の中に根付いていた。それが、いつからだったかはまだ分からない。
 不意に、フラッシュバックする光景。真っ白な世界と、退廃した風景。そのかみ合わない二つが一緒に視界に映し出される。一つが現実に目にしている大きな天蓋つきベッドの白いシーツだとは気づいたけれど、あの埃を被った光景はなんだったのか……。


「っ!」


 ベッドに横たわるやせ細って老婆のような女性の裸体が、厳格の中の歳を重ねて多少肥えた女性の面影と重なった。あの部屋で氷川が見たのも、確かに裸の女性だった。そうして、すべてを思い出した。それは確かに十四年も前の光景で、この女は当時の担任だった。その記憶がないのは、氷川が拒絶したことと彼女を担任だと思っていなかったことが原因だった。
 不意に伸びてきた手を、氷川は反射的に払い落とした。パンと乾いた音がして彼女は驚きの表情を浮かべている。確かにそうだ、彼女の旦那ならばこんなことはしなかっただろう。だから、これは氷川の意思の下で行われた行動だから。


「あなた、どうしたの?」

「いや……シャワーを、浴びてくるよ」


 手を払ったことで氷川の意思は表面の男に覆われた。どうにか彼女の旦那らしい対応で裸体の女性から目を逸らす。視界が薄暗くなってしまえば簡単に意識は返ってきて体は動くけれど、吐き気が止まらなかった。口元に手を当てて必死に吐き気を抑え、段々と早足になって壱路の泊まっている部屋に戻る。最終的には本気で走って、後ろから背後霊にでも追いかけられているように自分の足音に追いかけられた。
 ばたんと力任せに樫の重いドアを開ければ、暖炉の前でうたた寝していた壱路が眩しそうに目を細めた。


「遅かったね」


 どこか含みのある笑顔を無視して、氷川はバスルームに駆け込んだ。大きすぎる空間に取り付けられているのは一つのシャワーと空間に対して小さな猫足のバスタブで、壱路が堪能したのか泡のたったお湯が残っている。いつもならば残り湯を、と考えるところだけれど、今日ばかりはシャワーを思い切り捻った。途端に湯気と共に落ちてくる熱い粒を体にぶつける。それまで留まっていた吐き気が一気に溢れて、壁に手をつく形で晩餐をすべて吐き出した。それと一緒にこの記憶も思いも吐き出せればいい。そうしたらどれだけ楽だろうか。けれど、氷川はもうそれができないことも知っている。
 すべて吐き出して、そのまま力が抜けたように座り込んだ。まだ熱いお湯は変わらずに体中を打ちつけ、落とした視線の先にあった腕からはクリームが流れて元の肌に戻っていた。


「氷川、大丈夫?」

「…………」

「じゃあない、か。でも先に謝ったんだから、もう謝らないよ」


 キィと軋んだ音を立ててバスルームの扉が開いた。けれど氷川は顔を上げずに黙っている。入ってきた壱路の顔なんて分かりきっているから見る必要もない。満足そうに笑っているに決まっている。これを仕組んだ壱路の意図を理解するのに時間がかかった己が悪いと自嘲の笑みが口元に浮かんで入るものの、それはただの強がりで内心は思い出した光景に死にたくなっている。だから、忘れたのに。あの頃と同じ感情の逆流に打ちのめされている自分が心底嫌いで仕方なかった。
 シャワーの粒を浴びたまま、むき出しの背中に柔らかいスポンジの当たった感触がした。


「ねぇ、氷川。氷川はずっと僕のもの、でしょ?」


 背中を洗われている。スポンジが背をなでる感触を知りながら、胸の中をぐるぐると回転し続ける胸糞悪い過去の記憶が回り続ける。あれは確かに雪の日の記憶だった。かつての担任は何度も何度も壱路と氷川の関係に対して文句を言った。友達なのだから、他のことも遊びなさい。それは何度も聞かされたことだったから受け流すことな慣れていた。それなのに強制的に外に追い出したものだから壱路は寒いと不機嫌になり、それがきっとそもそもの原因だったわけではないだろうけれど、けれどそれが因果関係のひとつであったことは間違いない。
 背中が終わると髪を洗われ、後ろから腕をスポンジで擦られた。座り込んでいるのもお構いなしに全身を洗い、黙っている間に氷川は氷川に戻っていた。


「よし、終わり」

「…………」

「いつまで黙ってる気?……わっ」


 立ち上がった壱路の手が肩に乗ったから、その手を引っ張った。上から叩きつけるシャワーをお構いなしに自分よりも小さな体を腕の中に閉じ込めた。少し不機嫌だった壱路の声が耳元で呆れたような「濡れてる」に変わったけれど離してやる気はない。赤茶けた髪を肩口に押し付けて、そうしてようやく温度というものを感じた。さっきまで熱いシャワーを浴びているはずなのに何も感じなかった。


「氷川?」

「……胸糞悪ぃ」

「うん。知ってる」

「……寝る」

「うん。お休み」


 腕の中で確かに笑っている壱路がまだここにいることを確かめたらすーっと胸の中が楽になった気がする。急に眠くなってきて、壱路を抱きしめたままシャワーを止めた。着替えると文句を言う彼を無視して適当にタオルで体を拭い、壱路を抱きしめたままでかいベッドに倒れこむ。壱路を抱き枕のようにして、すぐに睡魔に呑まれた。
 夢の中で、氷川は小学生だった。雪が降っていて、周りを見回すと大きな屋敷の庭だったからこれが小学六年の冬だったと知れる。こんなに雪が降ったことは今までなかった。昼間、寒いと文句を言う壱路と共に担任に教室から追い出されたから壱路の機嫌が悪かった。だから家に帰ってきて氷川だけが庭で雪達磨を作って来いと命令された。寒い中、一人で広い庭で手乗りよりも少し大きな雪達磨を作った。そうして、屋敷の中にいる壱路に届けに言った。彼はいつも、病がちの姉の部屋にいる。けれど、その部屋に彼らはいなかった。


『壱?』


 いつから壱路の名前を素直に呼べなくなったのか、もう氷川は覚えていない。けれど少なくともこの時期はまだ壱路のことを壱と呼んでいた。
 部屋にいないからどこにいるのかと、廊下に出た。そうして騒がしい大広間のほうへと足を向ける。手にはしっかりと雪達磨を持って、大広間を覗いた。そうしてそこで、氷川は地獄絵図のような瞬間を目にする。その中で、唯一その狂気を目に映しながら常と変わらない笑顔を浮かべていた。


『氷川!』


 呼ばれた声さえ、この空間にそぐわない。石造りの荘厳な作りの大広間に転がった壱路の母と、部屋に中央に酒瓶を手に立っているこの家の当主であり壱路の父。これだけならば今までも何度か目にしたことがある酒乱の旦那による家庭内暴力で済んだ。けれど彼の傍らに、全裸に剥かれた担任教師の姿があった。何か無体なまねをされたはずなのに彼女の表情は恍惚とした色を滲ませている。それが、この部屋にある歪の一つだった。


『壱路、いいかよく見ていろ。お前がいずれ得る力だ』

『旦那様!どうかもうおやめください!』


 権力者は女を引き倒し、そうして女は悲鳴を上げる。暴挙を止めようとしている使用人が自分の父親だと気づき、壱路に近づいていて氷川の足元も止まった。自分もこの空間において歪なのだと、一歩踏み入れて気づいた。けれど男は腕を押さえようとする人間を振り払ってただの女にまたがった。


『旦那様!』

『うるせぇ。使用人の分際で俺に意見するんじゃあねぇ!いいかぁ、壱路。よぉっく見ておけ』

『壱路様!』


 振り払われた使用人は、止めるのをやめて現場にいる当主の息子に向かって駆け出した。壱路を抱きかかえるようにして視界を覆って部屋から連れ出す。氷川は自分の手のひらを伝って雪達磨から解けた水滴が足を濡らすのも構わずその場から動けなかった。そうして、男に女が犯される現場を目撃する。
 何が行われているのはすぐに分からなかった。けれどそれはトラウマになるほど氷川の脳に焼きついて離れない。その光景を見たのは一瞬だったかもしれない。氷川もすぐに誰かの手によって部屋から追い出された。今から思えば、それは壱路の母だったかもしれない。


『氷川、お前は何をしていた!』


 部屋から出てすぐ、己の父の怒声を浴びた。同時に飛んできた拳に強かに頬を打たれて、手から雪達磨が零れ落ちる。一メートルほど後退してすっころび、頭も打つ。駆け寄ってきた壱路の笑顔がいつもと変わらないものだから、何が起こったのかすぐには分からなかった。けれど、カツンと歩み寄ってきた足音に体は勝手にすくみ上がる。


『壱路様のお傍を離れて雪遊びか!?』


 張られた頬が痛み、氷川は顔を歪める。泣くもんかと堪えるけれど、この頃は父親が二番目に怖かった。この頃も一番恐ろしいことは壱路に必要とされないことだからそれは変わっていないが、まだ父に見捨てられるのも怖かった。
 けれど氷川の目から涙が零れ落ちる前に壱路のはっきりした声が耳に届く。


『藤堂。氷川は僕のだから、藤堂でも殴っちゃだめ』

『壱路様……』

『氷川を傷つけていいのは僕だけなんだからね』


 この言葉に氷川はひどく安堵したことを覚えている。それに雪達磨を作って来いって言ったのは僕だしね、と笑った壱路は立ち上がると胴体と首のばらばらになった雪達磨を拾い上げ、まじまじと見つめた後にそれを何のためらいもなく窓の外に捨てた。そうして、氷川に向かって一言「雪達磨作ってきて」と。その一言がひどく嬉しかった。
 それ以降氷川は女性が苦手だ。今までにまして人とかかわることが疎ましいと思ったのもその頃からだった。ただ壱路がそこにいれば言いというのは変わらず、思い出したものが苦くとも腕の中の絶対者に安心して深く眠りに落ちた。





−焉−

氷川がMだ。