視界一面が緑色をしていた。見覚えのあるそこは、風が吹いているのに何の音も聞こえなかった。ざわざわと背筋をはい上がってくる不快感に、慌てて周りを見渡した。


「   」


 名前を呼びたかった。しかしその声は音にならなかった。嫌な予感はなぜだか確信に変わり、誰の気配もしない山中を走り出した。此処は知っている場所なのに、誰もいない。自分は此処を知っている。突き動かされるように走って、気がつけばいつも帰り道の目印にしている樹が目の前に迫っていた。


「   」


 急に背筋が寒くなって、溜まらずに叫んだ。しかしやはり声はでない。肺の中の空気を吐き出しきって冷たい空気を吸おうとしたら、妙に息苦しくて目眩がした。足元から力が抜けて、体が勝手に崩れ落ちる。
 呼びたい名前は声にならず、恐ろしいほどの大きさで森が鳴くのを聞いた。










 じっとりと汗を掻いた惣太は、詰まっていた息を吐き出して眼を見開いた。冷たい空気が熱くなった器官を犯し肺が割かれるような感覚を覚えて眉を顰めると同時に、目の前に広がる薄ら暗い見慣れた天井に安堵した。隣からは相棒の無防備な寝息も聞こえてきて、ほっと細く息を吐き出す。
 先ほど見た夢を反芻して、また言いようのない恐怖を覚えて惣太は起き上がった。安全な国にいて何を不安に思う必要もないのに何故だか彼に会いたかった。そっとふとんを抜け出すと、惣太は竜田軍詰め所を抜け出して行政本部に向かう。まだ日が昇りきっていないようで外は薄暗く寒かった。視界に入っていない梅の匂いが、むせ返るように香っている。
 大陸のほぼ中央に位置する小国、竜田国。小さいながらも商業や林業で国を潤す平和なこの国の軍部は、その平和故か国中の警備から破壊箇所の修理なども負かされている。その集団の精鋭軍団第一師団に属す佐々部惣太は兵の詰め所の階段を音を立てないよう気をつけて下りると、正面に建っている迎賓館の横を通って正面まで周り、本部の中に飛び込んだ。エレベーターに乗るのももどかしく隣の階段に飛び上がり二階に上がり、フロアの中央に位置している資料室を左回りに二部屋目に飛び込んだ。


「聖さん!」


 今度は声が出た。ここまでくるのに息を切らしてはち切れそうな気管支で呼吸をしながら、中に視線を走らせた。本部内、竜田軍部。普段は笑顔が素敵な副大将と人外の美貌をもつ大将が仕事をしているんだか怪しいが、今日は誰もいなかった。さっきの夢が胸の中に流で込んでいる。夢の中で、誰も、いなかった。
 夢が本当になったような妙な気がして、惣太は室内に踏み込んだ。さっきまで人がいたような温かい部屋。しかしいつも掛けてあるところに二人分の軍服はない。


「聖さん、……吉野さん?」


 部屋に入って右側のドアをそっと開ける。本来は各部署の長の執務室になっている部屋は大将の私室と化していて、他の兵は入れない。副大将以外は惣太と相棒の鉄五郎くらいしか入れないのではないだろうか。
 その部屋にも人の気配はなく、惣太は背筋に冷たいものが走って体を竦ませた。その時、コツコツと廊下を叩く二人分の足音が聞こえて惣太はばっと顔を上げると廊下に顔を出した。


「惣太?何やってんだ?」


 見たかった顔と聞こえた良く通る色のある声に、惣太は妙に安堵してその場にへたり込んでしまった。それを見て竜田軍大将・角倉聖は軽く瞠目し、その隣を歩いていた副大将・筧吉野はやや足を速めて惣太の許まで寄ってきて膝を折ると惣太の顔を覗き込んだ。


「惣太君、大丈夫ですか?具合悪いですか?」

「大丈夫です。何でもないんです……」

「どうした、まだ夜明け前だぞ」

「ちょっと、怖い夢見て」


 吉野の差し出してくれた手を断って立ち上がり、惣太は聖の姿を上から下まで眺めた。肩まで伸びたくすんだ茶髪は珍しい事に高い位置で結われている。いつも着ていない黒を基調とした軍服に袖を通し正剣帯までしているが、腕は豪快に捲くっている。多少着崩してはいるが普段よりよっぽどまともに軍服を着ている大将に惣太は微かに眉を寄せた。この所、領主様のご容態が思わしくない。各部署も忙しなく動き回っていて、国中が騒がしい。その中で面倒くさがりのこの人がこんな格好をしているという事は。
 惣太の返事に「ガキ」と呟いて、聖は細めた眼で吉野を見て軽く頷いた。それから惣太に視線を移す。綺麗な顔の切れ長の目に射られ、自然に姿勢が延びる。


「領主様が先ほど亡くなられた」

「……はい」

「寝てる奴等全員叩き起こして整列。今から編成して割り振る」

「はい」


 惣太は背筋を伸ばして敬礼すると、聖の横をすり抜けてさっき来た道を戻っていった。
 それを見送って、聖は髪紐を解きながら部屋に入る。後ろ手に扉を閉めて、ソファに倒れこんだ。実は領主の執務室兼私室である館の警備でほぼ徹夜状態なのだ。聖のその状態に苦笑を漏らして吉野は備え付けのコンロで湯を沸かす。それからソファの前のテーブルに数枚の紙を並べた。それを端目で確認して、聖がのろのろと体を起こす。


「……しんど」

「ここ数日寝てないんです、編成が終わったら一休みしてください」


 吉野の言葉に生返事を返しながら聖は大きめの紙をテーブルに広げた。この国の地図の数箇所を指しながら聖は手近なクッションを抱え込んで何かを考え込むように唸り、頬杖を付いて眼を眇めた。少量だったのですぐ湯が沸き、吉野はお茶を入れるために立ち上がる。その背を見ながら聖は爪でコツコツと紙を叩くと、その下のテーブルが鳴った。


「館周りに十倍だな。各関所に迎えやって、あと迎賓館の警備もか」

「地方が荒れかねませんからね。そこらへんはどうするつもりですか?」


 お茶を淹れて聖に差し出すと彼は大きな手のひらで湯飲みを包み、一口飲んでその熱さに顔を歪めた。
 国の権力者が亡くなると、まず身内が、次に中央に家を構える権力者が弔いに訪れる。その後になって地方官が中央から派遣された代理官と交換に中央に入り、更にその後他国から弔いが訪れる。その際に反乱を目論む者が現れるかもしれないので警備は慎重になる他ない。兵の数が少ない竜田軍は結局一人一人が多少無茶をしなければならないことになってしまうのは目に見えているが、出来るだけ軽減したい。しかしすぐに地方に兵を向かわせないと、葬儀に間に合わなくなってしまう。


「迎賓館の警備なんて五人位でいいんじゃね?」

「よくありません」

「お前やれよ、得意だろ」


 お茶を冷ましてもう一口すすって、聖は湯飲みを置いた。ここ数日眠っていない聖がこのまま奥で寝るのかと思った吉野は軽く頷き資料に視線を落とすが、聖は奥ではなく廊下へ繋がるドアに手を掛ける。


「どこ行くんですか?」

「ちょっと、気になることがあって」


 そう言って聖は苦笑した。何か気になることがあると眠れないし解決しないと気がすまない聖の質を知っている吉野は、きっとすぐ帰ってくるだろうと再び資料に視線を落としてひらひらと手をふる。それを見た聖は軽く息を吐いて、扉を閉めた。










 館の領主の私室に、遺体は安置してあった。その周りには領主の息子と娘が呆然と座っていて、その隣には国の権力者が腰を下ろしていた。さきほどまでこの部屋の警備をしていた聖は、あの青年の顔が妙に残った。驚きと悲しみの入り混じった、しかし母のいない自分が幼い妹姫を守らなければならないという使命感をせめぎ合せた表情。それが、のどの奥に引っかかった。もしかしたら折れてしまいそうな顔をもう一目見たかった。もともと優しげな顔とその表情が余りにもギャップがあって痛々しかったから、気になった。


「父上……」


 青年の囁やいた言葉が耳に滑り込んできて、聖はかけようと思って開いた口を閉じた。この青年に今かける言葉を自分は持っていない。大切な人を失くしたことはあっても亡くしたことは自分はないから。言葉をみつけられずに聖が手を握り締めて黙っていると、青年の右隣に座っていた各官を統括する総督の角倉元伸が瀬能に声をかけた。


「瀬能様、次期領主になるお心積りは?」

「……え?」

「お父上亡き今、次の領主は貴方です」

「でも伯母上が、私ではなくカズ殿だとおっしゃっていて……」


 瀬能の気持ちを考えもせず声をかけた男に呆れるが、それが自分の実父だというのが信じられない。亡き領主の姉に当たる女性は彼の体調が崩れ始めた頃から次期領主は自分の息子にするべきだと言い続けていた。彼女の息子は二十六で子もいるが、倅の瀬能は十六。まだ若すぎるというのが彼女の言い分だった。瀬能も彼女の主張には納得していたのだ。
 しかし角倉は瀬能の顔を覗き込んで笑いかけた。


「あの女は他家に嫁いだ身、貴方は本家の人間。何を従う理由がありますか」

「しかし、まだ父もこんな事になったばかりで……」

「葬儀の日に領主の就任式です。早い事はない」

「でも……」


 泣きそうなその顔に、落ちたと思った。恋に、落ちた。別に過去失った彼女に似ているとかそんな事を意識した訳ではない。きっと何だかんだ理由をつけてもシンプルに考えると答えはここに行き着く。一人で総てを背負おうとしているあの泣きそうな顔が、彼女に被った。愛と引き換えに一人で罪も罰も何もかも背負って自分の前から消えた、硝子のような彼女の泣きそうに歪んだ顔と。
 聖はそっと瀬能に近づくと彼の肩に手を置いて笑みを刷いて自分の父親を見た。


「そのくらいにしたらどうですか」

「何の用だ。お前には関係ない」

「そうですね。でも俺、瀬能様を護る必要はあると思ってます」


 聖の台詞に、瀬能が驚いて彼を見上げた。合った目に微笑んで答え、聖は父から顔を逸らす。正直、この男が得意じゃない。自分の父でありながら、この男は嫌悪の対象だった。この男にしても自分は侮蔑の対象だろう。お互いの関係は、もしかしたらそれでいいのかもしれないけれど、向き合わなければならないときはある。きっと他人から見たらあまりにもくだらない事であっても。
 一人の男が部屋に入ってきて、後ろから彼らに声をかけた。


「瀬能様、明日から忙しくなります。柊様もお休みになってください」

「真坂殿……」


 領主と対等に意見を交わす事のできる意見者の地位にいるひげを生やした男性に瀬能が振り返って呼びかけ、これ幸いとばかりに妹の手をとって立ち上がった。自然な仕草で聖が小柄な瀬能の一歩後ろに立ちついていく。耳元で「お送りします」と囁いて、二人の男性に軽く頭を下げた。


「聖」

「………なんですか」

「いや、何でもない」

「失礼します」


 真坂に声をかけられ聖がほんの少し苛立ちの篭った顔で振り返ると、彼は微かに首を横に振った。何だったんだろうと首を捻りながら聖は素直に頭を下げて、律儀に待っていた瀬能を促して部屋を出て行った。後ろから、二人の声が聞こえたが、何を言っているのか聞く気は全く起こらなかった。









 瀬能を部屋まで送り、その向かいの部屋に柊が入っていくのを見届けて自分も帰って仮眠を取ろうかと思ったら、瀬能に袖を引かれた。彼の部屋に無言のまま招き入れられ、聖は座りながら居心地の悪さを感じていた。聖の前に瀬能も畏まって座り、何を言うべきか言いあぐねているようだった。
 実際、瀬能と聖はそんなに面識がある訳ではない。垣間見た事くらいはあるが、正式に対面したのは聖が大将になったたった一年前だ。聖が本来人懐っこい性格をしている為瀬能も柊もよく聖に声をかけるが、あくまで世間話程度だ。だからこの空気が居心地悪かった。


「………私は、領主になるべきだろうか」


 さきほどの会話を気にしているのだろう真剣な顔に聖は軽く眼を見開いて瀬能を見た。その顔を見て瀬能は自信なさ気に俯く。それを見て聖は優し気に顔を綻ばせると瀬能に近づき、膝の上で硬く握り締められた手を大きな手のひらで包み込んだ。


「貴方が何かを成したいと思うのなら、なるべきです。自分の力が及ばないとか、そんな不安を感じているのなら必要ありません。みんな、全力で貴方を助けます」

「私に、できるだろうか」

「領主様の意思を一番近くで見て、知っているのは貴方だけだと思いますよ」


 顔を覗き込んで微笑むと、瀬能は微かに頬を染めてはにかんだように笑顔を浮かべた。その顔が予想外に可愛くて、ほんの少し胸が疼くのを感じる。完全に、自分は落とされた。そう自覚して、聖は女よりも綺麗なその顔をにっこりと笑みの形に変えて瀬能の頭を撫でた。


「数時間したら弔いの方々がたくさん見えます。短時間ですがゆっくり休んでください」

「おやすみ」

「おやすみなさい」


 聖は優しく瀬能の頭から手を離すと、にこりと微笑んで彼に背を向けた。
 部屋のドアを閉めて、肺の中身を空にするくらい長い息を細く吐き出してゆっくりと天を仰いだ。近い天井に目眩を起こしそうになって、眼を閉じる。


「ヤッバイなぁ……」


 ココまで本気で落とされるとは思わなかった。また本気になるなんて自分でも思っていなかった。
 本気になってしまったことを簡単に自分のうちに押し込めて、聖は本部に向かって歩き出した。きっと吉野がソファで寝てしまっているだろうから毛布をかけてあげて、起きるまで読みかけの本でも読んでいよう。どうせどちらかが何かあったときのために起きていなければいけないのだから。そう思って空を見上げると、太陽が顔を出した空は白んでいた。




-続-

一話目からヘヴィですね。
ブランクがあるからかシリアスな内容だからかみんな動きが鈍いです。