軍部に戻ると、本当に吉野が寝ていた。珍しい事にソファに軍服を脱ぎもせずに眠ってしまっている。珍しい事もあるもんだと思って、聖は苦笑を浮かべると奥の自室と化している執務室から毛布を持ってきて掛けてやり、給湯場と反対の壁一面の本棚にふと視線を移した。読みかけの本を手に取ろうとして、その隣に何気なく手を伸ばす。こうして読み止しの本を、自分は何冊残しただろう。残したかったのか残そうとしたのか、いまの自分にはもう分からない。
 本を手にしてそのまま開くわけでもなく立っていると、静かな空間にパタパタと二人分の足音が聞こえてすぐに少年達が飛び込んできた。


「師範?」


 呼ばれて、聖は微かに顔を上げた。竜田国は、平和だ。だから軍人は国中の道場に顔を出したり稽古をつけたりしている。その関係で、聖は軍大将であると共に師範と呼ばれる。頻度としては『大将』と呼ばれるほうが少ないくらいだ。
 聖の視線の先では惣太と、相棒の鉄五郎がほんの少し息を荒げて立っていた。呼吸を整えるように肩で息をしている2人に苦笑して待っていると、未だ荒い呼吸で惣太が口を開いた。


「領主様のご遺体を、移動させるそうです」

「もうかよ。吉野」


 精神的にも体力的にも疲れている吉野は聖の呼びかけに身じろぎすらせず、聖は「やっぱな」と呟くと吉野の寝ているソファに屈みゆっくりと顔を近づけた。耳元で囁くように名を呼んでみるが、びくともしない。女ならこれで起きない奴いないんだけどなと思いながら、聖は吉野の腹部に足を乗せた。


「起きろ、オラ」

「……なんですか、節操なし……」


 寝起きでこの悪態か、と口の端を引きつらせながら聖は吉野から足を下ろした。「顔だけなら俺好みの美人なんだけど」と悪戯に呟いて、聖はコップに水を汲んで吉野の前に差し出す。それを受け取って目を覚まし、吉野はやっとしっかりした目で聖を見た。


「お帰りなさい、聖さん。みんな揃ってどうしました?」

「遺体移動の護衛。あと頼んだ」


 簡単に事情を話し、鉄五郎はここに置いておくといって聖はさっきまで捲くっていた袖を下ろし、奥の執務室から二振り刀を持ってくると慣れた手つきで正剣帯に通しながら背を向ける。その背中を慌てて追いかけて、惣太はちらりと背後を振り返った。閉まりかけたドアからまだ眠そうな吉野と鉄五郎の姿が消えた。










 本部を出ると、既に大正門の前に大勢の人間が立っていた。
 ここから隣接されている葬儀場まで約五百メートルを移動する。たかだか五百メートルくらいで軍大将まで引っ張り出さなくてもいいのに、と思いながら惣太は人ごみの中を突き進んでいく聖についていきながらその大きな背中を見上げた。ここ数日、聖は護衛の任務やもしもの時の対応、地方との連絡でちゃんと寝ていなくて体力的にも精神的にも疲れきっているはずなのに。


「瀬能様」


 人ごみの中心で、棺の隣でぼんやりと立っている少年と形容した方がいいような彼を見つめて、聖は後ろから声を掛けた。ついさっき休ませたばかのその姿は変わらずに困惑と哀傷を刻んでいる。聖が声を掛けると、瀬能はゆっくりとこちらを向いて唇を微かに動かした。


「……角倉、大将」

「先ほどお休みになられたのでは?」


 場違いだと分かっていながら、素直に気持ちの悪い呼び方だなと惣太は思った。聖は、家名を出されるのを極端に嫌う。それは軍人でなくても彼と多少の付き合いがあれば誰でも知っているから彼を『角倉』と呼ぶ人間に惣太は出会ったことがなかった。だから権力の権化のようなその名に惣太は違和感を覚えた。


「寝てられなくて」

「お体を壊されますよ」


 聖が彼を思いやるようにそっと背に手をあてると、瀬能は微かに首を横に振った。その姿に聖は自分自身が辛いようにほんの少し瞳を歪める。その姿に惣太は唇を噛んだ。この人はいつだって、誰よりも優しいから。
 そうしているうちに前方で指揮を執っていたらしい真坂意見者と角倉総督の声が聞こえて列が動き出した。歩き出したそれに合わせるように聖も瀬能の背を抱き寄せて歩き出す。正直に、綺麗だと惣太は思った。


「柊様はおやすみですか?」

「あぁ。侍女に申し付けて寝かせてしまった」

「……大丈夫ですか?」


 心配そうに瀬能を覗き込んだ聖に、惣太は「アンタの方が大丈夫ですか!」と叫びだしたかった。いつだって自分のことを後回しにして他人の事ばかりを心配する、大好きな大将。聖さんが一番無理しているくせに何でもないことのように綺麗な顔で笑っている。他人の痛みさえ引き受けて、辛いだろうに。他人から見たら、余計なお世話だと言われるかもしれない。でも自分たちは、そんな大将についてきた。
 だから、聖の笑顔に無理したのが丸分かりの表情で答えた瀬能にほんの少し腹が立った。


「私は、大丈夫だ」

「そうですか。でも疲れたらいつでも寄りかかってください」


 こくりと頷いて涙を落しそうな瀬能を見て微笑んだ聖を見て、惣太は耐え切れずに聖の袖を掴んでしまった。不思議そうに振り返った聖に口早に「なんでもないです」と言ってそっぽ向く。もしも今ここにいるのが自分ではなく鉄五郎だったら、彼は何と言っただろうか。
 半年ほど前、戦があった。竜田の東に位置する臼木という国との戦と言うのははばかられるような小競り合いだった。臼木の内紛の飛び火と言ってもいい。結果は竜田国の勝利に終わったが、犠牲は出た。臼木の犠牲の一人で、国境の山に棄てるようにいたのが鉄五郎だった。死にかけた彼を拾ったのは、聖だった。それから彼は、聖に尽くしている。2度目の人生を送っているように。


「角倉大将は、綺麗だな」

「それ、やめません?」

「それ?」

「角倉大将っての。なんか気持ち悪くって、聖でいいです」


 奇麗に笑った聖の顔を真正面から見て、瀬能は口を数回開閉させた。それから顔を真っ赤に染めて「大将」と言いなおす。当たり前だ、と思って惣太は微かに笑んだ。どの遺伝子を混ぜ合わせたら出来るのか分からないような人外の美貌を持つ聖のこと、真正面からその薄く笑んだ色のある顔を見たら慣れるまでは口を利くことはほぼ無理だ。
 瀬能の反応に聖はつまらなそうに「まだまだ時間が必要か」と呟いて何気ない仕草で瀬能から手を離すとポケットに手を突っ込む。


「瀬能様」

「……何だ?」

「別れってのは、必ず来ます。死別も別離も、突然に」


 低い、色のある声だった。いつものふざけた感じとも今までのただ優しいだけの声とは違う、真面目ゆえの色気。その声に瀬能はゆっくり顔を上げ、惣太は驚いたように聖の背を見上げた。何故だか聖が、泣いているように思えた。事実、目に見えないだけで泣いていたのかもしれない。


「もしかしたら、死別の方がいいかもしれない。存在しているのに会えない別離なんかよりはよっぽど」


 そう聖は言って、それから黙々と歩いた。距離がそうある訳でもなかったので特に変な空気にはならなかったけれど、それでも惣太は、聖を思って泣きそうだった。










 再び本部に戻ってくる頃には、町の一般人が参列を成しているころになっていた。朝早くその通知が出されたのは分かるが、こんなに朝早くでは入り口で対応する軍人の人数が足りないかもしれないなと聖は端目にその光景を見ながら思っていた。
 軍部に戻ると、所管に目を走らせていた吉野が顔を上げた。


「外交部から数通の書簡がきてます。地方への他国領主のお迎えの馬ですかね」


 吉野から書簡を受け取り、聖は執務机の引き出しからから判子を取り出しながら目を通す。一通は、外交官が他国の領主の迎えに使う馬車用の馬と、護衛の要請。もう一通は地方官の弔いの為の人件要請。残りは国境にある四つの関所からの現状報告だった。
 また兵が減るのか、と思いつつぱっぱと印を押して聖はソファに倒れこんだ。その隣に当たり前のように惣太が座り、聖が億劫そうな腕で持ち上げた刀を受け取ると一瞬「折角座ったのに」と口元を歪め、しかし聖の顔を見たら文句も言えずに執務室に刀を置きに行く。


「少し休んだらどうですか?」

「今何時」

「八時です。貴族の弔いは正午過ぎくらいでしょうね」

「……ちょっと、資料室で寝てくる。正午前に起こして」


 執務室から戻ってきた惣太が見たのは、珍しく疲れきった聖の背中だった。
 普段執務室で寝ている聖だが、偶に階の中央に位置している資料室の隅で寝ている事がある。本人曰く考え事したい時とか邪魔されたくない時に寝に行くそうだが、吉野も惣太もそれが嘘なことくらい知っている。眠れないで、一人で悩んで、悩みつかれて意識を落としてしまうだけだ。
 吉野と話しながら軍服を脱いだのだろう白いシャツ姿の背中を見送って、惣太は溜め息を吐き出した。聖が寝転がっていたソファに腰を下ろすと、本棚の整理をしていたらしい鉄五郎が休憩とばかりに惣太の隣に腰を下ろした。


「惣太君、お疲れ様でした」

「師範代……師範はバカです」


 三人分のお茶を淹れた吉野に呼びかけて、お茶を受け取ってから惣太はそう言った。一瞬惣太を見つめて、次いで苦笑を浮かべる。自分のお茶をすすって「そうかもしれませんね」と言う吉野は自分の全てを見透かしているようで、彼らが自分よりもはるかに大人なのだと改めて気付いた。


「師範のほうが大変だし辛いはずなのに、他人の心配ばっかりして!」

「でも、あの人がバカだからオレは生きてる」


 これ以上寄りかかられたら潰れてしまうはずなのに、と惣太が叫ばんばかりに声を荒げると、隣で黙っていた鉄五郎がぽつりと言った。あのまま死ぬはずだった鉄五郎は、周りの反対を軽く無視して鉄五郎を拾い上げた。それは、鉄五郎にとって大切な事だ。
 惣太の神妙な顔に鉄五郎は慌ててニカッと笑って見せた。自分は国に裏切られた事も何も気にしていないのだと、笑った。


「ンな顔すんなって。それよりさ、仕事行こうぜ。迎賓館の掃除、終わってないだろ」


 人懐っこい笑顔で笑った鉄五郎に頷いて、惣太は頷いて立ち上がった。部屋を飛び出していく少年達に吉野は「無理しないでくださいね」と声を掛けたが、聞こえていないようだった。自分の事を棚に上げてどいつもこいつもと口の中で珍しくも悪態を吐いて、吉野はお茶を片付けるとソファに掛けておいた毛布を持って資料室に向かう。
 やはりこんな日は誰もいないようで、静まり返っていた。コツコツと自分の足音だけを数メートル分響かせて、向かいの扉を開ける。少しだけ入り組んだ本棚の先に、長身の陰が本に埋もれるようにして眠っていた。否、目を閉じていた。


「眠ってたら極上の美人さんなんですけどね」

「……もう昼?」


 扉からの光は差さないが、億劫そうに目をほんの少し開けた聖のぼんやりした声に吉野は首を振った。それを見て聖はほんの少し持ち上げた頭を気が抜けたように落す。その姿に苦笑して吉野は持っていた毛布を翳した。


「忘れ物です」

「お前、最悪」


 苦々しく顔を歪めて、聖は手を伸ばした。その手に毛布を渡し、しかしそれ以上何も言おうとしないので黙って立ち上がる。きっと何かを言いたいのだろうけれど、まだ纏まっていないのだろう。それとも、元から話す気がないのか。聖に背を向けると、聖が微かに深い息を吐き出した。


「ありがとな、親友」

「どういたしまして、親友」


 いつもと変わらない台詞を交わすと、吉野は光差す方に向かって足を進めた。
 疲れきって頭も体も回らなくなる前に、自分たちは息の抜き方を知っている。ヘタクソながらもお互いに、寄りかかりあって。依存するわけではないけれど、そんな心地よい関係はまだ続けていけそうだ。そう考える自分に笑みが零れてきて、吉野はクスクスと噛み殺しきれない笑みを浮かべた。





-続-

惣太、瀬能さん嫌い?
そして聖さんラブ度当社比150%の模様。