暗くなった資料室で、聖は毛布を受け取った手を重そうに下ろした。だいぶ疲れているのか、体が妙に重い。
 領主が亡くなった。聖にとってその人は、自分に居場所をくれた人だと思っていた。ただの不良だった自分に軍大将なんて大役を負わせ、護る物をくれた。昔からずっと欲して手に出来なかった、自分が守る事が出来る力をくれた。力はあったけれど、行使する権利を持っていなかった聖にとってそれはどれほど求めても手に入れられないものだと思っていた。そしてその人が亡くなった今、あの折れてしまいそうな青年というよりも少年と形容したくなるような瀬能を護るべきだと思う。


「……本当に俺が欲しかったものって、何だろ」


 ぽつりと呟くけれど、答えは返ってこなかった。当たり前かと苦笑を口の端に浮かべて聖は重い腕を持ち上げて毛布を頭から被った。微かに差していた光が、完全に遮断されて真っ暗になる。
 きっとこのままならばお家騒動でも起こるだろう。正直面倒くさい。面倒だけれど、きっと自分は巻き込まれる位置にいる。その時、どこに立つべきだろう。彼を護る者としてか、彼を立たせる者の一人としてか。それはきっと自分で選んで良いことなのだろうけれど、選択する事が怖い。恐怖をいう感情が否応なくあの日の記憶と呼応して浮かび上がり、足を竦ませる。自分がもし一つでも間違いを犯したら、全ての答えが変わってしまう。そして手に入れたかったものも手のひらの中にあったものも、全ててのひらをすり抜けて零れ落ちる。そんな気がしてしようがない。


「焦んな、莫迦」


 自分自身に言い聞かせるように呟いて、聖は手のひらを握り締めた。爪の食い込む感触がリアルに背を撫で、一瞬現実に吐き気がした。
 あの日、間違えたから聖の手には彼女の面影しか残っていない。そう彼は思っている。心の底から愛したはずの彼女は、結局全て自分で決めて聖を棄てた。さようならの言葉もなかった。何度も愛していると囁いて、でも聖の前から消えた。あの頃は死にたくなったけれど、今は彼女が聖の事を考えて消えた事を知っている。だから、いつまでも彼女の幻影が消えない。


「つか、ねむ……」


 流石に寝ないとやばいなと思いながら、聖は鈍く痛む目を瞼の上から押さえた。眠いけれど、眠れない。こんな事はもう慣れたことだから特に気にしていないが、それ以上に今回は精神的にキツイ。
 自分は軍人で、領主を護る為にある。だから何も迷う事はないのに、なぜこんなに迷っているのか。本当にここに立っていて良いのか、ほんの少しの迷いが生まれているからだろうか。どこまでを大将として手を出して良いのか、どこまでが一人の男としての行動になるのか。そこに、規制はあるのだろうか。
 そして何よりも、寄りかかられて護れる自信がない。


「あー、めんど!」


 苛つきに任せて投げだしてある足で乱暴に近くの本棚を蹴っ飛ばすと、不穏な何かが破壊される音が耳に飛び込んできた。げっと思った瞬間にはもう遅く、体は動かずに無防備に落下してくる大量の本をもろに頭から被ってしまった。ドサドサと衝撃音を伴って落下してくる本は大量の埃を立てただろうが、毛布を被っていたのでその被害はない。その代わりに緊張の糸が切れたのか急激に意識が遠くなった。










 部屋に戻った吉野は、何故か室内で寛いでいる軍服姿の青年に掛ける言葉を見つけることが出来なかった。
 竜田軍の軍服には、五種類ある。精鋭軍団との別名を持つ第一軍、諜報部隊である第二軍、補給と医療を請負う第三軍、中距離攻撃部隊の第四軍、本業を軍人としない懲役を集め、戦の時のみ存在する第五軍。それらは各々軍服のラインの色が異なっている。ファスナー部分と袖のライン、胸ポケットのラインが真紅なのは第一軍、緑は第二軍、青は第三軍、黄は第四軍、そして白が第五軍。そして各軍を各地方に派遣して師団となる。
 吉野は目の前の執務机で優雅にお茶を飲んでいる緑のラインを持つ軍服を着ている青年に何を言うべきか迷い、その間に青年は口の端に笑みを浮かべてカップを置いた。


「大将殿はどこに?副将」

「その前に誰の許可を取って優雅に紅茶飲んでるんですか、小田原軍団長」

「固いことを言うね。僕がここにいるんだよ?」


 クックと喉を鳴らして、諜報軍団長の小田原秋菜は立ち上がった。彼の言葉に吉野は無意識に瞳を眇め、乱暴に軍服を脱ぐとソファの背もたれに掛けて腰を下ろす。どうしてどいつもこいつもこの忙しい時に面倒臭いんだとやや苛つきながら足を組む。
 吉野のピリピリした姿に小田原は表情を変えずにゆっくりと彼の前に腰を下ろした。それを待って、吉野が落ち着きなく組んだ腕を指で叩いている。


「用件をさっさと言って仕事に戻ってください、忙しいんです」

「副将も相当疲れているようだね。お茶でもいかが?」

「結構です。用件は」


 目に見えて苛々している吉野に苦笑して、小田原は一枚の書簡を取り出した。もったいぶるようにそれを開かずにゆっくりと足を組んで吉野を疑うと、普段の彼からは想像もできないような怖い顔で書簡を見ている。肩を竦めて、小田原は執務机に手を伸ばした。置いておいたポットとカップの乗った盆に手を伸ばして、一杯淹れて吉野の前に置く。


「落ち着いて、お茶でもどうぞ?そんなに苛々していても判断を間違えるだけだ」


 数秒小田原を見つめ、吉野は小さく溜め息を吐くとカップに手を伸ばした。砂糖も入れずに紅茶を啜り、口の中に広がる苦味に微かに眉を寄せる。
 吉野の喉が嚥下したのを確認して、小田原は書簡を開いて彼の前に差し出した。それを視線で追いながら吉野はもう一口紅茶を飲む。差し出された書簡に書いてあるのは、地図だった。竜田国を中心としたこの地図の国境線近くに赤い線と数字が書いてある。


「何ですか、これは」

「周辺国の兵の配置図だが」

「そんな事は分かってます。この動きは何だと言ってるんです!」


 声を荒げる吉野に小田原は困ったように眉を寄せた。「そんなことを言われても」と軽口を聞いてみるが吉野は軽く無視して書簡を手にとって凝視した。
 領主が倒れたと諸国に伝えたのは随分前になるが、逝去したと伝えたのは数時間前だ。どうして、こんなに早く国境近くに国の半数ほどにものぼる兵を配置する事ができたのか。そして、その理由は何がある。よく見てみると、その国は両脇の大国だ。


「一体何の目的で……」

「まさかこれを気に国を潰す気でもないだろう?」

「……しょうがありませんね、聖さんを起こして……」


 そう呟いて立ち上がった瞬間、吉野は体から力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。その光景を見ていた小田原は薄く笑みを浮かべたまま立ち上がり、吉野を軽く持ち上げてソファに寝かす。それから半分ほど無くなったカップに視線を移して「良く効いたな」と呟いた。


「大将は知っていたよ。さっき両国境付近に兵を配置した」


 薄く微笑んで小田原は荒く畳まれて掛けられた軍服を吉野に掛けてやって、カップを洗った。外に何気なく視線を移すと満開の梅が視界を隠すように咲いていた。
 本当に、この国の軍のトップはどちらも大馬鹿だ。そう思って、小田原は苦笑を浮かべる。


「貴方も頑張りすぎだ、筧副大将」


 「大馬鹿コンビ」と囁いて、小田原は彼を起こさないようにそっと部屋を出て行った。
 他人に頼る事が苦手な彼らは、お互いに寄りかかることが出来なくなったらきっと一人で立っていることしか出来ないのだろう。本当に、不器用な奴等だ。この仕事が無事に終わったら、第一師団をあげて大将たちをねぎらう為に何かを催すのも面白いかもしれない。そう思いながら、小田原は仕事に戻った。










 迎賓館の掃除を終えて惣太と鉄五郎が軍部に戻ると、珍しいことに吉野がソファで寝息を立てていた。珍しいこともあるもんだと思うが、もう時間も時間なので惣太はそっと彼の元に歩みよった。鉄五郎と一緒に両脇から声を掛ける。


「師範代、お昼過ぎましたよ」

「貴族の参列が始まってます」

「……なんでもっと早く起こさないんですか」


 地の底から聞こえてくるような吉野の怖ろしい声に、二人揃って背を震わせて反射的に謝った。本当は吉野が勝手にいたのだから起こさなかった所で責められるいわれはないが、十五の少年に現段階でまともな思考に至るのはほぼ不可能だ。目の前にいるのは大魔王なのだから。


「惣太君、鉄五郎君。聖さんを起こしてきてください」

「はい」


 素直に頷いて、二人は部屋を飛び出した。吉野はほんの少し痛む頭に手を添えて体を持ち上げる。
 睡眠薬だろうかほんの少し頭痛がする。「やってくれましたね」と呟いて吉野は体に掛かっていた軍服に苦笑を浮かべた。薬を盛られたことは不本意極まりないが、頭はスッキリしたし冷静にはなれただろう。これからどうしようかともう一度置いていかれた書簡を持ち上げると、廊下の向こうから悲鳴が聞こえてきた。


「さて、聖さんも起きたみたいですね」


 どうせあの悲鳴は惣太辺りが寝ぼけた聖に組み敷かれでもしたのだろう、と軽く考えて吉野はとりあえず水を飲もうと立ち上がった。コップに水を入れて一口煽り、コップを置いた時に凄い勢いで惣太と鉄五郎が飛び込んでいた。完全に二人とも涙目だ。


「はい、お疲れ様でした」

「吉野さん知ってて行かせましたよね!?」

「師範てどれだけ寝起き悪いんですか!」

「さすがの僕でも聖さんの寝起きの予想なんてつきませんよ」


 そう言って笑みを浮かべると、惣太と鉄五郎は額を寄せ合わせて「絶対知ってた」と囁きあう。だいぶ聖を起こした時に怖い目にあったようだ。
 少年達がこそこそとお互いを労っていると、まだ眠そうに毛布を引きずった聖が呆れた表情で帰ってきた。吉野が水を汲んで彼に差し出すと、聖は毛布をその場からソファに投げて水を煽った。どうしてこの男が飲むとただの水も甘美な液体に見えるのか不思議でしょうがない。
 聖からコップを受け取って、吉野はほんの少し顔を強張らせた。


「先ほど諜報より連絡が。芳賀、臼木両国が兵を動かしています」

「だろうな」


 乱れた髪を手櫛で軽く梳きながら、聖はそう呟いてテーブルの上に乗っている紙を持ち上げた。ソファに体を沈めると、近くにいた惣太と鉄五郎は慌てて部屋の端っこに避難する。それを端目で見て聖は小さく舌を打ち鳴らし、書簡に視線を落とした。左隣の芳賀が、兵力の約三分の一を、右隣の臼木に至っては約半分の兵を国境付近に配置している。直接戦を仕掛けてくることはないだろうが、訪問の護衛にしては多すぎるだろう。


「どう思いますか」

「なんかあるな。それが失敗すると攻めて来るとか、そんな感じじゃね?」


 正面に座った吉野を見もせずに聖は言い、ふと空腹を訴えてきた自身の胃に意外そうに柳眉を上げた。時計を確認すれば十二時を過ぎているのだから当たり前だが、徹夜が続いているので曜日感覚どころか日付感覚すらなくなってきているのだろうか。
 聖の空腹に気づいて、吉野が適当に摘めるものをテーブルの上にドンと置く。聖は何気なく手を出しながら、ふと窓の外に視線を移した。


「一応両方面に諜報の奴飛ばしたけど、何か引っかかるんだよな」

「何か、あると思いますか?」

「わかんね」


 軽くそう言って、聖は笑って見せた。考えたって気になる点はごまんとあるし、それを全て考えるには時間が足りない。だったら最低限のことをするしかできることはないだろう。最悪のことさえ防げればいい。別に考えてそう結論付けた訳ではないが、簡単にそう思えた。簡単に開き直れるのは良い性格だよな、と聖自身もそう思う。


「さって、今護衛は誰ついてんだ?」

「この時間なら倍の人数で第三ですね」

「んじゃそろそろ俺、行くわ。多分明日、就任式だからな。しっかり寝ろよ、それが終わったら一段落だ」


 気楽に聖は笑って私室にしている執務室の戸を開けた。さっさと入ってしまった彼の背中を見送って、惣太は微かに目を眇めた。
 あの人はいつだって、笑っている。さっき本に埋まって毛布を被ってきっと泣きたかったはずなのに、いつもと同じように起きた。同じように寝ぼけて女と間違えて、甘い台詞を吐いて。でもそれが今日は嘘だと惣太は知っている。聖はそんなに、女に執着していない。
 しかし鉄五郎は気付いていないのか、さっきの師範がどんな起き方をしたのかを師範代に語っている。数ヶ月前に拾われた彼は、まだ角倉聖という人間を理解していない。惣太が聖が消えたドアを見ていると、すぐにそこは開いて着物姿の聖が現れた。一体何事だと惣太と鉄之助は目を見開くが、吉野だけが「いってらっしゃい」と呟いた。


「え、師範代。師範はあんな姿でドコへ?」

「まさかとは思いますが、花街とかじゃないですよね?」


 聖が出て行ったドアが閉まってからされた惣太と鉄五郎のトンチンカンな質問に、吉野は苦笑を浮かべた。そう言う疑問を浮かべるのは彼らが完全に聖の立場を理解していないからだろうか、聖の望むようにしか彼を見ていないからか分からないけれど、聖が馬鹿なことは吉野に良く伝わった。


「あれでも『角倉』の人間ですから」

「あ、そうか……」

「角倉ってそんなに凄いんですか?」

「そうですね、鉄五郎君はまだよく分かりませんよね。角倉は三家の一なんです」


 領主のその下に、巨大な権力を持った家が三つある。この国の権力を実質三分割していると言って良いだろう。その一つが角倉であり、現段階で故領主の倅である直系の瀬能の後見についた。その一である若垣は故領主の姉の倅を押しているし、真坂は中立を選んだ。瀬能は若いが直系で、ずっと父の背を見て育った。瀬能の世襲になるだろうから、実質の権力の一になるであろう。そして聖はその本家の血を引く人間だ。本人が嫌がろうがそれは画然とした事実であり、最早誰も揺るがす事ができない。
 そう言うと、鉄五郎は難しい顔をして黙り込んでしまった。


「師範も、大変なんですね」

「本人ももう諦めてますよ」

「だって、師範は遊女の子でしょう?」


 その言葉を口にした瞬間、二人の空気が固まった。向けられる冷たい瞳に言葉にしてはいけないことだったのだと悟るが、一度生まれたものはもう取り消せない。
 聖は、現総督である角倉元信が遊郭で作った子供だ。十のときに長男が病を患い、身代わりに引き取られた。貴族というのは人を貶めるのが好きなのだろう、常に聖を「遊女の子」と蔑んできた。軍大将になった今でこそ誰もそれを口にしないが、文官の中には未だそう蔑むものがいる。しかし、軍に身を置くものはみんな知っている。聖が自身の出身に誇りを持っていることを。だから誰一人彼を『角倉』の人間だという事を口にしないのだ。


「……ごめんなさい」

「いいえ、でも覚えておいてください。聖さんは、だから聖さんなんですよ」


 にこりと微笑んだ吉野に鉄五郎は泣きそうになって頷いた。それを見て過去の聖を知る惣太は目を細める。
 過去、全てを失った顔をしていた聖を知っている。それから彼が立ち直って笑えるようになるまで彼を見ていた。誰も見ていないところで彼は傷付いて、たくさん苦しんできた。だからもう、あの人を傷つける人間を許せない。





-続-

聖さんて独白好きですよね。
この国の軍部が自分を省みない馬鹿なのでとても心配になりました。