久しぶりに着た着物の袖を邪魔そうに振り、聖はのろのろと葬儀場に足を向けた。正装が着物のこの国では、年嵩のある人は皆着物で生活している。聖自身も着流しはよく着るが、しっかりと着物を着ることは滅多にないから、動き辛い。
 『角倉』の人間として生活する事が限りなく嫌だった。だから本来執務室である部屋を私室同然にして寝泊りしている。けれど、これは大切な人との約束だから。幸せになるという約束をもう護れそうもないけれど、ただ一つ、あの人が『角倉の人間』になって幸せになることを望んだから、これが精一杯の譲歩。『角倉』の人間になって幸せにはなれないけれど、『角倉』の人間になることは出来るから。


「聖」


 後ろから声をかけられて、聖は億劫そうだった顔に奇麗な微笑を貼り付けた振り返った。
 声を掛けてきたのは真坂光定だが、その隣を歩いている小柄な男性に聖は浮かべた笑顔が強張ったのを自覚した。彼は聖を見ると何かを促すように目を細め、聖に微かに微笑みかける。それを見て聖は自分が髪を結っていないことに気づいた。


「……お久しぶりです、兄上」

「たまには家に帰ってきなさい。それから、みっともない格好をしていないで」

「はい……」


 頭を下げて、聖は目を眇めた。兄が苦手だ。父も苦手だがあれは嫌悪の対象であって恐怖はない。しかし兄の澄春から感じるのは与えられた事のない妙な感覚。これを嫌悪して良いような気はしない。聖にとって角倉澄春という兄は、対峙の仕方が分からないだけなのかもしれない。聖が十のときに病を患った兄は、聖を誰よりも気にかけた。今も、聖の格好にほんの少し目を眇めて注意を促す。その視線に嫌悪が混じっていないから、聖は臆す。どう反応して良いのか、分からないから。
 聖はとりあえず髪を結うものを探したが見つかる訳もなく、舌打ちを漏らしたくなった。多分、資料室の床に埋まっているだろう。後で掘り返さなければならないのかと思うと自分で崩したくせに億劫でしょうがない。仕方なく、聖は手で髪を梳かして形をつくろった。


「澄春殿も出来の悪い弟で大変ですな」

「いいえ、馬鹿な子ほど可愛いと言いますから」


 苦笑を浮かべた光定に澄春は何て事のないように笑顔で言い返す。会話をして交友を暖める気も何もないので聖が数歩下がって付いていくと、光定がちらりと視線を向けてきた。真坂家と角倉家は、現在親戚関係にある。現当主である元伸が真坂の出なのだ。父親の兄の息子である光定はつまり従兄にあたる。
 光定の視線に首を傾げて、聖はそっと顔を寄せた。


「何ですか?」

「護衛の兵を瀬能様につけろ。それからあの女に見張りを」


 光定の言葉に聖は目を眇めた。今だって瀬能の護衛には人数を裂いている。領主の息子だというだけで価値は高いのだから当然だ。しかし、「あの女に見張り」とは穏やかではない。あの女とは故領主の姉であり、自身の息子を領主にと薦めている彼女の事だろう。そこそこいい女だけど、とくだらないことを考えながら聖は葬儀場に入る。
 そこに偶然小田原秋菜を見つけ、聖は彼を微かに手招いた。諜報軍団長の彼は誰にも怪しまれる事なく、自然に聖の傍によってくる。顔を近づけて、聖は悪戯に囁いた。


「なにやってんの、秋菜ちゃん」

「仕事に決まっているだろう、秋菜ちゃんていうな」

「あ、そ。んじゃ悪ぃけどもう一つ追加、英子様の身辺調べて見張ってくれ」


 「諜報で人数裂けるか?」と尋ねた聖に小田原は微かに目を眇めた。この男はいつも、どこを見ているのだろうか。どこも見ていないようで世界を俯瞰しているように見える。
 領主の座を狙っている英子の見張りは分かるが、身辺調査の必要性が理解できずに黙っていると、聖はにやりとその奇麗な顔に凶悪なまでの笑みを刷いた。


「何か出てきたら面白いだろう?」


 背筋が、ぞくりとした。この男が口に出す事全てが現実に起こりそうで、小田原は無意識に聖から目を逸らした。この男の瞳には、力がある。きっと自分とは見ている世界が違うのだろう。気を落ち着かせるために数度深呼吸してから、小田原はいつもの笑みを浮かべる。この男の前で気を抜けば、一瞬にして全てを持っていかれそうだ。


「なぜ、僕に?筧副将に伝えなくて良いのかい?」

「あいつも疲れてるし。あ、ついでに鉄に瀬能様の護衛びったり付けさせてくれ」


 「悪いな」と笑って、聖はほんの少し離れた権力者達に追いつくように歩調を上げた。追いつくけれど、また詰まらなそうに周りを見回して兵のチェックをしている。立っているだけで存在感を醸し出す大将に気付いた兵たちは皆揃って敬礼し、聖は笑ってそれを返していた。


「……さて、鬼が出るか蛇が出るかって所か」


 呟かれた独り言に聖が口の端を楽しそうに引き上げると、それが耳に入ったのか澄春が振り返った。「何か?」とでも言うように聖が微笑むので澄春は小さく溜め息を吐き出す。それから一度光定に視線を移し、彼が頷いたのを確認して澄春は聖の瞳を見つめた。


「聖、よく聞いて。角倉と真坂は共に瀬能様の後見につく」

「真坂は中立に立ったんじゃないんですか?」

「表向きはな。だがあの女に国を乗っ取られる訳にもいかん」


 澄春と光定の話を聞いて、聖はやっと何か引っかかっていたことに気づいた。普通、葬儀に出席するのは各家の家長だ。それなのに、病弱な兄がいることがおかしかったのだ。たぶん今このときに話し合いでもしているのだろう。納得した聖はさらに一つ頭に浮かんだ事があった。何につけても瀬能と対抗しようとしていた、『あの女』。確かに何かをやってきそうだ。そして早々に国境付近に召集している兵。これは何かありそうだ。
 聖が薄く笑みを零すと、前を行く二人から同時に睨まれた。聖は軽く肩を竦めて黙ると、目の前に迫った葬儀場の扉を押し開けた。










 本来兄の付き添いだったので早々に挨拶を終え、聖は軍部に戻った。先ほど聞いた話では三家の当主と本人達が話し合いで領主を決めていたそうだ。現在は下級貴族の参列も始まっているだろうし、そろそろ地方官が中央入りしたところだろうか。整えた髪をかき回しながら聖がドアを開けると、資料の山の向こうから吉野が声を出した。


「聖さん?お帰りなさい」

「何やってんの、お前」


 ちっとは休めよ、と思って呆れた声で言うと、吉野は不快そうに眉を寄せた。一体何の資料を見ているのかと思って近づくと、英子の詳細な報告書だった。仕事が速いなと思う反面、なんでここに報告書を持ってくるのかと思う。吉野に言わなかったのに台無しじゃんか、と思って眉を寄せると吉野が不機嫌に視線を上げた。


「僕だって休んでいるんです。いい加減にしないと怒りますよ」

「あー……すんませんでした?」


 小田原秋菜という人間は、本当にやってくれる。そう思いながら聖はおどけたように頭を下げた。それから周りを見回して誰もいないことにかすかな違和感を覚えるが、鉄五郎を護衛につけたし惣太は佐々部の跡取りなので弔いだろうと思いなおして聖が執務室に向かうと、吉野も時計を見てからついてきた。
 聖の私室になっているが、この部屋は吉野も利用する。聖の私物が断然多いが、吉野の軍服もここに置いてあるから、聖は自分の分と吉野の分を取ると彼に放った。


「就任式まで意外に時間ねぇんだけど、なんか分かったか?」

「やはり彼女は芳賀と繋がってましたね。文が残ってました」

「証拠残してたのかよ。随分と親切だな」


 笑いながら聖は着物をソファにかけた。竜田軍の通常軍服は黒のロングコートだ。詰襟からダブルチャックのファスナーのラインに沿って各軍団色をあしらい、袖のラインにもそれはあしらわれている。滅多につけることはないが刀を止める正剣帯は金のチェーンと軍団色の細い革紐で出来ている。それとは違い、軍礼服は白を基調としている。ノースリーブの黒のハイネックインナーの上に白のシングルブレステッドブレザーコート。普段のロングブーツと違い足元も革靴だ。同じ所は胸ポケットの軍証だろうか。龍に護れた女性のエンブレムは、通常軍服にも施されている。そして、白の手袋。この裏には帯刀しない代わりに武器が仕込まれている。
 久しぶりに軍礼服に袖を通して、聖は髪を高い位置に結い上げた。いつもの髪結い紐は多分資料室なので、カンザシで器用に髪を結い上げる。


「臼木との繋がりは出てませんけど、どういうつもりでしょう」

「臼木か……芳賀とでも戦う気かな」

「どこにメリットがあるんですか」

「ねぇな。やっぱ代替わりのゴタゴタで責めてくるってのが一番ありそうだな」

「一応諜報からの情報では領主の護衛になっています」

「明らかに嘘だろ、それ。一応山もあるし大丈夫だとは思うけど、一応打っとくか」


 言いながら聖はソファに腰掛けた。優雅に足を組んで、目の前にある周辺地域の立体図を見やった。正反対の位置に兵を配置されたらどうしようもない。これが狙いなのか別々の目的があるのか分からないけれど、とりあえず芳賀よりも臼木を警戒するべきだろう。なにせ、あっちには何のメリットもない。
 こっから近いしな、と囁いて聖は目を眇めた。芳賀方面から中央まで攻めてくるには西関を通らねばならず、その間にはゴロツキたちの縄張りがある。防げるとは思わないけれど、時間稼ぎにはなるだろう。


「ところで結局瀬能様が就任なさるのでしょう?大丈夫でしょうかね」

「何が?」

「何がって、若いんですよ?僕には務まるとは思いませんね」

「そこら辺は俺達の口出す所じゃないだろ?」

「そうですけど……」

「それより今は就任式」


 そう言って聖は笑って見せた。確かにまだ年若い瀬能のこと、気になることはたくさんある。けれどそれはトップの方が気にすれば良いことで自分たちが口を出す問題ではないし、その前に自分たちの目の前には芳賀と臼木の圧力がある。他人の事を気にしている場合じゃないのだと思いなおして、聖は立ち上がった。その時、遠慮も何もなくドアが開いて軍服姿の惣太が顔を覗かせた。


「あ、師範いた」

「おう、お疲れ。どうした?」

「隣国の方が入られました」

「じゃ、明日だな。もしかしたら今日迎賓館入るかもしれねぇから、人数増やしとけ」

「はい。あれ、鉄は?」

「瀬能様の護衛。惣太、お前着替えて変わってやれ」


 そう言って、聖は億劫そうに立ち上がった。彼に続いて吉野も手袋に仕込んだ暗器の様子を確認しながら部屋を出て行く。どこに行くんですかと尋ねようとして、惣太は口を噤んだ。貴族の弔いもすみ、就任式が行われる。それは他国の弔いの前でなければならないので、急ぐのだ。出席するのは大将と副大将。他の人間は護衛につくだけなので通常軍服で十分だが、就任式に臨む瀬能様の護衛ならば軍礼服を着なければならない。
 惣太は折角着物から着替えたのだが、また着替えをしにまず自宅へ向かった。





-続-

政治が絡んできて早くも頭がパンクしそうです。