この間まで満開に咲いていた梅がいつの間にか散り、代わりに桜が咲いている。そのことに気付いて、聖は深く吸い込んだ紫煙を吐き出した。視線の先で霧散するそれに目を細め、逆さに映る窓から見える平和な世界に頬が緩む。
前領主の葬儀から、一月余りが経過した。検死の結果からも毒物は検出されず、他国の不審な行動もない。ようやく街も人も落ち着きを取り戻し、生活のリズムも元に戻ってきた。聖は本部のソファに寝転がって煙草を吸いながら、ともすれば眠ってしまいそうな平和さを噛み締めていた。何事もなく一月が、経過した。
「聖さん、起きてますか?」
「んー?」
ドアが開いて、吉野が尋ねながら入って来た。聖が腕の力で首から上を上げると、吉野の顔が銜えられた煙草に険しくなる。『寝煙草一本火事の素』は軍部が謳う名文句だ。大将自らが破っているその事実に吉野は溜め息を零した。けれどこの溜め息が零れることも平和な印だ。出来るだけプラスの方向に思いなおして、吉野は本棚の前に立った。随分前に読み止しにした本はどこへ行っただろう。探しながら聖が体を起こしたのを背中で見て口を開く。
「今夜時間ありますか?」
「特に用なんてねぇけど」
「じゃあちょっと出掛けましょうか?」
「お前がそんなこと言うの、珍しいじゃん」
「いつまでも聖さんの顔ばかり見てるのもあれですし」
吉野の苦笑に「俺に向かって言うじゃねぇか」と口の中で呟いて聖は短くなった煙草をテーブルの上においてある吸殻で一杯の灰皿で揉み消した。これだけ吸殻があるのも、平和な印だ。言い換えれば暇だと言うことになるが、軍が平和で悪いことはない。
聖はだるそうに立ち上がると自然な仕草で体を屈めて水道から垂れてくる水に直に口をつけて喉を潤した。吉野が文句言おうと口を開くが、その前に聖が肩を竦めておどけて見せた。その姿に吉野が肩で息を吐き出す。
「小田原軍団長からのお誘いです。今夜食事でも、と」
「野郎と食事しても楽しくねぇだろーが」
「第一師団みんなで集まっての宴会だそうですよ。まぁ、みんな頑張りましたし、良いご褒美ですね」
「今更じゃね?」
「街も落ち着いたみたいですしね。場所は朱門ですね」
「完全に宴会する気だな。明日に差し支えんじゃねぇの」
そう言って聖は笑った。けれど行かない訳ではないらしく、ほんの少し楽しそうに見える。
この国には、娯楽場となる花街が二つある。一つが、貴族の邸が立ち並ぶその奥にもう一つある花街。黒門またはお上と呼ばれており、貴族の中でもほんの一握りの権力者しか入ることができない。逆に朱門と呼ばれる花街は街はずれにあり、下級貴族や庶民の娯楽場だ。
「ところで、聖さん?」
「なんだよ」
「桜、綺麗ですね」
「……そうだな」
突然の言葉に聖は大きな窓に視線を移し、微弱な風になびかれて舞っている薄桃色の花片に柔らかく微笑んだ。
空が橙色に染まっている。ついこの間まで血の色にしか見えなかったそれがちゃんと綺麗に見えて、聖は内心安堵の息を吐き出す。吉野と共に本部を出て、朱門に辿り着くと、もうほとんど人数が揃っているのか、団体ががやがやと屯していた。傍から見れば近寄りがたいことこの上ないけれど、聖たちが近づく前に惣太と鉄五郎が走り寄ってきた。
「師範!お疲れ様です」
「おぉ、お疲れ」
今日姿を見せなかった少年達の頭をくしゃくしゃと撫でながら慣れた仕草で門を潜ると、待ち構えていたように主催者であるらしい小田原秋菜がにこやかに聖の傍に寄ってきた。聖を促すように歩くので、聖は着物の懐に手を突っ込んだまま長い足を投げ出すように歩く。
着流し姿の聖に、小田原は意外そうに軽く眉を跳ね上げていつもと同じ優しげな笑みで聖の顔を覗き込んだ。
「着物だなんて珍しいね、大将」
「花街では常識だろ。もしかして秋菜ちゃん初めて?」
花街に生活している女は、皆一様に着物を着ている。だからは花街には貴族庶民問わず着物を着て通う人間が多い。逆に、シャツ姿の多いこの団体は目立っているんじゃないかと聖は思っていたが、誰一人気付いていなかったらしい。納得したような顔をして、小田原はマジマジ聖を見た。その顔に何だと問おうとしたが、その前に聖は女性特有の甲高い声に口を噤んだ。
「聖さん!?」
「やぁん、お久しぶりぃ!ねぇ、今日は私と遊んで?」
「何言ってるのよ、私のところでしょ!?」
一人が気づくと周りで客を引いていた女性達が一斉に聖のもとに集まって来た。街でもたまに同じ現象に陥るので吉野は慣れているが、他の者は初体験なのかポカンとしている。聖は困ったような微笑みを頭一つ分以上小さな女性達に向け、その場を抜け出そうと試みた。
「俺の為に喧嘩すんなよ?今日は先約あるから、ごめんな?」
えー、と文句を言いながら頬を膨らませた女性達に対して顔の前で手を合わせ、聖は片目を瞑る。一瞬息を詰めた女性達の隙をついて聖は輪の中心から抜け出した。みんな大将の異常なまでのもてように一様に声を失っていたが、吉野だけが褒めているのだか蔑んでいるのだか今一分からない微笑を浮かべて聖の肩を叩いた。
「相変わらずもてますね、色男?」
「何だよ、羨ましいのか?」
聖も負けじと言い返すが、吉野に鼻で笑われただけだった。舌打ちでも打ち鳴らしたい気分になって聖は顔を歪めて歩き出した。歩くたびに声を掛けられ、この花街で大将に声をかけない女がいないんじゃないかと皆が思い出した頃、小田原は一軒の店に聖を促した。花街は置くに行けば行くほど高級になる。朱門の最奥では黒門に比べて大したことはないが、聖を除く軍人には十分豪華だったようで色めきたった。
「大将には慣れた場所かもしれないけれどね、今日はみんなで騒ごうじゃないか」
にこりと笑って小田原は女将と短く言葉を交わし、すぐに最上階の大広間に通される。皆が興奮しながら部屋に入る中、聖は特に興味なさそうに部屋に入った。するとすぐに惣太たちが寄ってきて、聖を引っ張って上座に座らせる。一体何なんだと思っているとさっさと酒や料理が運ばれてきて、文句すら言えない状況に陥った。吉野に訊こうとそちらを向くが、吉野はこたえる気がないのか答えを知らないのかにこりと微笑んだだけだった。
まあしょうがないかと思っていると全員が席に着き、鉄五郎が楽しそうに聖の猪口に酒を注いだ。
「諸君、お疲れ様だったね」
自分の分の猪口を持って音頭を取り始めた小田原に聖は「何であいつが仕切るかな」と呟いたが、その言葉は聞こえた誰もが無視した。全員を見回していた小田原の視線が聖で止まり、絡んだ視線ににこりと微笑む。
「そして我等が大将、副将に命と魂を。乾杯!」
乾杯、と言葉と共に大勢の女性が部屋に入ってきた。粋な計らいに普段女に飢えている軍人どもは雄叫びを上げん勢いだ。予想外の現状に聖と吉野は顔を見合わせ、二人同時に杯を傾けた。するとすぐに鉄五郎が注ぐ。それをまた呑み干しながら、聖は惣太を挟んで隣の吉野に顔を寄せて耳元で囁いた。
「お前、知ってた?」
「いえ、全く」
「じゃあ少しは驚いた顔しろよ」といつもと同じ笑顔を浮かべている吉野に聖が呟くが、その声は誰の耳に聞こえることなくかき消された。部屋に入ってきた娼妓たちが皆聖の周りに集まったのだ。次から次へとやってくる女性達に聖は軽く溜め息を吐く。
「なぁんでみんな俺んとこ来る訳?」
「だぁって聖様がいらっしゃるの久しぶりなんだもの」
「じゃあ順番。ちゃんと全員接待してくんねぇ?」
「あとで仲良くしよう」と聖が囁くと、娼妓たちはぽっと頬を染めて何度も「約束よ」と言いながら大広間に散って行った。その姿に聖はまた溜め息を吐き、それを見た鉄五郎が不思議そうに首を傾げる。しかし聖は鉄五郎に微かに微笑みかけただけで何も言わずに料理に手を伸ばした。いつもの聖と違うように見えるその姿に鉄五郎が声をかけようとした時だった。上から、甘い声が降ってきた。
「聖さぁん」
「りーこちゃん?」
「えへへ、ジャンケンに勝ってあたしが聖さんの係になりました」
語尾にハートでもつけそうに甘い声で言って、その女性は聖に上から抱きついた。となりで鉄五郎が驚いているが聖は顔馴染みなのか特に驚いた風もなく彼女の腰を抱き寄せると自分の隣に座らせる。にこにこ笑う彼女は聖の杯に酒を注ぐと甘えるように聖に擦り寄った。固まっている鉄五郎に苦笑して、聖は彼の頭をくしゃっと撫でる。
「お前も惣太も俺らの酌してねぇで楽しんで来い?」
「あ、はい……」
しかし戸惑ったように動けない鉄五郎に聖は微かに疑問を覚えて惣太の方を窺った。吉野の酌をしていた惣太は聞いていたのか、申し訳なさそうに傍の娼妓に徳利を任せている。聖はこの年頃には置屋遊びにも慣れていたが、見るからに純粋そうなこいつらは慣れていないのかもしれない。そう思いなおして聖は隣の女性の顔を引き寄せた。
「みどりさん、いる?」
「奥にいると思うけど、どうしたのぉ?」
「呼んできて?んで、りーこちゃんはこいつらと遊んでやってくんねぇ?お願い」
耳元で囁いておまけとばかりにちゅっと音を立ててこめかみに唇を落すと、彼女はしぶしぶながらも頷いて立ち上がった。偶然それを見ていた兵が隣の奴に今の大将の行為を伝え、さらにその隣へと伝わっていく。
遊んでいる大将はもうもててるとかいうレベルじゃないよな、という話になるのに、そう時間はかからなかった。「美人つーより美神!?」「そんな感じ!さっすが俺たちの大将だよな」などなど、聞こえてくる自分の話題に聖は口の端を引きつらせた。それをさも楽しそうに吉野が笑う。
「神ですってよ、大将?」
「………嬉しくねぇ」
「嵐の前の静けさって奴、ですかね」
「は?」
「そろそろ軍事演習の時期ですし、気になることもあるんでしょう?」
よく分かってるなと思いながら、聖は杯を傾けた。自分で注ぎ足しながら笑みを浮かべる。まだ葬儀の際に感じた違和感が解決した訳ではなし、これからが新領主が大変になってくる時期だ。当然自分たちの仕事も増えるだろう。優秀な副官に感謝しながら、聖は吉野の空になった猪口に酒を注いだ。
「ま、気にしても始まらねぇし」
「そうですね」
「よろしく頼むぜ、副大将?」
「こちらこそ、大将」
二人でお互いの杯に酒を注ぎ、同時に呑み干す。空になった徳利を軽く振って中身が空のことを確認して置くと、隣から銚子が覗き酒を注いでくれた。聖が振り向くと、聖にとって見慣れた顔がにこりと微笑んだ。
「みどりさん」
「いらっしゃいませ、聖」
「みどりさん、遅ぇよ」
にこりと聖も微笑み返し、彼女の細い腰を引き寄せた。さきほどと違い専用に酌をしてもらうつもりのようで、呑み干すと顔を寄せて次を待っている。
遠くでこちらを見ながら目で助けでも求めているような惣太と鉄五郎ににこにこと笑みを浮かべて、吉野は手酌で杯を空にした。どうせこの後は聖は泊まるとか言い出すのだろう。夜番を押し付けられることが分かりきっている吉野はせめて酔ってやろうと通りかかった娼妓に笑顔を崩さずに一升瓶を頼んだ。
-続-
聖さんは無類の年上好きです。