竜田軍本部は、暇だった。さっきまで。さっきまで大将は暇そうに本を読みながら煙草を吸っていたのに、ちょっとトイレに行って戻ってきたら忙しそうに机に向かって頭をかきむしっていた。一体何があったのかと惣太が立ち竦んでいると、その光景をソファで見ていた鉄五郎が寄ってきた。


「惣太、どしたの?」

「何でいきなりこんな忙しくなってんの?」


 惣太が目の前の状況に首を傾げて問うと、鉄五郎はきょとんと惣太を見た。自分よりも幼い少年のその顔に惣太は改めて自分がしっかりしなければならないと思った。忙しそうな彼らの机を見ると茶も出ておらず、聖だけが苛立たしげに銜え煙草で忙しなく書類に筆を走らせている。それを見て惣太は手早くポットに駆け寄った。


「師範、師範代。お茶飲みますか?」

「コーヒー」

「緑茶お願いします」


 惣太の声に忙しい師範と師範代は顔も上げずに答え、惣太はテキパキとコーヒーと緑茶を淹れると机の邪魔にならないところに置いた。聖の机の灰皿が吸殻で一杯になっているのに気付いてごみ箱に捨て、二人は顔も上げないのに満足そうにソファに体を投げ出した。
 惣太の隣に鉄五郎も座り、不思議そうにまじまじと惣太を見た。


「惣太ってさ、師範たちのこと大好きだな」

「なんだよいきなり。だから何でいきなり忙しくなってんの?」

「今年の人事異動案がまだ出来てないんだって」

「え、あれって今日締め切りなんじゃないの?」


 春は人事の季節だ。軍部の誰もがうっかり忘れ去っていたが、軍人にもその書類を作成する義務がある。竜田軍に籍を置く人間は約九千人いるが、その全てが中央にいる訳ではない。中央にいるのはほぼ二千人にすぎず、他は各地方に派遣されて関所や地方の警備、諜報の任についている。毎年春にはその異動をしなければならないのだ。もともと中央に住んでいた人間を地方に派遣する場合もあるから、出来るだけ速やかに提出するべき書類だが、今年は故領主の葬儀などで忙殺されてすっかり忘れていた。
 惣太の声が聞こえたのか、聖が不機嫌に紫煙を吐き出したのがわかって惣太は肩を震わせた。機嫌が悪いときの大将には近づかない方が身のためだということは身を持って知っている。近づいた場合、貞操の危機に陥る可能性が高い。


「そういやオレ、この軍のことよく知らない」

「そっか、鉄にはあんま詳しく説明してないな。ついでだから説明してやろっか」


 鉄五郎は半年ほど前に聖に拾われた。だからまだ竜田国のことも軍のことも理解していないのだろう。特に、大将たちのことは。そう思って惣太はソファでふんぞり返った。
 惣太は軍の中でも最年少の十五歳だった。本来軍人になんてなれないだろうが、聖の特別措置で軍の、しかも精鋭部隊に身を置いている。しかしそれは過去のことで、今は十三歳の鉄五郎が最年少だ。半年ほど前の秋の終わり、臼木が内乱を起こした。臼木との間に山がそびえていると言っても飛び火の可能性があったので大将に就任したばかりの聖は少数の精鋭部隊を率いて竜田山に向かい、その山中で倒れていた少年を拾った。内乱に巻き込まれたらしい少年は虫の息で山の中に捨て置かれ、聖がそれを見つけたのだ。誰が止めるのも聞く耳持たず、まるで子犬でも拾う気安さで拾った。


「俺たちは三交代で仕事してんのは分かるだろ?」

「うん。昼間と夜番と非番だろ」

「そ。見回りとかな」


 気楽に説明しながら、惣太は鉄五郎の全身を何気ない視線で眺めやった。身長こそあまり変わらないものの、その顔は自分よりもはるかにあどけない。その少年が、軍人として生きている。初めは他国の人間だと思ってみんながよそよそしかったけれど、最近ではそんなこともなくなった。
 それ以前に、鉄五郎の治療が終わると聖は惣太に少年の面倒を任せた。初めは子供でしかない自分の厄介払いかと思って文句も言ったがそうではないらしく、今では二人で一人前な気さえする。鉄五郎が故郷の国では何をしていたのか聞きたいけれど、それを聞くのもはばかられて惣太は半年経っても訊けないでいた。仲良くなったと思っているし、惣太は鉄五郎の兄貴分なのだという意識もある。けれどまだどこかに遠慮もある微妙な関係。惣太の目下の目標は師範たちみたいになることだ。


「仕事は見回りとか下水掃除とか、その他依頼があったもの」

「この国の軍人っていろんなことしてるよな。なんか便利屋みたい」

「他の国じゃ違うのか?」

「臼木は…、そういうことは奴隷階級の人間がやってたから」

「……そうなんだ」


 鉄五郎が沈んだ声で言うので、惣太はどう返していいか分からなくなって口を噤んで俯いた。この国には奴隷階級なんてない。貴族か、庶民かのどちらかだ。惣太は一応中級貴族の嫡子だから今まで特に辛い思いをしたことがない。街に出ても、みんな良い人で幸せそうだ。だから奴隷なんてものがどんなものか想像できなかったけれど、ひっきりなしに動いていた師範たちの筆が一瞬止まったからあってはならない事なのだということは分かった。
 妙に静まり返ってしまった部屋に、聖の紫煙を吐き出す息の音だけが聞こえた。それから、カタンと筆を置いた音。


「惣太」

「はい?」

「お前軍人辞める気ねぇ?」


 休憩とばかりに旨そうに目を細めて煙草をふかしながら、聖が何気なく問いかけた。言葉を理解しそこねて惣太が軽く目を見開いて問い直すと、聖は同じ顔で「軍を辞める気ねぇの?」と訊きなおす。たっぷり数秒置いて聖の言葉を理解して、惣太は言葉を失った。まさか自分がそんなことを言われるとは思っていなかったから、反応の仕方が分からない。固まったままの惣太に聖は億劫そうに目を眇めて短くなった煙草を灰皿に押し付けた。


「お前まだ十五だろ」

「て、鉄だって十三じゃないですか!」

「鉄は特別。お前一応坊ちゃんなんだし」


 聖が惣太の淹れたコーヒーを口に運びながら言う言葉を聞きながら、惣太は呆然と大将を見つめた。奇麗な顔をした、大好きな大将からそんな言葉を聞くとは思っていなかった。三年前聖に初めて会ったあのときから自分はこの人の下にいようと決めたのに。ずっと一緒に居たのに、聖には分かってもらえなかった。
 吉野の「聖さん」という嗜める声を痺れる脳の向こう側で聞いて、「そろそろ年貢の納め時ってやつだろ」という聖の突き放したような言葉が脳に直接突き刺さった気がした。目の前が真っ暗になったような気がして、惣太は立ち上がると着ていた軍服の上着を乱暴に脱いでソファに叩きつけると、訳も分からず本部を飛び出した。
 途中父親とすれ違ったようで驚いたような「惣くん!?」と言う声を聞いたけれど、惣太は無視してエレベーターではなく階段を駆け下りた。










 結局、ここにきてしまったと思って惣太は苦笑した。本部の敷地内にある軍の詰め所の屋上は天気がいいとごくたまに洗濯物が干してあるが、今日は何も干していなかった。夢中で走ったのに結局最後にはここに来るんだと思って惣太は膝を引き寄せる。聖も吉野もこの場所が好きだから惣太もこの場所が好きだ。けれど今日はそれが苦しい気がした。
 寝そべって真っ青な空に目を細めて聖の言葉を自分の中で反芻すると、胸が締め付けられたように痛んで涙が出そうになった。一瞬泣いてしまおうかと思ったけれど階段を上がってくる音がしたのでどうにか涙だけはこらえた。


「惣太君」

「……吉野さん」


 やや戸惑ったような声を掛けられて、惣太は体を起こした。あんなに忙しそうにしていたのに書類は大丈夫なのだろうかと思うと同時に聖が来ないのはやっぱり見放されたからなんだと妙に納得してしまった。吉野は惣太の隣に腰を下ろすと、さっき脱ぎ捨てたはずの軍服を惣太の肩に掛けて、にこりと笑って子供にするように頭を撫でた。


「聖さんもひどい言い方をしますね」

「………いいんです。どうせ俺なんて甘ちゃんで、足手まといみたいなもんですから」

「誤解しないでください。聖さんは惣太君が邪魔な訳じゃないんです」


 申し訳なさそうに眉を寄せた吉野の顔が本当の顔だったから、惣太は軽く目を見開いて吉野を凝視してしまった。聖がくだらないことしたときに見せるような、困った顔。見慣れたその顔に不意に涙がこみ上げてきて、惣太は頭を優しく撫でる吉野の手を振り払って顔を逸らした。きっとこのまま泣いてしまうから、涙が零れる前に誤魔化すように目を強く擦る。それすらもお見通しなのだろう、吉野が優しい口調で続けた。


「惣太君は、佐々部の跡取りでしょう。軍なんかにいないで、真っ当に生きて欲しい。ずっと思ってたんです」

「……それは、吉野さんも思ってたんですか?」

「えぇ。惣太君の人生ですから、僕等なんかといたら勿体ないですよ。せっかくこんなに良い子なのに」

「ずるいですよ。聖さんも吉野さんも」


 浮かんでくる涙を誤魔化して、惣太は息すら漏らさぬように唇を噛んだ。今何か言ったら、泣いてしまいそうだった。自分だって良いトコの坊ちゃんなのに自由勝手に生きて、なのに自分のことは後回しにして他人を気遣う。そんな馬鹿みたいなお人好しだから惣太はついて行こうと思ったのだ。


「俺は、自分で決めたんです。ずっと二人の傍にいるって」

「………そうですか」

「聖さんも吉野さんも大好きだから、俺が好きで一緒にいるんです!」

「だそうですよ、聖さん?」


 吉野が微笑んで階段のほうを振り返った。まさかと思って首を捻って惣太もそちらに視線を移すと、煙草を銜えた長身がふらりと現れた。何か言いたそうな顔をして、しかし何も言わずにゆっくりとこっちに歩いてくる。惣太は逃げようと思って立ち上がるために足に力を込めたが、腰が抜けたのか体は言うことを聞かなかった。どうにかしたくて体を捻ったりしていると、影が落ちてきてぐしゃぐしゃと頭をかき回された。抵抗もできずにいると、笑みの含まれた声が降ってくる。


「あとでやめたっつっても遅ぇからな」


 大きな手の間から見えた奇麗な顔に、不意に惣太の目からぼろぼろと涙が零れた。一度流れ出した涙は本人の意思に関係なく止まる気は全くないようで、惣太が目を擦ってもぼろぼろと零れてきた。それを見た聖が笑った気配がして惣太が「あんたが悪い」と文句を言おうとしたら体がふわりと浮いた。慌てて手近なものにしがみ付くと聖の笑った声がして、視界に映る床で漸く担ぎ上げられたのだと分かった。


「ガキかお前は」

「お、降ろしてください!」

「聖さんの照れ屋さん」


 涙声で叫んだ惣太に聖がニカッと笑って歩き出すと、その隣で吉野がにこりと笑った。聖が固まった一瞬で惣太が気付けばよかったのだが今日ばかりはそれが叶わず、惣太はその後めちゃくちゃに聖に振られて悲鳴を上げることになった。










 惣太が担がれて本部に戻ると、散らかった部屋には鉄五郎以外に客人が一人いた。その人物の姿に聖は意外そうに目を眇め、惣太を取り落とした。頭から落ちそうになったがどうにか避けて受身を取り、多少の衝撃に惣太が呻く。しかし大将たちはそれどころではないのか、無言で机に戻って慌しく作業し始めた。
 痛みに顔を歪めながら体を起こしてその客人の姿を確認すれば、法官の佐竹だということが分かって惣太は聖たちの行動に納得した。提出書類は完成していないけれど、提出するべき部署の長官が取り立てに来た。それは焦るに決まっている。


「一応訊くけど、何しに来た?」

「忙しかったからサボりに」


 佐竹の言葉に聖は筆を投げ出した。確実にやる気をなくしてしまった聖の姿に惣太は微かに笑みを浮かべて涙のあとが残る顔を腕で拭うとお茶を淹れに行く。鉄五郎はこの部屋にいたはずだが、お茶が出ていなかった。


「何だよ、驚かせやがって」

「でも人事異動案出てないのは軍だけだぞ」

「……やるやる、やります」

「若垣の娘さんとカズ殿が婚約するらしいぞ」

「どっから聞いたんだ?絶対ありえねぇだろ」


 呆れたように言いながら、聖は再び筆を握った。面倒くさそうに筆を動かしている聖の元に惣太はコーヒーを運び、客人の前には吉野と同じく緑茶を置いた。佐竹は軽く礼を言いながら、ソファの背もたれに腕をまわして聖を見ながら笑った。その顔を一瞬見て、聖は不機嫌に目を細める。


「随分自信満々に答えるな。自分の許婚は信用できるか?」

「そういう訳じゃねぇよ。ただ雛生さんは兄上大好きだから」

「へー?ついでにもう一つ。角倉のお姫様にゃ沼賀からの縁談が持ち込まれてるぞ。春だねぇ」

「んな無駄口叩く為に来たのかよ」

「な訳ねぇだろ。書類」


 いかにも不快ですと言わんばかりの聖の声に佐竹は軽く肩を竦めて湯飲みを持ち上げた。大人が忙しそうに仕事をしているこの部屋で寛いでいるおっさんにイライラしながら聖が乱暴な字で署名して、まだ墨で重さのあるそれをさっさと出て行けとでも言いた気に佐竹に突きつけた。
 聖の態度に苦笑して、佐竹は惣太に「お茶をありがとう」と囁いて聖に背を向けた。見るからに暴れだしそうな聖に惣太は慌てて飛び掛った。





-続-

春は見合いの季節です。