春の気候に任せてソファでうたた寝している聖に、資料室から持ってきた書物を抱えて吉野は溜め息を吐いた。格好はいつもと一緒のYシャツ姿だから私服よりはまだマシかと無理矢理思い直す。吉野の後ろから資料を抱えた惣太と鉄五郎が顔を出して吉野の顔を見上げた。


「師範、寝てるんですか?」

「まぁ、春ですしね」


 惣太の問いかけに吉野はいつも通りに微笑んだ。聖は夜番に回ることが多い。吉野が昼間起きて仕事をしている代わりに、夜起こるかもしれない事態のために起きている。だから吉野は聖の昼寝には寛大だ。だから惣太はいつも通り寝かしておくのだと思ったが、吉野の取った行動はいつもと全く違っていた。分厚い本を持ったままツカツカと聖の寝ている執務机に歩き寄ると問答無用でその分厚い本で聖の頭を思いっきりひっぱたいた。痛そうな音に惣太と鉄五郎は無意識に頭を抑える。


「聖さん!こんな所で何をやってるんですか!?」

「んぁ?」

「今日は定例閣議でしょうが!いい加減に覚えなさい!!」


 惣太は久しぶりに聞く吉野の怒鳴り声に、鉄五郎は初めて聞く怒った吉野に自分が怒られている訳でもないのに体を竦ませて縮こまった。聖は寝起きの不機嫌な顔で吉野を見ていたが、怒鳴り声から数秒してから目が覚めたのかばっと時計に視線を移して小さく呻き声を零した。


「もっと早く起こせよ!」

「寝ている聖さんが悪いんです」

「なぁ、定例閣議って何?」


 ガシガシと頭をかきながら聖が掛けてある軍服を乱暴に引っ張って羽織った。それを見ながら鉄五郎がそっと惣太に耳打ちする。鉄五郎は知らないんだなと思って惣太は今声を発したらやばいと思って鉄五郎の耳元に囁き返した。
 定例閣議とは月に一度ある各部長官の会議だ。本来行政は各部署で執り行い、それは総督と通り最終的に領主と意見者の間で吟味される。本部の二階の一番奥の会議室で月に一度政治の疎通を行う為に、定例閣議は開かれるのだが、ここ数回は開かれていない。やっと開かれるということは、政治が回りだしたということだ。しかし軍人と言うのは立場が悪い。いつもいつも大将は近いからと言う理由で遅刻ギリギリに向かう。けれど惣太は、聖がただ単に行きたくないからだと思っている。


「さっさと行ってきなさい」

「へいへい」


 聖は半ば追い出される形になって、億劫そうに頭をかきながら部屋を出た。もとから会議室の警備もかねているので、軍部から近くなっている。建物の構造では、エレベーターの正面に会議室がある。しかしその間には資料室が道を阻むかのようにあり、両脇に二部屋ずつ執務室がある。軍部は二階の一番右端の部屋を宛がわれているが、会議室はその正面左にある。
 無意識に聖の足は遅くなり、しかし近いので逃げ道もなく着いてしまった。そっと大きな扉を開けると、もう全員が集まっているのか何対もの視線が刺さって聖は口の端を引きつらせた。部屋の中に四角形に設置された机には聖の席以外には一つしか空きがなく、その席は領主の席だ。本当に最後なのかと思いつつ、領主よりも早く来れたことにほっとしながら聖は空いている席に腰を下ろした。領主の隣の席だ。


「今日も遅かったな、莫迦者」

「ちょっと寝こけてて」


 小さな嫌味を空席を挟んだ隣りに囁かれて聖は負けずににっこりと微笑んで席に着いた。領主の隣の席は軍大将と意見者だ。真坂光定とは気兼ねなく話せる聖は素直に笑うが、顔を上げたとたんにぶつかった視線たちに舌を打ち鳴らしたくなった。聖がいらつきに任せて煙草を引っ張り出そうとした時、扉が開いて新領主が遠慮がちに入ってくる。
 領主の席から時計回りに聖が座り、別面に人事部、外交部、法部、民部、医部、彼らと向かい合うように光定側から総督、長寿会、祠部、教部と並んでいる。聖にとって自分の右側に並んでいる人たちは仲良くしたくない相手が揃っている。


「では、定例閣議をはじめます」


 瀬能が席に着くのを待って、光定が口を開いた。その声を聞いてから瀬能が緊張した面持ちでゆっくりと立ち上がる。全員を見回して、瀬能は頭を下げた。


「至らないところがあると思うが、皆の力を借りたい。よろしくお願いします」


 ゆっくりと話し出したが恥ずかしくなったのか、最後は消え入るように早口で言って瀬能はすとんと座った。目が光定の方を向き「大丈夫だった?」とでも訊いているような目をしているので事前に練習したのだろうと思ったら、聖の顔に自然に笑みが浮いた。その反応に聖自身が驚く。今まで恋をしても、こんな気持ちになったことはない。
 聖のことなど誰も知らず、話が進んでいく。背中に浴びる太陽の恩恵に聖はぼんやりと話を聞いていた。人事の話や外交の話などはあまり自分に関係ないし、この程度の事実は事前に書面で報告を受けている。民部長官の話を欠伸交じりに聞きながら、聖はちらりと隣の瀬能に視線を移した。幼さを残した顔で話を聞いているその顔は真剣そのものだ。ずっと見ているのもいいかもしれないと思っていると、不意に瀬能がこちらを向いた。


「聖、私の顔に何かついているか?」

「いえ、別に」

「じゃあちゃんと話を聞かなきゃダメだ」

「そうですね」


 真剣な瀬能ににこりと微笑んで、聖は顔にかかった髪を指で掬い上げる。聴覚の外側では、民部官長が税について話をしている。完全に興味をなくして聖は自分の髪を指で梳いた。だいぶ伸びた髪の上と下の色は多分違うだろう。そろそろ染なおすかと思いながら枝毛を探していると、光定に静かに呼ばれた。


「大将」

「あ、はい。特に問題ありません、以上」


 異常がなかったといえば嘘になるが、報告するべき事態はない。一応光定に報告は上げているので、光定だけが苦い顔で聖を見ていたが知らないふりをして聖はポケットに手を突っ込んだ。刺さる視線に視線を巡らせれば、仲の良い奴等のニンマリした笑みと敬遠している人物達から浴びせられる侮蔑に似た色の視線が向けられている。総督の席に座っている父から向けられる視線からは感情を感じ取ることはできなかったけれど、あの人にとって聖は人物として見られていないことを知っているので軽く肩を竦めた。


「戦争中毒者には、頭を使った閣議なぞ小難しいだけでしょうな」


 祠官の席から発せられた声に聖は不機嫌に視線をそちらにやった。このくらいの揶揄はいつもの通りだから気にはならないが、一々返事を返すのが面倒くさい。現在の祠長官は国内でも血統意識の強い沼賀家の次男だ。不健康そうな色白の下膨れた顔についている妙に真っ赤な唇から発された言葉に聖は億劫そうに溜め息を吐いた。


「戦争中毒者って、言い直してもらえます?そんなモンになんのは机上で妄想しかできない地位だけの人間がなるもんだ」

「ふん、知った口を。やはり軽口は血なのだろうな」

「今はそんな話関係ないでしょう」

「こんな人間に国の守護を任せていて大丈夫なのですか?」

「そんなモンは結果残した人間が言ってくれ。窓際長官が調子にのんじゃねぇ」


 聖がぼそりと呟いた声は決して大きくなかったはずなのに部屋中に聞こえてしまったようで、一瞬室内が静まり返ってしまった。聖は内心ヤバイと思って瀬能越しに光定を窺うが、彼は顔色を変えずにいた。
 祠官は国の神事の一切を執り行うが、その仕事は皆無だ。実際に葬儀だって動いたのは軍や外交官だったし、これから特に神事に関わる行事はないだろう。実質機能していなくとも国神を守る部署なだけに廃止にも出来ず、誰もが思っていたことだった。
 誰からも非難されないことに安堵を覚え、聖はちらりと沼賀を見た。白い顔の頬を妙に真っ赤にさせて、怒っている様子は手に取るように見て取れた。小さな唇が怒りに震えている。


「野蛮な軍人風情が私を愚弄するのか!?」

「沼賀祠官、落ち着いてください」


 椅子を倒して立ち上がった沼賀をみて、溜め息を吐いてから光定が静かな声で言った。この席の権力者に彼はぐっと押し黙り、聖はほっと目を細めた。あやうく自分まで切れそうになってしまったがここで自分が切れるとどうなるかは分かっているつもりだ。良くて謹慎、悪くて死刑だろう。
 ゆるゆると体の力を抜いて背もたれに体重を預けると、スプリングがギシッと軋んだ。気を落ち着かせるために煙草を探すが、急いでいて忘れてしまったのかポケットには入っていなかった。


「まぁ、文句は結果を出した人間が言うもんじゃ」


 さっきまで面白そうにことの成り行きを見ていた長寿会の若垣老がゆっくりと口を開いた。引退官人の吹き溜まり長寿会の会長の言葉に、聖は内心盛大に舌を打ち鳴らす。閣議に参加する長官達はあまり好きではないし、長寿会の人間はもっと疎ましい。好き嫌いの問題ではなく、億劫なのだ。
 聖が肩を落として溜め息を吐き出しそうになっていると、若垣老は顔の深い皺を更に深くして口を開いた。


「のう、大将。葬儀の折はお疲れじゃったのぉ」

「いいえ、私だけではありませんので」

「他国の方に誘われなかったか?相も変わらず美しい」


 完全に棒読みになっている聖の顔は微笑んでいるはずなのにどこか無表情に見えた。飄々とした老はそれに気付いていて尚笑って聖を見ている。何となく言葉を挟み辛くて誰も声を掛けられずにいる中、光定だけがあからさまに溜め息を吐き出して机を爪で叩いた。


「そろそろ中断していただきまして、話を続けさせていただきますが?」


 よろしいですか、と言いながらその言葉に問いかけは含まれていなかった。光定の有無を言わせぬ言葉に静まり返った室内に、再び淡々とした声で事務的な内容の報告が流れ始める。春の気候に侵されて欠伸を噛み殺していると、刺すような視線を感じて聖は億劫そうに下げていた視線を上げた。辿った視線の先には父の寒気すら感じる冷たい瞳があったが、聖は軽く無視してまた瞼を下げた。










 定例閣議終了後、聖は領主の執務室で正座していた。先ほどの会議での居眠りと、相も変わらずに起こった祠官との言い争いによる会議の中断。そのことをとつとつと目の前で怒っている光定に聖は内心溜め息を吐き出して肩を落とした。会議が終わってから小一時間は経っているのに、説教が終わらない。


「聞いているのか、聖」

「ま、真坂殿。聖も反省しているようだし……」

「瀬能様、こいつが反省しているように見えるんですか?」


 流石に聖と十年ほども付き合いがある真坂は、聖のことをよく分かっているらしい。そろそろ痺れてきた足を頻繁に動かしながら聖が更に深く項垂れて見せると、泣きそうに顔を歪めた瀬能は子供にやるように聖の頭をよしよしと撫でた。大の男が小柄な少年に頭を撫でられている光景に光定が溜め息を吐き、それに目を光らせた聖が瀬能に縋るように抱きついた。


「俺、反省してますー」

「真坂殿。聖もこう言っているから、許してやってくれ」

「分かりました。まったく、いつの間に仲良くなったんだか」


 組んでいた腕を解いた光定を見て聖は誰にも気付かれないようににやりと口の端を引き上げた。すぐに瀬能から離れると足を崩して痺れた足を解し始める。全く反省の色を見せない聖の姿に光定は呆れて溜め息を吐き、瀬能はぽかんと彼を見た。瀬能ににこりと笑いかける聖に目を眇め、光定はソファに腰掛けた。聖を説教するために小一時間彼も立ちっ放しだった。光定の視線に促されて聖が向かいのソファに腰を下ろすと、光定は不機嫌に顔を歪めた。


「いい加減に学んで売られた喧嘩を買うな」

「売られた喧嘩は買うのが軍人ですから。売ってくる方に先に文句言ってくださいよ」

「だからお前は文句を言われるんだ」


 しょうがないじゃん、と返して聖はポケットの中の煙草を探したが部屋に忘れてきたことを思い出して、舌を打ち鳴らすと足を組んだ。じっと瀬能に見つめられていることに気づいて聖が「どうしました?」と問いかけると言い辛そうに聖の隣に座っている瀬能が上目遣いに聖を見上げた。


「いつもあんな感じなのか?」

「あんな感じ?」

「沼賀殿にあんなことを言われたり、聖が悪い訳ではないじゃないか」


 まるで自分のことのように悲しそうに言った瀬能をみた聖は、自分の胸が甘い痛みを訴えたことに微かに目を細めた。
 毎回の定例閣議があんな感じだ。官人がみな軍には偏見を持っているし、特に沼賀は血統意識が強く聖を毛嫌いしている。机上で数字などの刻まれた書面を相手にしている官人たちと違い軍人はその手で殺傷をしている。それが業だと言えばそうかもしれないけれど、彼らは分かっていないのだ。机上で、自分達の方が残酷な決定を下していることに。


「俺が美人だからみんなやきもち妬くんですよ」

「……はぐらかすな」


 聖がおどけて笑うけれど、瀬能は誤魔化されないとでも言うのか目を眇めて聖を見た。誤魔化せなかったなと思いながら聖は足を組み替えて頭の後ろで手を組み、飄々と笑ってみせる。手を隠すようなその行動に、瀬能は唇を噛んだ。いくら新米領主だといっても、瀬能だって分かっている。軍は自分を護ってくれるためにあるし、必要悪だ。けれど、聖の手はどれほどの血に塗れているのだろう。
 瀬能の泣きそうな顔に聖はにっこりと微笑んでさっきとは逆に瀬能の頭を大きな手で優しく撫でた。


「何事にも理由ってのが必要なんですよ」


 それが、どんなにこじつけに近い理由でも。聖がそういうと、瀬能は悔しそうに俯く。子供のようなその仕草に聖は苦笑して、幼子にやるように瀬能の頭を抱き寄せると自分の胸に押し付けて背を撫でてやる。一瞬強張った瀬能だが、すぐに体から力を抜いて聖にもたれかかってきた。光定から文句が飛んできそうになったのを口元に指を当てて、聖はにっこりと笑って見せた。


「話を変える。東関の件だが、どうするつもりだ」

「あぁ、もうちょっと泳がせときます。勝手に動きますけど、怒んないでくださいよ?」

「逃がすなよ」


 先日の東関の不審な動きを聖は光定にだけ報告した。本来は総督に報告を行わなければならないが、今回はそれをしたくなかった。現在東関の不審な動きを知っているのは、軍部のトップと意見者と領主だけだ。聖はこの件を他人に漏らそうと思っていないし、もしかしたら軍の中に密通がいるかもしれないから慎重にならざるを得ない。
 相変わらず良く切れる聖の頭に光定は溜め息に似た嘆息を吐き出して視線を瀬能に向けた。さっきまで聖の胸に顔を埋めていた瀬能が、ゆっくりと聖から離れた。聖は少し淋しそうな顔をしたが、声を出す前に少女がひょっこりと顔を覗かせた。


「兄上、お話終わりましたか?」

「柊」


 ぴょこんと顔を出したのは、柊姫だった。まだ幼い顔にはもう悲しみは浮かんでいない。待ちきれないとでも言いたげに瀬能の隣に飛び乗った柊は強請るように彼を下から覗き込むと可愛らしい唇を尖らせて見せた。


「今日は一緒にお散歩に行く約束です」

「あぁ、そうだったな」

「瀬能様、お出掛けでしたらこの莫迦を連れて行ってください。何かの役には立ちます」


 何かの役にとは何事だと聖が不機嫌にポケットに手を突っ込んで光定を見やるが、光定は知らん顔してさっさと部屋を出て行ってしまった。瀬能は柊に引っ張られて立ち上がりながら、聖を真っ直ぐに見る。その妙に真剣な顔に聖は微かに首を傾けた。


「一緒に行こう、聖。護ってくれるのだろう?」


 さっきの話を気にしていたのだろうか、そう言った瀬能に聖は一瞬面食らったが、すぐに微笑みを浮かべて立ち上がった。裏の山に行くのだと言った瀬能に聖は出口の警備をしている兵に言いつけておきっぱなしの煙草を取りに行かせた。
 聖も仕事が残っているし瀬能も政務が残っているだろう。けれどもそれを知らない振りをして、聖は瀬能の小さい肩に腕を掛けた。十六の少年はこんなにも小さいのだろうか。四つも年下の彼に確かにときめいた聖ははやばやと自身の恋心に開き直って柔らかく微笑んだ。





-続-

惣太達は、この間大将が壊した資料室の整理をしています。