うららかな春の日差しを受けながら、今日門番をしていた男たちは春の魔力に耐えながら正門の前に立っていた。こんな日に事件なんて起きる訳がないのだから、さっさと見張り小屋の中で毛布に包まって寝てしまいたいがそんな訳にも行かず、彼らは瞼を半分下げた状態で立っている。


「寝てんじゃねぇぞ、お前ら」


 突如降ってきた影と低い美声に彼らは驚いて目を見開いて顔を上げた。今日は一日会うことがないだろうと落胆していた尊敬する大将の姿に彼らは姿勢を直し、人外の美貌の隣にいる影に固まった。なぜ、領主とその妹君がいるのだろう。しかも、妹君の方は領主に抱き上げられてシャックリ上げている。驚いて大将を見て、彼らは悲鳴のような声を上げた。もう隣に領主がいるとかはお構いなしだ。


「師範!お顔にお怪我を!!」

「あ?」


 竜田軍は領主に忠誠を誓っているが、軍に属す個々人は領主ではなく大将の人柄を慕って軍に入った。だから領主に礼を尽くすよりも大将の異変が先立ってしまう。当の本人は特に気にしていないようで気の抜けた声を漏らして頬に指を滑らせ、こびりついた血に少しだけ目を眇めた。聖が怪我の理由を思い出す前に体が浮き、奇妙な浮遊感に流石の聖も声を荒げた。血まみれの軍服を、誰も気にしない。
 その様子を瀬能は柊を抱いたままポカンと見ている。

「軍医に!いや、師範代に!?」

「落ち着けバカ野郎!俺より先に領主だろうが」


 いいえ師範が優先ですとばかりに男たちが聖を運ぼうとするので、簡単に切れて聖は彼らの頭を思い切り引っぱたいた。スパンといい音をさせて殴ると、相当痛かったのだろう男達はパッと手を離して蹲る。聖は地面に降りて邪魔そうに髪を掻き揚げると、不機嫌に自らの部下を見下ろした。その視線に彼らは体を竦め小さくなるが、その顔はどことなく嬉しそうだった。


「沸いてんじゃねーぞ?あ?」

「はい!すみません!!」

「ですが師範の花の貌に傷でも残ろうものなら悔やんでも悔やみきれません!」

「かんばせってお前……」


 彼らは男に使うにはどうかと思う表現を使っていかに師範のことを心配しているかを説くと、聖は呆れたように息を吐き出すとあからさまに肩を竦めてポケットに手を突っ込んで煙草を取り出す。火を点けてから聖は彼らに言い放った。


「誰か一人は瀬能様送ってけ。したら俺もちゃんと消毒する」

「ご一緒してもいいですか!?」

「良い訳ねぇだろ。お前らの仕事は何なんだ」

「申し訳ありません、絶対傷残したらダメですよ!死んでも死に切れません」


 約束だといってなぜか三人で指切りを始めてしまった彼らに呆れて、聖は吸い込んだ紫煙を吐き出した。うちの軍ちょっとおかしいんじゃねぇか、と思って瀬能を見ると、瀬能は微笑していた。小さな歩幅が近づいてきたと思ったら小柄な体が背伸びをして聖の耳元に近づき小さな声で囁いた。


「聖は、好かれているんだな」


 そう言ってから何故か機嫌よく歩き出してしまった瀬能をさっきの約束上追うわけにも行かなくて、聖は近くにいた部下の足を長い足を伸ばして蹴って後を追わせた。羨ましそうに残った二人が向けてくる視線が気持ち悪くて、聖は銜え煙草のまま無言で彼らを殴ると、頭をかき回しながら本部に戻った。その後姿を憧れだか愛だかよく分からない視線で見ている部下達を無視して、聖は血まみれの軍服を軽く摘んで顔を歪める。返り血を避けるのは面倒で仕方ないが、これは流石に頂けないなと思いながら、聖は紫煙を肺一杯に吸い込んだ。ちくりと痛んだ頬の傷の存在に微かに目を眇めれば、体が思い出したように血の重さを伝えた。










 煙草を銜えたまま軍部に戻ると、扉の前で鉄五郎と鉢合わせた。彼は聖の姿にぱっと顔を輝かせたが、すぐに聖の軍服を重く濡らすどす黒い染みに気付くと顔を僅かに引きつらせて駆け寄ってきた。資料室に行く所だったのだろう、持っていた資料を取り落とす。その音に中にいた吉野たちも気付いたのか室内の空気が不審に揺れた。


「師範、どうしたんですか!?」

「別に俺の血じゃねぇよ」

「でも血みどろじゃないですか!」

「返り血。ほら、仕事だろ?」


 鉄五郎が落とした本を拾い上げて聖は笑って見せた。鉄五郎の向こうから不安げに顔を歪めている吉野と惣太の顔が見え、聖はわざとへらりと笑って見せる。不可解に顰められた吉野の眉に聖は泣きそうな顔をして自分を見上げてくる鉄五郎の頭をグシャグシャと撫でると資料室に促し、入れ替わりに部屋に入った。
 聖の軍服を見て唖然としている惣太に笑いながらどかっとソファに腰を下ろすと、吉野がすかさず厳しい目で灰皿を差し出してきた。ありがたく短くなった煙草を押し付け、聖はちらりと室内に視線を巡らせた。


「何か変わったことは?」

「聖さんが血まみれで帰ってきた以外には何も」

「あそ。惣太、ちょぉお前門番の様子見てこい。仕事してる気がしねぇ」


 何かを考えるように視線を上げた聖に惣太は少し間を空けて頷くとパタパタと部屋を出て行った。聡い惣太は途中で鉄五郎も拾っていくだろうと内心感謝して、聖は重苦しい軍服を脱ぐ。外では一応着ていなければならなかったし荷物になるので脱がなかったが、ここまで帰ってきて着ている意味はないだろう。しかし脱いだ所で中のシャツには赤黒い染みがついている。黒い軍服では目立たなかったし、外を歩くことを意識して前を閉めていたのであまりに気はならなかったけれど、こうしてみるとやはり先ほどの歪さが窺えた。
 吉野が棚から出してくれた救急箱をありがたく受け取って消毒しながら、聖は僅かに目を細めた。


「出てくれば?秋菜ちゃん」

「……さすが大将、聡いね。ちゃん付けするなと何度言ったら分かってもらえるんだか」


 片目を細めて頬に絆創膏を貼りながら聖が言うと、第二軍団長の小田原秋菜が薄く笑みを称えながら入ってきた。さっきまで気配を押し殺していたようだが、吉野にも驚いた気配はない。吉野がお茶を淹れるのを横目で見ながら、秋菜は当たり前のように聖の向かいのソファに座って「怪我をするなんてらしくないね」と言って笑った。


「何かあんだろ?」

「岩浅と芳賀が戦を始めた」


 特に声音を変えることもせずに秋菜はさらっと言い放つ。聖は特に表情を変えなかったが、吉野は微かに驚いたように眉を顰めた。聖と秋菜の前にお茶を出し、聖の隣に自分の湯飲みを持って腰掛ける。それを待って、秋菜はすっと書簡を差し出した。プチプチとシャツのボタンを外しながら受け取る気のない聖の代わりに吉野が受け取って広げると、聖が顔を寄せて覗き込んでくる。岩浅と芳賀の軍の戦闘位置と人数が書かれた資料だ。


「さっき、岩浅の兵だったな。瀬能様の身柄っつってたけど」

「目的は何でしょうね……」


 シャツを脱いで、聖はさっきの男達の言葉を思い返した。
 領主を殺す気はないと言っていた。どこまで本当かは分からないけれど、あの男は信用に足る人間だという気がする。聖が殺すことを躊躇うくらいに、その言葉には力があった。そして実際逃げ帰ったあの部下達の姿からは彼らがこちらに仕掛けてこようと言う意志を感じられなかった。


「南関から連絡は?」

「ないね。今、兵を国境付近に集めているそうだよ」

「こっちに危害がなさそうだからそれで十分だ」


 言って、聖は服も着ずに煙草に手を伸ばした。血で汚れた服を吉野が溜め息混じりに「しょうがありませんね」と呟いて腕を伸ばして血で僅かに重くなった服を引き寄せて畳み始める。昇っていく紫煙を見つめながら聖が黙っていると、小田原はお茶をすすりながら聖をちらりと見た。


「それにしても大将が顔に怪我など、珍しいね?」

「あー、何か見誤った」

「見誤ったんですか?」

「岩浅の軍の男がな、殺すのが惜しいくらい使えそうな奴だったから殺すのやめようかと思ったんだけど、ダメだな……」


 そこで言葉を切った聖は、唇を軽く噛んでゆっくりと目を閉じた。自分の手の感触を確かめるようにその場で軽く握ると、ちゃんと手のひらの感触があってほんの少し安堵したように肩からゆるゆると力が抜ける。聖のその表情は周りから見たら何も変わっていないようだけれど、吉野だけは微かに目を細めた。さっさと小田原の前の茶を片付け始める。


「小田原軍団長、引き続きお願いします。ついでに、軍服の染み抜きお願いできます?」


 有無を言わせぬ笑顔で言い放った吉野に小田原は苦々しげに顔を歪めたがすぐにいつもの笑みを貼り付けると吉野が差し出した服を受け取らずに部屋を出て行く。その後姿を見て吉野があからさまに溜め息を吐き出すと、聖が眼も開けずに銜えていた煙草の灰を落す為に手を動かした。唇に挟んであるそれを指で挟んで、見えているのかと思うほど自然な仕草で灰皿に落す。また銜えなおして、聖は溜め息に似た息を紫煙に乗せて吐き出した。


「いい加減にしないと、しんどいでしょう?」

「……別にいい」

「そうですか」


 聖は、軍大将になった今でも人を殺す事にためらいがある。喧嘩は良くするけれど、剣を握った後は一人塞ぎこんでいることが多い。普段は大丈夫なのだ。戦などになると率先して敵に突っ込んでいくし、誰よりも多くの命を奪ってくる。それ故に大将になったほどだ。けれど、彼は余りにも他人に心を許す。たった数回言葉を交わしただけでその人物に刀を向けることをためらう。人に対して、優しすぎるのだ。だからこそ戦になると誰よりも強いのかもしれない。護るものが多いから、その分敵も増える。一度嫌った人間を聖が好きになることはほとんどないと言っていいだろう。けれど、敵ですら好意を示すこともある。
 聖の性格を知り尽くしている吉野は聖の言葉にそれ以上紡ぐ言葉を持っていない。結局角倉聖と言う男は周りの人間の言葉など聞かないのだ。仮令それが、親友の話であっても。


「そう言えば、伝言がありますよ。意見者様からなんですけどね、大事な話があるから帰ってきて欲しいそうです」

「………俺も南関行こっかな」


 聖がソファの背もたれに体重を預けてずるずると体を倒して呟いた時、外からバタバタと人の走ってくる音がした。この音は惣太達だろうかと視線だけをドアの方にやるが、足音が一人分多い気がする。下の階が祠官なので、また文句を言われると思って聖が苦い顔をすると、吉野が聖の軍服を持って部屋を出て行く。


「何、お前どこ行くの」

「軍服、付け置きしておかないと落ちないでしょう。血の汚れはしつこいんですから」


 吉野の言葉の端々にチクチクしたものを感じて聖は素直に手を振った。洗濯は嫌いじゃないが、面倒くさいと思う。聖の態度に吉野は「ちゃんと上着ないと風邪引きますよ」と言ってから悪態をつきながら部屋を出て行き、入れ替わりに騒がしい声が三つ飛び込んできた。初めは煩いなくらいにしか思っていなかった聖だが、知った少年の声の中に女性のものが混じっていて驚いて体を起こした。


「聖さん!」

「え、美月さん!?」


 飛び込んでくるなり上裸の聖に躊躇いなく抱きついた女性は、角倉美月その人だった。
 聖は腹違いの姉である美月と仲がいい。兄にはあまり好意を持つことができずにできるだけ避けているが、美月に対してはそんな感情を抱かない。一つ年上で近いことも理由だろうか、聖が角倉に引き取られてまず心を許したのは彼女だった。飛び込んできた美月に聖が目を白黒させて宥めるように背を撫でると、後から入ってきた惣太と鉄五郎が胡乱気な目で聖を見やっていた。聖が「なんだよ」と唇で訊くが、二人はそっぽ向いただけだ。


「聖さん、何とか言ってください!」

「美月さん、落ち着いて。どうしたんですか?」

「お父様が私に結婚を迫るんです!」


 今にも泣きそうな顔で言って抱きついてくる姉をやんわりと引き剥がしながら聖は銜えたままだったまだ長い煙草を灰皿に置いて、何か着る物を探した。けれど見つからないので、早々に諦めて美月を自分の隣に座らせる。落ち着かせるように手を握ってやると、美月が目に涙を溜めて聖を見た。


「私に、沼賀様から縁談の申し込みがあったんです」

「そう言えば、そうらしいですね」


 吉野がさっきだした湯飲みに手を伸ばすと、中身は丁度いい感じに温かかった。そう言えば佐竹がそんなことを言っていたなと思い出したが、その縁談に応じるとは思えなかった。沼賀家も古くから歴史を持つが、ただの上級貴族の末端だ。角倉と比べて、遥かにとは言い難いが下級に属するといえるだろう。血縁を重んじる沼賀家にはぜひ組みたいだろうが、あの計算高い父と兄が応じるとは思えない。美月は角倉のたった一人の娘なのだ。望めば、領家と関係を結ぶことだって出来るだろう。
 聖が喉を湿らせて湯飲みを置くと、突っ立っていた惣太が慌てて茶を淹れる。


「お父様は私に、沼賀様と結婚するか瀬能様の侍女になれと仰るんです!」

「それ、兄上は何と?」

「お兄様は、私の好きにしなさいと……」


 声を震わせて、美月は俯いた。確かに理不尽な話ではある。角倉の娘として大事に育てられてきた美月にとって、格下の男との結婚も仮令領主であろうともその小間仕えも納得できるものではないのだろう。その上、美月は兄によく懐いている。もしかしたら誰よりも好きな兄に、切り捨てられるようなことを言われたのだ。泣いて逃げ出したくもなるだろう。
 聖は惣太が淹れた茶を受け取ると、息を吹きかけて冷ましてからそっと美月の唇に押し当てた。ゆっくりと傾けると、美月は幼子のように唇を薄く開けて零れ落ちてくる液体を嚥下して飲み込む。小柄な美月の瞳を覗き込んで、聖は笑って見せた。


「美月さんの思ったことをしたら良いですよ」

「私、聖さんと結婚するわ!」

「また…、そういうこと言う」

「昔はいいって言ってくれたのにぃ」


 子供のように泣き出した美月に聖は苦笑して小柄な体を抱き上げて自分の膝の上に乗せた。子供をあやすように背に腕を回して撫でてやると、美月は聖の胸に顔を押し付けて泣き出した。
 その光景を、惣太と鉄五郎は唖然としてみていた。自他共に認める女好きの聖が女性と抱き合っているシーンなんて惣太は見慣れている。けれど、この光景は今まで見たどの状況にも当てはまらない気がした。何となく居辛くなって鉄五郎の服を引っ張ってそっと部屋を出て行こうとしたとき、吉野が帰ってきた。一瞬部屋の光景に固まったが、いつもと変わらない笑みを浮かべると持っていた書簡を開いて聖の執務机の上に置く。


「お取り込み中のところ申し訳ありませんが、外交部と教部からの書類です」

「教部?」


 外交部はまだしもなんで教部から、と思って聖は首を傾げて吉野を見た。国の教育関係を司る部署とあまり関わりがなく、長官とも話したことは数えるほどしかない。何故だろうと思うが吉野も分からないようで、肩を竦めただけだった。美月から手を離して書類に手を伸ばせば、吉野が判子と一緒に渡してくれる。


「ちなみに、ここが女性禁制だって知ってますよね?」

「俺から女を連れ込んだことねぇじゃん」


 軽口を叩きながら聖は書簡に目を通した。外交部からの書面には芳賀と岩浅が戦を開始したことの経緯と詳細が書いてあり、聖は僅かに目を眇める。竜田国へ各国の領主が出向いている隙に芳賀から仕掛けた戦らしく、竜田国の領内には不可侵であること、また戦闘には不干渉を希望する旨が書かれている。こっちに面倒がかからないなら特に何を言う気もなく、聖は次の書簡に目を通した。その瞬間、目を見張る。どうしてこう面倒なことが次から次へと積みあがるのだろう。溜め息を吐き出したくなって、聖は置きっぱなしの煙草に手を伸ばしたがそれも短くなっていた。吸うのを諦めてそれを押しつぶしながら、本当に深く溜め息を吐き出す。


「美月さん、近いうちに帰りますからそれまで悩んでてください」

「ひどい!聖さんまで私を見捨てるんですか!?」

「俺、悩んでる女性って好きですよ?それにここにいるの見つかるとちょっと厄介なんで」

「……絶対帰ってきてくださいね、明日」

「…………頑張ります」


 聖が微かに頬を引きつらせて言うと、美月はぱっと笑顔を見せて帰って行った。一体何をしに来たのかとも思うが、聖には何となく分かる。会いに、来てくれたのだ。『角倉』に帰りたがらない聖だから、何かと理由をつけて。今までだって美月は細かい理由をつけて聖を呼び出している。
 美月が部屋を出て行ってから新しい煙草に火を点けて、聖は教部からの書類に視線を落とした。一つには、聖に姫君の教育係にならないかと言う要望の文が綴られている。けれど問題はその次に書かれている事項だった。聖の真剣な表情に吉野は片眉を跳ね上げて問いかけた。


「聖さん?」

「……惣太。お前十五だよな?」

「そうですけど、どうしたんですか?」

「更新試験。しかも鉄も」


 聖の言葉に、少年二人はさっと顔を青くして大きく目を見開いた。更新試験とは、文官武官問わず十五才以下の官人に課せられた試験で、大方は十五才か十六のときに受けることになる。この先も官人を続けていくほどの力を持っているかを審査する試験なので、現役官人には特に難しい訳ではないはずだ。しかし惣太はまだしも、鉄五郎は特例だ。聖が半年ほど前に拾ってきた鉄五郎は官人になるための試験すら受けていない。
 真っ青になって言葉を失っている惣太と鉄五郎を見て、吉野は先ほど小田原から受け取った報告書の入った軍服の内ポケットの上にゆっくりと手のひらを当てた。





-続-

秋菜ちゃんすっごく働き者ですよね。