外はぽかぽか陽気で気持ちよさそうだと心の底から思う。ぜひ詰め所の屋根で昼寝したい。けれど、それが無理な願いごとであることを惣太は理解していた。岩浅と芳賀が戦を始めて三週間ばかりが経過した。惣太には現状がどうなっているか分からない。分かることはただ一つ今、自分の命が危ない。


「なぁんでお前はこのくらいも出来ねぇんだよ!?」


 何度目か分からない聖の怒声を聞いて、惣太は体を小さく竦ませた。更新試験があると聞いた三週間前から今日まで、惣太と鉄五郎は毎日聖からじかに勉強を教わっている。惣太も一応貴族なので勉強はしてきた。けれど相性が良くなかったのか、あまり成果はなかった。前回の試験はどうやったかと思い出しても、あのときも聖に教わった気がする。聖は無駄に知識が多いし、教え方もうまいのでありがたいが教え方はスパルタだ。もうちょっと優しくしてほしいと思うのはわがままだろうか。


「……だって、分からないものは分からないじゃないですか」

「生意気に口答えか?」


 煙草を吸いながら惣太の答案を見ていた聖が不機嫌な顔を上げた。聖は惣太と鉄五郎の試験の勉強を見ているので、主な仕事は吉野が請け負っている。けれど聖にしか出来ない仕事もあるので相当疲れているのだろう、灰皿がいっぱいになっている。惣太は聖を申し訳なさそうに見上げた。


「でも、今まで漢字なんて必要なかったじゃないですか」

「人として必要なことだろうが」

「でも!」

「でもじゃねぇ、やれ」


 心底呆れたような聖の声音に惣太が口を噤むが、納得はできなかった。二年間、体一つで事足りたのだ、どうして手紙の書き方とかが必要になるのか。大将だとか文官には必要かもしれないけれど、一生を師範の下で過ごすと決めた惣太には不要なものに思えた。
 ぶすっくれた顔をして聖を見ると、聖は苦々しい顔をして煙草を噛み潰していた。その時、吉野が入って来て部屋の様子に苦笑した。


「お疲れ様です。惣太君、鉄五郎君、順調ですか?」

「全然駄目」


 聖がどうしようもないとでも言いたげに肩を竦める。吉野はその行動に非難のような視線を浮かべたが特に何も言わず、持っていた書類を聖の机の上にどさっと置いた。視線で追っていた聖が「うげ」と小さく呟くが誰もが無視して聖の紫煙を吐く音だけが響いた。


「師範代、師範と代わって下さい!」

「僕ですか?」


 思いついて惣太が叫ばん勢いで提案すると、となりで鉄五郎が「それいい」と同意する。突然の申し出に吉野は惣太を見て聞き返した。本当に驚いているのか、自分を指差している。惣太ですら吉野に何かを教わったことはない。そういうことは全て聖の仕事だと吉野が先手を打って交わしていた。けれど師範のスパルタよりはマシだろうと思ったのだ。吉野は困惑した顔をして聖の隣に腰を下ろした。


「僕、人に教える才能ないですよ」

「師範よりマシですよ!」

「どういう意味だ、おい」


 聖の言葉を無視して惣太と鉄五郎が言い寄ると、吉野は苦笑して聖の持っている答案を覗き込んだ。これはやる気になってくれたかと思ったのも束の間、優しげな吉野の顔に冷たい色が浮かんだ。滅多に拝めない他人を蔑む目に惣太と鉄五郎は揃って背筋を冷やす。


「あれだけやってこれだなんて……諦めた方が良いかも知れませんよ」

「ひどっこんなに頑張ってるのに!」

「惣太君は佐々部の長男なんですから、大人しくお家継いだらいいんじゃないですか?」

「もういいです聖さんお願いします!」


 吉野のあまりの良いように惣太は流石に凹んだ。折角人事の際に残してもらったのに、ここで落ちたら意味がない。その為に頑張っているのに。試験までの一ヵ月、惣太と鉄五郎は勉強に専念できるように仕事を免除してもらっている。全ての時間を勉強に費やしているのに成果がでないのが悔しくて、でもやめるわけにはいかなくて辛い。でも頑張れるのは、聖の傍にいたいからだ。
 駄目かもしれないけれど最後まで頑張ろうと決意を新に、惣太はぐっと聖を見て筆を取った。それを見て聖は新しい問題用紙を滑らせる。


「聖さん、東関と臼木の癒着の証拠が出てきました」

「若垣とは?」

「まだなのか、繋がってないのか……調査中です」


 「ふーん」と軽く返事をしながら、聖は真剣な表情で煙草を灰皿に押し付けた。立ち上がって事務机にふんぞり返り、吉野が置いた資料にパラパラと目を通し段々険しい表情になっていく。惣太は問題を解きながらちらりと聖を見て、表情を翳らせた。それに誰も気づかない。


「ちょぉ外交部行ってきてくれ」

「外交部ですか?」

「臼木との外交がどうなってるのか知らねぇと、後でどうにかなったらヤバイだろ」


 聖は東関を潰す気のようだ。にやりと笑んだ顔に惣太はそう思った。吉野は軽く頷くと立ち上がって部屋を出て行く。聖が書類をめくる音を聞きながら惣太はこれからどうなるのだろうかと思った。まだ新領主になってそんなに時間が経っていないが、国はよく動いていると思う。けれど問題はたくさんあって、東関と臼木の癒着や若垣と英子の癒着、そして各長官たちの思惑。その中で聖はどれだけ身を削っているのだろう。笑っては、いるけれど。


「おい、できたか?」

「あ、まだです……」


 不意に顔を上げた聖に声を掛けられて、惣太は反射的にそう言い返した。問題が終わっていないのは確かなことなのでまたせっせと取り組むと、聖が煙草に手を伸ばした音がした。けれど入っていなかったのだろう、ぐしゃっと握りつぶす音がする。


「惣太、お前家帰ってる?」

「………」

「ちゃんと帰れよ。親心配してんだろ」

「………」

「お前は、愛されてんだから」

「師範、うるさいです」


 ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ聖に惣太は思わず黙りこくった。確かに惣太は試験の知らせが来てから家に帰っていない。ずっと詰め所に泊まって勉強していた。別に家に帰っても親に軍なんて辞めろといわれそうだし、くじけてしまいそうだった。そもそも師範に言われる筋合いはないと言おうと思ったけれど、その後に続いた言葉に思わず悪態をついてしまった。しばし沈黙が落ちたのち、聖が喉で笑った。


「ま、そーだよな」


 クックッと笑って聖は新しい煙草をピッと開けた。お気に入りのジッポライターで火を点けながら、書類を持って惣太たちの前のソファに腰を下ろす。惣太が上目遣いに聖を見上げると、聖は口の端に笑みを刷いた。


「師範」

「集中してやれ」

「俺、本当に聖さんの下でずっと働きたいんです」

「……誰も反対しちゃいねぇよ。一昨日お前の親父来たんだぞ」

「何でですか!?」

「息子をお願いしますって頭下げられた」


 ふーと聖は紫煙を吐き出す。空気に混じった紫煙を見上げ、惣太はしばし固まった。ずっと反対されると思っていたけれど、本当は応援されていたらしい。父は理解があると知っている。初めに軍人になると言ったときも「頑張って」と言ってくれた。だから今回も応援してくれると本当は分かっていた。そして、何よりも心配掛けたくなかった。でもそれは本当は、怯えていたのかもしれない。もし反対されたらとかもし迷惑がられたらとか。


「俺、頑張ります」

「おう、頑張れ」


 顔を引き締めてそう言うと、聖が奇麗な顔で微笑んで不意に惣太の頭に手を乗せた。軽くかき回して、ついでにさっきから黙って問題を解いている鉄五郎の頭を撫でる。けれど鉄五郎は僅かに顔を歪めただけだった。


「ただいま戻りました」


 戻ってきた吉野はさっきから全く変わりのない室内に軽く肩を落とした。けれど今は気にしている場合ではいので、ツカツカと聖の隣に寄った。惣太たちは結局自分で頑張らなければならないのだ。最後に必要なのは、いつだって他人ではなく自分の決断なのだから。それは惣太は身に染みてわかってるはずだ。


「臼木とは多少の交易があるだけです。もし断絶したとしても大した痛手ではありません」

「東関と一発ヤっちまうか」

「東関は武器の密輸入にも手を出しているようです。適当に攻めて行っても相当負傷しますよ」

「西と北に文だす、準備しろ」

「……動くんですか?」

「そろそろ潮だ」


 そう言って笑い、聖は立ち上がると執務机に移動した。文を書く準備をしながら聖が「終わったか?」と聞くので惣太は軽く頷いて吉野に提出した。吉野はそれを受け取るとさっさと文を出す為の手配を済ませると二人分の採点を始める。


「そう言えば聖さん。さっき意見者様にお会いしまして、いい加減に帰って来いってお怒りでしたよ」

「………」

「文書き終えたら行ってください」


 すっかり忘れていた事実を思い出して、聖は変わらずにサラサラと手を動かしながら深く溜め息を吐き出した。長くなった灰を灰皿に落として、どうにかして家に帰らない方法を模索するけれど全く思いつかず、紫煙に溜め息を溶け込ませた。










 文を書き終えて、聖は諦めて家に帰ってきた。惣太と鉄五郎は吉野に任せてきたので大丈夫だろう、彼らの顔は泣きそうに歪んでいたけれど。遅くなりがちの足を無理矢理叱咤して角倉の本家に帰ってみると、美月が嬉しそうに微笑んだ。その顔には思わずこちらの顔も緩んでしまう。


「お帰りなさい、聖さん!」

「……遅くなって申し訳ありません」

「お兄様がお待ちかねです。今、雛生さんもいらしてますよ」

「俺、美月さんと一緒にいたい」

「でもお兄様がお呼びですから。今夜はこちらにいられるのでしょう?一緒に寝ましょうね」

「流石にそれは……」


 子供のように無邪気に笑う美月に流石に聖は苦笑した。この家に引き取られたのは十のときだからあの頃はたまに一緒に一晩明かしたこともあったけれど、今はもういい年をしている上に許婚がいる身だ。いくら血が繋がっていても問題あるだろう。
 言うと美月は不満そうに頬を膨らませた。その頬をつついて、聖は家の最奥にある兄の部屋に向かう。この家は本当に厳つい造りだ。戦場に立つよりも緊張する気がする。ふと聖は自分がYシャツ姿だったことに気が付いた。まぁ良いかと簡単に自己完結して、兄の部屋の前に立つ。


「兄上、聖です」

「おかえり、入っておいで」


 「失礼します」と静かに言って部屋に入ると、臥せっていた兄は体を起こしていた。彼の枕元で婚約者である若垣雛生嬢が彼の身を案じるように微笑んでいる。彼女は聖を見るととたんに表情を険しくしたけれど、澄春はすぐに察すると彼女を部屋に留めるように手で制して聖を目で促した。聖が慎重に兄の前に腰を下ろすと、彼は僅かに目を眇めた。


「みっともない格好をしないといつも言っているだろう?」

「……申し訳ありません」

「まぁいい。聖に大事な話があるんだ」


 ゆっくりと話す兄は苦手だ。今まで忙しない世界に身を置いてきた聖はある程度の速度がないと生きていけないように出来上がってしまったらしい。言葉を選ぶような兄の言葉が妙にもどかしくてたまらない。
 聖のその考えを知ってから知らずか、澄春は静かに微笑んでふと視線を自らの手元に移した。


「聖と雛生が婚約して、随分経つね。聖はいくつになった?」

「……二十です」

「私は初めから子供が作れない。角倉の跡取りを残せるのは聖だけだって、分かっているね?」


 兄の言葉に聖は沈黙する。雛生はもともと兄の婚約者だった。けれど聖が引き取られた時、聖の婚約者になった。だから雛生は聖のことが嫌いで、未だに兄に尽くしている。別に今まで辛かったこともないので放っておいたが、そろそろ年貢の納め時と言う奴だろうか。


「こういうことは言ってどうにかなるものでもないからね、今日は泊まっていきなさい。雛生は聖の部屋に布団を準備させるよ」

「嫌です!」


 聖が何か言う前に、雛生の方が声を荒げた。彼女の行動に一番驚いたのは澄春で瞠目しているが、聖は思ったとおりの反応に僅かに俯いた。消せない過去がある。そのせいで傷つけた人がいることも傷ついた自分がいることも知っている。それは、消せない。嫌だと言われるのは当たり前なので聖は特に反応しなかったけれど、そんなに嫌なのか雛生は子供のように嫌だと首を振り続けた。


「嫌、です……」

「別に無理強いしなくてもいいんじゃないですか?俺もちょっと忙しいですし」

「聖」

「近々ちょっと出ないといけないかもしれないんで、それまではお預けってことで」


 にっこりと聖は笑って、さっと立ち上がった。まさかこんなにも嫌われているとは思わなくて、意外に凹んでいる自分に気づく。今まで女性に嫌われたことはあまりなかった。昔は、自分に絶対の自信があり、傲慢なときもあった。けれど、あの頃の自分が今の自分を傷つける。過去の古傷が痛み始めて、聖は僅かにその奇麗な顔を歪めた。





-続-

若垣雛生(わかがきひなき)

惣太ってどこまでおばかさんなら気が済むのでしょう。