惣太と鉄五郎の更新試験が終わって、半月過ぎた。気が付けば桜は完全に散っており、緑鮮やかな時期になっていた。ぼんやりと窓の外に視線を落としていた聖は、眼下の僅かな明りに目を細めた。色々なことがありすぎて、ずっと気が張り詰められていたのだろう。ここに来て、やっと肩から力が抜けた気がした。これで更新試験の結果がでたら、また動かなければならない。それまでの、ほんの僅かな休息だ。
「聖。いつまでそうしているつもり?」
すっと部屋の襖が開き、一人の女性がくすりと笑いながら入ってきた。けれど聖は振り返らず黙って窓枠に肘を突いて外を見ている。
この朱門の内で最も高価な揚屋が聖の贔屓の店だ。いつも同じ部屋に同じ女性を呼んで過ごす。たまに他の女性を呼ぶこともあるけれど、大抵相手は変らない。その女性は普段とは違う聖のアンニュイな姿に僅かに首を傾げ、隣にそっと腰を降ろして着流し一枚の聖の肩に羽織を乗せた。
「もう酔っちゃったとか?」
「酔ったかもな。……月にでも」
ゆっくりと聖が顔を上げて、力なく笑む。窓の向こうにはまん丸の月が黄金色に輝いている。まるで黒い空を圧し潰していくようなその色には恐怖すら覚えてしまう。聖の前にある膳を少し下げて、彼女はそっと聖に寄り添った。あまりにも聖が奇麗な顔で悲しそうに笑うから、彼が月に溶けてしまいそうに見えてしまった。
「いつまでもそうしてると冷えるわ」
これが仕事だから、彼女は聖の首筋に細い指を這わせて小さく囁く。これが仕事。そして聖は客。悲しい関係の中で、彼女はいつしか角倉聖と言う青年に心を奪われてしまった事に気づいた。けれどいつも彼は、ここではない世界で女性の影を探している。
彼女が聖の袖を引くと、聖は微笑を浮かべてゆっくりと立ち上がる。部屋の真ん中にこれ見よがしに敷いてある布団にごろんと寝転がると、色気もなく彼女の着物をひっぱって腕の中に収めた。彼女の足の間に片足を滑り込ませながら、聖は小柄な姿を抱いたまま深く溜め息を吐いた。
「みどりさん。俺さ、何でここ来たんだろーな」
「ここは隠世。そんな野暮なこと言っちゃだめよ」
「俺、婚約者いんだよ」
聖の懺悔にも聞こえる言葉に、彼女――みどりは何も言わずにただ聖の中で息を潜めて頷いた。
聖に婚約者がいることも、それでも花街に来ることもみんな知っている。婚約者がいても女房がいていもここに来る男はたくさんいるけれど、彼らは聖とは違う。聖はどうしてか女性を大切に大切に扱っている。それは彼に最も触れられるみどり自身がよく知っている。
「その人に嫌われててさ」
少しだけ辛そうな声で、聖が呟いた。きっとみどりには想像もできないほど聖にとってはきつい事実なのだろう。聖はいつだってここではないどこかを見ている。誰かを幻影の中に探して、けれどそれが見つからない事に安堵しているように。聖はみどりを抱きしめた腕の力をほんの少しだけ強めた。それは多分、聖の後悔と同じ力。
「俺が悪いのは分かってるけど、しんどい……」
女性に嫌われることがしんどいんじゃない。彼女が人を憎まなければならない状況を作ったことだ。この結果を作った自分自身が。聖はいつだって自分自身のことを後回しにして、他人を気遣っている。それがみどりにとっては見ていて痛々しかった。
聖の婚約者は竜田国で三家の一に数えられている若垣の姫君だと聞く。元々角倉の長子・澄春の婚約者だったけれど、彼がいつまで生きられるか分からない病に犯されてしまった際に聖が引き取られ、同時に婚約も解消されて聖の婚約者になったのだそうだ。世間には聞こえない話も、花街では容易に聞くことができる。けれど決して外には漏れない。だから、みどりは聖を思うと胸が苦しくなる。こんなに辛いことも独りで抱え込んで、笑っているのだ。
「今日は忘れましょう?」
「兄上は子供が作れない。俺は餓鬼を作りたくない」
「……聖」
「でも、俺は角倉の血が流れてない」
聖はとても微妙な所に立っている。聖の絞り出す声に含まれた悲鳴にみどりは泣きたくなった。現在の角倉の当主は、真坂からの婿養子だった。その男と外の女の間に生まれた聖には真坂の血は流れていても角倉の血は流れていない。けれども本家直系の息子なのだから、子供を作ったら家督争いに巻き込まれるのは必至。要らぬ中傷を浴びて傷つくのも、火を見るよりも明らかだ。
「貴方が気に病むことじゃないわ」
「辛いのは俺じゃなくて、雛生さんになる」
遊女の子などと子供を作ったと言われれば、婚約者といえども非難を浴びる事になるだろう。それが貴族の習性だ。そして何よりも生まれた子供が辛い思いをする。聖自身、望んだ訳ではない出生で要らぬ中傷を受けてきたのだ。誰よりも優しい彼は、自分自身よりも周りの人間を気にする。今だって聖は自分のことなんて微塵も考えず、相手のことを気にし続けている。
「…少し、自分のことを気にしたほうがいいわ。聖は優しすぎる」
「どうせなら、馬鹿って罵ってくれよ」
聖の弱々しい笑みを見て、みどりは不意に涙がこみ上げてきた。世の男達はこの世界に欲望の捌け口を求めてやってくる。けれど聖は、自身を更に痛めつけに来ているように見える。きっと聖にとって己の体も痛めつける対象になる。もしかしたら、心も。それが耐え切れなくて、聖が壊れてしまいそうで、見ているだけでは耐え切れなかった。
夜は、まだ長い。
日が高く上ってから目を覚ました聖は、手早く散乱した着物をまとうと行政本部に戻った。隣に寝ていたはずのみどりは、もういなかった。
腹が減ったなと漠然と考えながら着崩した着物のまま門を潜ると、門番がぎょっとした顔ですぐに俯いた。寝不足の顔で不機嫌に首を傾げ、聖は軍部に向かう。欠伸を噛み殺しながら中に入ると、イライラと吉野が書簡に目を通していた。何となくばれたら殺されそうな気がして、聖は慎重に扉を閉める。
「お帰りなさい、遅かったですね」
「……たでーま」
ばれないと思っていたのに、簡単にばれてしまった。吉野が顔も上げないので、聖は開き直ってそのままの格好でソファに腰を下ろした。長い足を組みながら目の前のテーブルに散らかっている書類を指で拾い上げて視線を落とし、その中に書かれている事実に聖は眉を顰めた。
「何だ、これ」
「英子様と若垣の関係についての調書です」
「……妙だな」
低く呟いて、聖はその紙から手を離した。ひらりと風に流されてテーブルの上に着地したそれを視線で追って、無意識に懐から煙草を引っ張り出す。
英子と若垣の関係は今まで後見としてだけだと思っていた。けれど調書に若垣が岩浅と何らかの関係を持っていると書かれている。その中身は更に捜査中だ。岩浅と言う言葉で今聖の頭に浮かぶのは、以前山の中で瀬能を狙ってきた軍人のこと。領主の座を狙っている英子のこと、もしかしたら最悪の事態を作ろうとしていたのではないだろうか。東関の問題もあるし、頭が痛くなってくる。というか、こんな仕事は軍人の仕事だろか。
根本的な疑問を持ち始めた聖だが、もともと軍は民の治安を守るために、権力者の使いっ走りになるために存在している。大きくまとめれば領主を守るためだから、仕事は山のようにある。
「ま、成るように成るか」
「また行き当たりばったりなこと言って……」
「臨機応変って言えよ」
「そんなことどうでもいいです。先ほど瀬能様から呼ばれました。さっさと着替えてください」
「何?」
「さぁ?でも公的なものではないようなので、貴方が花街から帰ってきたら行くと言っときました」
しれっと言って書簡をまとめている吉野に聖は一瞬殺意を抱いた。誰だって好きな人間にだらしない奴だとか思われたくはない。ましてや「花街で女を買っていた」などと知られたくはない。けれど滲み出ている不機嫌さに何も言えずにすごすごと奥の部屋に着替えに行った。
さっさと軍服に着替えて吉野と共に奥の領主の住居である館に向かった。軍服を着ようと思ったが今日は天気が良くて気温が高いのでやめてYシャツ姿のラフな格好だ。もし敵に襲われた場合、聖は素手で戦わなければならないことになるけれど、この美貌の人にはそんな考えはこれっぽっちもなかった。吉野だけが呆れ顔でいる。
「瀬能様、俺です。失礼します」
なんとも無礼な言い方だが、公的な呼びではないとさっき吉野が言ったばかりだ。警備の兵が砕けた様子の大将に目を見開いていたが、「あぁ、この大将なら別に何も不思議じゃないや」と思い直して黙って立っている。
中から小さな返事が聞こえたのを確認した後、聖はゆっくりと扉を開けた。中からは幼い少女の声も聞こえるから、柊姫もいるのだろう。柊を生んですぐに彼らの母親は他界してしまったので、兄妹中がとても良い。角倉の兄姉とは大違いだ。
「聖、筧副大将も。紹介する」
そう言って手を差し出された先の人物に、聖はポカンと目を丸くしてまじまじと見入ってしまった。聖の視線の先では彼女が照れてはにかんだような笑みを零している。その隣で柊は不思議そうに聖達を交互に見ていた。吉野だけがさも面白そうに微笑を浮かべている。
「柊様の教育係になりました、角倉美月です」
語尾にハートでも付いているかのような笑顔で言って、美月は小首を傾げて見せた。ついこの間まで「瀬能様の侍女か沼賀様と結婚なんて!」と顔を青くしていたのに、一体いつの間に柊姫の教育係なんていう利益のなさそうなポジションについてしまったのだろうか。こんなところに身内がいたら、瀬能に意味もなく会いに来て告白とか出来ないではないか。
聖の困惑などをよそに、美月はにこにことまるで少女のように聖に飛びついた。咄嗟に聖が抱きとめて、それから溜め息を一つ吐き出す。
「……なんで教育係なんて……」
「瀬能様直々のお召しよ」
「美月様はしっかりしているし、素晴らしい女性だからな……」
少し照れたように言った瀬能に聖は一瞬息が詰まるような感覚を覚えた。けれど気のせいのようにそれは聖の中を軽く通り過ぎ、言葉では表せないほどの微妙な感覚を残した嫉妬と呼ぶにはまだ幼すぎる想いだ。けれど確かに胸は締め付けられる。
「……将を得るにはまずは馬からってことですかね」
吉野の感心したような呟きにピンと来て聖は不満気に眉を顰めた。確かに国の絶対勢力になろうとしている父が他意なく子供を放すとは思えない。聖はグレて家を飛び出したあげくぶっ倒れるという光定曰く馬鹿丸出しの行為のおかげで相当自由に生活しているが、これだって軍大将の地位にいるから許されることで、さもなくば地下室に幽閉されていてもおかしくはない。彼らの父親である男にとって、子供はただの駒に過ぎないのだ。
聖の渋い表情に美月は不安そうに眉を下げて聖を見、その顔に聖は反射的に微笑を浮かべた。
「美月さん?」
「……私、やっぱりお受けしない方がよかったのかしら……?」
「そんなことないですよ、ちょっと驚いただけです。協力しますから、何でも言ってくださいね」
半分以上愛想笑いでそう言うと、美月はにっこりと頷いて「ありがとうございます」と言った。この笑顔にはいつだって勝てたことがない。まぁどうにでもなるだろう、と一種諦めにも似た言葉を心の中で吐き出して、聖はポケットに手を突っ込んだ。煙草を探そうとするが入っておらず、どこにやったかと記憶を探す。
「……聖?」
瀬能の小さな疑問にも聖は答えられずに必死に記憶を手繰った。着替えてから吸ってないし、つーか戻ってきて吸ってねぇし。最後に吸ったのは、朝だ。朱門のいつもの店で目を覚まして、いつものように枕もとの煙草に手を伸ばして寝起きの一服を味わいながら変わらずに彼女の面影を紫煙と一緒に吐き出した。それから時計を見て、針の位置に一瞬固まって少しだけ慌て気味に店をあとにした。気がする。
「……煙草忘れた」
「いい機会です、禁煙したらどうですか?」
「冗談じゃねぇ。ちょっと取りに戻る」
「この時間じゃ開いてないんじゃないですか?そもそも行ったら帰ってこないでしょう」
ただ忘れたといっただけなのに吉野は聖の思考なんてお見通しのようにつらつらと言葉を立て並べた。できれば会話の正体を瀬能と美月には知られたくないと思いながら聖が固有名詞を出さないように口を尖らせる。
「ちゃんと帰って来るって」
「信じられません。朱門の貪婪でしょう?適当な兵に取りに行かせます」
吉野の言葉にその場にいた三人の表情が変った。聖は一瞬仕舞ったとでも言いたげな表情になってすぐに苦々しい顔をして。美月はぼっと顔を赤らめ、瀬能は恥ずかしそうに俯いてしまった。どうやら朱門がどのような所か知っているようだと変なところに感心して、吉野はニッコリと微笑んだ。聖の顔には「わざとやりやがったな」と書いてあるが、わざと以外だったらどうやるか、吉野は知らない。
聖は舌打ちを一つ打ち鳴らすとポケットに手を突っ込んで踵を返した。
「御用がそれだけなら失礼します」
「あ、聖……」
「何ですか?」
呼び止められて、聖は止まって顔だけを瀬能のほうに向けた。まだ僅かに赤い顔で、瀬能は何かを言い辛そうに口を開閉させていたが、やがて顔を上げてぎこちなく微笑んだ。
「ま、またな」
「?……失礼します」
結局何も言わなかった瀬能に聖は僅かに首を傾げて軽く頭を下げた。
あと半月して暦が春から夏という区分に変ったら更新試験の結果も出て、きっといろいろな事が動き出すだろう。その時まではしばしの休息だ。普段出来ないことをしようとは思わないけれど、せめて少しでも面倒を減らせるようにしようと思った。
-続-
貪婪(どんらん)
閑話編です。当面の目標は「スタート地点に辿り着く」ことです。