いつの間に外にいれば汗ばむ気温になったのだろうか。執務室の椅子に背を預けて机に足を乗せて仮眠を取っていたところ、目が覚めたら汗ばんでいた。うっすら開けた目に飛び込んできた強くなった陽射しに聖は再び目を閉じなおした。


「やった、やりました師範!」


 再びウトウトし始めたところに大騒ぎしながら入ってきた。その声が煩くて聖は不機嫌に僅かに瞼を押し上げた。今日は更新試験の結果が出る日だ。試験から半月の間聖は吉野と共に東関と若垣について調べてきた。試験結果が出ればすぐに動かなければならないと誰もが分かっていたし、そろそろ潮時だった。結局東関と若垣との癒着の証拠は出てこなかった。けれど東関と臼木の癒着とその目的ははっきりした。彼は、力が欲しかった。
 鉄五郎と手を取り合ってはしゃぐ惣太が鬱陶しくて聖は顔を不機嫌に歪めたまま体を起こして目の前の仔犬を睨みつけた。

「うるせぇ」

「だって師範!受かりました!」

「俺が教えたんだぞ、落ちたら殺す」

「俺、ずっと聖さんの傍にいられるんです!」


 惣太がとても嬉しそうな顔でそう言って笑うから、聖はこれ以上怒る気も失って口を噤むと大きく延びをして机の上の煙草に手を伸ばした。寝起きの一服で脳にニコチンを送り込んで起動させながら、これからの動きを脳内で確認する。外交部に書面での戦争許可を貰う。これは保険だが、ないよりはマシだ。地方には各軍を均等に分けた師団を派遣している。北関と西関に文を出してもしもの時には動けるようにしておかなければならない。この策を東関に悟られてはならないのでまだ計画は聖と吉野の頭の中にしかない。それを割り振って動かすのだから相当忙しくなる。
 聖は銜え煙草のままで立ち上がって惣太の頭を小突くとヒラヒラと手を振って執務室を出て行く。


「ちょっと出てくっから」


 惣太がどこに行くのかと問う前に吉野がやって来て、数言言葉を交わして吉野は聖を見送った。いつもなら絶対に遊びに行く大将を許さないのに、吉野にしては珍しい行動だ。もしかしたら雨でも槍でも降るのかもしれない、と思って反射的に窓を見たけれど、外は晴れ渡っていた。


「惣太君、僕が聖さんを行かせたのがそんなにおかしいですか?」

「あ、いや……」

「だって師範代、いつも師範のこと怒ってるから」


 惣太が言い淀んで俯いていしまったので、代わりに鉄五郎が言った。惣太も思っていることだが、言われた吉野は心外そうに眉を顰め、しかしすぐに顔にいつもより苦々しい笑みを刷いた。その顔は何だかこれから起こる不吉な事を予兆しているようで、妙に不安になる。けれど、吉野は違うことを言った。言いながら自分の席でサラサラと文を認めている。


「一応、聖さんも遊びに行ったんじゃないですよ」

「どこ行ったんですか?シャツ一枚だったじゃないですか」


 誰かに会うのならば軍服を着るのが礼儀だ。この国の官人は礼儀に煩い上に軍人嫌いときているから、それを怠れば会ってもらえないどころかすぐに問題にされて追放されてもおかしくない。けれど吉野は「違いますよ」と笑った。


「マミとアミの様子を見に行ったんですよ」

「マミとアミ?女?」

「鉄は知らなかったっけ、マミとアミ」

「丁度いいですから二人とも、聖さんの手伝いをしてくれますか?僕はここで事務仕事ですし」


 いつもの笑みで書類を翳して見せた吉野に惣太は大きく頷いて不思議そうな顔をしている鉄五郎の手を取って執務室を出た。ゆっくりと歩きながらエレベータに乗って一階に下りる。多分聖は武器庫に行って厩に回り、城下の様子を見てくるつもりだろう。さっき出て行ったばかりだから、館の直ぐ隣の武器庫に行ってみることにする。本部の裏手に当たるので少々距離があるが、厩に向かう時にはすれ違うことになるので行き違うことはない。


「なぁ、本当に臼木と東関ってグルになってんのかな」


 歩きながら問われたことに、惣太は「当たり前だろ」と応じた。優秀な諜報の人間が集めてきた証拠は確かなものだ。もともと各関所の長は中央から派遣された貴族だ。煩悩に塗れた彼らは関所の長になるとそこで身を立てようとするか早く中央に戻ろうとするかのどちらかに絞られるが、現在の東関はもう長い間留まっている。地方に派遣する兵が長を補佐することになるが、あまりに長い間いると取り込まれることもある。場所換えを拒んだ時点で、彼らが怪しいことは分かっていた。
 帰ってこないってことは帰りたくないんだよ、と惣太は呟いて唇を噛んだ。始めはみんな領主に忠誠を誓ったはずなのに、裏切るのだ。東関に派遣されている兵は聖に命を預けた訳ではない。その前から軍人だった人間が大半を占める。だから聖は裏切られたことにはならないけれど、優しい彼は傷つくだろうか。


「しはーん。あれ、いない」

「じゃあ先に厩に行ったかな?」


 武器庫を覗いたけれど、誰も入った様子がなかった。僅かに埃の積もった武器はこの国の平和を象徴している。いつまでもいつまでも埃が積もり続ければいいのに、きっとそんなことは許されない。それにきっと聖は心を痛めるだろう。そのとき自分はどうしたらいいのだろう。彼を支える力はきっとない。だったら、何が出来るんだろう。せいぜい煙草を買いに行くくらいだ。
 厩に向かいながら鉄五郎にそう愚痴ると、鉄五郎は少し淋しそうな顔をした。けれどすぐに笑顔を作った。


「いいじゃん何も出来なくて。言われたら煙草買いに行けば、さ」

「……そだな」


 ぎこちなく頬が引きつってしまったけれど笑って、惣太は小走りに厩に向かう。東関には誰が行くのだろう。本当に戦争になるのだろうか。話し合いでは解決しないのだろうか。そう考えて、考えてからこれは誰の為の願いだろうと疑問が生まれた。自分の為だろうか、そこに住む人々の為だろうか。それとも、優しい大将の為なのだろうか。分からないけれど、とにかく聖が悲しそうな表情をしなければいいと思った。


「師範?」

「鉄、あそこ」

「どこ?」

「あれ、二頭の間」


 厩を覗いて鉄五郎は首を捻るが、惣太は早々と聖の姿を見つけて二頭の馬の間を指差した。相当疲れているのだろう馬に嘗め回されても目を覚まさない。完全に安心しきった顔で眠っていて、彼がこんなにも疲れていることを惣太は初めて知った。執務室で寝ていても人の気配がするとすぐに目を覚ましていた。きっと朱門の店でも同じだったのだろう。それほど聖は気を張っていた。
 惣太はそっと聖に近づいた。とたんに両の馬が威嚇してくるけれど惣太は唇に指を当てて彼女らを安心させる。


「起こさないよ、これかけるだけ」


 そう囁いて、惣太は自分の軍服を聖にかけた。短くてあまり役に立たないかもしれないけれど、最悪腹が隠れていればいいので問題ないと開き直ってかけてからそっと傍を離れる。寄り添う二頭の馬を見て、聖は彼女らにも愛されているのだと感じた。動物の雌にまでもてるなんてどんなフェロモンを振りまいているのかと疑問が浮かぶけれど、それはきっと彼の優しさ。


「マミ、アミ。聖さんのこと頼むな」


 二頭の馬にそう言って、惣太は厩を後にした。聖の愛馬のマミとアミ。決して人に馴れない彼女たちは唯一聖には懐いていた。そして聖のことをとても好いているし、聖も大切にしていた。
 彼女たちに聖を任せて、惣太は鉄五郎と執務室に戻った。多分聖は城下の様子を見に行くだろう。自分が離れる間に何も起こらないことを肌で感じる為に。何が起こるか予測を立て、それを防ぐ為に自分自身で行く。代わることが出来ない仕事だから、せめて自分たちは違うことで彼を助けたかった。










 日も暮れはじめた頃聖が執務室に戻ってきた。ところどころ藁がついているのは厩で眠っていたからだろうか。どことなく動物臭い気がしなくもない。けれど聖の顔はしっかりしていた。覚悟を決めたかのようなその顔に惣太の背筋も自然と伸びる。
 執務室に集まっているのは大将副大将に第一師団に属す各軍の軍団長が三人と、惣太と鉄五郎だった。東関の件については一部の人間しか知らない。領主と意見者・総督と外交と人事部の官長くらいだろうか。そして軍人ではここに集まった七人と北と西の師団長だけ。それだけこの件は異常だったのだ。


「予定通り、明朝早く出立します」


 吉野の言葉に集まった皆が頷いた。作戦の決行は早朝と相場が決まっている。特に今回は奇襲を仕掛けるわけではないから向こうに着くのは昼頃になるだろう。人事部には既に東関の人事についての任命書を作ってもらったことと外交部に最悪の場合臼木との外交が断絶する可能性があることを諭した。北と西に送った文も早急に準備するという頼もしい返事が早文で返ってきている。


「あちらの首尾は左内さんに任せてあります」


 静かに言って吉野はちらりと黙って腕を組んで聞いている小田原を見た。左内は諜報軍に属す中年の男性だ。聖が大将になる前からいる古株と言ってもいい人間だが彼は大将でも領主でもなく安全に忠誠を誓っている。絶対に時勢に逆らわないで、その時勢を嗅ぎ取っているのだ。この種の人間が一番安全な時がある。
 左内の名に皆が納得しているのを確認して、吉野は作戦を語りだした。一応、話し合いの提案はしているけれどそんなものは聞き入れてもらえないに決まっている。相手が何を求めているかは知らないが、武器を隠しているのだから何をしでかすかくらいは想像がつく。


「東関には武器庫いっぱいの火薬があるそうです」

「そんな、あいつらはクーデターでも起こす気か!?」


 極まって叫んだのは守護軍の軍団長だった。もともと戦には火薬はご法度だ。使用方法としては威嚇や合図などで、攻撃を行うものではない。それがこの世界のルールだ。けれど竜田国にはその常識は通用しない。大将が常識で測れない人間なのでそんなものはいつの間にかかなぐり捨ててしまうのだ。
 今まで黙っていた聖が彼を睨みつけて黙らせ、ゆっくりと全員を見回した。その視線には妙な力があって背筋が冷える思いがする。凍ったような空間の中で、聖がにんまりと笑んだ。


「起こさせねぇよ。俺を誰だと思ってんだ?」


 誰だっただろうか、戦場に立った聖を鬼神と称したのは。血で映える彼の瞳を見て夜の夢魔だと呟いたのは。角倉聖の名は国々に轟いている。戦の天才、血肉を啜るブルー・ブラッド。けれど彼らは聖が誰よりも優しいことを知らない。彼を知っている人間は聖はただの人間だと知っている。自分たちよりも脆いけれど怖ろしく強い人間なのだと、ちゃんと知っている。


「ですが大将!もしもと言うことがあります!」

「もしも、だろ。ゴチャゴチャ言ってんじゃねぇよ」


 そんなことはある訳がないと言い切った聖の顔に迷いなんてなかった。何を護るために赴くのかは分からないけれど、けれどその瞳にはただ強い色だけが反射していた。
 押し黙った守護軍団長に頷いて、聖は吉野に先を促した。日も暮れていて、もう時間もない。決戦は、明日なのだから。まだいくつか心残りもある、若垣の件も未解決なのだ。けれど一つずつ解決していくしかないのだから。


「進みます。メンバーは大将、副大将、佐々部惣太、西木鉄五郎。以上です」

「四人!?何を考えているんですか!」

「たった四人!東関には千以上の兵がいるんですよ!?」

「それに最悪臼木の兵だって!」


 騒ぐ軍団長たちに聖は煩そうに目を眇めて煙草に手を伸ばした。中央の兵は二千前後いる。けれど、たった四人で向かうというのは自殺行為に等しいではないか。これは誰も話を聞いていなかったのか吉野以外の誰もが唖然としていた。けれど小田原だけは口を挟まないで黙ったままでいた。


「ぎゃーぎゃーうるせぇな」


 聖が不機嫌な声で、紫煙と共に吐き出した。だからその策も立ててあるのだと吐き捨てるように言われれば黙るしかない。もし戦闘になるようならば中央から兵を呼んで全面戦争にしてもいい。その場合は速やかに北の兵が中央の守りに入り、北の守護は西から応援が来るはずだ。万全の体制になっているはずだ。しかしけれど、と言う言葉が発せられる。これはみんな大将を心配しているからだ。


「ですが、臼木はどうなります!?東関を攻めれば奴等もきます!」

「そこら辺もぬかりはねぇよ」


 にやりと笑った大将に、もうこれ以上紡ぐ言葉はなかった。大将の頭の中には完璧な布陣が出来上がっていて、彼自身が最前線に立っている。誰一人そんなことを望んでなんかいないのに前線に立ってみんなを守る。


「会議終了。さっさと散れ」


 だるそうにそう言うと聖は邪魔だとでも言いたげにシッシッと追い払う仕草をした。各軍団長はしぶしぶながらそれに従い、惣太と鉄五郎もそれに従おうとしたけれど「お前らはもうちょっと打ち合わせ」と首根っこを掴まれて無理矢理ソファに座らされた。吉野がテーブルの上の資料を片付けてお茶を淹れるのを待ちながら聖を窺うと、休憩なのだろう目を細めて紫煙を吐き出した。
 吉野がお茶と軽い夜食としておにぎりを出してくれたのでそれを食べていたら、聖が上着を羽織っておもむろに立ち上がった。奥の部屋に行くので、惣太と鉄五郎も手についた米粒を舐めながら従う。聖の姿と部屋の中央に置いてある竜田国と近隣の立体図を、改めて意識した。


「明日の話するぞ。いいか?」


 聖が煙草を携帯灰皿で消しながら言うので、惣太と鉄五郎は神妙な面持ちで頷いた。それを見て聖が「よし」とばかりに笑って立体図の東関を指差した。
 関所のすぐ近くに竜田と臼木の境界のように山がそびえている。よく演習に使う山だから地形もすべて頭に入っている。けれどそのすぐ向こうは臼木であり、敵の領地なのだ。危険なことに変わりない。聖は東関を指差して、「始めは話し合いから」と悠長なことを言い出した。武器庫の中の火薬は左内が信頼できる人間と共に竜田山に仕掛ける手はずになっている。これで臼木の侵入は防げる。ダメだと思った瞬間に中央から兵が押し寄せてくるはずだからそう遅れは取らないだろう。目的は東関長の首なのだから難しいことではない。


「でもそれ……師範が危険じゃないですか」

「鉄、誰の心配してんだ?俺を舐めんなよ」

「でも……」


 大丈夫だと笑った聖に妙に不安になって惣太はじっと聖をみつめ、けれど目が合う前に気恥ずかしくなって放した。鉄五郎が心配している分自分が心配したらそれだけ信頼していないように思えたのだ。聖が安心させるように微笑んだので、鉄五郎はそれ以上言わずに押し黙った。


「よし、明日は早ぇしさっさと寝ろ」


 ぐしゃっと大きな手で頭を撫でられて、惣太は「おやすみなさい」と笑うと鉄五郎と一緒に執務室を出て詰め所に向かった。きっとこれから聖と吉野は寝ずに作戦を緻密にさせるのだろう。けれどこれ以上口を出したらいけない気がした。





-続-

ドンパチするぜぇ!