詰め所の地下などに来る機会は相当少ない。年末の大掃除の時とか、鼠退治のときとかそのくらいしか思い浮かばない。もともと地下牢に入る人間も少ない国なので今まで使用された例も少ないのだ。
 東関に赴いてから数日後、惣太は聖について石段を降りながら辺りを見回して目を眇めた。じめじめした空気と時折聞こえてくるぼそぼそと囁きあう声。そして、壁に反射した呻き声。すべてがお化け屋敷のような非現実性を持って惣太を出迎えてくれた。無意識に前を行く聖の服を掴んで降りていく。時折聖が胡乱気な目を向けてくるが、惣太はあえて気づかないふりをした。怖いものは怖いのだ。


「師範、お疲れ様です」


 階段を下りきると、見張りの兵がバッと頭を下げた。蝋燭でぼんやりと照らされた空間だ。まるで目に見えない何かが済んでいるような気がして惣太は背筋を震わせた。こんな時ばっかり自分で、鉄五郎が羨ましい。彼は今、吉野について竜田山の復旧活動だ。作戦とはいえ行政上部に無許可で吹っ飛ばしたので、ばれる前に直そうという魂胆だ。
 ぼんやりとした明りのさらに向こうに暗い空間が広がっている。鉄格子を隔てた向こうからは呻き声にも似た声と荒い息遣いが断続的に聞こえてくる。それを聖が何も言わずに見やると、兵が恐縮するように体を縮こまらせた。


「も、申し訳ございません!先ほど眠ってしまったので……」

「じゃあ起こせば?」


 何の躊躇いも無くそう言って、聖は牢の鍵を開けて入った。明りを持っている惣太も嫌々ながら続き、牢内を照らした。鎖につながれた男が、漸く足がつく位置に固定されていた。つい先日まで東関長として栄華を極めていた男が、服は着ているというよりもかけられていると言ったような状態で、髪もひげもぼさぼさな牢に繋がれているのだ。惣太自身今までここで何が行われていたのか想像でしか理解していなかったけれど、彼のむき出しの体には無数の傷跡が未だ痛々しい色のまま浮かんでいる。全身に血が滲んでいた。
 兵が躊躇いながらも水を男にかけると、彼は呻き声を上げて僅かに顔を上げた。それを見ながら聖がその場にしゃがみ込み、男を見上げる。


「どーも、おっさん」

「…ぅ、あ……」

「アンタの可愛い兵は今鬼の副将と一緒に地獄の植林ツアー中だ」

「あ、あ……」

「んで、あんたは俺と」


 聖が浮かべたのは、蟲惑的な笑みだった。女性が見たら腰砕けになってしまうような笑み。けれどこの場では狂気しか浮かべず、惣太は背筋を冷やして数歩後ずさった。カシャンとぶつかった鉄格子が服の上からだと言うのに背筋を冷やした。
 この顔を、惣太は知っている。もう三年も前のことだ。いつもどこか違うものを求めながら目の前のものが気に入らないのだとイラついていた。何にも興味なくて、いつだって野生の狼のような顔をしていた。今のこの表情と変らない、餓えた顔だった。あの時もきっと今も、聖が守るのは女性は殴らない。それだけだろう。


「単刀直入に訊くけど、若垣と関係あるよな?」

「………」

「あっそ。黙秘な」


 今の聖の問は、みんなの希望だ。東関が若垣と繋がりがあればそのまま全てが繋がり話は終わる。けれど関係ないとすれば、別の捜査もしなければならないのだ。聖にとってそれは面倒くさいことなのだろう、拷問染みた手で彼の口を割ろうとする。けれどこれに惣太は口を出せなかった。出す権利が、ないと思った。
 聖はポケットから鍵の束をひっぱりだした。借りてきた迎賓館の束だ。ここが終わったら、東関長の娘の所にも行く予定になっているので持ち歩いている。聖はそれから一本の鍵を探し当てると翳して見せた。銀のそれが、蝋燭の光を受けて鈍く反射する。


「これ、迎賓館の鍵。今持ってるのは俺だけ」

「……あ、あの子に…何を……」

「どうせ臼木のお偉いさんに差し出すつもりだったんだろ?先に味見させろよ」

「や、やめてくれ……!」

「俺みたいな男に抱かれるなんて幸せだろ?」


 クックッとのどで笑いながら、聖は鍵をポケットに仕舞うとおもむろに立ち上がった。煙草を引っ張り出して口に銜えながら一歩彼に歩み寄った。火を点けてもう一歩。紫煙を吸い込みながら彼の耳元に唇を寄せ、その位置で吐き出す。彼が咳き込むのもお構いなしに聖はにやにや笑って彼の傷を指でなでた。


「吐いちまえよ。……なんだったら熱いの、感じさせてやろうか?」


 囁くほどのこの声に、落ちない女なんていないだろう。それだけ蟲惑的で逆に恐怖を煽られる。以前聖の声を、聞いているだけで孕みそうだと称したのは誰だっただろうか。ぼんやりと思いながら、惣太は思わず目を逸らしてぎゅっと瞑った。聖が煙草を彼の心臓の上に押し付けたのだ。鼓膜を劈くような悲鳴に耳を塞ぎかけて、けれどそれはどうにか踏みとどまった。ゆっくりと目を上げると、聖が奇麗な顔で微笑んでいる。


「悪い悪い、熱かったろ?今、冷やしてやるよ」


 そう言って聖は笑い、兵に水の入ったバケツを持ってこさせた。部屋の隅の白い粉も持ってこさせ、躊躇いも無くそれをザラザラと水に溶かす。白い粉は塩だ。それを平気な顔をして手で水に溶く。聖の手もまだ傷が治っていないはずなのに涼しい表情で塩水を掬うと、彼の頭からゆっくりと垂らした。


「ぃ、ぎぁぁぁぁ!」

「綺麗にしてやってんだから、もうちっと色っぽい声出せよ」


 バケツ一杯の水を浴びるころには、男は力尽きたように呻き声すらも漏らさなくなっていた。聖が詰まらなそうに彼の腹を蹴るので、思わず惣太は聖の袖を引いた。けれど向けられた不機嫌な顔に何も言えずに小刻みに首を振って手を離した。


「いい加減吐かねぇと、俺欲情するかも」


 一瞬聖の言葉の意味を取りかねて惣太は固まったが、すぐに彼の娘に対する言葉だと理解した。聖は知っているはずなのに、あえて話させる。彼は自分の娘を臼木の幹部に差し出して交流を持とうとしていたのだと押収した文で分かっているのだ。半分以上分かっていながら分かっていないふりをする。とても質が悪いけれど、もしかしたら軍人として当たり前のことなのかもしれない。けれど惣太は、そこまで非道になりきれない。中途半端だ。


「……若垣、とは関係…ない」

「英子様とも関係ない、と」

「臼木と…手を結んで……領主の座、そしてこの…国を……」

「………あっそ。それだけ聞けりゃ十分だ」


 十分なほどの反逆罪だ。領主を裏切るどころか隣国と手を取って国を滅ぼそうとするなどと。その思想にどっぷり浸かった兵の再教育は吉野に任せてあるからいいとして、問題がもう一つ在る。聖は銜えていた煙草を吐き捨てると、ポケットに手を突っ込んで牢を出た。惣太が慌てて煙草を揉み消して後を追う。薄暗いので足元を照らしながら、イラついている聖が少しでも落ち着くようにと願うだけだった。










 聖はそのまま惣太を伴って迎賓館まで足を伸ばした。他に場所もなくあの娘を置いたので、迎賓館の二階の一番端の部屋だ。聖が二階に上がると、瀬能と光定が立っていた。険しい顔と不安そうな顔を捉え、聖が一瞬固まったのを惣太は見逃さなかった。


「何してんですか、こんなとこで」

「お前が鍵を持って行ったからここで待っていたんだろうが」


 見張りの兵もいるが本当に立っているだけで、役に立ってはいない。聖は舌打ちでも漏らしたくなりながら乱暴に鍵を開けた。この間使ったばかりなので埃などはないがどうも空気が篭っている。惣太はまず部屋に入ると窓を全て開け放った。
 部屋に置かれたベッドでは少女がぼんやりと眠っていて、聖は瀬能を彼女から離れた所に座らせると自分はベッドに腰掛けて煙草を机で圧し消した。


「莫迦者、机を直せよ」

「割りましたよ、あのオッサン」


 光定に厳しい目で見られて、聖は思わず微笑んで少女の頬についた涙の筋をそっと指の先で拭った。本当にこの少女を抱こうと思っていたんじゃない。ただ、男親にはもっとも効果のある方法だったからそう言っただけだ。けれど惣太はそうと分かっていても聖が何かしでかすんじゃないかと不安でしょうがなかった。


「そうか。お前はどうするつもりだ?」

「あのオッサンのことですか?英子様のことですか?」

「どっちもだ」


 光定の言葉に聖は笑って足を組んだ。惣太は窓のところでただ佇んでいることしかできないけれど、ふと目をやった瀬能が深く俯いていることには気づいた。きっと彼もこの状況に戸惑っているのだろう、まだ若いのだから当然だ。


「あのオッサンなら別にもう殺しちゃってもいいんじゃないですか?」

「その娘は」

「売り払うなり何なりと」

「あ、あの……」


 聖が興味なさそうに言ったとき、黙っていた瀬能が顔を上げておずおずと口を開いた。聖も光定も瀬能がいても口を出さないと思っていたようで、僅かに驚いている。惣太だけがただ黙って瀬能を真っ直ぐに見ていた。
 瀬能は二人に見られて少し怯えたように顎を引いたが、すやすやと薬で眠る少女をみてぐっと顔を上げた。自分と同じくらいか少し幼い少女を物のように扱うのが許せないのか、目にはうっすら涙が浮かんでいる。


「下働きでは駄目なのか?彼女に罪はないだろう?」


 瀬能の言葉に聖の顔が僅かに強張った。それを目聡く見つけて惣太も顔を歪める。角倉聖という男は誰よりも優しいから、本当はそうしたいのだろう。年端も行かぬ少女だからこそ、聖はあえてそういう態度を取ったのだと惣太は分かるから、聖を守る言葉すら口に出来なかった。自分たちの大将はいつだって、周りの代わりに己を傷つける。


「これが父の仇とでも貴方を襲ってきたらどうなりますか。その前に捨てるべきです」

「そうですね、貴方に危害を加える前にどうにかしないと」

「だが、そうと決まった訳では……」

「じゃあこうしましょう。彼女を貴方の房事の相手にしたら?」


 イラつきを募らせた声音で聖が奇麗な笑顔でそう言って、煙草を銜えた。相当イラついているのだろう、指がリズムを刻んでいる。瀬能は聖の言葉に頬を染めて固まっていて、聖の不用意な発言に慣れている惣太ですら大きく目を見開いて口を開閉させた。房事とは、夜に男女が交わる行為を指す。大人な聖には何でもないことだっただろうが、純粋培養の瀬能もお年頃な惣太ですら言葉が浮かんでこない。


「莫迦者。暗殺の可能性も増えるだろうが」

「それまでに調教しちゃえばいいじゃないですか」

「瀬能様にこんな下卑た女の相手をさせるつもりか」

「俺、この歳の女って苦手なんで嫌ですよ」

「誰もお前にやらせるとは言っておらん」


 大人たちの言葉が耳を素通りしていくようだ。惣太は聖の銜えた煙草の先をぼんやりと見つめながら僅かに顔を赤くした。惣太だってお年頃で閨事には興味があるけれど、はっきりとそれを言葉で聞かされると恥ずかしい。ならば純粋培養の瀬能は更に羞恥を煽られるだろう。そう思って瀬能を見ると、顔を真っ赤にして俯いていた。きっと彼は、汚れたことには向いていないのだ。


「んじゃこうしましょ。この娘は保留。あのオッサンは使い道がないので潔く公開処刑」

「こ、殺したらダメだ!」

「何でですか?」

「人を殺したら、ダメだ……」


 それだけ言って俯いた瀬能に聖は言葉を見つけられずに紫煙を吐き出した。短くなった煙草をもう一度机に押し付けて焦げ痕を作って、聖は「お任せします」と笑って立ち上がった。部屋を出て行こうと鍵を置くので、惣太も慌ててその後を追う。


「おい、もういいのか?」

「勝手にしてください。ここからは俺じゃなくってそっちの仕事」


 聖に続いて光定と瀬能に軽く頭を下げて外に出ると、聖が妙な顔をしていた。泣きそうな顔で笑っているようで、何かを楽しんでいるようで。惣太には表現することが出来ない。
 ただ黙って聖の後ろを歩いていると、不意に頭をかき回された。驚いて顔を上げると、聖が無理矢理に笑っていた。その顔になんだか胸がキュッと締め付けられた気がして、惣太は慌てて逃げるように見せかけて聖に抱きついた。


「やめてくださいよ、聖さん」

「黙ってんなよ、らしくねぇ」


 グシャグシャと髪をかき回す手がとても温かかったから、惣太は泣きたくなった。どうしてこの人はいつも、ここにいるはずなのにどこか違う所を見ているような気にさせるのだろう。こうして触れることが、酷く惣太を安心させた。













 聖と惣太が執務室に戻ると、吉野が帰ってきていた。テーブルで優雅にお茶を飲みながら本を読んでいるものだから、一瞬時軸が分からなくなってしまったが吉野が東に行ってまだ二日のはずだ。それで帰ってくるとは、どれだけ頑張って植林したんだろうか。
 聖と惣太に気づいて、吉野は本から顔を上げてにっこりと微笑んだ。彼の向こうには鉄五郎が眠っている。


「おかえりなさい。惣太君、ご苦労様でした」

「師範代もおかえりなさい」

「つーかお前、帰ってくんの早くねぇ?」


 至極最もな質問をした聖を無視して、吉野はにこにこ笑って本を閉じた。とにかく、と惣太が聖の背を押して向かいのソファに座ると聖は渋々ながらもどかっと腰を下ろして足を組む。心なしか嬉しそうにポケットから煙草を引っ張り出すので、慌てて惣太が立ち上がって灰皿を聖の前に置いた。ついでにインスタントのコーヒーを聖用に淹れ、自分の分のお茶と吉野のおかわりの紅茶を淹れる。


「あの男、どうなりました?」

「あぁ、吐いたけど碌な情報はなかったな」

「そうですか。あのお嬢さんは?」

「まだ保留。お前の方は?」


 聞きながら惣太はお茶を出して聖の横に改めて座った。吉野の目はさっきまで冷たい色を浮かべていたのに、すぐにいつものように柔らかい色だけを浮かべている。吉野は聖が紫煙を吐いて灰皿に先端を落すのをお茶を啜って待って、ゆっくりと口を開いた。


「温泉を発掘しました」

「は?」

「温泉……ですか?」

「温泉です。ねぇ、鉄五郎君」


 吉野がにこにこと声を掛けるけれど、鉄五郎は相当疲れているらしく深く眠っている。吉野は東に置いた兵の再教育を兼ねて吹っ飛ばした竜田山の植林に行っていたのではなかっただろうか。何があったら温泉なんて物を見つけられるのか。よく鉄五郎をみれば、服のあちこちにヘドロが付着していた。吉野も普段は軍服なのに珍しく着物を袖を通している。というか、奥に置いてある聖の着物だ。


「いえね、二人一組で重りつけて湖に沈めたんです。そしたら温泉がビュワーって」

「何で湖なんかに沈めてんですか!?」

「浮いてこないようにですよ?」

「湖に入る必要性の話をしてるんですよ!?」

「待った。順を追って説明してくれ」


 なんで笑顔でこの人言っちゃってるんだろう。惣太が混乱気味に声を荒げると、聖は僅かに米神をひきつらせながら静かに言った。神経を落ち着けるように煙草を吹かしているが、効果は薄いようだ。
 吉野の話では、植林の為の切り出している際に一人が誤って枝を湖に落としてしまったそうだ。それを探すために、重りをつけて湖に入るように指示をした。そして探している間東に残した南北の兵が悪戯で穴掘り大会を始めてしまい、温泉を掘り当てたらしい。


「……師範代の鬼畜……」

「惣太君、何か言いました?」

「いいえ、何も!」

「んで、植林は?」

「今やってますよ、温泉建設と平行して」


 平行してって温泉作ってるのかよ。惣太はつっこもうかと思ったけれどやめた。これ以上何か言っても命を縮めるだけだ。吉野が「みんなで温泉行きましょうね」と笑顔で言ってくれたので、ほんの少しだけ楽しみにして頷いた。


「では、僕はちょっと出てきますね。聖さん、マミとアミが淋しがってますから行ってあげたらどうですか?」


 にっこりと笑うのでどこに行くか聞きそびれ、聖も惣太も黙っていた。それだけ温泉の事実が大きかったのだ。吉野の姿が見えなくなってから漸く、惣太はどうして吉野は聖の女性関係には煩いくせにマミとアミには甘いのか疑問に思った。





-続-

……虞美人の目的って何だ。