東から帰って来た途端雨が降り続き、十日ほど続いた雨はやっと小康状態なのか雲を薄くした。朝、何となくシンとしている気がして視線を窓に巡らせると、線のように降り続いていた雨が止んでいて吉野は僅かに微笑んだ。
手元の数通の書簡をゆっくりと開いてもう一度文面を確認して、ふっと安堵の息を吐き出す。聖がいない間、吉野は通常業務と平行してあることを行っていた。これは聖はもちろん惣太にも鉄五郎にも知られていない。知っているのは小田原秋菜だけ。そして、知られるわけにもいかなかった。秘密裏に進めてきた計画は上手くいったようで、漸く一息つける。吉野は書簡を畳むと自ら調べた資料と共に自身の机に仕舞いこんだ。そのときパタパタと廊下を走ってくる音が二人分響き、吉野はお茶を淹れるために立ち上がる。
「師範代、おはようございます」
「はい、おはようございます。惣太君、鉄五郎君」
「師範、今日もいないんですか?」
「そろそろ帰ってくる頃だと思いますよ。いい加減資金も底を尽きる頃でしょうしね」
吉野がにっこりと笑うと、惣太も鉄五郎も納得していないような顔をお互いに見合わせた。吉野はいつも聖が花街に行っているといい顔をしないのに今日は笑っているから不思議なのだろう。吉野とて快く送り出したわけではない。けれどなんとなく聖が落ち込んでいる様子だったので多めに見てしまった。そちらの方が吉野にも都合が良かったし、聖にははやく立ち直ってもらいたい。どうせ、東関の娘のことで悩んでいるのだから。
「……師範代って、いつも忙しそうですよね」
「そうですか?」
「師範は結構道場にいるけど、師範代はずっとこっちでなにかやってるじゃないですか」
「どちらかがここにいないといけないですからね」
ぽんと発された鉄五郎の言葉に吉野は曖昧に笑うしかなかった。確かに、道場での指南も仕事の一つだ。けれどこちらは主に聖がこなしていて、吉野は執務室に篭っていることの方が多い。性格上指南が向いていないこともあるけれど、それ以上に吉野には聖も知らない仕事がたくさんあった。いや、秘密裏にやっていることは分かっているのかもしれない。けれど彼は何も言わないから、吉野も何も言わない。
「それに、汚れ役は僕の仕事ですから」
「……え?」
「さ、二人も暇なら道場へどうぞ?聖さんが戻ってきたら道場に行かせますよ」
吉野はさっさと惣太と鉄五郎を追い出して、笑った。しぶしぶといった体で出て行く彼らは納得していないようで、けれどこれ以上に説明は必要ない。確かに兵たちから吉野は少し敬遠されている。聖が人を惹きつける天性のものを持っているのもあるだろうけれど、吉野はそれでいいと思っている。聖は、誰からも信頼されて皆の中心で笑っていなければならない。汚れるなら、吉野が。昔から染みに慣れてきたことだから苦にならない。汚れ役は、自分の方なのだ。
「さて、そろそろいいですかね」
「さしもの副将でも、可愛い子たちには勝てないかい?」
二つ分の足音が消えたのを確認して吉野が言うと、潜んでいた小田原が姿を現した。勝手にお茶を入れ始めているので放っておくことにして、吉野は机から書簡を取り出して丁寧にテーブルに並べた。その間に小田原が二人分のお茶を持ってソファに腰を下ろしている。
「まさか。僕がいつ、彼らが大事だと言いました?」
「おや、これはこれは。怖い副将もいたものだ」
「いいんですよ。僕が怖くなくて他に誰がいるんですか」
「彼らは、君を慕っているのにね」
小田原の言葉に吉野はただ微笑んだだけで答えなかった。その真意を取りかねて小田原がお茶を啜っていると、吉野がテキパキと書簡の説明をし始める。それを目を細めて聞きながら、小田原は彼もまた脆い硝子を握っているのだと思った。
昼過ぎ、漸く聖は帰ってきた。真っ直ぐ道場に顔を出したのか、着物姿のままだった。道場には胴着か袴か軍服だという暗黙の了解があったため、聖の私服の着物姿はその容姿と相俟って一際目を惹いた。不機嫌に銜え煙草のまま入ってきた師範に、道場で各々修練していた者たちが少し驚いたように目を見張った。
「東関から来たやつら、ちょい木刀持って並べ」
ぽつりと聖が呟いたのを聞いた兵が大声でそれを伝えて、東関出身の者を構わず中心に押し出すように力に物を言わせて突き出した。東関の反乱があった後、軍の編成が行われた。東関に派遣されていた兵は全て中央に戻り、代わりに中央の兵が東関へ行った。指揮は先の折にも活躍してくれた左内に任せてある。東の兵と中央の兵が一対一の割合になるように配置している為、道場いいる半数が東関の兵だった。
よろけるようにして出てきた兵を半眼で見ながら、聖はすっと木刀を取って真ん中に歩み出た。一体何を始めるのかと兵たちは期待半分に見ているが、惣太だけが聖の真意を見た。否、真意ではないかもしれない。けれどそれにごく近いものであったのは間違いないだろう。
「どっからでもいい、俺に勝てたらそっくりまとめて東に返してやるよ」
「師範!?」
「一斉に掛かってきていいんだぜ?」
惣太のとめる声も聞かず、聖は口の端を引き上げて挑発する。元々聖に良い感情を抱いていない東関の兵たちはそれを挑発と分かっていて分からないふりをし、聖に踊りかかった。竜田の道場は広い。今だって道場には百人前後の人間がいた。その中で東関の兵は五十を超えていただろう。四方から掛かってくる彼らを悪魔のような表情で倒していく聖は、あの時の顔だった。
惣太が聖と出会った頃、彼は何も信用していない顔をしていた。それでいて狂犬のような何かを求めているような瞳が酷く渇望していて。今の顔も、まるであの時のようだった。思わず助太刀に行きたくて、惣太は木刀を掴むと駆け出した。けれどその前に腕を掴まれたたらを踏む。反射的に腕を取った鉄五郎をにらみつけた。
「何すんだよ!?」
「今行ったらお前が危ないだろ!」
「俺はいいんだよ!聖さん一人で……!」
あの時の聖はずっと独りだった。彼は社交的に見えて絶対に自分の内側に踏み込ませてくれなかった。絶対にどこかで他人を拒絶していた。今も、きっと人を拒絶している。だから惣太は彼に言わなければならない。仲間なのだと、好きなんだと伝えなければここにいる意味はない。
けれど惣太が言う前に、聖の舌打ちと木刀が殴った甲高い音が響いてきた。それに反応して見ると、聖を中央に十数人の兵士が倒れていた。そして今、新たに兵士が崩れている。あれは、長年聖に仕えている兵のはずだが。
「邪魔すんじゃねぇよ。テメェから刈んぞ」
もう刈ってるとか仲間なのにとか、そんなツッコミをさせない声音だった。ドスの効いた低い声に思わず背筋を震わせ、惣太は自分が行かなくて良かったと心底思った。けれど同時に、聖はそれだけ何かを考えている。どうにもならないことに悩んで考えて、帰ってきて暴れて。だから、花街に居続けたのだろう。
バタバタと倒れていく東の兵をぼんやりと見ながら、惣太は初めて聖が気に病んでいたことに気づいた。東関を攻めたことを後悔している訳ではないだろう。結果的にいい判断だったし、必要なことだった。けれど、東関長の娘にとってはどうだっただろうか。女が一人、脅かされている。自分には何の罪もないのに。きっとそれは、聖をも傷つけている。彼は、優しいから。
「おやおや、やってますね」
不意に聞こえた声に惣太はゆっくりと顔を巡らせた。珍しく吉野が道場に顔を出したことに驚いたけれど、吉野は道場に立つことはしないがここで見ていることはたまにある。今執務室はどうしているのだろうか、そんなことが気になった。
惣太は小走りに吉野の元に駆けて行き、東関の兵が全滅させられそうになっている経緯を話した。もちろん惣太の知らないことはいっぱいある。そこらへんを全て省いて説明したのだが、吉野はさも面白そうに笑った。
「困った大将ですね。まぁ、東関兵たちにはキツイ灸も必要ですよ」
「師範代は、どうしてここに?」
「そろそろ帰ってきてもらわないと書類の方が溜まってますので」
その時、道場全体から歓声が沸いた。一体何事かと思って見ると、聖が東関兵全てを地に這い蹲らせていた。しかも本人は着流し姿で無傷だ。馬鹿にするような表情で木刀を近くの兵に押し付けてゆったりとこちらに歩いてくるので、惣太は慌ててタオルを聖に渡しに走った。タオルを渡して煙草を渡し、聖が銜えたところで火を差し出す。それを見ながら吉野が目を眇めたことに惣太は気づかなかった。
「聖さん、おかえりなさい」
「……おー」
「随分荒れているようで、花街は意味がありましたか?」
「別に」
聖が苦い顔で壁に背を預ける。吉野はそれを見て僅かに笑い、聖の隣の壁に背を預けた。聖の顔は憮然としているが、決して吉野の策略がばれた訳ではないだろう。怒りよりも焦燥が窺える顔に安堵しつつ、吉野はできるだけ明るい声で告げた。
「総督殿から伝言が。明日一時帰宅せよとのことです」
「………」
「いつまで拗ねてるつもりですか?」
「拗ねてねぇよ」
吉野が溜め息混じりに言うと、聖が不機嫌な声で答えた。実際拗ねている訳ではないだろう。ただ、色々なことにいらついている。それはこの現状にかもしれないし、自分にというところが一番大きいだろう。聖はいつだって誰も責めずに自分を責めている。それは初めて会ったときから変わっていない。けれど沈黙を貫くような男ではない。吉野は軽く腕を組むと目を伏せて微笑した。
「何をそんなに気に病むんですか」
「……あの娘、これからどうなんのかな」
やはりそれか、と吉野は沈黙を貫いた。吉野は優しくないから誰に対しても非情になれる。けれど聖は優しい。特に女性に対しては幼い頃育った環境のせいもあるのだろうがとても優しい。それは優しすぎるほどに。だからいくら敵の娘だからと言って非情になれない。敵には容赦ないくせに、それが女ならば躊躇い、己を傷つける。だからこそ吉野は汚れ役にならなければならないしそれでいい。この不条理な優しさが、彼が彼たらしめる所以でもある。
「敵として見なきゃいけねぇのは分かってる。でもあの娘は悪くない。全部親父のほうが仕組んだことで罪はない。なのに、どうしてあの娘が責めを負うんだ……」
「それを貴方が気に病むことはないでしょう?」
「俺ならどうにかしてやれる。どうにかしてやれたんだ。……でも、しなかった」
「僕がさせませんでした。それでもですか」
「それでもだ。どうすればいいかも分かんねぇ」
最後にぽつりと吐き出された弱音のような言葉は聞かなかったことにして、吉野は少しだけ顔を上げた。惣太と鉄五郎が他の兵と一緒になって伸びた東関兵を運んでいる所が眼に入る。きっと聖には今の光景が平和すぎていらつかせるのだろう。どうすればいいか分からないのに時は進んでいくから、手を出しこまねいている自分に吐き気がするほどに。
ずるずるとその場にしゃがみこんで俯いた聖の頭を近くの竹刀で軽く小突き、それでも聖が顔を上げないことに吉野は僅かに目を眇める。
「問題の父親の方ですけどね、先日処刑されましたよ」
「………」
「瀬能様は大層気に病んでいるようです」
「……あの娘は?」
「彼女の目の前で殺させました」
それを聞いて少しだけ聖の肩が落ちた。安堵のためだろう、彼はとても優しいから。何が悪いと分からず陵辱されるより、罪の意識を受け付けて甘んじて陵辱されるのならばまだ楽だろう。それは彼女には過酷かもしれないけれど考えられる最善の策だ。
「瀬能様を慰めに行かないんですか?」
「……行く」
長くなった煙草の灰を携帯灰皿に落としてタオルを近くの兵に渡し、聖はゆっくりと立ち上がって体を伸ばした。気持ちを切り替えようとしているのが手に取るように分かって吉野は僅かに目を細める。これで少しは聖も気を取り直してくれるだろうか。
いつもは文句を言う吉野も、今日ばかりは聖が恋をしていてくれたことに感謝せざるを得なかった。
一度執務室に戻って着替え、聖は瀬能の執務室に向かった。警備をしていた兵が久しぶりに見た大将に少し驚き、目元を染めて深く礼をした。軽く手を上げて挨拶を返し、聖はノックして返事の前に入った。この時間なら執務中のはずだ。
中に入ると、案の定瀬能が机に向かっていた。けれどぼんやりして聖に気づいたのかも分からない。そうとう答えているのだろう、瀬能が一番あの男の処刑に反対していた。
「瀬能」
「……え!?聖!」
「驚きすぎ。何だ、マジで気づいてなかったのか」
軽く笑って、聖は瀬能の机に軽く腰掛けた。瀬能は驚きに目を軽く見開き、けれどすぐに目を伏せて悲しそうに笑った。その顔に胸を掴まれたように痛み、思わず聖は形にしようとしていた言葉を飲み込んだ。処刑は大抵の場合が打ち首だ。それを断行するのは軍部であり、観客は各長官と領主。瀬能は初めて目の当たりにしたのだろう、あれを見て気分を害さない人間はそういない。
「気にしてる?」
「もっと他に方法があったはずだ」
「何があったと思う。話し合い?罰金?」
「それは……」
泣きそうな瀬能の声に掛けてしまった詰問調の自身の言葉に聖は舌打ちを漏らしそうになり、どうにか抑えてポケットから煙草を引っ張り出した。火を点けながら掛けるべき言葉を模索する。処刑は仕様がないのだ。見せしめであり罰なのだし、腐った人間はどんな言葉を言った所で性根は直らない。一度反逆を覚えたら、忠実になんて生きられない。
けれどそれは瀬能も分かっているだろう。だから誰にも弱音を吐けないでいる。聖だから漏らした本音。それが聖には嬉しかった。言葉の代わりにクシャリと瀬能の頭を撫でてやると、瀬能は顔を上げてぎこちなく微笑んだ。
「すまない」
「何が?」
「私が弱音を吐いたらいけないのに……」
「いいよ、別に。俺にだけ漏らしてくれれば」
紫煙を吐き出しながら聖も奇麗に笑った。瀬能のぎこちない笑みはまだ完全に納得していないからだろう。けれど笑いかけてくれたのは瀬能が聖に完全に心を許しているから。それが嬉しかった。だから納得なんてしなくても構わない。
「……聖は、優しいな」
「ん?」
「聖が一番辛そうな顔をしてる」
「冗談」
「冗談じゃない、本当だ。泣きたいときは泣いた方がいいんだぞ」
「泣くのは俺じゃなくて瀬能だろ。泣くなら俺の胸にどうぞ?」
聖が笑って手を広げて見せると、瀬能の顔が初めて歪んだ。父親が死んだときも決して涙は見せなかったのに、今簡単に彼は聖の胸に飛び込んでいた。半分聖が無理矢理抱き寄せただけかもしれない。けれど瀬能は素直に聖に体を預けた。無防備なのか信頼しているのかはかりかねるが、聖はただ瀬能を抱きしめて紫煙を深く吐き出した。
「……護るよ」
思わず呟いた言葉に瀬能は頷くように嗚咽を漏らした。子供を宥めるように聖は瀬能の背に腕を回し軽く撫でてやると、瀬能は背を震わせて聖のシャツをぎゅっと掴んだ。このまま眠ってしまうまで撫でていてやろうと、高くなった瀬能の体温に目を細めた。
-続-
聖さん駄々っ子じゃんか