現実逃避にも限度があるということを改めて思い知った。瀬能の部屋にいたらやって来た兵たちに執務室に連れ戻され、ここ数日夜も仕事をしていた吉野の代わりに夜番を引き受けできるだけ時間を忘れるようにして読み止しにしていた本を紐解いてみた。いつの間にか眠ってしまったようで、瞼の裏が明るくて目を覚ますと太陽がしっかり昇っていた。吉野は詰所で寝ているので当分起きてこないはずだが、惣太達は一度ここに来たんじゃないだろうか。脳を覚醒させようと煙草に手を伸ばしながらソファに横たえていた身体を起こしたら、掛かっていた毛布がずり落ちた。自分でかけた覚えはないから、彼らが来たのだろう。よく働く仔犬たちだ。
「……十時過ぎか」
つい癖で時計を確認してから、げんなりした。「明日帰って来い」と聞いたのは昨日のことだから、明日というのは今日のこと。極力帰りたくないので夕方にここを出ようと思っているが、それまでに迎えが来てしまったら一貫の終わりだ。気に病んでいてもしょうがないので欠伸を噛み殺しながら大きく伸びをして目を覚ます。天気がいいから、久しぶりに外に見回りにでも行きたい。
考えながらコーヒーを淹れるためにやかんに水を入れて火にかけていると、足早な靴が廊下を叩く音が聞こえた。
「おはようございます」
「何だよ、もう起きたのか?」
「もうって十時ですよ。遅いくらいです」
「……そーですね」
反論してもだらしないだとか言われるのだから黙って同意して、聖は煙草の灰を灰皿に落す。やかんをぼんやりと見つめながら、横でさっさと仕事をする準備をしている吉野の気配を追うけれど、何となくいつもと違う感じがした。言葉では言い表しにくいけれど、何となく違和感を感じる。
沸いたことを主張するように湯気を出し始めたやかんの火を止めて、聖はコーヒーを淹れながら一つ提案してみる。
「なぁ、飯食った?」
「お腹減ったんですか?」
「何か食いたくなった。お前何か食いたいモンある?」
「いえ、別に」
「あっそ。炊き出しでもすっか」
「はい?」
さらりと行って、聖は腰を浮かせた。まだ長い煙草を灰皿に押し付けて火を消し、数口しか呑んでいないコーヒーを机の上に置いてかんざしで髪を結い上げて出て行こうとする。彼が何を考えているか分からないけれど、思いつきの馬鹿みたいな行動はやめさせて仕事をさせなければならない。吉野が後を追うと、聖は満足そうに微笑んだ。けれどそれだけで何も言わない。
「炊き出しって、何考えてるんですか」
「腹が減った。あと最近雰囲気が悪い」
「だからって……」
どこのとは言わないけれど、確かに先日の東関の処刑以降貴族の雰囲気が重苦しく、それに呼応したのか城下の活気も失われている。この雰囲気を払拭しなければ、じきに犯罪が手に余るほどに増えることになるだろう。これまでの教育のおかげか兵たちの士気は下がっていないけれど、詰所の汚れ方は以前よりも酷くなっている。
聖はまずとなりの法部に声を掛けて、炊き出しをすることを伝えた。ついでに他の部署の人間にも声を掛けてくれるように頼み、エレベータで下に下りる。炊き出しの場所は、詰所と館の隣、道場の横だ。詰所の入り口で丁度いた兵士に炊き出しの準備をさせ、更に寝ている兵士をたたき起こして城下町に伝令させた。それが済むと、大量の兵と共に炊き出しをする場で腕まくりをした。
「師範!何作るんですか!?」
「ごった煮。何だ、お前等今来たのかよ」
「俺たち、見回りだったんです!」
すっ飛んできたのだろう肩で息をしている惣太達を見て聖は軽く笑った。惣太達にも手伝いを命じ、聖は手馴れた様子で包丁を握って肉を叩いている。惣太も鉄五郎も包丁を握るが、その手は危なっかしかった。吉野は聖の横に立っているものの、手伝う素振りを微塵も見せない。けれど聖は文句もこぼさず低い声で囁いた。
「……悪いな、親友」
「悪くないですよ、親友」
お決まりの言葉を交わして、しばし黙り込む。聖のこの馬鹿げた行為は照れ隠しなのだろう、長期にわたって不在だったことを謝り、仕事を任せきりにしてしまったことを労うための炊き出しだ。吉野は聖の隣で火の様子を見ながら、僅かに微笑んだ。それだけで通じ合えるからこそ、ここまで付いてきたのだ。
聖の横顔は常と変わらず少し楽しそうに包丁で肉を一口サイズに切り分け、野菜を手早く均等に切っている。本当に貴族のお坊ちゃんかこいつは、と突っ込みたくなるけれどそれは口に出さない。それは誰よりも分かっている、聖は貴族ではない。ただの聖だ。
「ところで、英子様の件はどうなった?」
「進展を見せません。今、岩浅と芳賀の戦の方から調べてます」
「……芳賀が絡んでくると思うか?」
「思えませんけど、きっかけではあるでしょうね」
一瞬一定のリズムを保っていた聖の手が止まり、吉野は眉を潜めた。岩浅が企んだ領主の誘拐。それのきっかけになったのが芳賀との戦だったのではないかと思う。ただの勘だが、時期もぴったりと一致する。それまでお互いに手を出さずに静観してたのにいきなり手を出してくるにはそれしか考えられない。けれどならばどうして、瀬能だったのだろうか。その辺に疑問が残る。
「話は変わりますけど、そろそろ『夏だ、地獄の戦闘演習』に入る時期ですから。考えて置いてくださいね」
「……もうそんな時期か」
「えぇ。もう梅雨に入りますからね」
見上げた空は薄く光が掛かっていたけれど、どんよりとした雲が多い尽くすのは時間の問題だった。今日明日ではなくても、数日後には雨が降り出すだろう。長い、雨が。実際、夜には降りだしそうな思い雨雲が向こうに見えている。
何をしていなくても、何もしたくなくても時間は流れる。それを悟らせるように、雲は段々とこちらに近づいて来ていた。
昼過ぎに降り出した雨は日暮れを迎えても止む気配を見せなかった。ザーザーと降っているわけではなくしっとりと降っていることがまだ救いだろうか。夕方に差し掛かった頃業を煮やしたのか真坂が聖を無理矢理引っ張って角倉本家に放り込み、聖が気が付いた時には何故か兄の前で酒を注がれていた。
「もう梅雨に入るね」
「……雨ばかりでお体の方は大事無いですか?」
「私は大丈夫。それより、梅雨が明けると聖は二十一になる」
いつの間にか風呂にも入ったようで、着物に着替えていた。低い位置で束ねた髪がしっとりと水気を含んでいるのもそれが理由だろう。珍しいどころではなく、初めてではないなと思われる兄と正面向かっての座。肴はお互いの前の膳に用意してあるし、酒を注いでくれるのは婚約者。嫌になるほど分かりやすい説明だ。
今いるのは聖の私室でも澄春の私室でもない。玄関から入って左側にある客間だ。襖で仕切られて入るが、どうせ向こう側には布団が一組だけ用意されているのだろう。見え透いた状況にただ笑うしかなくなる。
「一晩でできるもんじゃないですよ」
「いくら俺でも」という言葉を聖は辛うじて飲み込んだ。かつてその行為で泣いた人間を目の前にしていうことではない。彼女もこの状況が分かっているのだろう、聖の傍に寄ろうとしない。澄春の隣で酌をしているが、彼はあまり嗜まないのでただいるだけになってしまっている。聖は手酌で杯に注ぎながら澄春の反応を待ってみた。
「分かっているよ、でもできない保障もない。それとも連日の花街通いで疲れているのかな」
「誰から聞いたんですか、それ」
「光定殿がね。聖、角倉の人間がそんな下等な場所に入り浸るものじゃないよ」
下等な場所と言う単語に聖は頬を引きつらせた。花街の女性を「遊女」と称するのを聖は良く思っていない。同様に花街――女性が躯を売る場所だとしても、それはとても矜持が高い場所だと思っている。貴族の吹き溜まりのような屋敷よりそちらの方が価値は高いと、単純に信じている。それに、彼女たちを下等と見なすのならば、その女に子供を生ませた男はどうなんだと目の前の彼に言ってみたくなる。
聖の心情を察したかのように澄春は笑い、「黒門の方にした方がいい」と言った。どっちでも一緒だと聖は思うけれど、あえて口に出すこともない。気分を害すのはどうせこちらなのだから、真実は知っている人間だけが知っていればいいものだ。
聖が黙って杯を空けているのを見て、澄春は微笑んで立ち上がった。多少ふらついたのは酒が入ったからだろう。支えようとした雛生の腕を制して、彼は隣の部屋の襖を開けた。思ったとおり、布団が一つだけ敷かれている。
「私は死ぬ前に、跡取を育てたいんだ」
「……分かりました、努力はします」
「逃亡しようとしても無駄だからね。念のため」
部屋の襖は開かないように細工するし外には見張りもいるんだからと笑った澄春は、その場にへたり込むようにして座ってしまった雛生の存在に気づかずに聖を隣室に押し込めると溜め息を一つ吐き出した。それからやっと彼女に気づき、「部屋にお入り」と優しい声で命令する。澄春の命令は絶対の雛生が震える体を支えるようにして部屋に滑り込むと途端に襖を閉め、部屋を出て行った。
完全な密室に閉じ込められ、聖は肩を竦めて兄の遠くなっていく足音を聞いた。狭い部屋だ、布団が部屋全体を占領しているような八畳の部屋。部屋の端で、雛生が体を震わせて縮こまっている。
「……そんな怯えないでください。何もしませんよ」
「放って置いてください」
「女性を畳みの上に置いておくわけには行かないでしょ。どうぞ、俺寝ませんから」
布団の上を指差して、聖が窓際に寄った。けれど雛生は動かない。頑固なまでに動かない彼女の心情は確かによく分かるので聖にはこれ以上何も言えない。彼女にこんなにも恐怖を与えてしまったのは自分自身なのだから、後悔しても後悔にならない。幼さゆえの過ちと呼ぶには大きすぎる代償だ。
「あの時は悪いことをしたと思ってます。でも、間違ったことではなかったんですよ」
「………」
「許せとは言いません。けど、兄上のことも考えてください」
この言葉が一番雛生には効果があるだろう。生まれたときから高貴な男の妻となることが決まっていた彼女は、澄春を心から慕っていた。けれどある日いきなり『遊女の子』の婚約者になりさがったなら誰もが彼女のように頑なになる。そして、聖は彼女の躯を無理矢理奪った。これは兄からの命令でも父からの命令でもない。ただそこに女がいたから抱いたに過ぎない。あの時の聖にとってはそれだけのことと言い切れたけれど、時を重ねてみるとあの時の過ちがどんなに大きなものだったか分かる。だから雛生の自分に対する警戒と嫌悪を分からなくはない。
「貴方は……貴方が、それを言うんですか!」
「何の為に俺がいると思いますか?跡取を残す為ですよ。まぁ、厳密に言えば俺だと角倉の種は残らないんですけどね」
澄春は子供が作れない。ならば聖が彼の子供を代わりに作ればいい。半分同じ血が流れているし、雛生は若垣の姓を得ているが実際は角倉の傍流に過ぎない。二代前でも角倉の血が混じっているから、聖と子を作ればおのずと角倉の血ができあがる。権力者の男など、女どころか人間をそれほどにしか思っていない節があると聖は思う。
「最低です!」
「だから、無理強いはしないって言ってるじゃないですか」
「……脅迫だわ……」
「脅迫でもないですよ。俺が種埋めだけして、結局兄上が自分の子として育てる。貴方は兄上の妻として子供を育てる。完璧じゃないですか」
「……嫌い、大嫌い」
とうとう顔を覆って泣き出してしまった雛生に聖は対応に困って頭をかき回した。髪を結っていたのだと思い出して解き髪を適当に撫でつけ、このまま彼女を強制的に寝かしてしまおうかと悪い思案もしてみせる。最近はちゃんと寝ているので彼女が眠ってしまうまで起きているなんて簡単なことだ。眠ってから布団に寝かせてやればいい。
雛生のすすり泣く声を聞きながらふと記憶にある女は絶対に泣かなかったことを思い出した。何年前になるだろう、四年ほどになるだろうか。まだ十六歳の頃だ。髪は今よりも僅かに長く、幼かった。家が嫌で嫌で飛び出した先で、初めて恋をした。彼女は別れの時ですら綺麗で、涙を見せてくれなかった。
「雛生さんは、兄上が好きなんですか?」
「貴方に答える義務はありません!」
あのときはただ愛しくて、愛しくて。触れると壊れてしまいそうで臆していた。今になって後悔に襲われているけれど、幸福と恐怖が紙一重に同居していた。それだけ、壊れやすい恋だった。きっとあの時ほど甘美な思いは一生できないだろう。
「兄上に抱かれたことはありますか?」
「え……?」
「婚約者のはずの女性を初めて抱いて、その女が処女じゃなかったら?兄上は何を思いますかね」
「何、ですか……?」
「淫行、とでも思いますかね。その前に俺に抱かれたと分からせればいいのに」
露見する過去の罪を消し去りたかったのかもしれない。口から言葉が勝手に漏れた。自身の思考に自重だろう、笑みが湧く。途端に頬に振動が走り、渇いた音が耳を打った。薄暗い室内を見て近くに雛生がいることとヒリヒリ痛む頬に、やっと自分が殴られたのだと悟った。結局、自己弁護の言葉なんて意味を持たない。
「最低です……!」
「知ってますよ、そんなこと」
自分が最低の人間であることくらいとっくに承知している。承知していなければ生きていられないほどの生活をしたときもあったのだから。目に涙を溜めた雛生から思わず目をそらして窓の外を見ると、しとしとと雨が落ちて着ていた。
綺麗過ぎるものから目を反らしたくなるのは、自分が汚れていることを自覚しているからだろうか。聖はただ黙って雨だれの落ちる音を聞いていた。そのままいつの間に眠ってしまったのだろう、目を覚ます頃には雨が止んでいた。
−続−
思いつきもいい加減にして欲しいです。