朝早く、聖は家を出て行政本部に戻った。朝もやが残る視界の悪い中、じっとりとした湿度に思わず眉を潜める。この時期に出歩くのはあまり好きではない。重い空に心も重くなるし何よりも湿度に苛々する。
 エレベータで二階に上がり軍部の札の覗く部屋のドアを開けて極力音を立てないようにして中に入ると、書簡を眺めていたらしい吉野が慌てた動作で何かを書き付けてある紙を引き出しに仕舞いこんだ。


「相変わらずご実家からの帰りが早いですね。おかえりなさい」

「……お前、何今の」

「何でもないですよ、ただの紙です」


 明らかに作ったと分かる吉野の笑顔に聖は「ふーん」と短く頷いた。分かりやすい嘘を吐く。あんな反応は明らかに嘘だと言っているようなものだ、あんなもの「恋文」とか言って笑っていればいいものを変なところで堅物で融通が利かない。
 無意識に不機嫌な顔をして、聖は奥の部屋に入った。扉は閉めずに着物の帯を慣れた手つきで解いていく。


「岩浅と芳賀の戦、何か出たか?」

「いいえ、まだ。戦自体は芳賀の圧勝、さすがは大国ですね」

「……岩浅と芳賀は同盟を組んでただろ」

「不干渉協定を十数年前に結んだはずです。ですが、数年前に岩浅も当主が代わりましたから」


 シャツに着替えながら聖は眉を寄せた。やはり吉野の様子がおかしい。特にどこだと指すことはできないけれどどこかに違和感がつきまとう。それの原因に当たりをつけて、聖は髪を手串で梳きながら欠伸を噛み殺す。
 竜田の西に接する芳賀と南に接する岩浅は少なからず国境が触れ合っている。けれど十数年前に貿易問題で戦が起こりかけそれを回避する為に不干渉協定が結ばれた。故に現在彼らに国交はない。お互いの国産物は全て竜田を経由して輸入されているので、竜田としても莫大な富を落としてくれるこの二つの国には注目せずにはいられない。その国が不可解な行動を起こせば自衛の為にも富のためにも警戒せざるを得ない。


「……悪いけど、ちょっと出てくっから」

「どちらへ?」

「臼木とヤっちまったから外交の方とちょっと」

「あぁ、行ってらっしゃい」


 軍服のコートを羽織り、聖はペタペタと草履のままで部屋を出た。一度吉野の方に視線だけをやるけれどにっこりと満面の笑みを浮かべられただけで、何も言えなかった。










 軍部のすぐ隣は法部になっている。この階には他に外交部もあり聖にはとても心地いい。特に法長官の佐竹は下級貴族特有の親しさがあり、暇があれば遊びに来るし遊びに行く。まだ朝は早いが今は新領主が立ち仕事に追われているだろうから仕事をしているはずだ。そうあたりをつけて聖はノックもそこそこに法部の札の出ている扉を開けた。


「佐竹いるか?」

「これは、角倉大将」


 扉を開けると法次官の歳若い男が顔を上げた。この間まで比較的ふくよかだと思った頬は数日見ない間にゲッソリこけて心なしか顔色も悪い。けれども彼はその顔に最後の力を振り絞って笑みを浮かべ、入って右手にある奥の長官室に顔を向けた。


「佐竹長官なら長官室におりますが、くれぐれも遊ばないでくださいよ」

「大変だな、お前も。今日はちゃんと仕事できてるから安心しとけ」


 その次官に安心させるように笑みを向けて、聖はノックをして長官室の扉を返事が返ってくる前に開けた。さっと体を滑り込ませて扉を閉めて長官机をみると、佐竹が突っ伏して眠っていた。どうも法官は今仕事が多いらしい。いつもならぷらぷら遊んでいる佐竹自身がこの様なのだ。けれど彼は聖の気配でか重そうに体を起こした。半眼で聖の姿を認め、何度か意識を覚醒させる為に頭をふって漸く口を開いた。


「何だ、大将か。何の用だ?」

「ちょっと休憩する気ねぇ?」

「目的は」

「芳賀と岩浅の不干渉協定について、法長官殿からご意見を賜りに」

「芳賀と岩朝の不干渉協定?」


 一度佐竹は不可思議そうに眉を寄せたが聖の何かを確信したような笑みに何かを感じ取り、お茶を運んできた次官に資料を用意させた。それから腕を組んで椅子で背筋を伸ばす。その様子を聖は書物の大量に乗った机に浅く腰掛けて腕を組んで待っている。


「資料はまだ資料室のほうにも残っているからそっちを見てくれ。今取ってくるのは裏事情ってやつだ」


 そう言って佐竹は視線を机の一点に落とした。それから記憶を辿るようにゆっくりと口を開く。
 もともと芳賀と岩浅はごく普通の国交があった。けれどある時国境でちょっとした小競り合いがあった。それは貿易商当人たちで解決すれば問題のない程度の小さなものだ。けれど当時世襲したての芳賀の領主がそれを国家間の問題に発展させた。岩浅の領主は温厚な人物でどうにか戦を回避しようと下手に出る形で不干渉協定を結んだ。ただそれには裏があり、詳しいことは分からないけれど芳賀が竜田国を手に入れるために打った芝居なのではないかと当時考えられていた。
 佐竹が話をしている間に次官が持ってきた資料を捲り、聖はある一文に目を留めた。けれどそれを言葉にはせず、閉じて次官に押し返す。


「協定の内容、すべて芳賀からの申し入れだな」

「そうなんだ、そこらへんがちと不可思議でな。殿様の考えることは分からん」

「殿様だって人間だろ。忙しい時に悪かったな」

「何だ、もう帰るのか?」

「うちにも怖い副官がいんだよ。ここみたいに」


 軽く笑って聖はじっと佐竹を睨んでいる次官を指差してやった。それをみた佐竹が顔を嫌そうに歪めるが聖はからから笑って法部を後にする。背後から次官が悲鳴を上げるのを聞いたけれど、振り返らないで次は外交部を目指した。
 法部から斜め正面、軍部から見て正面に外交部があり、聖は間に障害物のように設置されている資料室に寄って不干渉協定の資料を借りて外交部の扉をノックした。そこまでは親しくないけれど仕事上で関わりも多いし、ここの長官も比較的交友的だ。聖がノックするとしばらくして返事があった。資料を探したり話し込んでいる間に仕事の時間にはなっているから不在の可能性は少ない。


「角倉大将。お待ちしておりました」


 扉が開いて、時間が出てくるかと思ったら長官自ら出てきて少し引きつった笑みを漏らした。中のソファに促されて大人しく腰を下ろすと、次官がお茶を運んでくる。己の前に置かれたもので喉を湿らせてから、外交長官はゆっくりと口を開いた。


「この度は臼木との大戦お疲れ様でございました。大勝だったようで、おめでごうございます」

「そう思ってんならもうちょっと笑ってくださいよ」

「思っておりません。思っていることを率直に申し上げたほうが?」

「そりゃもちろん」

「では。勝手なことしてくれやがってこのクソガキが」

「ははっ、怒ってますね」

「怒ってますとも」


 外交長官は初老の男性だ。髪にもたっぷり蓄えたひげにも白いものが混じってきている。その彼が顔に皮肉めいた色を浮かべて笑うから、聖は肩の力を抜いて笑った。外交部にとって、他国との戦など歓迎できたものではない。特に今回は何も承認や伺いを立てなかったから怒られるとは思っていた。けれどこんなに露骨に怒られたらいっそ気が楽になった。


「そんな説教は聞き流したふりをして、これから臼木とはどうなります?」

「初めから聞き流す気なのは捨て置けんが、まぁいい。そうさな、東関の地域で少し厳しくなるな」


 もともと臼木との国交は薄い。輸入も輸出も主に東の地区を潤す為に行っているに過ぎない。中央から物を流せば問題ないといえば問題なのだが、いつかそれは重くなって押し寄せてくるだろう。そうなる前に、如何にかできるだろうか。自分が蒔いた種とはいえ少し気になっていた。あれは必要だったけれど、それは真実だろうか。


「東関長の娘が嫁に行くことになっていたがそれも無くなった。どうするべきかまだ考えあぐねている」

「……結局、女で解決か」


 政治に必要なのは女だ。血を濃くして跡取を生んで許しを請うし結びつきを強めようとする。それだけが引っかかった聖には彼の言葉のもう一つの不可思議さに気づけずにいた。


「我々としては柊様に輿入れをお願いしたいところだがそれも叶わない」

「柊様?まだ子供じゃないですか」

「内密だがな、芳賀様から是非にと言われてもいる」

「……ロリコンかよ」

「慎め。年頃になってからの話だ」


 芳賀の現在の当主は葬儀のときにも見たが結構な歳だ。それでまだ十にも満たない満たない子供を妻にと所望するなんてロリコン以外の何物でもないだろう。それに彼には既に十数人もの側室がいる。未だ正室も跡取もいないところを見てもやはりロリコンという感想しか浮かんでこなかった。


「ところでお前、先の戦で怪我をしたらしいな」

「擦り傷程度ですよ。もう治ったし」

「気をつけろよ。これを気に狙っている人間もいるんだからな」

「何を?」

「お前さんをだ。お前がいなければ竜田攻略も難しくないそうだからな」

「外交長官の言葉ですもんね、こわ」


 おどけた調子でいう聖に彼は溜め息を吐き出した。こんなに飄々とした男が近隣諸国から天才として恐れられているとは思えない。けれど実際、聖が出て行って負けた戦は大きかろうが小さかろうが一つも無い。そういう意味で、彼はまごうことのない天才だ。ただ天才が抱えるという底の見えない陰を、この男は決して人に見えないところに飼っている。










 外交部で文句を言われながらも芳賀と岩浅の不干渉協定について数点聞いて軍部に戻ってくるころには昼も近くなっていた。
 資料を数殺小脇に抱えて軍部に戻るけれど、その部屋に吉野の姿は無い。代わりに鉄五郎が書面の片付けをしていた。普段他人にいじらせることのない棚だが彼がいじっているということは吉野が命じたのだろうか。考えながら入ってきた聖には、その瞬間に鉄五郎の肩が跳ねたことは気づかなかった。


「師範、おかえりなさい」

「おー。吉野は?」

「道場の方に行きましたよ。俺はここで留守番です」

「惣太は?」

「今トイレ行ってます」


 鉄五郎の回答に聖は数度頷きながら資料を応接用のテーブルに無造作に置くと、吉野の机に近づいた。さっき仕舞った書面は既にどこかに隠されているだろうか。けれど吉野は意外にも変なところが大雑把だ。入れたら入れっぱなしにしている可能性が無きにしも非ず。開けてみる価値はある。
 外の気配に気を配りながら、聖はそっと抽斗を開けた。思ったとおり多少皺が寄っている書簡が突っ込まれていた。それを手早く抜いて机から離れ、何気なく目を通す。見る見るうちに聖の表情は凍りついた。確認の為に数度目を通したそれに、やはり事実だと目を見開く。思わず書簡を握りつぶしたとき、扉が開いて吉野が小田原と戻ってきた。


「聖さん、戻ってたんですか」


 違和感のある笑顔を向けられて、聖は思わず吉野に掴みかかった。ひらりと避けた小田原には目もくれず吉野の胸倉を掴み上げてドアに叩きつけると、ガンと鈍い音がした。驚いている鉄五郎の「師範!?」という叫び声を無視して、書簡を吉野の顔の横に叩き付けた。


「何だよこれ!?」

「……見つかっちゃいましたか」


 硬い表情で視線だけを横の書簡に向けた吉野は溜め息交じりの小さな声で呟いた。その言葉に思わず聖が奥歯を噛み締めて書簡を叩き付けた手の拳を握る。離れた手に、書簡がひらひらと落ちた。
 吉野が隠していた書簡は小田原の字で東関の娘が英子の下に偵察に入っている報告がされていた。軟禁されていると思っていた娘が若垣の内部を探査していた。それも、若君の側室として。否、側室と言うよりも愛玩具という色合いが強いだろう。聖が起こしたくて起こせなかった決定だ。


「大将、副将を放してやったらどうだい?」

「うるせぇ、口出すんじゃねぇよ」

「でも必要な措置だとは思わないかい?おかげで見つけたよ、大切な証拠をね」

「……ちっ」


 小田原の諭すような言葉に聖はしばし黙ってから鋭く舌を打ちならずと捨てるように吉野を離した。確かに欲しかったのは証拠だ。もちろんこの方法も知っていたけれどそれを結構させたくはなかった。女であるという理由に聖は甘さを見せた。後回しにしていたから、こんなツケが回ってくる。


「若垣と英子様はしっかり繋がっていたよ。そして、岩浅ともね」

「岩浅?」


 思いもよらない単語に思わず聖が眉を寄せた。東関と繋がりがあるとばかり思っていたが、岩浅と繋がっていたのか。ならば東関の事件はあれで終わりだ。残ったのは一見関係ないと思われていた岩浅と芳賀の急な戦。そして領主の誘拐未遂事件。そしてこの事実は、あの娘が内部に入り込まなければ出てこない事実だった。
 その後味の悪さに聖は耐え切れず拳をきつく握りこんだ。けれど当たるものがなく結局舌を打ち鳴らしてソファにどかっと腰を下ろしただけだった。その様子に小田原が小さく呟く。


「大将は汚いことなんてしなくていいんだよ。そう言うのは全て、僕等の仕事だ」


 けれどその呟きは聖には聞こえていなかったようだった。苛々とポケットから煙草を取り出して吸いながら片手ではライターを点けたり消したりを繰り返している。
 聖の怒気とも言うべき感情が部屋に充満していた。その重さに動けなくなりそうで、三人が三人とも口を開くことすらできず呼吸さえ苦しく感じた。けれどそれを打ち破るように、ドアが思い切り開かれる。入ってきたのは、惣太だった。


「大変です!……て何、この空気?」

「んーだよ」


 一瞬凍りそうな中の空気に首を傾げた惣太に聖は不機嫌な声で唸るように言った。瞬時に聖の機嫌が最低なのを悟り惣太は握り締めていた書簡を聖に差し出して叫ぶように言った。


「東関の娘さんの処刑が決まりました!」


 急な知らせに、聖だけでなく吉野ですら固まった。ただ小田原だけが諦めたように目を伏せて少しだけ悲しそうに微笑んだ。





−続−

領主編、長くない?