竜田軍が英子邸及び若垣邸に大捕り物に向かったと瀬能が知ったのは、彼らが出発して間もなくだった。公示された後、法官長が直に知らせにきた。既に真坂と角倉は知っていたのか動揺を一切見せなかったが、瀬能は慌てて窓の外を見下ろして道場の向こうの詰所あたりに人がたくさんいるのを見た。  その知らせを受けていても立ってもいられず、瀬能は意味もなく柊を連れて本部前の大正門のあたりをうろうろしていた。人の出入りがあるたびにドキドキと脈打つ心臓を誤魔化しながら、聖の帰りを待った。


「兄上、今日は何の日ですか?」

「……なんだろうな」


 柊に真実を告げず曖昧に笑って、兵が駆け込んでくるたびに顔の色を白くした。そうしているうちに雨が降り出した。細い雨だ。冷たいというよりは体温を無言で奪い去っていくような感じのそれはただ肌に密着する恐怖に似ていて、何かを象徴させて思わず背中を震わせた。


「瀬能様、お風邪を召されますよ」

「……ありがとう、大丈夫だ」

「あれが心配ですか?」


 傘を持った真坂が憮然とした顔で迎えに来てくれた。黙って傘を差し出してくれたからそれをありがたく受け取って差し、ふっと空を見上げる。もっと大粒の雨が降り出してもいいような重い空だった。
 真坂の質問に瀬能はゆっくりと首を横に振った。彼が聖のことを言っているのは分かるけれど、彼の心配をしているわけではない。聖は負けなしの軍神だと父に聞いたことがある。だから聖の心配なんてしていない。領主は家臣を信じるものだと、昔から大きな背中に教わってきた。


「聖の心配なんてしていない」

「誰もあの馬鹿の話なんてしていませんが」

「え!?いや、それは……」

「冗談です。聖のことをそんなに信頼しているとは思わなかっただけです」

「……信じることが、私の仕事だから」


 真坂の表情はいつも変わらない。けれど瀬能の言葉に今日だけは柔らかく微笑んだように見えて瀬能は目を見張った。けれどそれは一瞬のことで、すぐにいつもの仏頂面に戻ると空を見上げて忌々しげに眉を寄せた。
 そのとき、数人の兵が駆け込んできた。大正門に飛び込んで真っ直ぐに厩を目指して全力疾走している彼らを見咎めて、声を失っている瀬能の変わりに真坂が声をかけた。さっき信じることが仕事だといった割りに、もう顔色が悪くなっている。若い領主はまだ若すぎるほどに若い。


「おい、どうした」

「意見者殿、瀬能様!」

「師範からの伝令です。南関へカズ殿が向かったそうです、我々はその捕縛応援に」

「そうか。分かった、外交部には伝えておこう」

「ありがとうございます!」


 テキパキと指示を出す真坂の隣で瀬能は何も言えないでいた。けれどそれを咎めることもせずに真坂は兵との会話を終わらせると、黙ったままの瀬能を何の感情も篭っていない目で見た。彼の下では、柊が不安そうな目をして兄の袖を掴んでいる。
 真坂にとって瀬能はまだ何も知らない子供のような領主であり、これからたくさんのことを教えていかなければならない存在だ。何もできない分、無垢故にできることもある。だから他の官人のように彼に厳しく当たることもせず、ただ現実だけを目の前にたたきつけてきた。それは今回も同じことだ。


「兄上、兄上。どうなさいました?」

「あ、あぁ……何でもない、大丈夫だ」

「瀬能様」


 妹の質問に顔に無理矢理笑みを浮かべた瀬能が優しく柊の髪を撫でた。その後姿を見ながらも真坂は努めて厳しい声を作って声をかけた。彼のこの小さな背中はいろいろなものを背負わされている。時々痛々しくすら見えるから聖も気にかけているのだろう。あの男もこの若き領主も優しすぎるほどに優しい。


「何を信じて何を信じないか、それは貴方が決めることではない」

「……分かっている、そんなこと」


 厳しい真坂の言葉に瀬能はややおいて吐き出すように呟いた。柊を「そろそろ稽古の時間だ、行きなさい」と館に戻し、けれど瀬能はその場に残った。真坂の言葉をうちの中で繰り返し、その言葉の厳しさにぐっと掌を握りこんだ。爪が刺さった感触はあったが、温度をなくした掌では痛みを感じることはできなかった。


「私は聖を信じている」

「いいえ。信じられるものは目の前の事実だけとお思いください」

「聖は信用できないのか!?」

「あんなもの信用に値しませんね」


 真坂の冷たい言葉に瀬能は思わず言葉を失った。真坂は聖のことをとてもよく見ていると思っているし、それ以上に聖は今まで瀬能のことを支えて優しくしてくれた。彼に触れるたびに彼は信用できると直に感じた。だから、真坂の言葉が信用できなかった。


「私は聖を信頼してる」

「あいつの過去をご存知ですか?知らないのに言っているなら改めた方がよろしいと思います」

「……聖の過去?」


 出てきた単語に思わず瀬能は聞き返してしまった。瀬能が知らない聖の過去。知っているのはただ彼が軍大将になってからだ。初めて会ったのは聖の髪がまだ短い頃、肩に付くか付かないかと言うくらいだっただろうか。彼は獣のような目をして新しい大将だと名乗った。
 けれどその前、瀬能は一度だけ聖の姿を見たことがある。彼は覚えていないだろうが、まだ瀬能が十二の時だった。父について街の視察に行った。そのとき長い髪をした奇麗な男がいた。獣のような目をした男が聖だった。あの頃から彼は変わった。その頃のことを真坂は言っているのだろうか。


「あいつは悪いことなら何でもした。そういう男です」

「でも、それは過去だろう。今の聖じゃあない」

「同じことです。人の根っこは変われないんですよ」


 あの頃の聖は街の不良を束ねる“総長”と呼ばれる人間だったと聞いたことがある。けれど今は変わったと信じている。変わったからこそ軍人になって守ってくれると約束して……。そう、約束した。


「守ってくれると言った。だから、私は聖を信じる」

「……そこまで言うなら構いません。私が言いたかったのは、身内だからと言って信じるなと言うことです」

「それは英子伯母様のことか?」

「その通りです」


 真坂が淡々と頷いたのを見て瀬能は少し心が痛んだ。けれど前々から周りから言われ、薄々気づいてはいた。ただ、血の繋がった身内だから信じていたかった。だけどもう確信してしまった。軍部から提出された書類に目を通した。英子の完全なる謀反の証拠が並べられていてもう罪は明白だった。そして先ほどの兵の行動。全てを流れに身を任せて、全て終わった時には何が残っているだろうか。けれど今は全て周りに任せるしかなかった。
 ずっと待っていると、若垣邸炎上の知らせと共に大将以下精鋭軍が燃え盛る屋敷に特攻をかけたという連絡が入った。










 大きな音を立てて屋敷が崩れた。その前に大半の精鋭軍と証拠は脱出したようだったが大将の姿はなかった。雨のおかげで炎の勢いはそんなに強くないが、それでも人間がいるべき環境でないことには変わりない。もう生存は破滅的にすら思えて、小田原は呆然と炎を上げる屋敷を見やった。


「師範!師範!!」

「消火だ消火!バケツ持って来い!!」

「それよりも師範たちがいたところ掘り返すぞ!」


 もう絶望的だと諦めていた小田原達と違い、何度も彼と視線を潜り抜けてきた精鋭軍は諦めることなく怒号を飛ばしあいつつどうにか消火と救出を試みようとしていた。半分以上が火を消そうとバケツやホースで水を掛け、残りの人数がくすぶる木材をどかしている。どう見ても無駄なのに、彼らは何かに縋るように「師範!」と叫び続けていた。
 小田原はその姿に奥歯を噛み締め、呆然としている他の軍団の人間に救出された人間や証拠の護送を任せた。ついでに本部で待機している軍医をこちらに向かわせる指令を持たせて報告の兵を数人使わす。


「精鋭!今やるべきことは何だと思っている。罪人の護送が優先ではないのか?」

「そんなもん残ってるお前らがやれよ!俺たちは師範と心中しに行ったんだ、一人で死なせてたまるかってんだ!」


 こちらが怒鳴ると何人かの精鋭が怒鳴り返してきた。必死に顔も軍服も真っ黒になるのもお構いなしに木材を掘り返し、声の限りに「師範!」と叫ぶ。あぁ、精鋭など馬鹿ばっかりだ。任務も何もない、ただ大将に忠誠を誓って彼のためだけに命を張って。それしかない。


「師範!師範代!」

「おい、こっち持ってくれ。持ち上げるぞ!」

「おっけ、行くぞ!」


 精鋭の動きは違う。きっと他の軍団が動いてもこうは行かないだろう。それくらい的確で俊敏で、やはり彼らが精鋭なのだと思い知らされる。そしてそんな彼らを従わせているあの男の存在感は尋常ではない。


「小田原軍団長、衛生兵が現状の把握をしたいと先に伝令を」

「怪我人は全て護送したからそっちで見てくれ。ただ、大将以下四名が生死不明」


 そう告げると、伝令の兵が顔を真っ青に染めて瓦礫と化した屋敷を見た。もう火もほとんど消えかけているが、人が現れる気配どころか生の匂いなど微塵もしなかった。彼は「伝令に戻ります」と絶望したような声で告げると、くるりと踵を返してもと来た道を戻って行った。










 軍医がバタバタと動き出したのを見て、瀬能は僅かに顔色を悪くした。まだ何の報告も上がって来ていないが嫌な予感がする。大正門の前で黙って待っていると、本部から出てきた男が大声で兵に喚き散らしながら足早に出てきた。まだ幼さを顔に残した彼の言葉に瀬能の心臓が凍りついたように冷たくなった。


「大将以下四名が生死不明!?」

「はい、崩れた屋敷から未だ発見されておりません」

「まさか!あの大将が!?誰か嘘だと言ってくれ」

「……現在精鋭が総出で必死に探しています」


 非番の兵士が先ほど大量に出て行ったのはそんな理由だったのかと瀬能はぼんやりした頭で思った。真坂はとっくに中に戻ってしまっている。今瀬能は一人だけで雨の中聖の帰りを待っていた。すでに英子以下罪人が迎賓館に収容されている。本来は詰所の地下の牢に放り込んでおくべきだが、彼女の血筋故に迎賓館での軟禁になった。


「分かった、発見したらその場で見るから動かさないように」

「こちらの怪我人は?」

「他の者に任せる。私は大将たちを」

「筆頭軍医お一人ですか!?」


 彼らの会話を痺れる頭で聞きながら、瀬能は現状を否定しようと必死にその材料を探した。聖が死ぬ訳ないとかいろいろ立て並べた所で、現場を見たわけでも聖の全てを知っているわけでもない瀬能にとってその言葉は真実になりえず信頼するちからすらなかった。
 瀬能のすぐ傍を通り過ぎた兵たちだが、大正門を通った所でその場に立ち竦んで動かなくなった。何事かと瀬能が顔を出すと、同様に固まって思わず傘を取り落とした。


「……なんだよ」

「師範、師範代!ご無事でしたか!!」

「俺らはな。こいつら頼む」


 ぼろぼろの格好でそこにいた聖は、すすに汚れた顔で笑った。けれど擦り傷だらけのその顔からは血の気が失せて立っているのが精一杯のようだった。聖の隣には吉野もいるが、彼も似たようなものだ。彼らの後ろから若垣の令嬢と当主が担架に乗せられて運ばれてきて、さらにその後ろから気を失った少年兵二人が運ばれてきた。


「師範こそ手当てしないと!顔色が悪いです。今筆頭軍医に連絡を……あぁ、でも無事でよかった」

「軍医が動揺して泣いてんじゃねぇ。ほら、負傷者が待ってるぞ」

「いえ、自分はここで!師範たちだって大怪我じゃないですか」

「いいからあっち行け。惣太達のが重症だ」


 聖に一喝されて軍医はすごすごと患者の運ばれた詰所に行く為に踵を返した。それを見送って聖と吉野が肩で息を吐き出してゆっくりと歩き出す。先程よりも格段に顔色が悪くなったのが分かるけれど彼らは何も言わずに歩き出した。まるで消えてしまいそうなほど弱っている彼らを見送りかけて、すれ違った時にやっと聖が瀬能を見つけて意外そうに目を見開いた。


「瀬能様?え、こんな所で何してんですか」

「……別に、何もしてない」


 思わず瀬能が言うと、聖は小さく笑って吉野に「先行ってていいぞ」と目で合図してからまた向き直って奇麗な笑みを浮かべた。全て見通しているとでも言うような笑みに余裕を感じ思わず瀬能が目を逸らすと、聖の大きな手がトンと頭の上に乗っかった。冷たい手がいつもよりも更に冷たく感じた。


「心配してくれてありがとな」

「心配なんてしてない。……お前を信じているから」


 顔を合わせることもできずに小さく呟くと、ふと頭の上から重さが消えた。不思議に思って顔を上げた時にはもう遅く、聖の体が迫ってきている。彼に押しつぶされそうになってどうにか支えた所で、彼が気を失ったことに気づいた。こんなにボロボロで顔色も悪いのにさっきまで平気で立っていた方が不思議なんだ。瀬能は押しつぶされそうになりながらどうにか聖の体を支えていると、視界の外で悲鳴のような声が聞こえた。


「師範!?」

「衛生兵!師範が!」

「衛生兵!こっちで師範代も倒れてる!」

「だから言ったのに!言わんこっちゃない!」


 戻ってきた筆頭軍医の荒い声が聞こえたと思ったら、体に掛かっていた重さが消えた。一体どうしたと思ったら数人の兵が聖の体を支えて立っている。軍医の指示に従って彼の体を詰所に移すのだろう。他にも怪我人やらがいる騒がしい中で、瀬能は思わず彼らを呼び止めた。


「聖……聖は!」

「……瀬能様!?」

「聖は大丈夫か?」

「師範はそう簡単に死ぬようなタマじゃないっス!」


 彼らも疲れてボロボロだろうにそう言って笑った兵に少し安堵して、瀬能は漸く体を雨に打たれていたことに気づいた。彼らの信頼感が力強く瀬能の心にも響く。
 これからが瀬能の仕事だ。辛くてもやり遂げねば頑張ってくれた彼らに申し訳がないと、瀬能は彼らの背中が見えなくなってから館に戻った。大将・副将の意識が戻ったと知らせが入ったのは二日後だった。





−続−

長かった領主編が本当に終わりました。
長かった……。大捕り物編は終わりですが、時間はまだ半年ほどしか過ぎてません。