聖と吉野の意識が戻るまでに、全ての仕事は終了していた。軍の仕事はあくまでも罪人の捕縛だけで、それらを受け渡したらあとは行政の仕事だ。法官が主に忙しくなる。けれどおかげで全ての事件は終結を見せ、英子は謹慎、その子息のカズも官位はあるにしてもほとんど窓際だ。そして若垣には財権の約半分を領家に返還を強制させられた。若垣だからその処分になったのではあるが、それは一般人からみて甘すぎる処分だった。けれどそれに文句を言うのは命がけで火の中に飛び込んだ軍人だけでしかなかった。
 聖たちの意識が戻り面会が許されたのは、更にその翌日だった。彼らは道場の救護室に運び込まれており、そこでは道場と言う性質上常に見張りがいるようなものだった。そこに昼間からこの国のトップの人間が数人現れ、中で稽古と称して大将たちを心配していた兵たちは仰天した。


「救護室ってのは奥でいいんですかね?」

「さぁ……私も入ったことがないから」


 道場の前で瀬能と佐竹が顔を見合わせているが、同伴している真坂は躊躇うことなく道場に足を踏み入れた。鬼気迫る稽古風景に圧倒されてもいた二人は思わず顔を見合わせたが、離れる方が逆に危険なんじゃないかと言う気すらしてきて慌てて彼に従った。
 こんなに彼らが真剣に稽古しているにも理由がある。今回、自分たちがふがいないばかりに大将も副将も大怪我を負い、そして助けられた。そして意識が戻って近くにいるなら少しでも気を抜けば怒鳴り声と木刀が飛んでくる。だからここにいるのは精鋭と八つ当たり用の元東関兵だった。


「瀬能様!?真坂様に佐竹法官長も!」


 真坂に続いて道場に入ろうとしたところで、後ろから驚きに満ちた声を掛けられた。佐竹と瀬能が同時に振り替かえると、二人分の食事が乗ったお盆を持った軍医が立っていた。軍医でありながら見覚えがある顔なのは、沼賀一族の容姿がよく似通っているからだろう。沼賀直系の五男、沼賀大輔だった。


「見舞いだ。目を覚ましたと聞いたが、奴等はいるな?」

「いるにはいますけど、今は……」


 少し言葉を濁してちらりと救護室と古びたプレートの掛けられた扉に視線を移し、釣られて彼ら三人も視線をそこにやった。それとほぼ同時に、中から絶叫のような大声と何かガラスの割れる音が響いた。本当にあそこは救護室で、目覚めたばかりの怪我人がいる部屋か疑いたくなるほどだった。


「何してやがんだテメェらは!」

「高見さん!勘弁してください、大将死んじゃいますよ!?」

「構うか!」

「そこは構って!!」


 一つの大声と、それを抑えるような泣きそうな声。一体何事があったらそんな声が聞こえてくるのかと驚いていると、大輔はけれど「……またか」と呟いて特に驚くことはしなかった。あまりにも予想外の展開だったので瀬能たちが動けずにいると、大輔はお盆を持ったまま扉を叩いて返事がある前に戸を開けた。見えた光景は、予想ができたものではなかった。


「大将、副将、食事です」

「持って帰れ馬鹿!」

「俺らの飯だろ!?」

「いっそ一回死ね。死んで俺の苦労を知れ」

「筆頭軍医の台詞か、それ!?」


 布団に伏しているとはいえ起き上がり、聖は元気そうだった。あの時見たのが蒼白の顔だったから心配していたが、怒鳴れるならば相当元気になったのだろう。瀬能は聖の姿を見て安堵し、思わず足から力が抜けた。ガクッと堕ちた体を支えることができなくてそのまま自由落下に従ってしまったが、膝を付く前に腕を引っ張られて立たされた。横を見れば、真坂が薄く笑っている。


「あの馬鹿を見て安心しましたか?」

「……して、ない」


 嘘仰い、とばかりに光定は笑みを吐き、瀬能は僅かに頬を染めて顔を逸らした。ぐっと力を入れて自力で立つが、頭が少しボーっとしていた。奇麗な顔には擦り傷があるが、けれど表情には生気が戻っていた。


「とにかく、お前ら脱走する気なら監禁すんぞ」

「脱走じゃねぇよ。就業?」

「聖は実家に帰れ。吉野は……迎賓館にでも軟禁。これ決定」

「横暴だ!ぜってぇ帰んねぇぞ」

「軟禁って病人にそういうことを言いますか!?」

「じゃあ病人らしく大人しくしてろ馬鹿。惣太もあのガキも大人しく療養してんだろが」

「それとこれとは別だろ」

「どっちだって俺にはただの患者だ馬鹿」


 吉野が声を荒げているところを初めて見た。あまり話したこともない人物を見ながら瀬能は思い、聖の元気な声が妙に胸を絞めつけるような感じがした。ただ黙ってみているしかなく、挟む言葉を持っていない瀬能は黙って見ていたが、いつまでも馬鹿みたいな掛け合いを見ていられないと思ったのだろう、真坂がつっと部屋に入った。


「その馬鹿の身柄は家で保護しても良いが?」

「真坂意見者……佐竹法長官と、瀬能様も」

「……俺、看病は女がいい」

「いつまでガキみたてぇなこと言ってんだ馬鹿」


 真坂の申し出に聖はあからさまに嫌な顔をしたが、筆頭軍医こと高見皇里はそれは名案だとばかりに「お願いします」と頭を下げた。聖と真坂は従兄弟関係にある。現総督であり本人は認めたくないようだが聖の父親は真坂の次男だった。それが角倉弓月と婚姻を結び角倉の当主へと納まった。真坂光定の父親は真坂直系の長男であり、聖の父とは年が離れている。かといって聖にとってそれが何の救いになるわけではない。


「じゃ、吉野は詰所に監禁だな」

「僕は執務室で結構です」

「俺が許可すると思ってんのか馬鹿。テメェは詰所の二階に監禁だ、聖より逃げやがって」


 忌々しげにそう言って、彼は大輔に数言指示を残してから軽く会釈して部屋を出て行った。その際に二人の患者を睨みつけておくことを忘れない。その鋭い視線は「逃げたらバラす」とでも言っているようで、自分に向けられたわけではないのに瀬能の背筋が冷えた。


「さって、皇里も行っちまったし行くか」

「そうですね。戻ってきそうもありませんし」

「どこに行こうというんだ莫迦者」

「……光定殿」


 鬼の居ぬまとばかりに布団から抜け出そうとした聖と吉野に真坂は思わず溜息を吐いた。中で大輔が手早く用意してくれた席に三人揃って腰を下ろすと、吉野と聖はすっと姿勢を正してその場に座した。本当はまだ辛いだろうに彼らのそれは微塵もそんな雰囲気を感じさせはしなかった。


「良かった、元気になって」

「ご心配お掛けしました」

「軍の働きには大変感謝している。おかげで早期解決を図ることができた」


 使い慣れていない言葉遣いで感謝を紡いだ瀬能が緊張しているのが分かって、聖は僅かに笑みを浮かべて両隣に控えている真坂と佐竹を見た。彼らも仕事できたのだろう、きりっとした表情をしている。その中にはまるでこちらの回復を喜んで見舞いに来たような感情は欠片も見受けられなかった。その中にあって瀬能だけが本当に安堵した表情を浮かべている。きっと真坂は咎めたいのだろう、表情が僅かに険しい。
 ぼろが出ないようにか、瀬能が言葉を切った間を見計らって佐竹が僅かに表情を笑みを歪めながら口を開いた。


「処分は全て終了した。報告書を届けてあるから後で目を通してくれ」

「お疲れさまでした」

「それから、演習書類はさっさと提出してくれよ」

「へいへい。ったく、怪我人をせっつくなよ」

「怪我人と思われたかったら軍医の言うとおり脱走しようとするな」


 それだけ言って、三人は席を立った。瀬能としてはまだ言いたいことも離したいこともあったのだが、それは今でなくてもいい。今は他の人間もいるし、まだ聖は病床にいるのだ。余計な心労をかけてはいけないだろう。全ては自分の胸のうちにだけ隠しておけばいい。
 瀬能が言葉なく部屋を出て行こうと最後に聖を振り返ると、その瞬間に聖は何かを言おうと口を開きかけた。けれど何も言わずに曖昧に微笑んだだけだった。
 三人が連れ立って道場を出て行こうとしたとき、外交長官が足早にやって来た。声をかけようにも前しか見えていないようで脇目も振らず救護室に飛び込んだと思ったら、普段穏健な彼からは思いも寄らないほどの大声で怒鳴った。










 執務室に戻って一人仕事が手につかずにぼんやりと窓の外を見ていた。ここから見える景色は少ない。
 軍は、聖はよくやってくれた。おかげで早期解決ができたのは事実だし、頑張ってくれたのは聖だけではなく法官も意見者も外交部もみんな頑張ってくれた。だからこそ逆に自分に何ができたのか。あの日の処刑の光景が胸のうちから消えないように、この記憶も当分胸のうちで燻り続けるだろう。そんな確信があった。


「……瀬能様?俺、入りますよ」


 控えめのノックの後、囁くように小さな声が聞こえたと思ったら扉が開いた。その声に取り繕う必要はないと分かっていたから、窓の外から視線を動かすことはしなかった。ちらりと視界の端に入った聖はゆったりと着流しを纏っていて見ているこっちが恥ずかしくなった。


「瀬能?どうした?」

「……なんでここに来るんだ。真坂殿の屋敷に行ったんじゃないのか」

「その前に寄った。さっきあんな顔してっから」

「あんな顔……?」


 聖が近づいてきたのはわかったが、動けなかった。動こうと思わなかった。聖が執務机に座って、武骨でいて奇麗な指がそっと瀬能の目尻にまるで涙を掬うように触れたが瀬能は泣いていない。漸く顔を聖に移すと、酷く優しい顔で聖は微笑していた。


「泣きそうな顔。俺の心配してた訳じゃねぇだろ?」

「し、心配は……した」

「サンキュ。でもそれだけじゃねぇよな?差し詰め今回の決定に判子押しただけだとか?」


 まるで心を読んでいるかのようだ。全てを見透かしたような笑みを浮かべた聖に瀬能は思わず泣き出しそうになってしまい慌ててキュッと目を瞑った。
 今回は全て周りの人間が裁決を下し、瀬能はその決定にただ頷くことしかしていない。それは知識不足、経験不足がそうさせたのかもしれないが瀬能としては不本意な決定でしかなかった。けれど自分では誰もが納得する裁決を下せない。そんな自家撞着にも似た自己矛盾が苦しくて、けれど自分は領主で誰にも弱音を漏らしてはいけなかったと思った。思った、のに。


「しょうがねぇだろ。……まだ、しょうがない」


 不意に抱きしめてくれた聖が酷く暖かいものだから。その手が余りにも大きく余りにも優しいものだから。思わず、零れてしまった。隠そうと思っていた本音も、涙も。


「私は何もできないけど……でも、私は領主なのに!」

「定例閣議も結局は報告会でしかない。大事なことは頭の人間が決めてくんだ」

「……私のいる意味なんて、あるんだろうか」

「そうだな、こうしようか。瀬能は次からは相談してみればいい」

「相談?」

「そう。光定殿でも佐竹でもいい。俺は専門じゃねぇけど、俺でもいい」


 まるで子供をあやしているような聖の仕草はひどく心地がいい。まるで全て許されて優しさだけに抱かれているようで安心する。だから聖は誰からも好かれているのだろうか。だから、兵たちはあんなにも必死になれるのか。


「私の話を聞いてくれるだろうか」

「聞く。だって瀬能は領主だろ?」


 妙に自信満々に、聖の笑みが耳朶を叩いた。その一言で引き戻された現実。それは聖が故意に行ったかどうかはわからない。けれど、今が現実なのだと妙にしっかりと認識できた。
 背をなでていた聖の手が頭に移動し、子供に言い聞かせるように髪を梳かす。一瞬だけ聖の手が離れたその刹那、廊下の外から怒鳴り声とそれを抑えているような悲鳴染みた声が聞こえてきて聖の顔が一瞬にして強張った。


「聖!テメェマジで地下に放り込むぞ!?」

「軍医!高見軍医落ち着いて!」


 聖の逃亡に気づいた皇里が飛び込んできたがいくらなんでも領主の部屋に突っ込むのを警備兵が止めたというところだろう。聖は一瞬にして瀬能を離して踵を返すと、一目散にドアとは反対側の窓を開けて足を掛けた。下駄で何をするのかと思ったら、躊躇いなくそこから飛び降りようと体重を掛けている。聖が枠を越えたのと皇里が飛び込んできたのはほぼ同時で、皇里の「聖ぃ!」という怒鳴り声だけが部屋に大きく木霊したが聖の姿は留まってはいなかった。





‐続‐

高見皇里(たかみこうり)

最強の軍医登場。