聖と吉野が全快する頃には梅雨も明けていた。皇里がしつこいほどに彼らの体を庇い逆に聖たちが逃げるからいつ回復したと言っていいか判断しづらいが、少なくとも道場で元気に立ちまわれるくらいにはなった。けれど回復すればそれまで甘く見られていた仕事が押し寄せてくるのは当然のことで、早々に放棄した聖に代わり吉野が執務室に篭って筆を執っていた。
「……お前はこんなところにいていいのかよ」
「何が?」
書類の催促に来たんだかサボりに来たんだか分からないが、佐竹が道場の入り口にしゃがみこんで汗を拭いている聖に問いかけた。演習の書類の提出期限がもうすぐだが、大将である聖がサボって道場稽古とはなかなかいい度胸だ。
体を動かせるようになって、聖はこれでもかと言うほど道場にいる。話に寄れば、真坂家から解放されたと同時に道場に戻りずっといるらしい。続く体力も集中力も大したものだ。
「書類。待ってるんだが?」
「今吉野たちが修羅場中」
「だから、お前はいなくていいのかよ」
「俺はほら、肉体労働派だから」
聖は笑って手で少し乱れた髪を梳かした。確かに聖がいることでここのところ士気の落ちがちだった兵たちが俄然やる気になっている。ギスギスした雰囲気だったのに、今はもう気持ちいい緊張感に包まれている。
春先からかけていろいろなことがあり、それが漸く片付いた。だから兵士たちもさぞかし弛緩していると思っていたが、そんな事もないらしく近々ある演習のために更に稽古に熱が入っていた。本当に、軍だけは独立機関であると思い知らされる。それだけ文官とは温度が違う。
「聖はいるか?」
「真坂殿」
聖がまた道場の中心に戻って何人もの兵たちをいとも簡単に叩き伏せているのを日向ぼっこついでに見ていると、後ろから影が落ちた。振り返り、聞きなれた声の主を確認して再び道場を仰ぎ見る。やってきたのは国で二番目に決定権があるといわれる意見者の真坂光定だった。聖が先日まで事実上監禁されていた家の次期当主だ。
真坂は佐竹が指した方を見て、生き生きと動き回る聖を見て目を眇めた。彼が気づくまで待っていようと思って壁に寄りかかると、聖はすぐに気づいて首を傾げながら竹刀を肩に担いでこっちに歩いてきた。珍しくやる気なので袴姿だが、それでも不良にしか見えないのはどういうわけだ。
「光定殿、どしたんですか?」
「瀬能様がいなくなった」
「はっ!?」
「柊様と一緒にな。捜してくれ」
真坂の台詞に聖が軽く目を見開いて彼を凝視した。領主がいなくなったとか、そんな大事をサラッと言ってサラッと解決させようとするな。聖が状況を飲み込んで一通り口の中で文句を言い終わるのを見計らったように真坂は詳しい事情を簡単に説明した。
柊姫と瀬能が、いつのまにか政務をほっぽりだしていなくなってしまったらしい。一人で解決しようとして真坂に黙っていなくなることも多い瀬能のこと初めは心配していなかったが、警備の兵が言うにはトイレに行くと言って言ったらしい。いつもなら誰の所に行くと言うのに、トイレにしたら遅いにも程がある。だから事件発覚から相当な時間が経ってしまった。
「いなくなったって、自分で逃げただけじゃないですか」
「若いうちからサボることを覚えられたらたまらん」
「はいはい。捜してみますよ」
「頼んだぞ」
簡単に言ってさっさと踵を返してしまった真坂に聖は流石に「マジかよ」と口の中で小さく呟いた。いくらなんでも自分の意志でいなくなった人間を見つけるのは至難の業だ。しかもさっきの真坂の口ぶりから一時間以内に捜せとかそんなのだろう。やっていられない。
全く思いつかず、聖が思わずその場にしゃがみ込むと佐竹が煙草を差し出してくれたのでそれをありがたく受け取ってとりあえずニコチンを摂取して頭をまわすことにした。
よく考えれば、生粋貴族のお坊ちゃんの瀬能がそう簡単にどこかに行く訳がない。そうなれば近場で行ったことがある場所だ。しかも妹を連れてということは安全の確証もある。それならばと聖は着替えると予想した場所をいくつか訪ねたが、全てからぶりだった。
「マージで、ここにもいなかったらどうしよ。山狩りでもするか」
物騒極まりないことを考えながら、聖は最後の心当たりを訪ねた。でもここにいる可能性は一番低い。だからこそここを後回しにしたのだ。本来なら一番に捜してもいいくらいの場所だ。館の裏側にある小さな山は静かで確かに領家の私有地だが、先日岩浅の兵が侵入し領主を誘拐しようとした場所でもある。そんな場所にいくらなんでも供を連れずに赴くなんてありえることではないだろう。
けれどその開けた場所にでると、中央に立った桜の木下に二つの影があった。一つは幹に寄りかかるようにして眠っているようで、もう一つの小さな影はそのとなりで遊んでいるようだった。
「……マジかよ」
「あ、師範!」
思わず聖がへたり込んでしまうと、それに気づいた柊がぱっと立ち上がって眠っている兄の体を揺さぶって起こした。本当に脱力仕掛けて、聖はどうにか歩いて彼らの元まで行った瀬能は本当に疲れているのか起きる気配がない。
「師範、どうしてこちらへ?」
「いなくなった姫君を捜しに。みんな捜してますよ」
情報収集に探し回る前に瀬能の部屋に寄ってきたが、そのときには美月が泣きそうな顔で「柊様が!」と言っていた。聖はどうにか慰めて、必ず見つけるからと言って来た。見つかってよかったけれど、なんとなくほのぼのした雰囲気に脱力してしまう。
美月の様子を伝えると、柊は少し悲しそうな顔をしたがそのすぐ後に不満そうに唇を尖らせた。
「だって、柊はお勉強が好きじゃありません」
「まぁ好きな人はいないでしょうね。でもダメですよ、知識はないよりもあったほうが断然いい」
「……何か役に立ちましたか?」
「柊様は竜田国のお姫様です。他国の方と会う機会も多いんですから、お勉強は大切ですよ」
聖自身勉強が何かの役に立ったかと聞かれると「全然」と即答したいが、けれど柊の前にそれを言う訳にはいかない。彼女には勉強してもらなわないといけないのだから。聖はニッコリ笑って柊をやり過ごし、眠っている瀬能の横にしゃがみ込んだ。確かにここは太陽を遮ってくれて風も気持ちいいが、こんな野外で安心して熟睡されても困る。
「瀬能様。起きてくださいよ」
聖はだるそうにしゃがみ込んだまま瀬能の肩を揺すった。始めは起きる気配もなかったのに、何度か声を掛けているうちにしっかり閉じていた瞼がピクリと動き、しばらくするとゆっくりと瞼が持ち上がった。辺りを見回して現状を確認し、それから聖を見て瀬能は何度か目を瞬かせて固まった。
「よし、おはよ?」
「ひ、聖!?」
「こんな所で簡単に熟睡すんなよ。危ねぇから」
「なんでいるんだ!?」
「何でって、捜しにきたから」
驚いている瀬能に聖は軽く笑い、彼の隣に腰を下ろすとポケットから煙草を取り出して火を点けた。ゆっくりと紫煙を吐き出して、そういえば自分もこんなにのんびり空を見上げたのは久しぶりだと思い当たる。空はこんなに広く青かったのか。
「何かあった?」
「……何もないぞ」
「何もなくてこんなところでサボるか?瀬能様が、さ」
「………」
聖の言葉に瀬能は息を飲んで俯いた。もともと真面目な瀬能がサボるだなんておかしいと思った。どうせ何かあったのに誰にも相談できないで自分で抱え込んでいたのだろう。何度も相談しろと言っているのに、どうして分からないんだか。
促すでもなく聖が紫煙を吐き出しながら待っていると、瀬能はおもむろに書簡を取り出してゆっくりと広げた。
「佐保様から文が来た」
「佐保って、臼木の向こう?」
竜田国から少し離れ、臼木と松井田を越えたところに佐保国がある。瀬能の母方の祖母がこの国の出身であり、佐保とは今は親戚関係にある。現在の佐保の領主は確か瀬能のはとこだった。ただし離れている為、交流はあまり行えないのが現実だった。もう何年も物流だけで済ませている。
「今度訪ねてきてくださると……」
「良かったじゃん。何?」
「私がまだ全然ダメだから、その……」
「まだ新米なのに気にしすぎ。少しずつやってけよ、俺たちちゃんとフォローするから」
「でも……」
「あっちの方が先輩だろ。いろいろ話聞くいいチャンスだろ」
「……そうだな」
にこりと、瀬能が微笑んだ。その笑みを直視し、思わず心臓がときんと高鳴る。この笑顔を守りたいと始めに思ったのはいつだっただろうか。あの倒れそうだったときに守ってあげたいと思った。これが自分の守る対象なのだと、改めて実感した。このまま抱きしめて閉じ込めておけばこんな不安そうな顔をしなかっただろうか。けれどきっと悲しそうな顔をした。瀬能はそれだけ純粋で子供のようなところがあると思う。
聖は思わず瀬能から顔を逸らし、落ち着かせるために紫煙を深く吐き出した。
「そういえば、軍はもうすぐ演習だそうだな」
「あぁ、来週からな」
「聖もどこかに行くのか?」
「東の方に演習場があるから、そこまで精鋭引き連れて」
「……そうか」
「何、俺がいなくて淋しい?」
「うるさい!さっさと行ってしまえ!」
「オーケー、さっさと行ってさっさと帰ってくる」
短くなった煙草を幹に押し付けて消して、聖は笑いながら立ち上がった。残念ながらタイムリミットだ。これから戻って仕事をしてもらわないとしょうがない。いい加減に帰らないと、怒られるのはこっちなのだ。もう暗黙の約束の一時間はとっくにオーバーしているのだから。
瀬能を立たせようと手を差し出すけれど、瀬能はどこに怒ったのか顔を逸らして自分で立ち上がった。代わりとばかりに柊が聖の手を握り、反対の手で瀬能の手を握って嬉しそうに笑う。
「柊もお勉強頑張りますから、兄上もがんばってください!」
「よし、じゃあ約束だ」
「指きりげんまん」と指切りをしだした兄妹を見て、聖は微笑んで空を見上げた。少し濃くなった空は時間が経ったことを示していて、そういえば本当にそろそろ書類を出さないとヤバイ。思い出したら溜め息が零れてきた。それを誤魔化す為に、聖は別の言葉を捜した。
「それにしても瀬能、よく護衛なしで怖いとか思わなかったな」
「何でだ?」
「ここで一応、襲われたわけだし?」
「……そうだったな」
聖はゆっくりと周りを見回す。あの時とは目に映る風景は変わってしまったが、場所も立っている樹も変わっていない。同じ桜の樹に囲まれた広場だ。
瀬能も聖に倣うように辺りを見回し、それから少し目元を染めて俯き小さな声で呟いた。
「聖が助けに来てくれると思ったから」
「……あ?」
「何でもない!」
聞き逃してしまうくらいの小さな声だった。聞こえてきた言葉が俄かには信じられなくて、聖は思わず間の抜けた声で聞き返した。けれど瀬能は急に恥ずかしくなったのか顔をはっきりと赤くして足早に館を目指して歩き始めた。柊に引っ張られるようにして、聖は大股に歩き出した。
−続−
何かスランプ。