東に温泉ができたのは偶然とはいえ、これはいいと正直に思った。軍事演習をするにあたりいつも東地区を使うのだが、温泉で心と体がリフレッシュされる。外で頑張っている兵たちには悪いかもしれないが、満足だ。
 中央の全軍を率いて訓練の一環だと東まで走らせて、昼食を挟んで兵たちには前準備として荒れ果てた演習場の草むしり等を命じた。部下にそんなことを命じておきながら当の大将はのんびり温泉に浸かっているなど知られたら反乱が起きるかもしれない。あいつらに限ってそれはないだろうが。


「今日が準備で明日から体力づくりでいいんですよね?」

「あぁ。んで、総合演習二日な」

「今年も地獄の日程ですね」

「こっちは極楽だけどな」

「それは貴方だけです。いっそ昇天すればいいんです」


 最終打ち合わせとばかりに吉野が風呂の入り口で立っている。露天風呂を満喫しているのは聖だけで、けれど彼は酒がないのが不満のようだった。
 竜田軍の地獄の演習。これは軍人だけではなく一般人ですら知っている単語になっている。悪戯した子供に親が「悪いことをすると偉い人にお願いして地獄の演習に参加させるよ!」と一言言えば子供は顔を真っ青にして当分の間いい子にしている。それほどのものだ。ただし参加するのは精鋭軍のみで、その他の部隊は免除される。だからこそ精鋭のレベルが他国で一騎当千と噂されるのかもしれない。


「……昇天って、言い過ぎじゃね?」

「そうですか?明日からの体力作りは例のアレでいいんですか?」

「国一周マラソン」


 サラッと吐き出された演目はその言葉の軽さとは裏腹に兵たちを卒倒させる力をも持っている。本気でマジで国を一周させる。各関所でチェックがあるものだから下手な小細工も効かない上に、途中でいきなり襲撃という妨害が入る。五人のチームを組んで行われるこのマラソンは妨害あり小細工ありのガチンコレースだからみんな形振り構っていられない。但し、ありと言っても小細工を施す所はない。あるとしたら闇に乗じて襲ってくる敵がいるくらいだろうか。ゴールした順に総合演習でいい場所を得ることができる。


「チームはいつも通りくじ引きで?」

「惣太と鉄は同じチームで……それだけでいいや」

「少し不利ではないですか?」


 少し考え込むように黙った聖の言葉を代わりに代弁してやると、聖は笑って首を横に振った。温泉から臨むことができる景色には演習場も入っていて、ゴミのような小ささで兵たちが草むしりやら罠を仕掛けたりしているのが良く見えた。


「戦場ではいつだって有利なわけじゃないだろ?」

「そうですね。では僕は準備してきますから、いい加減に上がってくださいよ」

「へいへい。どうせ俺ら暇じゃん」

「総合演習の打ち合わせ」

「……めんどくさ」


 総合演習は二軍に分かれて実戦さながらに大将の首を取り合う。各軍の大将はもちろん聖と吉野で、お互いに作戦を決めて実践させる訳だが細かい打ち合わせはどうしても必要になってくる。絶景温泉で考えたくないことだから思わず本音を漏らすと、背中を向けて部屋に戻ろうとしていた吉野がその場にあったのであろう手桶を投げてきた。










 国一周マラソンに参加するのは二回目だ。一度目は聖と吉野と一緒にチームを組んで参加し、惣太自身は何もしていないのにぶっちぎりで一位になった。今回は鉄五郎たちと組んで、今何位くらいか分からないけれど現在地は北関と西関の間くらいだ。旅程の半分ほどは過ぎた気がするが、それが遅いのか早いのかは分からない。とりあえず、野宿三日目だ。空は真っ暗だけど晴れていて、星が光っている。月はない。


「……いますね」

「いるな」

「な、なにが!?」


 焚き火に小枝を投げ込みながら惣太は目を細めて呟いた。五人のメンバーは鉄五郎を除いて聖とは古い付き合いになる。お互いにそれなりに修羅場を潜ってきた。夜陰に乗じる気配なんて読めて当然だ。気配からして二人か、三人か……。チームは五人のはずだからあのと二名は後方援護か伏兵ってところだろうか。


「……仕掛けるぞ」

「はい」

「え、え!?」

「鉄、合図したら一気に向こうまで走ってけ」


 ガサッと緊張感が走り、惣太は火の近くに置いてある消火用の土を手早くタオルで包んだ。一瞬のきっかけ。タイミング。まるで一塵の風が吹いたように殺気がぶつかって弾ける。
 惣太が火を消したのと敵の気配が躍り出てきたのはほぼ同時だった。鉄五郎を除く四人は一瞬で背中を合わせ一つの円を作る。こうすれば暗がりの中で味方を誤って攻撃することもないし散り散りになって迷子になることもない。喧嘩は背中合わせで、が基本だ。


「うっらぁ!」


 襲い掛かってきた奴が持っているのはもちろん木刀で、こちらが持っているのも木刀だった。しばらくカンカンと木のぶつかる音が響いていたかと思うと、惣太の背後でどちらか一本が弾かれた音がする。けれど誰も動揺しない。動揺したら負けなのだ。目の前の敵に集中する。鉄五郎が逃げた先には誰も行っていないはずだが、この暗がりで敵が何人ここにいるのかは分からなかった。


「お前ら、どこっ!?」

「第五チーム!お前らは?」

「聞いて驚け、第一だっ!」


 特にチーム名に意味は無い。ただクジでその数字が割り当てられただけだ。けれど何が誇らしいのかそう言って、惣太の横で人が吹っ飛んだ気配がした。惣太も目の前の敵を倒すことに専念する。合わせた木刀をそのまま鍔迫り合いに持ち込んで、押しても勝てないのは分かっているのでそのままキープしながら相手に足払いを掛ける。少しバランスを崩しながらも相手を倒すことには成功した。


「うげっ!?」


 倒れた敵の喉笛に寸分違わず木刀をたたきつける。紙一枚分の余裕を残して寸止めると、相手は「降参」と笑った。降参したら手の甲に印を打つ決まりなので、油性ペンでチーム番号を記す。もちろん惣太達の手のひらにはまだない。


「やりー、もう十連勝くらい?」

「今回俺たち一番ですかね!?」

「順調じゃん」


 笑いあいながら再び火を起こす。倒された敵の姿はもうなかった。敵に姿を晒さないのがこのマラソンの原則なので構わないが、それはそれで面白くない。火を起こして四人で円座を組んでから、漸く鉄五郎がいないことに思い当たった。


「あれ、鉄は?」

「え、いないの?」

「鉄ー!」


 さっきの戦闘で全員がピリピリしたままなので立ち上がり探しに行く様子もない。ただ鉄五郎が戻ってくるのを待っている。戻ってこなかったらどうしよう。
 しばらく待っても帰ってこないで、気づいたら四人とも眠ってしまっていた。本当は見張りもいなければならないのだが、気配を感じたら誰かしらが飛び起きるだろうという本来やってはいけない横着だ。けれどしょうがない。五人しかいないのに体力を消耗していたら総合演習のときに瞬殺される。火を消して適度な木の上に上って眠った。
 朝起きたら、鉄五郎が木下で無防備に眠っていた。










 今年の最短記録国一周マラソンの記録は五日。例年並みだ。けれど一位で到着した第一チームは過去にないくらいボロボロだった。どこ負けたわけではないようで手の甲に油性ペンの印はないが、細かな引っかき傷は多数あった。


「……そんなに毎回苦戦したのか?」

「師範知ってますかこの国熊が出るんですよ!」

「あとは木から落っこちたのな」


 南関を過ぎた辺りで熊に襲われて大変だったと大騒ぎする惣太の隣で年長の男がぽつりと漏らした。敵の襲撃を避けて休息を取るために木の上で眠っていたのだが安定が悪かったようで見事に気から落っこちた。確かに熊に襲われたのもあるけれど、そんなに問題じゃなかった。死んだふりしてやりすごせたし。


「まーお前ら一番だった訳だし、全員帰ってくるまで休んでろ」

「はーい。花街行っていー?」

「行ってこい、俺が直々に寝首掻きに行ってやる」


 ちょっとおちゃらけた男の言葉に聖はピキッと額に青筋を浮かべた。これはコイツも相当ストレスが溜まってるんだなと瞬時に理解し男は「冗談冗談」と笑って見せた。
 地獄の演習といえども大将には特に堪えることはないだろう。今回は温泉もあるし。なんて思っていたのだが、聖が異常にイライラしているのでこれは一体どういうことかと思って惣太を突くと、惣太も不思議そうに首を傾げていた。


「そう言えば、師範代は?」

「中で仕事。あー遊びてぇ」


 前回仕事でここまで来たときに聖は風呂に女性を侍らせていたがそれができなかったのだろうかと少し疑問に思ったが、どう考えても月見酒くらいはしただろうから訊くことはしなかった。
 三人が部屋に引き上げたけれど、惣太と鉄五郎はその場に留まって聖について部屋に入った。中では本当に吉野が何か仕事をしていた。部屋には何冊も本が転がっているから、やっぱり暇してたのかと少しゲッソリした。


「大将、中央より文が届いております」

「おー持って来い」


 聖がソファに足を投げ出すのを待っていたかのようなタイミングで言うものだから、聖は億劫そうにそう言った。反射的に惣太が立ち上がって、伝令のところまで文の束を取りに行く。四通の書簡は報告書やら文やら統一性はなかった。


「はい、師範。四通です」

「ん」


 手にした本を億劫そうに閉じて隣に置き、聖は惣太から書簡を受け取った。ちらりと聖が持っていた本を見れば何のことはないファッション雑誌で、それを自分たちが地獄のマラソンしてる時にのんびり読んでいたなんて反乱を起こしたくなった。
 聖は一通の書簡に目を通してからそれを惣太に渡し、吉野に届けさせた。数歩くらい歩けばいいじゃんと思いながら渡してくると、戻ってくる数秒の間に一通読み終わったのかクシャクシャに丸めて後ろに投げた。


「聖さん」

「惣太、捨てといて」


 心底億劫そうに言いながらもう一通に目を通している。ゴミはゴミ箱になんて三歳児でもできることだろうに人任せにしやがって。そもそもいつもゴミはなんでも灰皿に放り込むのに。でもそれも信頼されている証拠だと思うと単純ではあるが嬉しくなれる。
 ソファの後ろに転がった書簡を何気なく開いてみた。どうせただの報告書だろうと思ったら、角倉家からの文だった。聖の婚約がどうとか書いてあったけれど、その文字を見ただけで頭が真っ白になって内容は全く頭に入ってこなかった。見てはいけないものを見た気がして、慌てて紙を丸めなおしてゴミ箱に放り込んだ。


「惣太?どしたの?」

「な、何でもない」

「ぬあ!?」


 鉄五郎の不思議そうな顔の向こうで聖が驚きすぎて予想外の声を上げた。本人にも予想外だったようで自分で驚いて口元を大きな手で覆って細く息を吐き出す。鉄五郎も聖の隣で驚きすぎて目をまん丸にしている。吉野だけが冷静に目を眇めて顔を上げた。


「どうしたんですか、みっともない声だして」

「あー……うん」

「何です?」


 聖が自分を落ち着かせるためにテーブルの上の煙草に手を伸ばして一服し、肺いっぱいに満たした紫煙と一緒にその問題の言葉を吐き出した。


「瀬能様が総合演習見に来るって」

「はい?日本語喋ってくれます?」

「喋ってんだろが。領主が来る、前代未聞だ」


 領主が演習を見に来るなんて未だかつてない。もちろん他の貴族連中も来たことはない。東関にいる貴族だってその時期は引き篭もるのだ。それなのになんでいきなり領主が来ちゃうかな。向こうで反対されただろうに。けれど公文で来ちゃったもんは来ちゃうんだろうな。なんか絶望的になってきた。


「まさか、領主様が!?」

「そのまさか。うわ、マジか。どうしよ」

「……信じられない。中央は何をやってるんですか!」


 憤る吉野とは裏腹に聖はひどく落ち込んでいるような仕草で煙草を吸っていた。二人の反応の違いに少し驚きつつ、それ以上に聖の落ち込み具合が気になりながら惣太は数日後に迫った総合演習のことを思って大将たちには悪いけれどワクワクした。





−続−

新しいアクセが欲しかったんだよね、聖さんは。