執務室での仕事を吉野に全て任せ、聖は惣太を誘って花街に行った。昼間のうちに惣太と鉄五郎を墓場周りに調査に行かせた結果も聞きたかったし、何よりも惣太の恋路を見守りたい。馴染みの貪婪の一番いい部屋で、周りに数人の女性を侍らせて杯を重ねている。そのいつもの光景を見ながら、惣太は居心地が悪そうに辺りを見回して肩を落とした。


「惣太、呑んでるか?」

「……俺はいいです」

「注いでやるから呑め呑め。あ、それともあの子呼ぶか」

「いいです遠慮します結構です帰ります!」

「帰んなよ」


 悲鳴のような声を上げて思わず立ち上がった惣太に聖は薄く笑って杯を干した。空になったそれに隣に控えている女性がすっと酒を注ぐが聖は口を付けずに杯を置き、その女性に何かを耳打ちする。すると女性は少し困ったような表情を浮かべたが結局何も言わずに部屋を出て行った。聖は手招いて、おずおずと警戒心丸出しで惣太が寄ってきたところを顔を引き寄せて耳元にそっと囁く。


「昼間の調査の結果は?」

「何でそれ訊くのに顔近づける必要があるんですかっ!?」

「別に意味はねぇけど、お前可愛いんだもん」

「何ですかそれ、どういう意味……」

「来た来た」


 聖の言葉に首を傾げて意味を重ねて問うと、その言葉を遮ぎって聖が口の端を引き上げた。一体何を企んでいるのかその笑みに背筋が冷える。気になって聖が向けた方に視線を向けると、聖の馴染みの女性が少し怒ったような顔で入って来て聖の周りの女性たちに出て行くように命じた。


「困った人ね」

「でも困った俺のこと好きっしょ?」

「どうかしら」


 少し文句あり気にでも何も言わずに女性たちが出て行くと、みどりが入って来る。聖が「ひでー言い方」と言ったのは聞こえたけれど、惣太には反応している余裕はなかった。彼女の後ろから、見習いで給仕以外では出入りしないはずのあの子がしずしずと入ってきたのだ。一体何の陰謀なのかと聖を見ると、彼はにやにや笑っていた。


「人払いも済んだし、真面目な話だ」

「済んでないですよ馬鹿師範!」

「あん?みどりさんと姫菜は酌すんだよ。それに口の堅さは信用していい」


 大抵ここで口を滑らせると女たちは寝物語に語ってしまう可能性があるが、そもそも朱門ならば政治に関わる人間はそうは来ないし、来たところでみどりが口を滑らせることもまずないと断言できるのでいても問題ない。


「でも聖、特別なのよ?見習いは本来部屋に入ったらいけないんだから」

「今から鍛えとかねーと口の軽い女になっちまうだろ?」


 笑ってから、聖はみどりの耳元に唇を寄せた。名目は見習いのうちから密議に馴れておいた方が将来的に信頼できる女がいるという己の利を生み出そうとしているように聞こえるが、聖は絶対人の恋路を面白がっているのだろう。その証拠にみどりが驚いた顔をして惣太を見、それから微笑んだ。それを見て惣太は本当に帰りたくなった。


「姫菜は惣太の酌頼むな」

「は、はい」

「そんなに硬くならなくても大丈夫よ、ここには私たちしかいないんだから。ねぇ、聖?」

「俺たちを練習台だと思ってくれていいからさ。みどりさん、酒注いで」

「そこに入っているのは何かしら?」


 緊張してカタカタ震えている姫菜に聖は笑って彼女の機嫌を解そうとしているのかみどりにしな垂れかかった。並々注がれた杯を干してから、催促のために手元を揺らす。
 もともとここに来たのは仕事の都合だと聞かされていたので、惣太は呑む気がなかった。けれど目の前の大将は仕事なんてする気がないんじゃないかと思うほど普通に呑んでいる。これは師範代に報告だと思いながら、おずおずと銚子を持ち上げた姫菜に固まった。


「ど、どうぞ……」

「えっ……」

「ほら惣太、呑んどけ」


 助けを求めるように思わず聖を見るが、ただ笑っていた。その隣のみどりもとても楽しそうに目を細めている。この大人たちには頼れないと惣太は確信して、震える指で杯を持ち上げた。そろそろと注がれた酒をぐっと呑む。飲酒の経験が少ないおかげで、喉を通った液体は熱かった。


「昼間あの辺調査させたんだけどさ、出るのは決まって二時過ぎなんだと」

「何かリアルですね」


 杯を重ねながら、それでも全く酔っていないような様子で聖はつまみの刺身を摘みながら窓の外に視線を投げた。月は見えないが、空は暗く窓の下からは柔らかい色の光と喧騒が聞こえてくる。日付を跨ぐ時間だというのに、ここは昼間のようだ。


「見たのは火の玉じゃなくて女の幽霊だそうだ。すっげぇ形相して追いかけてくるらしいぜ」

「……まさかとは思いますけど、行くんですか?」

「もち」


 惣太は全身から血の気が引いた音を聞いた。半分酔っ払いの大将と二人きりで夜中の墓場に幽霊退治なんてありえない。だから今夜ここにいる訳ではないだろうが、そもそも大将自らそんな所に赴くな。こんな仕事祠官にでもやらせりゃいいのに。
 けれど言葉にする前に聖が微笑したので思わずその言葉を呑みこんだ。何だ、この凶悪な笑みは。


「幽霊はいない。二時前に出っから、呑みすぎんなよ」

「……はい」

「みどりさん、二時前に起こして」

「布団は?」

「ここでいい」


 言うが早いか聖は着物姿でその場に寝転がってしまった。みどりの膝に頭を乗せて、早くも眠りの縁に落ちているようだった。みどりも何も言わずにそっと顔に掛かった髪を掻き揚げる。これから行くのに着物なんだけどと文句を言おうと顔を逸らすと姫菜と目が合って、思わず逆に逸らした。顔が赤いのは、間違いじゃない。










 本当に二時少し前に貪婪を出て、聖と二人きりで奥の墓地に向かった。さっきまでぎこちないながらも姫菜と話をしていたのが懐かしくなるくらいこの道は不気味だった。月が出ていない夜で星は輝いているがそれだけでは光が足りない。しかも生い茂った木々で光は皆無と言ってよかった。ほぼ何も見えないのは演習である程度慣れてはいるが、今は動き慣れない着物だから足が縺れる。


「ひ、聖さん……」


 黒いシルエットになっている聖の袖を思わず掴むと、振り返った聖が笑った気配がした。少し歩調が遅くなり、影が近づいてきたかと思ったら頭をくしゃっと撫でられた。
 昔、まだ聖が餓えた獣みたいだったあの頃も惣太は聖の後を夢中で追いかけた。聖の背中だけ見ていればその先に何も見えなくても不安になんてならなかった。それはきっと、今も変わらない。


「何怯えてんだよ」

「怯えてないです!行きましょう」


 不意に、あの頃に戻ったような錯覚を覚えて惣太は聖の隣に並んで長身を見上げた。自信満々の顔は、少し嫌そうに歪んでいる。瞳があの頃と違う色を浮かべているから、その目を見て漸く今はあれから随分経ってしまったのだと気付く。変わっただろうか、それとも何も変わっていないのだろうか。
 そろそろ墓場が見えるだろうと頃まで来ると、突如悲鳴のような音が耳を劈いた。


「ひぃずぃぃぁりぁぁぁぁあすぁーぁんだらぁ!!」


 およそ人の声とは思えなかったが、高さ的には女性のものだった。反射的に惣太が聖を見上げると、一度足を止めた彼はまたゆっくりと歩き出した。しばらく進むと、生い茂った木々から視界が解放される。開けた空には星が輝いているけれど、それよりも何よりもぽうっと浮かび上がった青白い炎に悲鳴を上げそうになった。


「ぎゃ……むぐっ」

「シー」


 聖の大きな手に口を塞がれ、ついでに鼻も覆われた。呼吸が出来なくて暴れるが、聖は離してくれそうもない。もう落ち着いた黙るという意思を伝える為に首に回った腕をパシパシ叩くと、聖は惣太を見下ろしてうっすら浮かんだ涙に気づいてから手を離した。酸素を取り込むために大きく喘ぐと、聖は悪びれなく笑って「悪いな」と言った。殺されるかと思った。


「あれ、人間だろ?」

「そ、そうですね」

「捕まえられるな?」

「はい……?」

「俺後ろから回って押さえるから、お前囮」

「はい!?俺に何の恨みがあるんですか!」

「馬鹿お前っ!でかい声出すと聞こえる……」


 そんな怖い目に遭ってたまるか、囮なら女性なら大抵が引き寄せられるその顔でやればいいじゃないかと惣太が叫び声を上げると、聖が慌てて惣太の口を塞ぎにかかった。けれど遅く、聖が咎める声を上げた時に女の奇声は止んだ。思わず揃って体を竦める。


「誰だぁぁぁあ!?」

「やべ、バレた!惣太行け!」

「やですよ!聖さんだけずるい!!」


 女が気づいて、追ってきた。顔を見合わせて逃走しようとするが、お互いがお互いを生贄にしようと足を引っ張り合うので結局絡みあって道の真ん中に転がった。その間にも女が凄い勢いで寄ってきて、彼女が持っている蝋燭がまるで火の玉みたいに見えた。これが火の玉の話かと惣太は恐怖に慄きながら思った。


「聖さんこっち来ますよどうしますか!?」

「どうするって捕まえるしかないだろ。行け」

「何で俺!?」

「俺は女に手ぇ出せね」


 いけしゃあしゃあと聖は言って惣太を蹴飛ばした。力には逆らえず、少し前でまた転んだ惣太は、目の前に迫り来る女に恐怖を感じた。振り乱した髪も隈だらけの目許も、狂気が宿ったその瞳もけれどどこかで見たことがあったような気がした。


「ぎゃー!!」


 近づいてきた女に悲鳴を上げてその場に蹲った。後で文句を言われても知るもんか。怖いモンは怖い。けれど女は惣太の姿が見えているはずなのに飛び越えて、漸く立ち上がった聖に飛びついた。やっぱり幽霊でも女にはあの美貌が通用するのか。最早人間じゃないよなと顔を上げて見送る。


「聖さん!」

「ぅおわっ」


 聖がよろけて尻餅をついたようだ。惣太が目撃したのはそこまでで、聖の顔をも照らしていた蝋燭の明かりは消えた。最後に見えた聖の顔は、この世の物ではないものを見たような顔だった。










 夜中に帰ってきた惣太たちを見て、吉野は心底呆れたような顔をした。それもそのはずで、幽霊の正体だった女は聖が昔関係した女で捨てられたことを怨んであそこであのような呪詛に励んでいたらしい。夜中に起こされて吉野は不機嫌なようだが、惣太はそれ以上の恐怖を感じたので吉野を怖く感じなかった。
 ソファに腰掛けて膝を組み替えた吉野がじろりと睨めつけるけれど、聖は顔を逸らして煙草を吸っていた。


「つまり、原因は聖さんにあったと」

「俺のせいかよ」

「一体どれだけひどい振り方したんですか」


 呆れたような言葉にも聖は口を閉ざしたままだった。けれど惣太は知っている。聖は振っていない。何もしていないのだ。甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた女に対して、興味を失ったからそのまま捨て置いた。ある日いきなり何の興味も示さない目で見られたら、確かに女はおかしくなってしまうかも知れない。昔の聖は、そういう男だった。


「とにかく、取調べは明日僕がやります」

「お前がやんの?」

「あまり知っている人間を増やしたくないでしょう?それに、貴方明日定例閣議ですよ」

「……わーすれてた」

「忘れようとしてた、の間違いでしょう、全く」


 吉野は立ち上がると、窓の外を見た。もう空の端の色が変わってきている。女を宥めてここまで連れてくるまでに相当時間が掛かったのでそんな時間になったのだろう。女は今詰所の地下の簡易牢に入っている。


「お疲れ様でした、今日はもう休んでください」

「はい、お疲れ様でした」


 煙草を灰皿で押し消して、聖はそのままずるずると横になった。このままここで寝るつもりだろう。吉野は惣太を見、仕方無さそうに苦笑する。惣太は奥に行って毛布を持ってくるとそっと聖にかけた。もう夏だから必要ないかもしれないが、風邪を引いたらいけない。
 窓の外からは虫の鳴き声が聞こえた。吊るされた風鈴が時折淋しげにチリンと鳴くのを聞きながら、惣太は詰所に駆けて行った。





−続−

オチは次回。