相変わらず胸糞悪い定例閣議を終えて本部に戻り、聖は固まった。いつもならば吉野が部屋にいるし惣太と鉄五郎がいることもあるしたまに大穴で小田原がいるかもしれないが、そこまでは許容範囲内だ。でもこれは、ない。


「おかえりなさい、聖さん」

「……ただい、ま?」


 ソファにいるのは昨夜捕らえた迷惑極まりない女がにっこりと座っていた。吉野が取り調べているはずなのになんでここにいるのかと時計を確認すると、確かに午後二時。間違っていないけれどだからどうしてここにいる。
 予想外すぎて入り口で固まっていると、奥の部屋から吉野が出てきた。聖の姿に数度目を瞬かせてにこりと微笑する。


「おはようございます、聖さん」


 寝てやがったか。聖は奥歯を噛み締めたが吉野は何も言わずにいつものようにソファに座り、すると女は立ち上がってお茶を淹れ始めた。一体本当にどういうことだろうと訳が分からず米神に手を当てて天井を仰ぐが、言葉は出てこない。


「聖さん、とりあえず座ってください」

「聖さんお茶どうぞー」

「……どうも」


 言われるままにソファのいつもの位置に腰を下ろすと、女がにっこりと笑ってお茶を出してくれた。本気で訳が分からない。けれど吉野は何でもない表情でお茶を飲み、聖は状況説明を待つ間イライラとジッポのライターの蓋を開閉させていた。
 それから漸く状況を説明する為に吉野は口を開く。


「定例閣議は同でした?」

「その前にこの状況の説明しろよ」


 完全にすっ飛ばしてくれた吉野に聖は間髪入れずに声を荒げた。吐き捨てるように言うと、我慢ならないと仕草で言って煙草に火を点ける。紫煙を肺一杯に吸い込んで、さっきまでのイライラとこの状況の不可思議さに沸き立った頭を冷静に戻そうと努める。


「こちら、貴方に捨てられたエミさんです。今日一日で貴方に幻滅してもらおうと思います」

「は?」

「原因は貴方なんですから、少しは困ってくださいね」


 言うが早いが吉野は立ち上がってどこかに行ってしまった。必然的に聖はここから出て行くわけにも行かずに固まった。二人きりになってしまった。聖はどう反応していいかも何を言っていいかも分からずに煙草を銜えたまま一服するふりをして頭をフル回転させてどうにか彼女のことを思い出そうとした。思い出せなかった。
 いつ関係を持っていたのかも分からないし何をしたのかも分からない。顔を見ても思い出せない。だめだ、惣太にでも訊くしかないが今はいない。何で肝心なときにいないんだあいつは。


「……つか、ここ女禁止……」

「ひ、聖さん……」


 小さく呟いて目を閉じると、不意に隣に気配が生まれた。彼女が隣に座ったのだろう、左側から熱を感じる。馴染まない温度は心地いいと感じることが出来ないし、状況が状況だけに歓迎も出来ない。女の声は、色っぽく熱を含んでいた。


「私、貴方に捨てられたとき本当に悲しくて、死にたいって思ったの」


 そう言って、女はすっと手首を見せてきた。手首に走る無数の線。そんな自殺の跡を見せられても悪寒を感じるが愛しさだとかは感じられない。逆に引く。更に寄せてきた体から逃げようと体を引くと、追うように密着してきた。怖い。


「貴方が私のことを思ってくれなくていいの。……一日だけ、あの日に戻りたい」

「…………」

「どうして何も言ってくれないの?」

「……悪いんだけどさ」


 早々に短くなった煙草を灰皿に押し付けて、聖はシャツのボタンを外しながら足を組みかえる。声に若干の呆れを含ませながら視線だけで女を見ると、凍りついたような表情をしていた。罪悪感は不思議とない。口から出たのは、普段からは想像もできないほどの冷たい声で自分でも驚いた。


「お前のこともう相手にする気、ねぇから」

「……っ!」

「帰れば?」


 邪魔だと言外に告げれば、女は目を大きく見開いてその瞳に涙を一杯に溜めていた。駆けていく姿を見送らずにもう一本煙草を引っ張り出す。
 それを見越していたのか、吉野が数冊の本を抱えて戻ってきた。丁度入れ違いになり逃げるように去っていく彼女の姿を振り返って見て小さく溜め息を吐き出した。それを聞いたけれど聖は何も言わずに紫煙を吐き出す。


「酷い男ですね」

「……うるせぇ」


 笑いながら吉野が言ってくれるので、聖は不機嫌に吐き出してまだ長い煙草を灰皿に押し付けた。その姿に吉野が面白そうに顔を歪めたが聖は舌打ちを一度しただけで何も言わずに乱暴にドアを閉めて部屋を出た。
 女を追う気はない。追うほど残酷な男じゃあない。だから聖は、道場に向かった。けれど途中で兵が領主が呼んでいると伝えてくれた。










 ボタンを締めることも忘れて瀬能の部屋に行くと、権力者たちが揃って座っていた。気楽に部屋に行った聖は自分の格好に激しく後悔して帰りたくなったが、入ってしまった以上戻ることは許されないような視線に射られた。誤魔化す為にボタンを三つほど留めながら開いている席に眼で促されて座ると、美月がお茶を出してくれた。


「聖さん、お茶どうぞ」

「ありがとうございます……でもこれ、一体何事ですか」


 柊の教育係であるはずの美月にお茶を出されてビックリしつつ周りを見回すと、呆れ半分の真坂が脱力したように肩から息を吐き出した。総督である父は険しい顔をして聖の顔を見ていない。聖の到着を待っていたのだろう、瀬能は美月が下がるのを待って口を開いた。


「定例閣議で上がったことだが、佐保殿がいらっしゃる」


 瀬能の言葉に聖はしばし考えた。今日も楽しくない定例閣議でぼんやり取りとめのないことを考えていたからうっすらとした記憶しかないが、確かにそんな話が前からあった。佐保とは臼杵を挟んだ遠国で、瀬能の母親の生国でもある。今の領主は瀬能から見れば従兄であるがまだ一度も見えたことがないという。その佐保が秋に尋ねてくるという話が実現しそうなのだそうだ。


「訪問自体は数日の予定だが、私はたくさん教えてもらいたい」

「それはよい心がけでございますね」

「ですがあちら様のご都合もありましょう。あまり無理を仰られませんように」


 褒めたり諫めたり大変なことだと聖は軽く感じた。いつもならばこのメンバーなら気も重いけれど、今日はあの女といるよりも全然マシだ。こりゃ今夜は花街に行くしかないと勝手に決定しつつ、話の流れを待っていた。どうして自分がここにいるのか少し疑問だ。


「ご予定は来月になるそうだ。軍の方は治安の維持を怠らないようにな」

「あ、はい」

「そういえば、幽霊騒ぎがあるそうだな」

「……解決しましたよ?」


 少し間を置いて、聖は曖昧な微笑を浮かべてみる。来月までにやる事を頭の中で並べ立てながら、解決したばかりの話題から話を逸らそうとネタを探すが、全く出てこなかった。そもそもこのメンバーで話が弾むとは思えない。だったら出来るだけ早くここから消えたい。


「お前の馬鹿にされたとまた沼賀祠官が怒っていたな」

「馬鹿にしたつもりはないですよ。こっちは幽霊とか専門外ですし」

「でも犯人は人間だったのだろう?」


 確かに人間だったけど、これ以上の追及が怖くて聖は明言を避けた。瀬能は不思議そうに首を傾げていたがそれも微笑で交わして、話を戻すように提案する。けれどそれ以上話題はなかったようで総督は立ち上がって何も言わずに行ってしまった。まるで聖と同じ空気をこれ以上は吸っていたくないとでも言いたげな態度に聖は思わず苦笑を漏らす。
 彼が出て行ったら、それを待っていたかのように柊が顔を出した。話し合いが終わるのを待っていたのだろう、まだここに真坂もいるので美月が慌てて諫めている。


「構わない」

「でも……」

「そんなに堅苦しい話ではないさ」


 それに気づいて真坂が言い、それならと聖は肩の力を抜いてポケットから煙草を引っ張り出した。けれど柊がいるので自制してポケットに戻す。柊が寄ってきて、瀬能の膝に飛び乗った。けれど瀬能の顔は浮かない。


「佐保殿は、従兄だ」

「そうですね」

「でも私はカズどものそうだが、あまり親族とは親しくなかった」


 後悔でもしているのだろうか、瀬能は俯いた。下に見えた妹の頭を優しく撫でて、僅かに目を細める。貴族の親族関係なんてそんなものだろうとは思うけれど、瀬能は何を求めているのだろう。どうせ初めてあう佐保の領主に緊張しているのだろう。この新しい領主は度々不安になりそのつど真っ直ぐにそれを受け止める。


「柊だけなんだ」

「どこもそんなもんじゃないんスか?ねぇ、光定殿」

「そうだな。うちが異常なだけかもしれん」

「私たちって変ですか?光兄様」


 真坂と聖達も従兄弟同士であるが他の貴族からみれば異常なほどに親しくしている。聖が過去に彼に世話になっているということもあるのが大きいだろう。聖にとって忘れたい記憶であるが、感謝はしている。
 真坂と顔を合せて、聖はにんまり笑った。そして何の気後れもしていないと言外に告げる。


「いいじゃないですか、仲良しで。瀬能様も気負わずに自然にしてたらいいんですよ」

「そうですね。貴方の方が年下なんです、多少の粗相も笑って済まされるでしょう」

「そんなことでいいのか?」

「大丈夫ですよ、佐保様はただでさえ度量が大きいって話ですし」

「佐保は素晴らしい国です。たくさんのことを学んでください」

「軍も強いらしいですしね」


 言ってから、佐保の軍大将が来たら一度手合わせしてみたいと思った。外交部を通じてお願いしてみようと軽い気持ちで考えて、来月が少し楽しみになった。それまではやる事が増えてしまったけれど、あとは吉野に任せておけばいいだろう。
 それから一月、聖は忙殺される吉野から逃げ回る日々を送った。いつの間にか蝉の声は少なくなり鈴虫が夜中に鳴き始めた。





−続−

オチじゃなかった……